勿来八景:其の伍 ≪佐糠落雁≫

 

「中田八坂神社」からは先ほどの案内にもあったように、次なる八景として「大嶋夜雨」碑のある県道56号線の「鮫川橋」袂を訪ねる予定でしたが、途中まで行くと錦町大島の交差点から鮫川橋までが道路工事中のため大渋滞となっていました。
時間も無いことから、ここは一旦国道6号線バイパスを進み、鮫川大橋近くにある「佐糠落雁」を先に訪れることにしました。

吉田松陰「殉国」碑

国道6号線の鮫川大橋を渡ってから、ちょっと寄り道します。
いわき市植田町にある植田児童館の横の後宿公園に「吉田松陰碑」があるとのことで訪れました。

後宿公園 児童館と共に立派な公園です。

吉田松陰碑 そしてその片隅に鎮座しているのが「吉田松陰碑」です。

表には、「殉国」と横書きで、縦に「“吉田松陰先生遊歴の地”内大臣従二位勲二等侯爵 木戸幸一謹書」と刻まれています。 木戸幸一とは最後の内大臣で、極東軍事裁判で物議をかもした人物ですね。
そして裏面には「吉田松陰先生著 東北遊日記抄」と刻まれています。

これは吉田松陰が東北を巡った際にこの植田宿(現・いわき市植田町)の宿泊したことを記念した碑のようです。
この東北遊日記とは、黒船来航する前年の嘉永5(1852)年に東北視察を記したものです。
冒頭の一説を判りやすく訳しているブログがあったので引用させていただきます。

東北遊日記(吉田松陰)
有志の士、時節が平安であれば、書籍を読み、道を学び、経国の大計を論じ(国の事を考え)、古今の歴史から何が正しく、どこがダメ(古今の得失)であったかを議論すればいい。しかし、一旦事変が起これば、戦場に赴いたり、敵を推し量り交わりを結んだりし、良策と建てて国家に利益をもたらすべきである。以上が平生の志である。
だとしても、天下の形勢について無頓着であれば、どのようにしてこれらの事をなし遂げられようか。
私は昨年、長崎・平戸に遊学し、今年は江戸に来ている。そして畿内、山陽、西海、東海は渉猟した。
しかし、東山、北陸(東北)は土地が広く山険しく、古より英雄が割拠し、悪人どもが巣くっている。それは、満州の東に連なり、北はロシアに接しているからである。
この事は、最も経国の大計に関わることであり、古今の歴史の是非を見なければならないところである。
しかし、私はいまだこれらの地を知らないのが残念である。
最近になり、肥後人の宮部鼎蔵が東北遊を私に提案してきた。それを、私は喜びを以って受けた。
たまたま、奥州人の安芸五蔵(江幡五郎=那珂通高・歴史学者那珂通世は養子)もちょうど常陸、陸奥に行く予定であったので、同行を約束した。
以上のような訳で、私は一冊子を作り、古今の得失、山河の形勢、そして目撃するところを日々の記録として記する予定である。
嘉永4年(1851年)12月 吉田大次郎 籐矩方記す(吉田家は藤原の流れ、大次郎・矩方は松陰の名前)
(「かめ君のブログ」より)

さすがに「木を見て森も見ることができる」人は凡人とは違うということでしょう。

東北遊日記 地図 さてこの東北遊日記の行程は、全工程1600km、4ヶ月に渡る旅だったようです。

脱藩した松蔭は、長州藩江戸屋敷を出発し先ず向ったのが、攘夷派の本山である水戸でした。水戸を訪ねたのは会沢正志斎に会って話を聞くことにあったようです。
この会沢正志斎とは、1824年に水戸藩領内、大津浜沿岸に英国人12名が上陸した大津浜事件といわれる事件で、水戸藩がこの英国人を全員捕えて取調べをした一人なのです。
そしてこの経験を元に「新論」を著し、尊王攘夷論を明確に体系付け、松蔭始め久留米藩の真木和泉などの幕末思想界に多大な影響を与えた人で、この著書「新論」は幕末志士にバイブル視されたほどだったそうです。
松蔭が是非とも会いたいと思ったのも当然でしょうね。

水戸を発った後は北茨城磯原の野口玄珠の野口家に泊り大いに語り明かしたようです。
この野口家とは先祖があの楠木正成の弟、楠木正季ともいわれ、子孫が野口雨情という家系の家です。この時の野口玄珠という人が、人的な関係なのか、思想的な関係だったのかはよく判りませんが、この時有名な「磯原客舎」という漢詩を残しているそうです。

海に面した宿舎で海からの風を感じながら酒を飲んでいると、次第に顔もほてり耳も熱いほどに酔い、ぐっすり眠ってしまった。すると忽ち夢の中に、遠い彼方から雲や大波が湧き起り、海を蔽うほどの大きな海亀のような軍艦が押し寄せて来る。私は迎え撃つべくわが日本の軍を率い勇猛果敢・髪を逆立てて悲憤する意気盛んな兵士とともに陣を固めている。しかし、これは夢。酒の酔いも醒め、灯りの煙も消え果てている。夜も更け、ただ、地をうごかすような波の音が、太鼓の音のように押し寄せている。
(磯原客舎訳文)

現在でも詩吟として有名のようで、多くの方に謡われているそうです。

北茨城磯原を出発した松蔭はそのまま北上し、先の大津浜を視察してそのまま平潟を抜け勿来に到着したのです。
そして勿来の関を抜け、この植田の宿で宿泊し(・・・たようです)、泉町を巡り田人御斎所街道石川から白河を抜け会津若松へ向かい、この後、会津若松を基点に新潟、山形、青森、岩手、宮城、そして会津若松に戻り栃木を経由して江戸に戻ったのでした。
ここ植田でのエピソードは特に無いようですが、幕末の大家の足跡として地味ながら貴重な記念碑といえるでしょう。

この公園のすぐ横に土手があり、その先が鮫川河川敷です。

河川敷は整備されており、まさに市民の憩いの場のようです。
鮫川河川 下流には先ほど通過した鮫川大橋を見ることができます。

鮫川河川 上流は鮫川橋と福島の山々がみられます。
松蔭もこのような風景を見ていたのでしょうかね。

この鮫川沿いを下流に進むと次なる八景の地となるのです。

鮫川河口北岸

6号バイパスを交差して次なる八景の地へ向かいます。
鮫川河川沿いにあり、以前【いわき散策記 vol.10】で訪れた常磐共同火力勿来発電所の付近の鮫川周辺がその地です。

佐糠落雁 佐糠落雁 そして鮫川沿いの土手の上に目指す八景碑が立てられていました。後ろには火力発電所を見ることができます。

佐糠落雁

夜は分る孤雁なるらん捨小舟 (よはわくる こがんなるらん すておぶね)  等躬

句の解釈は、「夜の闇を分けて進む孤独な雁のようなものであろうか。川に一艘だけ打ち捨てられている小舟は。」といったものか。
佐糠は鮫川河口北岸の村。平藩領から泉藩領となった。
当時は、葦などの生い茂る寂しげな土地であったろうし、川筋の渡し舟や雁などは、日々の暮らしの中でよく見かける光景だったものと思われる。
等躬は、相楽伊左衛門といい白河藩郷士で須賀川の駅長をつとめた人物であり、須賀川の俳祖といわれている。江戸の俳人「未得」門下の重鎮で、後に芭蕉や露沾と交わった。芭蕉は「奥の細道」の途次、等躬宅に逗留している。平の露沾のもとにもたびたび訪れ、晩年は露沾邸に逗留中その生涯を終えた。

選者 露沾(1655年?1733年)
露沾とは、磐城平藩主内藤義概(風虎)の次男で、後に廃嫡される内藤義英の俳号。芭蕉の庇護者。元禄8年(1695)から、現在の磐城高校の敷地、高月に暮らし、勿来にこの八景を選んだ。
大高朝霞、関田晩鐘、湯嶽晴雪、大島夜雨、平潟帰帆、佐糠落雁、小濱夕照、中田秋月
(現地案内板説明文より)

碑のある土手から鮫川を眺めると、河口あたりは実に雄大です。

鮫川河口 鮫川河口 河口の幅はかなり広いのですが、海との境界は砂浜が迫り出しているので、ここから見ると川が塞がれているように見えます。

河口の砂地の先の青色の濃い部分が太平洋で、このあたりも菊多浦です。

川沿いの河川敷には葦が茂っていて唯一八景の名残をとどめているような風情ですが、寂しげな様子は余り見受けられません。
鮫川河川敷 このあたりの河川敷は殆ど整備されてはおらず、ありのままの風景が広がっています。

鮫川 上流 上流を眺めるとここからでも遠く遠野、田人方面の山々を臨むことができます。

残念ながら小舟を見つけることはできませんでしたが、川だけを見れば江戸時代の景色がそのまま残っているといえるかもしれません。

河津桜 帰り際、火力発電所のすぐ横で河津桜という看板があったので行ってみました。

河津桜 河津桜 発電所横の空き地に桜が植えてあり、休憩所が設置されています。

桜の木の前に案内板があります。

会社創立50周年記念事業として河津桜50本をこの地に植樹する
河津桜はオオシマザクラ系とカンヒザクラ系が自然交配したものと言われ、開花の早いのが特徴です。
原木は伊豆半島の河津町にあり、早春には優美な姿を見せる桜です。
平成17年12月23日 常磐共同火力株式会社 勿来発電所
(現地案内板説明文より)

いわき市にも桜の名所は多々あるようなので、河津桜であれば異彩を放って注目度も高いのかもしれません。
八景の地のすぐ傍でもあるので、八景ともども憩いの場として、観光資源として活用されるとよいでしょうね。
残念ながら開花の早い河津桜といえども、今日はまだ早かったようであと1,2週間すると見ごろなのではないでしょうかね。

勿来八景:其の六 ≪小濱夕照≫

 

勿来火力発電所を後にして、県道239号線を海岸沿いに走り次なる八景に向かいますが、どうやら時間的に今日はこれが最後の八景散策となりそうです。

小浜漁港

小浜漁港 県道239号線を途中で右折し、視界が開けるとそこはもう小浜漁港です。

話しには聞いていましたが、本当にこじんまりとした小さな漁港です。一昔前までは人工化されていない遠浅の自然港だったそうですが、現在では遠浅の港とビーチに二分されたそうです。

小浜漁港 そしてこのスロープからが漁港となっているようです。

この漁港は南北の岬に挟まれており、北側の岬が大矢岬です。
大矢岬 白い岩肌と緑の黒松が実に良いコントラストをなしています。

港をグルッと巡ってみます。

小浜漁港 数トン程度の小さな漁船が何艘か係留されています。こういった風情はさすがに漁師町でなければ見られない光景です。
対称をなす小名浜港と比べると非常に庶民的な親しみの湧くような漁港です。

外洋 港の先端の防波堤に行くと、その先は大海原の太平洋です。

小浜漁港 そしてここから港を見ると一段と小さな漁港であるのが見て取れますが、風光明媚なという言葉が良く似合いそうな小浜漁港です。

公園 港の左側には、港とビーチを分けるように遊歩道のような細長い小さな公園があります。

小濱夕照 ちょっとしたベンチなどもあり、そこだけ見ると海岸の中とは思えないほど、逆に都会的に見えてきます。

小濱夕照 小濱夕照 この公園を先に進むと右手に八景碑が設置されていました。

小濱夕照

一しぐれ夕日に干すや鰈網 (ひとしぐれ ゆうひにほすや かれいあみ) 露沾

この句は、八景の内露沾が詠んだ二句の内の一句。
解釈は、「にわかに降り出した時雨が上がり、やがて夕日も照ってきた。漁師たちは明日の漁に備えて、心細い光の中、鰈網を干す作業に追われている」というものか。
小浜は、天然の漁港として古くから開けており、平藩領となりその後に泉藩領となった。この光景は、半農半漁である小さな漁港の日常の一コマを、まるで写真のように切り出したもの。冬の漁村の光景がまぶたに浮かんでくる。

選者 露沾(1655年?1733年)
露沾とは、磐城平藩主内藤義概(風虎)の次男で、後に廃嫡される内藤義英の俳号。芭蕉の庇護者。元禄8年(1695)から、現在の磐城高校の敷地、高月に暮らし、勿来にこの八景を選んだ。
大高朝霞、関田晩鐘、湯嶽晴雪、大島夜雨、平潟帰帆、佐糠落雁、小濱夕照、中田秋月
(現地案内板説明文より)

前述したように、この小浜漁港は天然の漁港として江戸時代から利用されてきましたが、昭和7年から、日本で実施された景気対策を目的とする公共事業である時局匡救事業によって現在の漁港の原型が形作られ、その後、防波堤などを築造し、昭和26年第1種漁港として指定されたそうです。
余談ながら、漁港の種類には5種類あるそうです。

●第1種漁港 - 利用範囲が地元の漁船を主とするもの。
●第2種漁港 - 利用範囲が第1種より広く、第3種に属さないもの。
●第3種漁港 - 利用範囲が全国的なもの。
●第4種漁港 - 離島その他辺地にあって漁場の開発、または避難上、必要とされるもの。
●特定第3種漁港 - 第3種のうち振興上、特に重要な漁港。

従って、この小浜漁港は漁港の基本と言ったような漁港といえるのでしょう。
いわきはいわき七浜といわれる位、海岸線の長い環境ですから港も非常に多く、漁港の種類においては、第1種の小浜漁港以外に第2種漁港として、北から久之浜漁港、四倉漁港、豊間漁港、勿来漁港の4港があるそうです。
それではいわき市、否、福島県を代表する小名浜港は第3種と思えばさにあらず、こちらは漁港ではなく港湾扱いとなるそうです。この港湾にも種類があります。

●特定重要港湾 - 重要港湾の中でも国際海上輸送網の拠点として特に重要な港湾
●重要港湾 - 国際海上輸送網または国内海上輸送網の拠点となる港湾など
●地方港湾 - 重要港湾以外で地方の利害にかかる港湾
●56条港湾 - 港湾区域の定めがなく都道府県知事が港湾法第56条に基づいて公告した水域
●避難港 - 小型船舶が荒天・風浪を避けて停泊するための港湾

この分類からすると小名浜港は重要港湾となるそうで、その他には、地方港湾として江名港、中之作港の2港があり、避難港として久之浜港の計4港があるのです。
因みに有名な特定重要港湾としては、東京港、横浜港、大阪港、神戸港などが挙げられ、東北地方としては仙台塩釜港が唯一のようです。
いわき市の幾つかの漁港は訪れましたが、漁港、港湾をじっくり散策するのもまた楽しいかもしれませんね。

今日はすでに夕方だからなのか、或いは土曜日だからなのか漁港で働いている人は見かけることはできません。
当時はカレイが特産だったのでしょうか。現在小浜漁港の主な水揚げはウニ・アワビ・ワカメだそうですが、現在でも相馬市の松川浦漁港では2002年の古いデータですが、カレイの水揚げ全国第2位だったそうですから、あながちカレイが特産だったというのも頷ける話です。
現在の小浜漁港は心細い光の中というよりは、夕日の綺麗な長閑な漁港、言い換えれば原風景的な漁港ともいえるかもしれません。

竜宮岬 そして、その夕日が美しい南側の岬は竜宮岬という、なんとも甘酸っぱい名称の岬です。

この岬の中に「竜神神社」があるので、このような岬の名前で呼ばれるようになったのかもしれません。江戸時代から漁港であることから、漁民の守り神として竜神が祀られたようです。やはり海や川では龍神信仰が盛んですからね。

小浜海水浴場 この竜宮岬の手前の砂浜が「小浜海水浴場」です。こちらも小さな砂浜ですが、殆ど自然のままのようです。

ビーチでは恐らく近くに居住されているファミリーや町の青年団といった方たちでしょう、散歩やスポーツに興じておりますが、やや寂しげなのは否めません。しかし小さなビーチでもやはり夏を迎えると、ここも華やいだ光景となるのでしょう。

まるで箱庭的な港と渚の小浜漁港は、やはり八景に相応しい場所のようでした。
本日の散策はこれにて終了し、一旦四ツ倉に戻り温泉で今日一日の疲れを癒したことはいうまでもありません。

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