いわきヘリテージ・ツーリズム 《平まちなか》 #4

こうして江戸時代から明治に至る建造物を見て、平の魅力がまた一つ増したかのように思えます。
城下町として栄えた町人町の歴史に触れることができました。
まだまだ丹念に散策すればいくつもの歴史的建造物にあえるのでしょうが、時間的に天候的に多少急がねばならなくなってきましたので先を急ぎます。

官庁街

平中町交差点 南レンガ通りに戻り、そこからそのまま南下すると、現在の国道6号線と交わる平中町の交差点となります。
交差点をそのまま渡り真っ直ぐ進むと、現在のいわき市の中心である官庁街となります。

いわき市文化センター 先ず右手にあるドームの建物が「いわき市文化センター」です。
この文化センターのなかにはいわき市立中央公民館、いわき市総合教育センター、プラネタリウム・天文台があるようで、ドーム型の屋根はそのためだったのですね。

1975(昭和49)年に建設された多目的ホールで、元々いわき市誕生以前の「平市役所」の庁舎があったところだそうです。

いわき市新川東緑地 この文化センターの前の通り(来た道と交差する道)は、「いわき市新川東緑地」といい、当時の建設省の環境共生都市(エコシティ)のモデル事業として整備された道だそうです。

いわき市立美術館 1ブロック先に進むと、同じく右側に「いわき市立美術館」があります。

1984年に建てられた美術館で、現在戦後の美術作品を中心に1400点以上の収蔵品があるそうで、マティス、ピカソ、ウォーホル、池田満寿夫など、殆ど絵画を知らない私でも知っているアーティストの作品があるようです。
いわき市立美術館 当然時間も無いのでスルーですが、エントランスの前にある現代彫刻の巨匠ヘンリ ー・ムーアの作品だけ眺めて先に進みます。

平中央公園 美術館から更に1ブロック先に公園があります。「平中央公園」です。

平中央公園 平中央公園 広々とした公園のところどころに彫刻が置かれていています。
たまには写真に加工をしてみました。この程度ですが・・・。

平中央公園 先に見える大きな建物が、現在のいわき市役所です。

平中央公園 こんなモニュメントもありました。題して「空へ」だそうですが、その隣の石碑と青竹はどのような意味を持っているのでしょうかね。

いわき芸術文化交流館 Aliosいわき芸術文化交流館 Alios いわき芸術文化交流館 Alios そしてこの公園に隣接している大きな建物が「いわき芸術文化交流館 Alios」で、案内図にあるように大小のホール、そして中・小の劇場を持つすばらしい施設です。

こちらも元々は1966年に造られた「平市民会館」が前身で、2009年にグランドオープンしたそうですから、かなり新しい施設といえるでしょう。
いわき芸術文化交流館 Alios Wikiによれば、このアリオスのシンボルマークは、元・米米クラブの石井竜也(カールスモーキー石井)がデザインを担当したそうです。

こうして江戸時代の磐城から、現在のいわきを散策してきました。
ここからスタートの市営駐車場に戻るため、先ほどの文化センター前の「いわき市新川東緑地」を東に向います。
松村総合病院 暫く行くと見慣れた建物があります。「松村総合病院」です。
ここは21年前の1月に次女が誕生した病院で、誕生した知らせを聞いてこの病院に来ましたが、確かそのときは雪が積もっていたような記憶があります。

随分と時が経過したのを実感しました。

新尼子橋

本来ならアリオスの先の新川沿いか、あるいは新川東緑地沿いを西に歩いて行けば充分歩いて行けるのですが、すでにPM4:00近くともなり、かつ寒さも半端なくなってきたことから(実際、谷口楼あたりを歩いていたときに雪がちらついていました)最後の散策は車で移動となりました。
「いわき市新川東緑地」のちょうど西側の基点近くにその碑が立っています。

新尼子橋句碑 碑には詠み人知らずの『みちのくの 尼子の橋や いねのうへ』という句が彫られています。

その碑の裏側に由来が刻まれています。

徳尼御前 長橋架橋の伝説
平安朝(西暦1200年)の頃の或る年の夏、霖雨洪水が続き御厩村より平への往来は難渋を極めた。領主岩城氏の室であった徳尼は里人の難儀●●度されとした。隅々破れ蓑を着て長雨を嘆いていた80歳の老人の懇願によって架橋を決意されたのである。徳尼は永楽銭300貫目を用い近郷より大工木挽数百人を召して日数30日の短日月を経て長き150間、巾2間予の長橋を架橋され渡り初めの儀には老翁一族を率いて千秋楽を舞い、この橋の御代長橋と末代まで尼子橋と舞納めたという。以上は磐城九代記に残る伝説である。
「みちのくの尼子の橋や稲の上」の句によって里人に親しまれ、以来数100年間交通の要所として重要な役割をはたして来たが、昭和26年6号国道の改修と共に替橋されて新尼子橋が建設された。
われら有志一同計って徳尼御前の功績を偲び後日のため旧尼子橋のたもとに碑を建てて感謝の誠を捧げる次第である。
木元四郎撰文 長谷川武男謹書 発起人代表吉田三郎建
昭和30年4月
(現地句碑由来書きより)

徳尼御前とは、鎮守府将軍軍藤原清衡の娘であった岩城の国守岩城太夫則道公の夫人徳姫のことで、徳姫は則道公の歿後、剃髪して徳尼御前とよばれ、亡夫の冥福を祈らんがため磐城に阿弥陀堂を創立し、この阿弥陀堂が現在の国宝・白水阿弥陀堂なのです。

さてこの伝説によれば、当時の新川は雨が多い時には洪水が続き、御厩村(現在の内郷御厩町)から平への往来に難儀した人々の中の80歳の老人の嘆願で、時の徳尼がポンと300貫を出して橋を造らせたのでした。出来上がった橋は現在で云うとおよそ270、80mの橋だったので当時、長橋といわれてようですが、渡り初めで徳尼が橋で千秋楽を舞ったことから尼子橋と呼ばれるようになったという伝説です。
では一体この永楽銭300貫とはどれほどの価値があったのかというと、後の織田信長は「金10両=銭15貫」としたそうですから、銭300貫は200両ということです。また現在の貨幣価値で現すと1貫は凡そ10万円という試算があるそうで、そこから云えば3000万円ということになります。
流石に徳尼御前というところですが、よくよく考えれば1200年の頃に永楽銭は存在していたのでしょうか。永楽銭は文字通り中国・明の永楽帝の時代に永楽9年(1411)から造られた銅銭永楽通宝(永楽銭)が、室町時代中期に大量に輸入され、日本での流通がはじまった貨幣です。
では一体1200年頃はどんな貨幣があったかというと、一番古い「和同開珎」が和銅元年の708年ですから、これはまさに奈良時代です。
そして平安時代中期の950年くらいまでは、学校の歴史でも習った「皇朝十二銭」造られ、これ以降、秀吉・家康の頃まで日本の通貨は作られず、鎌倉・室町時代は北宋・南宋の貨幣(宋銭)や明の永楽銭が使用されたのでした。したがって厳密に言えば1200年頃は「宋銭」の時代だったといるでしょう。
きっとこの伝説が最初に語られた時の貨幣が永楽銭だったのでしょう。所謂、「今で言えば永楽銭300貫くらいの価値なんだね・・・」的な語り口で・・・、と考えれば無理は無いと思っておきましょう。

ところがこの伝説には続きがあるのです。
この伝説の中で橋を懇願した80歳の老人は、渡り初めが終わると徳尼御前に挨拶し、薬王寺台(現・松ヶ丘公園)の方に行くうちに姿が消えてしまったのでした。徳尼御前は不思議に思い老人の行方を捜させると、薬王寺台の山腹にある小さな穴の前に渡り初めにお供えした餅があったので、稲荷様が老人の姿に化身されて橋の建設を進言したもので、大変ありがたいことだとそこに社を建て「尼子稲荷大明神」として奉り、永く橋の守り神としたのだそうです。
そして現在でもこれらは地名として残っており、この碑がある辺りは尼子町で、尼子稲荷大明神のある辺りが長橋町なのです。

そこで最後の散策で「尼子橋」に向います。
新尼子橋 新尼子橋 新尼子橋 寒風吹きすさむなか、新川に架かる尼子橋は、なんとも雅な橋ですが、橋げたは近代的なコンクリートで今昔物語のような尼子橋です。

尼子橋 数百年の間交通の要所であった、この尼子橋は昭和26年に新尼子橋として架け替えられたのですが、この新尼子橋の上流には国道6号線の尼子橋が架けられています。

こちらの尼子橋は昭和47年の完成だそうですが、古いほうが新尼子橋で、新しい方が尼子橋というのもちょっと面白い取り合わせです。

ここでは江戸時代より更に遡った話でしたが、それだけいわきの歴史の奥深さを感じます。
今回はヘリテージといっても近代ではなく近世まで遡りましたが、流石に城下町の面影を色濃く残す一面を知ることができました。最後にこんな話を見つけました。
まさに磐城平藩の面目躍如といったところでしょう。

老公狙う大爆発・岩城
江戸の剣術道場で竜虎の仲だった笹井敬之助に会いに行った格さん。だが様子がおかしい。暗雲立ち込める岩城平藩。城下の物産問屋をとりこみ財政を牛耳る次席家老と,地位に固執する城代家老とで,藩を二分する力争いが起こっていた。次席家老は光圀の命を狙う鬼巌坊一味らと手を組んだ。岩城平藩の行方は?そして光圀らの身に大爆発の危機が迫る…。
(TBSドラマ「水戸黄門」平成元年10月2日放送あらすじより)

平城下は、まさに蔵と問屋の町でした。

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