勿来八景:其の壱 ≪大高朝霞≫

いつものように昼過ぎに四ツ倉を出発し、常磐道で一路勿来ICに向かいます。
1時間もかからないうちに勿来ICに到着です。
まずはICから程近い八景からの散策で、国道289号線を勿来海岸方面に向かいます。

大野八幡神社

ICから15分程度で最初の八景である「大野八幡神社」に到着です。
大野八幡神社 大野八幡神社 道路から数段小高くなった上に境内が広がっており、境内に上がる階段の上に鳥居と社号標が置かれています。

大野八幡神社 鳥居を抜けて参道を進むと左手に手水舎があり、そこからまた数段高くなったところに社殿が鎮座していいます。

「大野八幡神社」の由来はわかりませんが、神社のある勿来町大高は江戸時代、大高村と呼ばれており、磐城平藩主内藤家と縁戚にあたる旗本土方家領である窪田藩があったそうです。
土方家支配の窪田藩は結局3代62年で終ったそうですが、2代目藩主土方雄次は、新田開発灌漑用水の造営、寺社修築・造営などに尽力し藩政の基礎を築き上げたそうなので、このあたりと微妙に関連があるのかもしれません。
また、 「大野八幡神社」と国道289号線を挟んだ反対側が、現在でも勿来町窪田(字)ですから、ここでもあながち無関係とはいえないでしょう。

大野八幡神社 拝殿 先ずは参拝です。比較的コンパクトな拝殿ですが、それなりの歴史を感じさせてくれそうです。

大野八幡神社 拝殿内 拝殿、幣殿内もいたってシンプルで余計な飾りは排除されています。

大野八幡神社 本殿 しかし、本殿は拝殿と比べるとかなり立派な作りで、凝った彫刻なども見受けられます。

境内を見渡すとかなり石碑などの類がたくさんあります。
庚申塔 半分埋まってしまっていますが、この「庚申塔」には明和7庚寅・・・と刻まれていますので、1770年、江戸時代中期といったところで歴史を持つ神社であることが窺えます。

石碑 また、こちらには石碑群があり一番右側の石碑には「古峯神社」と刻まれています。
古峯神社とはは防火の神様として信仰されていて、古峯講が盛んだったようなので、恐らくこの石碑は「古峯講中」が建立したものではないかと思われます。

このように随所に歴史を感じさせる「大野八幡神社」なのです。

大高朝霞 そして肝心の「勿来八景」はと目を転じると、境内からまた数段高くなった階段の横に、「勿来八景 大高朝霞」と書かれた看板がありました。

大野八幡神社 公園 階段を上がるとそこは公園のようです。

大高朝霞 八景碑 大高朝霞 そしてその公園の一画に「勿来八景碑」が立っています。

大高朝霞

神とやは八重に霞の菩薩号 (かみとやは やえにかすみの ぼさつごう)  立圃

勿来町大高は、江戸時代、大高村とよばれた。そこには、磐城平藩主内藤家と縁戚にあたる旗本土方家領があり、頼長山大高寺と大野八幡神社がある。
この辺りは、菊多浦を望む高台にあり、霞がたなびく景色を見ることができる場所でもある。八幡神は神だが、もっとも早い段階で神仏が習合した神で、古くから八幡大菩薩の神号で呼び習わされている。季語は霞で春、神であるのに、菩薩号だとは、あつく霞がかかったようだな。宗教上の疑問をおもしろくまとめた句。
句作者の立圃は、貞門の向こうを張った野々口親重とは別人で、沾圃の俳号でも知られる十世宝生佐太夫。享保15年(1730)頃まで岩城に滞在。

選者 露沾(1655年から1733年) 露沾とは、磐城平藩主内藤義概(風虎)の次男で、後に廃嫡される内藤義英の俳号。芭蕉の庇護者。元禄8年(1695)から、現在の磐城高校の敷地、高月に暮らし、勿来にこの八景を選んだ。
(現地案内板説明文より)

菊多浦とは現在で言うところの勿来海水浴場の少し北で、蛭田川の河口あたりの海岸だそうです。
現在でもここ大野八幡神社は高台なので、勿来の海を見ることができます。遠く見える海が菊多浦なのでしょう。

大高朝霞 春霞にはやや早いようですが、煙突の煙が現在の霞でしょうか、風景と神社を美味くミックスした素人でも面白さのわかる句です。

江戸時代当時の景色の一端に触れられそうな大高朝霞で、最初の出だしとしても面白さが感じられる、結構堪能できる「勿来八景」のようです。

大高寺

「大野八幡神社」を後にして一旦国道289号線に戻る途中に、八景の案内にあった「大高寺」があるので立ち寄ってみました。
この勿来町大高は、康和4(1102)年、高階惟頼が陸奥国菊多郡検断職を拝任して着任したことから発展し始めたようで、居館を大野郷と定めて大高冠者を名乗り大高館と称したそうですから、すでに大高という地名はあったようです。
そして高階惟頼によって勿来の関の修理や頼長山大高寺の移転再建がされたとあるので、これ以前に大高寺は存在していたのでしょう。

さてこの高階惟頼とは一体誰、と紐解いてみるとまさに歴史の醍醐味が味わえることに気がつきました。
高階惟頼の父・惟章は、そもそもあの源八幡太郎義家の乳母弟です。
源義家が奥州遠征の帰りに惟章と共に足利の地に寄った際に、そこで土着していた藤原秀郷の子孫藤原足利氏より義家の庇護を受けるため領地の寄進を受けたのでした。渡良瀬川の南半分が寄進領地で(北半分は藤原足利分)、その寄進領地を半分に分けて東を高階惟章が領有し、西半分を義家が領有するほど親密な関係だったようです。
その後、義家の三男義国が問題事で足利荘に下野し、足利氏の祖となるのでした。この当時、義国と一緒に足利に下野した惟章には世継ぎが無かったため、義家の四男・義頼を養子としたのが高階惟頼で、義国の執事となるのでした。
この後、源義国の長男の義重が新田家を起こし、次男の義康が足利氏となったことから惟頼もまた足利氏の執事となったのでした。
そして、新田家の子孫に新田義貞が、足利家の子孫に足利尊氏が登場し、尊氏が室町幕府を開府するに当たり尊氏の側近、足利家の執事として絶大な権力を振るったのが高師直で、この師直こそ高階惟頼の子孫なのです。
このあたりは1月に【栃木県南部のグルメと歴史散策】で足利市の鑁阿寺を訪れていたのも実に奇遇な出来事です。
勿来の関のシンボルが源義家ですから、勿来と足利を取り巻く興味深い歴史ともいえるでしょう(やや強引ではあるのですが…)。

実際の「大高寺」は綺麗で立派な寺院です。
大高寺 大高寺 本堂 いわき市では天台宗の寺院はこの「大高寺」のみだそうで、本尊は「大日如来」なのだそうです。

確かに天台宗では特定の本尊は決められていないそうですが、一般的には阿弥陀如来・釈迦如来・観世音菩薩など菩提寺の本尊を祀る場合が多いそうです。
大高寺 本尊 しかしここでは密教(台密)によるものなのか、はたまた足利家との関わりなのかはっきりとしたことは判りませんが、いずれにして比較的珍しい本尊なのです。

大高寺 角大師 参拝を済ませて境内を眺めると、六地蔵と共に少し奇妙な石仏を見受けました。おどろおどろした鬼のような姿を曝しています。

これはあの厄除けで有名な元三大師の姿なのだそうで、元三大師には様々な名前や姿があるそうです。
本来の名前は良源で、この良源は第18代天台座主で実在の人物です。中世以降に独特の信仰を集めた僧です。
そして亡くなった日が正月1月3日=元三なので、元三大師と呼ばれるようになり、これが一番ポピュラーな呼び名となったようです。更に朝廷から贈られた名前は慈恵大師というそうです。

一方、件の石仏の姿は角大師と呼ばれ、元三大師が鬼の姿になったものといわれているそうです。
では何故鬼の姿なのかといえば、嘗て疫病が流行した永観2(984)年の頃、この疫病の鬼が元三大師に襲われ、疫病にかかった元三大師は高熱を発して苦しんだそうですが、法力を持って疫病を退散させたそうです。
この疫病からの苦しみを体験した元三大師は、人々から疫病の苦しみを取り除くため、全身大の鏡の前で日夜祈ったのでした。そしてあるときその鏡に映る大師の姿が徐々に変わり始め、最後には骨ばかりの恐ろしい鬼の姿になったそうです。これが降魔となった大師の姿で、この姿を弟子に写し取らせ、その絵を版木に彫りおこしお札を作成したそうです。
そしてこの札を戸口に貼り付けることにより、邪悪な鬼は近寄らず、疫病はもとより一切の厄災から逃れられと布教し、家の戸口に貼るようになったそうです。目には目を…である鬼瓦と同じような意味なのでしょう。
この故事から元三大師ゆかりの寺院では、このお札を角大師と称して、毎年の新年に新しいお札を玄関や家の戸口に貼ることで、病気はもとよりあらゆる厄災から逃れられる護符として人々に頒けられているのだそうです。
それがこの石仏なのです。

因みに元三大師には豆大師という呼び名もあるそうです。これは元三大師の姿が、豆粒のように9段33個並べられている札から由来した名前だそうで、元三大師は如意輪観音の化身という法華経にもとずいて創作され災難除けのお札なのだそうです。
やはり厄除けに欠かせない元三大師のスーパースターぶりが窺えます。
そんなこんなで様々な歴史が息づいている「大高寺」もまた、いわき市の古刹といっても過言ではないのでしょう。

勿来八景:其の弐 ≪関田晩鐘≫

 

「大高寺」から勿来駅方面に向い、10分程度で2つ目の八景である「松山寺」に到着です。

松山寺

松山寺 ここ「松山寺」も「大野八幡神社」同様小高く盛られた土地の上にあります。

松山寺 六地蔵他 松山寺 摩尼車 山門前の右手には六地蔵などが祀られ、左手には摩尼車なる奇妙なものが設置されています。

摩尼車 
〔無垢(けがれのない)・離垢(けがれからはなれろ)・宝珠(チエをいただけ)の意〕
南。刻まれている文字は古代インドの文字(梵語といいます)
無。これは梵語のお経で「光明真言」です。
阿。「光明真言」の和訳は。「心からお願いします。(宇宙に)遍満されている大日如来よ。その偉大な。ちからを示す。さとりよ。知恵と慈悲の。すくいの光明をさしのべて下さい。」
弥。摩尼車での功徳の頂き方
自分の手で「車」を廻すことによって、自分がお経を唱えたこと(功徳)になります。
陀。人々よ。摩尼の「功徳」を頂いて下さい。
仏。人々に。摩尼の「光」あれ。
合掌 真言宗智山派 松山寺
(現地案内板説明文より)

なるほど、この黒く丸い梵語の書かれた車輪を廻せば、それだけでお経を唱えたと同じご利益があるという、何ともコンビニエンスなありがたいものです。
それにつけてもこの説明文の句読点の使い方は何か意味があるのでしょうか。稀に不思議な句読点の使い方を神社仏閣で見かけることがありますが、サンスクリット語、あるいは宗教的な意味があるのでしょうかね。

中央に石段がありその上には「楼門」があります。
松山寺 楼門 特に華麗ではありませんが、どのような楼門でも華やかさを感じさせてくれます。

楼門を抜けると石段は右に90度曲がって更に続いています。
松山寺 境内 松山寺 境内 松山寺 稲荷社 その踊り場から一段上に、左に朱の欄干も鮮やかな「観音堂」、中央に「鐘楼」、そして右手には「稲荷社」があります。

松山寺 本堂 稲荷社を参拝してから境内に上がり、先ずは本堂に参拝です。
本堂は再建されたものでしょう、かなり大きな美しい本堂です。

詳細な縁起はわかりませんが、大同2(807)年、徳一菩薩により開創され、その後、応仁の乱の後の文明年間(1469から1496)に宥静僧正が復興し、更に川中島の戦いの前後である1540から1580年頃に中興されたそうです。
そしてそれ以降、時の領主窪田山城守と岩城親隆夫人から等から篤信され、江戸時代の徳川家光以来は25石の朱印寺として繁栄したようです。
往時は勿来駅に大門があり、そこから七堂伽藍の大寺院だったそうです。

松山寺 墓地と勿来駅 ちょうど現在の松山寺の前が墓地で、その墓地の先の木々のあたりにうっすら見えるのが勿来駅ですので、この写真の辺りが全て境内だったのではないかと推測されます。

寺宝として「紺紙金字法華経 8巻」が福島県の重要文化財として指定されているそうです。
正式名称は、関松山宝寿院松山寺で名刹、古刹とはまさにこのような寺院をいうのでしょう。

関田晩鐘 八景碑 関田晩鐘 参拝を済ませてから本題の八景碑を眺めます。

関田晩鐘

音淋し松山寺の蟾の暮(おとさびし まつやまでらの ひきのくれ)  露沾

この句は、八景の内露沾が詠んだ二句の内の一つであることから、八景を代表する一句ともいえる。
句の解釈は、「夏の夕暮れ、松山寺の鐘の音が寂しげに響く中、それに合わせるようにひきがえるも寂しげに鳴いている」というものであろう。
寺の夕暮れというものは、どこの寺であれ寂しいものだが、ひきがえるの鳴き声などが響けば余計寂しいものになるだろう。
関田の名刹松山寺の梵鐘は、古来名鐘として名高く、毎夕撞かれるその音は、菊田浦一円に響き渡ったといわれる。現在残る鐘は当時のものとは異なるが、今も幽玄なる音を響かせている。

選者 露沾(1655年から1733年)
露沾とは、磐城平藩主内藤義概(風虎)の次男で、後に廃嫡される内藤義英の俳号。芭蕉の庇護者。元禄8年(1695)から、現在の磐城高校の敷地、高月に暮らし、勿来にこの八景を選んだ。
大高朝霞、関田晩鐘、湯嶽晴雪、大島夜雨、平潟帰帆、佐糠落雁、小濱夕照、中田秋月
(現地案内板説明文より)

松山寺 梵鐘 碑の隣にあるのが、その「鐘楼」です。

梵鐘 
関田晩鐘 音淋し松山寺のひきの暮 平藩主 内藤露沾
初代の鐘
鐘作 貞享5年正月(1688年)
寄進 関田村釈氏端心(根元権右衛門)
現所在 由あって郡山市某寺
2代の鐘
鐘作及び寄進 共に不詳
所在 戦時中供出の後不明
3代の鐘
鐘作 昭和34年
寄進 壇信徒一同
重さ 130貫 約520キログラム
(現地案内板説明文より)

現在の鐘でも50年以上の歴史を持つ鐘なのですが、気になるのは初代の鐘で、由あって郡山市某寺という説明に興味がわきます。
そこで調べてみると現在は郡山市の「阿弥陀寺」という寺院にあり、その鐘は文化財となっていました。

郡山市指定重要文化財 銅鐘 昭和60年12月20日指定
 高さ101cm、口径75.4cmの銅鐘は1717(享保2)年江戸神田の鋳工師 小沼播磨守藤原長政の作で、わが国の金工史・美術史上貴重な作品です。
 この銅鐘は、いわき市勿来の松山寺の鐘楼にありましたが、1886(明治19)年久保田に留まったと伝えられ、追刻銘文によると、その後1888(明治21)年阿弥陀寺の銅鐘になったとあります。
 鋳工師 藤原長政は1712(正徳2)年江戸南町の西応寺、1718(享保3)年江戸駒込の光源寺の銅鐘を鋳造した記録があります。長政の作品は関東一円、主に江戸に多く所在していたといわれますが、関東大震災や太平洋戦争のための供出などで、遺品は余り残されていません。
 この銅鐘も太平洋戦争のために供出されようとしましたが、重要美術品としての価値が高いとして、供出を免れたといういきさつがあります。
【郡山市教育委員会】
(阿弥陀寺オフィシャルサイトより)

どうやら明治になって移されたようです。久保田というのは「阿弥陀寺」のある辺りの地名ですから、単に「阿弥陀寺」の譲渡されたということではないようで、やはり由あって・・・なのですね。
その梵鐘の写真はオフィシャルサイトにあります。

参考:【阿弥陀寺】http://www.koriyama-amidaji.jp/about.html

関田晩鐘 梅もほころび始めて、天気も良い昼下がりですので「音淋し・・・」という句のイメージはわきませんが、やはり夕暮れの頃にはそんな心持になるかもしれませんね。この風情の中にあっては。

地元に居住しているのであれば、夕暮れ時に八景を堪能できるのですが・・・、残念ですね。

松山寺 観音堂 最後に朱の欄干のあった観音堂です。

ここは磐城三十三観音十一番札所関田観音で、大同2年に徳一菩薩が6体の観音像を彫ったその一つがこの関田観音像なのだそうです。

松山寺 観音堂 鰐口紐が数珠になっているのも珍しいでしょう。

松山寺 観音堂 松山寺 観音堂 また、観音堂の壁面にはびっしりと観音像が奉納されています。なかなか壮観な光景です。

徳一菩薩創建の「松山寺」は八景は勿論のこと、33観音の一つとしてありがたいお参りでした。

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