勿来八景:其の七 ≪大嶋夜雨≫

 

翌日の3月6日も晴天で、比較的気温も温暖なので朝の散策に残った八景を巡ることにしました。
昨日は四ツ倉からの往復だったので多少時間が掛かりましたが、今日は湯本からの往復なので勿来まで片道20分程度で往復できそうです。
まずは昨日工事のため立ち寄れなかった錦町大島の「鮫川右岸」へ向います。

鮫川右岸

鮫川に架かる鮫川橋を渡った袂を左折し川沿いへ進みます。
錦町大島 このあたりは住宅地で新しい建物が立ち並んでいるのですが、ところどころに歴史を感じさせるものが残されています。

馬頭観音碑 蔵 新興住宅地の中に鎮座している馬頭観音石碑や、石造りの蔵のある住宅などがあります。

「中田秋月」でも前述したように、ここ錦町大島は錦町安良町から続く岩城相馬街道ですから本来は古くからの町並みなのでしょう。

地蔵菩薩 更に鮫川沿いに出ると、ちょうどその角に地蔵菩薩などの石仏が並んでいるのもその表れでしょう。

大嶋夜雨 大嶋夜雨 そして、その石仏の隣に八景碑が立てられていました。

大嶋夜雨

香を焼て簾の声も水鶏哉 (こうをたきて  すだれのこえも くいなかな) 昨非

白居易の詩文集『白氏文集』にある一節「香炉峰の雪は簾をかかげて看る」を念頭に作られた句だと察せられる。
季語は水鶏で夏、蒸し暑い夜、突然にたたく音。こちらからは、軒端の簾で外の様子は見えぬ。クイナの鳴き声かと思った。香炉峰の雪じゃないが、簾をかかげて見る。いやいや雨じゃないか。
句作者の昨非は、享保4年(1719)頃には岩城に住んでいた。享保3年(1718)に仙台市の大崎八幡宮に奉納された額には大坂に住んでいたともある。

選者 露沾(1655年?1733年)
露沾とは、磐城平藩主内藤義概(風虎)の次男で、後に廃嫡される内藤義英の俳号。芭蕉の庇護者。元禄8年(1695)から、現在の磐城高校の敷地、高月に暮らし、勿来にこの八景を選んだ。
大高朝霞、関田晩鐘、湯嶽晴雪、大島夜雨、平潟帰帆、佐糠落雁、小濱夕照、中田秋月
(現地案内板説明文より)

先ずは「香炉峰の雪は簾をかかげて看る」から紐解かねばならないでしょう。
白居易というよりは白楽天といった方がポピュラーでしょう。その白楽天の創作した漢詩の一つで代表作的な詩だそうです。
白楽天は出世欲から都会に出て俗世の生活を送っていたのですが、そんな生活に嫌気がさし香炉峰の麓に粗末な家をたてて隠居してしまったそうです。
そこは人家も無く、猿や野鳥が集まるような辺鄙なところで、まるで文明とは無縁の地なのだが、満ち足りた生活を過ごしているという状況の中で読まれた「香炉峰下新卜山居 草堂初成偶題東壁」という詩なのです。

その詩の内容は以下のとおりです。

日は高くのぼり、眠りは足りたが、起きるのはまだ大儀である。小さな二階屋でふとんを重ねて寝ていれば、寒さの心配はない。新築の草堂、山に雪の降る季節にも、惰眠をむさぼるのにもってこいである。起き出すのもものういままに、遺愛寺から響いてくる鐘の音は、頭をつけたままの枕を立てて耳を傾け、香炉峰につもった雪景色は、寝間から手をのばし簾をはねあげて眺める。ここ廬山こそは、名声,名誉、それをあげつらう世間の毀誉褒貶から、逃避する場所である。 かつて陶淵明も、この山のふもとで暮らしたというではないか。そのうえ、司馬という官、江州長官の補佐というつまらぬ役も、老後を送るのにはふさわしい。心は安泰、身は安寧、それこそ人間の落ちつくべく、行きつくべき所。何も長安だけが故郷ではない。
(「香炉峰下新卜山居 草堂初成偶題東壁」より)

簾をあけて眺めたところが、なかなか粋な所作でしょう、と、してやったり顔が目に浮かぶような句です。
しかしながら、すでにこの漢詩を引用して「してやったり」顔をしていたのが「枕草子」の清少納言でした。

「枕草子」の第299段には、このように書かれています。

雪のいと高う降りたるを、例ならず御格子まゐりて炭櫃に火おこして、物語などして集りさぶらふに、「小納言よ、香炉峰の雪いかならむ」と仰せらるれば、御格子あげさせて、御簾を高くあげたれば、笑はせ給ふ。
人々も、「さることは知り、歌などにさへ歌へど、思ひこそよらざりつれ。なほ、この宮の人には、さべきなめり」といふ。
(「枕草子」より)

この意味は、雪がとても高く降り積もったのに、いつもと違い格子を下ろし角火鉢に火をおこして、よもやま話などしていると、中宮(一条天皇の皇后)が「清少納言よ、香炉峰の雪はどうであろう」と言ったので、格子を上げさせて、簾を高く上げてごらんに入れたところ、中宮は笑われました。
他の女たちも、「そういうことは私たちも知っているし、歌などにも歌うけれど、簾を上げることなどは全然思いつきませんでした。あなたはやはり中宮の侍女にふさわしい人です」と言ったという内容なのだそうです。

こうした形で引用、活用しているのは確かに天晴れですが、それにしても自分で自分の賢さをアピールするところなどは、「してやったり」ではなく、為て遣るといったところでしょうか。
このあたりを揶揄した面白いサイトがあったので掲載しておきます。さすがに頭の柔らかい大学生、かなりcoolなサイトです。

参考:【京都大学公認サークル 創作サークル「名称未定」香炉峰の雪http://kyoto.cool.ne.jp/creation/sakuhin/ohara/kourohou.html

鮫川橋 クイナ 左側に「鮫川橋」が見え、季節は冬ながら鮫川にはたくさんの水鶏がいます。これがクイナなのでしょうか。

雨音には聞こえませんが、確かにクイナの泣き声は妙な泣き声でした。

クイナは、朝鮮半島、日本(本州中部以北)、シベリア東部で繁殖し、冬季になるとインド東部、中華人民共和国南東部、日本(本州中部以南)などへ南下し越冬するのだそうで、現在いわき市にいるということは越冬が終わったということでしょうかね。まさに江戸時代の名残のクイナといえるかもしれません。

鮫川 鮫川に映る火力発電所 鮫川の下流を見ると朝日のなかで勿来発電所の綺麗なシルエットを見ることができます。

雨は降っていませんし、夜でもありませんが違った意味で八景らしい風景といえるでしょう。

癒される地でした。

勿来八景:其の八 ≪湯嶽晴雪≫

 

「鮫川橋」から一旦、錦町大島交差点まで進み、右折して県道71号線を進みます。
途中には【いわき散策記 vol.10】で訪れた「御宝殿熊野神社」前を通って、途中から一般道を走り、最後の八景である「いわき南の森スポーツパーク」を目指します。
いよいよ勿来八景も最後の一句です。

いわき南の森スポーツパーク

「いわき南の森スポーツパーク」はいわき市営のスポーツ施設で、人里離れた山の上にあります。
施設には両翼100メートルの本格的野球場である南部スタジアムと、バスケット、バレー、柔道、剣道などの多目的施設であるアリーナ、そして5面の人工芝テニスコートを持つ施設です。
朝早かったのでまだ正式に開園の時間ではないようで、車は進入できないため正門の前に車をおいて徒歩で入園します。

いわき南の森スポーツパーク ここがアリーナとテニスコートです。円形の印象的なアリーナでかなり立派な施設です。

こちらがスタジアムで、この木々の茂った先が散策路のようです。
スタジアム 散策路 2,3人の方がジョギングなどされていましたが、少し冷たい空気の中でも朝日を浴びながらの散策もまた格別です。

歌碑 スタジアムと散策路の間にはこのような詩碑が立てられていました。

湯嶽晴雪 湯嶽晴雪 さて肝心の八景碑はと探してみると、駐車場の中央に立てられていました。

湯嶽晴雪

窓晴てさはこ間近し雪の尺 (まどはれて さはこまぢかし ゆきのしゃく) 沾国

常磐には、現在、600メートル足らずの湯ノ岳とよばれる山がある。この山に高僧が三つの箱を埋めたという伝説があり、さはこの山ともよばれた。
句の背景に、中国の史書『晋書』が伝える、苦学の徒、孫康が雪明かりで書を読んだという故事があることが察せられる。
季語は雪で冬、雪が窓を覆うほど積もっていて、孫康よろしく月明かりをあつめて夜の読書かなとおもっていたが、すっかり晴れて、窓辺の雪は融けてしまった。なるほど、さはこの山、湯ノ岳までもが近くに見える。

選者 露沾(1655年?1733年)
露沾とは、磐城平藩主内藤義概(風虎)の次男で、後に廃嫡される内藤義英の俳号。芭蕉の庇護者。元禄8年(1695)から、現在の磐城高校の敷地、高月に暮らし、勿来にこの八景を選んだ。
大高朝霞、関田晩鐘、湯嶽晴雪、大島夜雨、平潟帰帆、佐糠落雁、小濱夕照、中田秋月
(現地案内板説明文より)

ある意味ではお馴染みの故事です。但しそれをそれと知らなければ(私のように・・・)、なるほどと今更ながら感嘆するのです。
この故事は孫康映雪という四字熟語として一般的なようです。となればもう一つあるのが車蛍孫雪です。
これも文字通り晋の車胤は貧しくて灯油が買えず、夏は蛍を集めて薄い練り絹の袋に入れ、その光で勉強したという故事です。
そしてこの二つをあわせたのが蛍雪の功で、苦労して勉学に励めば、その努力は報われるといった意味で、先の二つの熟語が由来となっているのです。
そしてこの蛍雪の功で一番知られているのが、言わずもがなの「蛍の光 窓の雪」ですね。そういえば昔「蛍雪時代」という雑誌があったような記憶がありますが、現在でもあるのでしょうかね。

湯の岳は【いわき散策記 vol.5】で訪れた湯本にある小さな山ですが、眺望がよく勿来の海岸を見ることができました。

さて句の解釈に拠れば湯の岳がここから近くに見えるということになりますが、現在でも見えるのかどうか目を凝らしてみると、樹木の切れ間からそれらしい山を見つけました。

湯の岳 ちょうど八景碑の右斜め先に見えるのが湯の岳、あるいは湯の岳らしき山でしょう。方角的にはあっていると思いますが。

恐らくここは当然整地されてスポーツパークとなったのですから、嘗ては山の頂だったのかも知れません。
そうであれば湯の岳ももっとはっきり見えたことでしょうが、それでも十分当時の名残を楽しめる風景です。

ついでに東の方角を見ると、手前の貯水池のずっと先に勿来発電所を見ることができます。
貯水池と発電所 火力発電所 ここからは小さなシルエットですが、八景の地から結構良く見えるのがこの発電所なので、ある意味勿来のシンボルはこの発電所なのかもしれません。

季節や時間が違うので、全くそのままの情景を見ることはできませんが、それでも古の風景をおもい浮かべることは可能です。
美しい日本の風景に浸り、歴史の流れに身を任すといった楽しみも、このような八景ならではの楽しみ方かもしれません。

高蔵寺

勿来八景の散策を終えた帰路、行きがけの駄賃とばかりに途中にある「高蔵寺」に立ち寄ってみることにしました。
「いわき南の森スポーツパーク」からは10分程度でしょうか、山門前の駐車場に到着です。

高蔵寺 山門は特に仰々しいものではなく、シンプルに山号標と石碑などが置かれているだけです。

高蔵寺 境内 境内を進むと中央奥に本堂が鎮座しており、右側が庭園となっています。

高蔵寺 本殿 先ずは本堂にて参拝します。本堂横に様々な資料が置かれていました。

海雲山慈眼院高蔵寺(真言宗智山派)の歴史
日本において仏教文化が美しく華やかに咲き競った奈良時代の後期から平安時代の前期にかけて偉大な宗教者であり卓越せる精進的指導者として今日まで広くその名が知られている方が二人おられます。一人は真言宗を開かれ、高野山に金剛峰寺を建立された弘法大師空海様であり、もう一人は天台宗を開かれ、比叡山に延暦寺を建立された伝教大師最澄様であります。 このお二人の数々の行跡は歴史の教科書にも記述され現代まで伝承され、深く信仰を集めております。
しかし、このお二人の陰にかくれ、あまり知られてはおりませんが、もう一人偉大な指導者がおりました。釈徳一という方であります。徳一様は奈良の興福寺で修行され、当時秀才中の秀才といわれた最澄様と宗教上の問題で互角に論争し、空海様からも大兄という尊称をもって手紙等を頂いているところから考えますと、相当な人物であったと思われます。

徳一様は東国や東北地方の人々に仏教を説き広めたいと志を立て、まず筑波山(茨城県の代表的な山)を開き、更には船で小名浜(福島県いわき市)に上陸、いわき各地にお寺を建立されました。 まさに大同2年(807年)の事であります。
大同2年という年は福島県にとりまして大変な年でありました。民謡でも有名なあの会津磐梯山をはじめ、吾妻小富士等の山々が、噴火を繰り返し、高く舞い上がった火山灰が遠くいわき地方にも降り注ぎ、農作物が枯れ,加えて疫病蔓延してさながら地獄の様相であったと、この地方の古い歴史書である岩城地誌に記されております。
徳一様はこの惨状を憐れみ人々に生きる勇気を与えんと海雲山の南麓(現在の三重之塔及び観音堂付近)を選び,ここを聖地と定め仮堂を作り、七体の観音様を刻み、当地方の要所に安置し、天災地変の熄滅と悪病の退散を祈願したところ、猛威を振るった災禍も治まり、人々安堵して以前の穏やかな平和な暮らしに戻ることができたといわれております。
ちなみに七箇所に安置された観音様は高倉観音、法田観音,佛具観音,富沢観音,出蔵観音、関田観音、鮫川観音で菊多七観音と呼称されております。
これが高蔵寺の起源と考えております。
以来 高蔵寺の千手観音様は、名僧徳一様が諸人の苦しみを救わんと心を込めて刻した有り難い尊像と評判となり広く尊信され参拝されるようになりました。
應永年間(1394年から1427年)には石川の城主源持光公、植田城主藤原隆広公が協力して堂塔を建立、あるいは再修し、永正15年(1518年)に宗永法師が岩城33観音霊場を撰する際には第6番札所として定められました。
又、慶安2年(1649年)には徳川三代将軍家光公より30石の御朱印地を拝領致しております。

高蔵寺は長い歴史の流れの中で多くの方々より温かい支援を受け、信仰の地として、心の安らぎの地として地域の人々に親しまれ、時には寺子屋を開設し当地の文化教育の向上に些かなりとも貢献して参りましたが,惜しむらく明治25年1月25日火災により本堂を焼失、その後、仮本堂のままで参りましたが、焼失より100年目の平成2年に再建を発願、檀信徒の皆様の御協力により平成7年7月に本堂客殿が完成いたしました。平成7年11月10日の善き日を選び落慶の典儀を厳修し現在に至っております。
(現地案内パンフレットより)

徳一法師といわき市については今更ながらですが、現実的に高蔵寺の本尊は・・・、と見ても私にはよく分からないのですが、やはり真言宗ですから大日如来なのでしょうか。

高蔵寺 本尊 そして脇仏は不動明王で、大日如来の前が弘法大師でしょう。

後で観音堂はお参りするのですが、33観音霊場は無理としても、菊多七観音は一度巡ってみたい(関田観音は参拝してきたが)衝動に駆られます。

お参りを済ませてちょっと庭園を散策します。
高蔵寺 庭園 行き届いた、というよりはこざっぱりとした感じの庭園です。

高蔵寺 庭園び祠 池の中には小さな社が置かれています。

高蔵寺 庭園中門 高蔵寺 客殿 更に奥には風情のある中門があり、その先に客殿が立てられています。

全体的に趣のある庭園と客殿です。

六地蔵 三重塔への参道 次に三重の塔、及び観音堂へ向いますが、本堂の前の六地蔵の前を通り、境内の左側の参道を奥に進みます。

スギ林 石段の続く参道は一面スギで覆われています。
ここは 市指定保存樹木・保存樹林になっているようです。

樹林名 スギ林
今から約1万年前の氷河期、若狭湾や伊豆地方で寒さをさけたスギは、その後、日本全国へ分布を広げた日本の国有植物です。直幹の材は加工しやすくその上香りがよいので建築や家具用材として重要視されて植林が進んだ。高蔵寺のスギ林は巨木林ではないが、三重塔の荘厳な境域を醸成する役割を担うと共に、土砂流出防止水源○養に役立っている。
面積 約3,000平方メートル
指定 昭和55年9月1日 指定番号 11
(現地案内板説明文より)

スギが日本の固有種であることも、1万年前の氷河期を生き抜いてきたとは思いもよりませんでした。現在では材料としての良さは別にされ、花粉症の一大原因として謂れのない辛い立場に立たされているのも同情するのみです。

また、このスギの下に生えている草木がシャガの群生です。
シャガ群生地 5月くらいの季節になると綺麗な花が見られる寺院特有の花であるのは、【萩日吉神社流鏑馬祭】で訪れた慈光寺で知りました。

記念碑 石段を上がっていく途中に石碑が置かれています。

この石碑は約285年前の享保10年に当時の菊田郡大嶋村の正木次郎左右衛門が、この参道の石段を寄進した時の記念碑なのだそうです。
この記念碑を顕彰する記念碑というのも中々のものでしょう。

参道 更に石段を上がるとスギの木々の間に三重塔が見え隠れしています。

福島県指定重要文化財(建造物) 高蔵寺三重塔 一棟
昭和56年3月31日 所在地 いわき市高倉町鶴巻 所有者 高蔵寺
初層方3.74メートル、第2層方3.21メートル、第3層方2.64メートル、銅板葺き(もと板葺き)、総高約13メートル
高蔵寺は、寺伝によれば大同2年徳一大師によって開かれたといわれ、中世の改修を経て、江戸時代中期に隆承和尚によって塔と観音堂が現在地に再建された。傍らの隆承和尚の石碑銘にその建立が記され、また、相輪の伏鉢の座面には「安永三申良牛歳七月」の刻銘があるところから安永3年(1774)ごろの建立であろう。
方三間ながら柱間は小さく、上層へのてい減や2,3層軒高の等高など、塔建築の方式は踏襲するが、2,3層には回縁や高欄を付さないなどの省略部分もある。斗は三手先で中備えを省き、軒は二重の繁垂木で平行とするなど全般的に和様がめだつ。頂部の相輪は九輪がとくに大きく、変化のある景観を呈している。
浜通り地方に現存する唯一の三重塔である。
福島県教育委員会
(現地案内板説明文より)

日本最古の三重塔は奈良県生駒郡の法起寺三重塔で、飛鳥時代の建立というのですから古さでは全くかないません。
そもそも仏塔は古代インドが発祥で古代インドでの仏塔は饅頭型だったのですが、これが中国に伝わって楼閣形式の建築となり高層化し朝鮮半島を経て日本に伝えられたのですから、本来は中国の影響を色濃く残した建築様式が多いようです。しかし、この高蔵寺の三重塔は和様ということから、その様な意味では逆に珍しいタイプの三重塔なのかもしれません。

三重塔 石段を上って右手にその三重塔がすぐ近くに見えます。

回縁や高欄が無く、彩色も殆ど残っていないところから、層塔のもつ華麗さはありませんが、歴史的な荘厳さを感じます。

三重塔 三重塔 三重塔質実剛健といったイメージでしょうか。

この三重塔には徳一大師が祀られているそうで、元々は仏舎利を納める仏塔という定義からすると、これもまた珍しい塔といえるのかもしれません。

開山徳一菩薩像
釈徳一大士は奈良東大寺、興福寺において修学。平安初期、弘法大師空海、伝教大師最澄と並び称された高僧にして民衆済度を発願して東国に下り筑波山を開いた後、大同2年(807年)いわきに入り、地方巡錫の砌、諸人の懇望を受け厄難削除、開運招福、諸願成就の大願を発し当地を選び斎戒沐浴の後、千手観世音尊像を謹刻、これを奉安して大祈祷会を厳修して災禍を払い、もって民心を安堵せしめ、徳一菩薩と尊仰せらる。
願わくば徳一菩薩尚威徳を発揚して加護せられんことを。
昭和60年5月吉日
(現地案内板説明文より)

という事で、三重塔には徳一菩薩が祀られています。
徳一菩薩 祭壇は多少彩色なども残されているようですが、これは当時のものなのでしょうか?

話題は戻りますが、中国の層塔は最上階まで登れるものが多いのに対して、日本の木造三重塔は現代の感覚の三階建てではなく、内部は軒を支えるために複雑に木組みが為されていて、上層に登ることができないのが一般的だそうで、この三重塔もまた中央に親柱がつらぬいているだけで、上層にはあがれません。

三重塔内 しかしながら何故か千社札は上方の柱や梁に付けられていますが、結構貼るだけでも大変ではないのでしょうかね。

三重塔のあとは最後の石段を登って観音堂をお参りします。

境内の一番高いところにあるのがこの「観音堂」です。
観音堂 落ち着いた佇まいの中にも凛とした空気を漂わせているかのような高貴な雰囲気の堂宇です。

それもそのはずで、福島県唯一の国宝である白水阿弥陀堂を模した観音堂なのですから。
かなり歴史を感じさせてくれそうな外観ですが、意外にも昭和60年に再建されたものだそうです。

松杉の木の間ふもとに海見えて 誓いとともにたかくらの寺
高倉千手観世音は、いわき33観音第6番の札所にあたり今を去る1000余年の昔、即ち大同2年磐梯、吾妻のニ峰互いに鳴動し、降灰雨の如く当地方に降り注ぎ、いわき七浜相次いで高潮の災禍を受け加えるに悪病蔓延して諸人苦難の底に呻吟せし折、偶々、当地巡錫の名僧徳一大士がこの惨状を具に見聞し、諸人の懇望拒み難く海雲山南麗の当地を選び諸人救済の大願を発し斎戒沐浴の後千手観世音尊像を刻し当地を聖地と定めて奉安厄難消除諸願成就の大祈祷会を厳修して苦難を救い、民心を百世に安堵せしめたり。爾来石川城主源持光、植田城主藤原隆広などの帰依を得、また徳川三代将軍家光公より朱印を拝領せし霊験あらたかにして由緒ある尊像なり。
しかしながら長き歴史の過程において時に法運振るわず惜しくも観音堂が朽ち果てたる為、安永7年尊像を三重之塔内に移転安置し今日に至るも、いつの日か尊像を刻せし当所に観音堂を再建し、奉安することが観世音菩薩の心に叶うことと信じ、今般檀徒有志と語らい檀徒の皆様を初めとし有縁の御信者の方々より広く浄財の寄進を仰ぎ此処に5間4面銅板葺き、平屋建の堂宇を再建致しました。 願わくば南無千手観世音菩薩の誓願に照らし諸人の頭上に佛徳益々輝きを増さんことを。 昭和60年5月吉日 海雲山高蔵寺』(現地案内板説明文より)

その千手観世音菩薩がこちらです。
観音堂本尊 観音堂 千手観世音菩薩 かなり綺麗な姿の菩薩です、33観音巡礼で多くの方が参拝に訪れているようです。

朝の冷えた凛とした中で、思わず身を引き締められるような空気を感じました。
いわき市の古刹として、かなりの存在感を示す高蔵寺でした。

勿来八景を中心に散策を終わりましたが、今回はまだまだ寄ってみたい所がたくさん残りました。
歴史、文化、自然、様々な角度から楽しめそうな勿来、と勿来八景でした。是非もう一度散策してみたいところです。

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