勿来八景:其の参 ≪平潟帰帆≫

 

「松山寺」を後にして次に向ったのは「勿来海岸」です。
「松山寺」は勿来駅前ですが、一旦陸橋を越えて勿来駅を通る常磐線を越えて国道6号線を進みます。
15分程度で勿来海岸前にある勿来の関跡三差路に到着です。

勿来海岸

国道6号線を右折する道が勿来の関へ向う道です。
勿来の関は、このいわき散策記のきっかけともなった【いわき里帰り旅行】で初めて訪れた場所ですから、思い出深い場所です。
確かその際来るときには反対側から勿来の関跡に入り、帰るときにこの6号線に出てきたのではなかったかと記憶していますが・・・。

勿来海岸 勿来の関入口 そしてこの三差路の入口に勿来の関跡入口らしい、関所門のモニュメントが立てられています。

勿来海岸 その角には幾つかの石碑が建立されています。
比較的新しいモノのようですが、一番右手の「古関跡」と刻まれた道標に、磐城国磐前郡湯本村 久保木重兵衛と刻まれていたので多少古いものなのでしょう。

このまま勿来の関ヘ向うには期待感を醸成させるモニュメントといえるでしょう。

今回は勿来の関ではないので、地下道をくぐって海岸へでます。
勿来海岸 勿来海岸へ出ると天気も良いことから、綺麗な海岸線が一望できます。いわき七浜の一つである勿来海岸です。

海岸奇妙な岩があります。
勿来海岸 勿来海岸 二つ岩 二つ岩というそうで朱の鳥居が岩の前にありますので謂れなどは判りませんが、二見ヶ浦の夫婦岩のような信仰の対象となったものなのかもしれません。

しかし調べてみると、この二つ岩は昔から歌に詠まれたり釣り場として親しまれた名勝なのだそうですが、波の侵食による崩落などの危険を避けるため、福島県小名浜港湾建設事務所によって炭素繊維補強コンクリートを用いた擬岩工法で瓜二つに再現された岩なのだそうです。
当時の二つ岩の写真や工事写真がオフィシャルサイトに掲載されていましたので借用します。

勿来海岸 二つ岩 《写真:(C)福島県小名浜港湾建設事務所

当時の風景がこんな感じなのでしょうか。
こういった名勝の保存というのも観光客にとってはとっても嬉しいことです。

二つ岩から右手の海岸線に沿って歩いていきます。
海水浴場としてかなり手が入れられているので、非常に整備された綺麗なビーチです。

勿来海岸 正面に見える岬が九面鵜子崎というそうで、岬の向こう側に勿来港があるそうです。

平潟帰帆 平潟帰帆 そして岬に向う途中に八景碑が立っています。

平潟帰帆

昆布とりの真帆はいぬめり雲の嶺(こぶとりの まほはいぬめり くものみね) 沾梅

八景の内、勿来地域にない地名を持つ二句の内の一つである。
解釈としては、「昆布とりに励んでいた何艘もの帆掛け舟が、入道雲の立ち上がるのを見て一斉に平潟の港に帰っていったようだ。後に残るのは、青い海原と峰のように高く聳え立った雲ばかり」であろう。
平潟は、現在の茨城県北茨城市の海岸線最北部にあり、寛永年間に仙台藩によって築港されるまでは、天然の入江を利用した小さな漁港であった。湾の三方は奇岩怪石に取り囲まれ、波静かな湾内の水面に映るその形は、古来より絶景といわれた。またこの地は鮟鱇鍋の発祥地ともいわれている。
勿来地区とは隣接していることから、古来より関係が非常に強く、当時は今以上に人や文物の交わりが深かったのではなかろうか。
沾梅は露沾の門弟で、高月において補佐役の一人であった中島定八である。

選者 露沾(1655年?1733年)
露沾とは、磐城平藩主内藤義概(風虎)の次男で、後に廃嫡される内藤義英の俳号。芭蕉の庇護者。元禄8年(1695)から、現在の磐城高校の敷地、高月に暮らし、勿来にこの八景を選んだ。
大高朝霞、関田晩鐘、湯嶽晴雪、大島夜雨、平潟帰帆、佐糠落雁、小濱夕照、中田秋月
(現地案内板説明文より)

平潟湾は九面鵜子崎の先の勿来湾の更に先にある港です。

平潟帰帆 イメージとしてはこんな感じで漁船が平潟港へ引き揚げる様子を描いたのでしょう。
暑い夏の日の一コマだったのでしょうが、残念ながら季節は冬ですので入道雲はありません。

勿来火力発電所 ここからは勿来火力発電所も見えるのですが、さすがに江戸時代では想像もなしえなかったものでしょう。

ここ勿来海岸は、現在いわき市でも福島県でも随一の広さを誇り、更に県内2番目の集客を誇るビーチになっていそうです。
自然の海岸もそれはそれで八景に相応しい風景だったのでしょうが、人工的に手が加えられたといっても、美しさが損なわれているとは思えません。これからも八景に相応しい場所であって欲しいものです。

伊勢両宮神社

勿来海岸を後にして一旦国道6号線を戻り「伊勢両宮神社」へ向います。

途中の常磐線「勿来駅」では、勿来のシンボルとも言うべき八幡太郎義家像が駅前に設置されています。
勿来駅 勿来駅 勿来駅

まさに勿来、といったところでしょう。

伊勢両宮神社 勿来駅から6号線を10分ほど進み伊勢両宮神社の道標のある路地を右折して、ゴルフ練習場を抜けると鳥居が現れます。

社殿などの姿は一切見えませんが、ここからがすでに神域という大層広そうな境内です。

伊勢両宮神社 伊勢両宮神社 参道 そのまま進むと広い駐車場があり、その正面に参道である石段があり、横に由来書があります。

伊勢両宮神社の由来
所在 いわき市勿来町四沢伊勢林5番地
祭神 内宮 天照皇太神 外宮 豊受大神
伊勢両宮神社は、文禄年間、窪田山城守家盛の叔父道通なる者、松山寺住職宥長上人と協力して、伊勢国度会より、勧請せるものという。
一説に岩城下総守親隆公の志願による、との伝説もある。神域は、伊勢山城あるいは鬼岡館といい、前九年の役(永承6年)に源義家の陣せし所という。
また神域西方には、伊勢林前遺跡があり、縄文時代後期から古墳時代に至るまでの土器等が、発見されている。
(中略)
関田、四澤総鎮守 伊勢両宮神社
(現地案内板説明文より)

遺跡であり、陣屋跡でもあり、そして現在は神社と話題に事欠かないといった地です。
とにかく境内を進みます。

伊勢両宮神社 参道 伊勢両宮神社  石段の頂点には二の鳥居があり、その先に「手水舎」と「神輿倉庫」があります。

内宮 参道 外宮 参道 そして左側が天照皇太神の祀られている内宮で、右側が豊受大神の祀られている外宮です。

更にこの内宮と外宮のある境内は、伊勢山城の左右の郭で、この城郭跡について鳥瞰図がありましたので借用しました。

伊勢山城址 《写真:(C)余湖くんのホームページ

早速、内宮を参拝しました。
内宮 拝殿 内宮 本殿 拝殿は何造りなのかはわかりませんが、伊勢神宮の流れらしい造りです。
江戸時代創建のようですが、本殿は意外な事に石造り(コンクリート)なのは近年に再建されたのでしょう。
おそらく無人の神社故に火災などを考慮したものと考えられます。

内宮 拝殿内 拝殿、幣殿内は非常に綺麗ですが、ここもちょっとベンチなのが意外といえば意外です。

鳥瞰図でいえばこの先が更に郭のようですが、ここからは藪になっているので先には進めないので外宮に参拝しますが、ここが第4の郭であると共に伊勢林前遺跡がある辺りでしょう。
後になって知ったのですが、一般的伊勢神宮を参拝する場合、外宮から先に参拝して内宮を参拝するそうなのですが、全く逆になってしまいました。
まあ、気は心ということでお許し願いましょう。

外宮 拝殿 外宮 本殿 外宮も造りは同じで、拝殿、本殿共に内宮と同一形状となっています。

外宮 拝殿内 拝殿内だけは神具が若干違うだけで、基本的には同じです。

太陽神である内宮の天照皇太神と衣食住の守り神である外宮の豊受大神を祀る伊勢両宮神社ですが、伊勢神宮を勧請したというところに価値があるのでしょうね、当時としては。
そんな篤い信仰が理解できるような両宮神社です。

伊勢山城 城郭跡 外宮の先は進めるようになっているので、そのまま先に進んで見ますが、左手が土塁のようです。

伊勢山城 城郭跡 そして、この辺りが主郭だと考えられている場所のようです。

何もない落ち葉に覆われた空き地なのですが。城の遺構が好きな方にはたまらない城跡なのかもしれません。

勿来八景:其の四 ≪中田秋月≫

 

参拝を終えて「伊勢両宮神社」を反対側に抜けるとそこは岩城相馬街道なのですが、自動車は通れないようなので、一旦勿来駅方面に迂回します。
嘗てはいわきのメイン街道であったであろう岩城相馬街道ですが、それなりの町並みが残されています。

関田の宿 特にこのあたりは関田南町で、嘗てはこのあたりに関田の宿場があったとか、なかったとか・・・。

関田の宿 それでもこのような旅館が残っているのは、その歴史を継承しているものなのかもしれません。

伊勢両宮神社 表参道 暫く旧街道を進むと「伊勢両宮神社」の参道が左手にあります。
街道沿いなので本来はこちらが表参道なのでしょう。

街道沿いから見ると「伊勢両宮神社」というよりは伊勢山城跡の全域を見ることができます。
伊勢両宮神社 社叢 嘗て義家がここで陣をとっていたと思うと何となく感慨深いものを憶えますね。

このあたりに2本ほど、そして更に旧街道を進んだところに1本の古い松が残っています。
岩城相馬街道 松並木 岩城相馬街道 松並木 嘗てはこの岩城相馬街道も松並木のい街道だったそうで、僅かながらその面影を留めているようです。

蛭田橋 古の面影を偲びながら先に進むと蛭田川につきあたり、架けられている橋が「蛭田橋」です。

蛭田川 上流 蛭田川 下流 左手が上流で、右手が下流ですが、下流の先には太平洋を臨むことができます。

蛭田川 下流の菊多浦 このあたりの海が「大高朝霞」で詠まれた菊多浦なのです。

蛭田川は嘗ては石炭の洗浄水を流していたので、真っ黒な川だったそうですが、現在では地元の方の努力などで非常に綺麗な川に変わったそうです。観光の地に相応しいインフラ整備とでもいえるのでしょうか。
蛭田橋を渡って先に進むと四つ目の八景の「中田八坂神社」に到着です。

中田八坂神社

路地を入ると表参道になります。

中田八坂神社 奥の社叢が神域でしょう。

中田八坂神社 境内地に来るとコンクリートの朱というよりは紅色の神橋があり、その先に鳥居があります。

境内に入って右横に由来があります。

中田八坂神社
1.鎮座地 いわき市錦町宮の前2
1.社殿様式 
本殿 神明造り木造銅板葺 間口1.45メートル、奥行き1.45メートル
幣殿 間口2.42メートル、奥行3.57メートル
拝殿 間口5.49メートル、奥行6.34メートル
1.面積 4.419平方メートル
1.御祭神 素箋鳴尊
1.御祭儀 1月1日 歳旦祭、7月31日 例祭(大祭は7年目ごとに執行)、11月15日 753祭、11月23日 新穀感謝祭、12月31日 大祓祭

由来
御祭神素箋鳴尊は天照大神の弟神であり出雲を平定した。四国、九州、中国地方の支配者となる。高天原より天孫瓊瓊岐尊が地上に降臨し治めることになり、娘婿大国主命と共に帝位をゆずり、自ら国造りの尊として北陸、東奥に神威を振るい漁業狩猟農耕の守護神となる。また祇園精舎社の牛頭天王様といはれ疫病退散の神とされた。当中田牛頭天王様の例祭を中田祇園夏祭りと称し大祭行事と伝えられている。

沿革
大同元年(806)征夷大将軍坂上田村麻呂が当地を征討の節、戦勝祈願のため、霊験あらたかにより勧請されたと伝承されている。
1.寛永16年(1639)5月中田村鎮守牛頭天王宮八坂神社は祭儀の宮となる。
1.宝永2年(1705)2月社殿再興する。
1.大正11年(1922)6月16日牛頭天王宮を八坂神社と改称村社に烈格し供進指定となる。
1.昭和27年(1952)11月宗教法人設立される。

三摂末社
稲荷神社(倉稲魂命)稲の精霊の主宰。 妙見神社(保食命)食物一切を主宰。 津神社(岡像女命)海川安全 薬師堂(薬師如来)無病厄除
平成6年2月吉日
(現地案内板説明文より)

牛頭天王とは実に運の悪い守護神です。
元々は乱暴モノであったのですが、仏教において祇園精舎の守護神となるや、「除疫神」として広く信仰され、人々の強い味方でもあったのです。しかし、明治になってから神道家や国学者などから胡散臭い目で見られ始めました。
その最たるものが素箋鳴尊と習合しているのが気に食わなかったようで、まるで素箋鳴尊が乱暴モノであったかのような印象を与えるのは牛頭天王と習合している為だと目の敵にされたことです。
そして彼らは、明治の神仏分離により「祇園社」や「牛頭天王社」などという牛頭天王をイメージさせる社号を「八坂神社」といったように改称させ、祭神も素箋鳴尊のみとし、牛頭天王を消し去ったのでした。
そんな不運な牛頭天王ですが、現在でも天王祭とか天王洲アイルとか、どっこい牛頭天王はしぶとく生き続けているのです。
その様な経緯からここも「牛頭天王宮」から「中田八坂神社」となったようですが、それにしても806年創建は、いわき市の多くの寺院の大同2年創建(徳一菩薩関係)よりも僅かに1年も古いという微妙な歴史を持っているようです。

中田八坂神社 絵地図 隣には江戸期中田村絵図が掲出されていて、先ほど来た「蛭田橋」なども掲載されていました。
これを元に付近を散策するのも非常に興味深いのでしょうが、今回は八景が主目的なのでいずれ別な機会に散策してみたいものです。

中田八坂神社 境内社 中田八坂神社 境内社 境内を進むと右側に薬師堂などの摂末社が並んでいます。

中田八坂神社 神楽殿 こんなシンプルな神楽殿もあり、なかなか庶民的な雰囲気が漂っています。

中田八坂神社 拝殿 中田八坂神社 本殿 拝殿はそれ程大きくないコンパクトな造りですが、本殿はなかなか凝った彫刻が施された風格ある建造物です。

中田八坂神社 夫婦杉 本殿の先には注連縄の張られた生垣があり、傍らの看板には「八坂の夫婦杉(彌栄の夫婦杉)」とあり樹齢約300年と記載されているばしょがあります。

奥に進んでみると、何とも大きな杉の木が2本立っています。
中田八坂神社 夫婦杉 それぞれの杉の幹が途中から2本に分かれています。夫婦杉が2組あるということのようです。

中田八坂神社 夫婦杉 中田八坂神社 夫婦杉 左側がやや小さめの夫婦杉で、右側が大きい方の夫婦杉で、どちらも御神木というところでしょう。

見事な夫婦杉でした。

中田秋月 中田秋月 最後に肝心の八景碑です。鳥居の左手にその碑は立っていました。

中田秋月

荒町と曲らぬ月の歩みかな (あらまちと まがらぬつきの あゆみかな) 由之

錦町安良町は、江戸時代には、中田村の荒町と表記された。
吉田松陰の『東北遊日記』には関田と大島の間に荒蜂という地名が記録されているが、これはおそらく荒町の誤記であろう。
大島と荒町との間に鍵の手の街区がある。道にしたがって曲がった。それでも夜空の月は、さきほどと変わることなくまっすぐついて来るように見える。そんな背景があったのかも知れない。
季語は詩題のとおり月で秋、句作者は『笈の小文』に登場する「岩城の住、長太郎」こと由之。貞享四年(1687)頃には岩城に住んでいた。

選者 露沾(1655年?1733年)
露沾とは、磐城平藩主内藤義概(風虎)の次男で、後に廃嫡される内藤義英の俳号。芭蕉の庇護者。元禄8年(1695)から、現在の磐城高校の敷地、高月に暮らし、勿来にこの八景を選んだ。
大高朝霞、関田晩鐘、湯嶽晴雪、大島夜雨、平潟帰帆、佐糠落雁、小濱夕照、中田秋月
(現地案内板説明文より)

この寺のあるあたりが現在の錦町安良町で、先ほど来た「蛭田橋」及び関田の宿が南方向で、ここから北西に進むと大島という位置関係となります。
昼日向の真昼間に「月」でも無いものですが、街道を照らす照明代わりかもしれませんが、それはそれで風情があったことでしょう。
長閑な風景と鄙びた雰囲気が江戸時代の名残かもしれません。

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks