正福寺

前回の調布市の場合は、どうしても埼玉県からいくと一端都心に入ってからでないといけないのですが、多摩地区になると都心を通らずに埼玉県の西部から南下することで行かれるエリアとなります。
したがって今回のルートは(ここでBGMがかかるのですが・・・)朝8:30に自宅を出発し、17号バイパスを南下し与野ICから首都高・外環道を経由して和光ICで川越街道を北上し、野火止を左折してから一般道を東村山に向かうというコースで、AM10:00少し前には最初の目的地である正福寺に到着しました。
何とか雨は持ちそうな天候で、逆に今までのように暑くない天気で散策日和となってくれたようです。

正福寺山門

境内入口には「国宝 金剛山正福寺 千體地蔵堂」と刻まれた立派な石碑が立っています。
国宝石碑 流石に国宝という文字だけですが、何となく石碑自体も存在感のある石碑に感じます。国宝のオーラが石碑にも乗りうつっていると言う・・・。

山門と寺号標 山門 その後に山門と寺号標があります。

東村山市指定有形文化財(建造物) 正福寺山門
所在 東村山市野口町4-6-1 指定 平成17年4月20日
金剛山正福寺は臨済宗の寺院で、鎌倉の建長寺の末寺です。その仏殿である地蔵堂は、応永14年(1407)建立の典型的な禅宗様建築であり、東京都唯一の国宝建造物です(昭和3年・1928指定)。
鎌倉幕府執権であった北条時宗か、またはその父である時頼によって開基され、勧請開山は中国南宋の石渓心月仏海であると言い伝えられていますが、確たる史料は現存していません。
正福寺山門は、昭和48年(1973)に行なわれた解体修理の際発見された、親柱の墨書銘「元禄十四辛巳年無神月吉祥日建口(者)也、此時往寺號月山(以下略)」から。元禄14年(1701)、月山の代の建立であることが判明しました。
山門の建築形式は、四脚門で切妻、昭和48年の修理の際に、茅葺から茅葺形銅板葺に改修されました。建築様式は禅宗様で、その規模は、桁行10尺(3.03m)、梁行10尺で、高さも柱底部から桁下端までで10尺となっています。屋根は、かつては、化粧裏板の上に登り、梁を架けて茅葺としていたものと考えられています。また、彩色は柱、桁、冠木、束等に朱の痕跡が見られ、もともとは全体が朱で塗装されていたものと見られます。
江戸時代の伽藍の遺構を示す、貴重な禅宗様建築物です。
東村山教育委員会
(現地案内板説明文より)

仏堂に関しては後ほどと言うことで、ここでは縁起について確認しておきましょう。
ここで開基が時頼なのか時宗なのか明確でないのは、“新編武蔵風土記稿”での記述の段階で既に明確でないからでしょう。

小名中井にあり。金剛山と号す。臨済宗、鎌倉建長寺の末なり。今御朱印10石を賜ふ。開山心月禅師文永年中示寂す。開基は北条相模守時頼なりと云。今按に下に出せる佛殿も時宗建立なりと云へば、開基は時宗なるにや。
(「新編武蔵風土記稿」より)

正福寺の寺伝によると、北条時宗が鷹狩りの際に病気を患った際、夢枕に黄衣をまとった地蔵菩薩が現れ丸薬をくれたそうです。これを飲んで眠りから覚めたところ病がすっかり治っていたことから地蔵尊を信仰し、弘安元(1278)年この地蔵堂を建立したとあるそうです。
実際には、1278年、開基の際には開山した心月禅師は既に示寂していますので整合性がなく、さらに昭和9年地蔵堂が改修の際発見された墨書銘では、室町時代の応永14(1407)年の建立と判明してしまったので、130、140年の時代の食い違いがあるのです。しかし、あくまで寺伝ですから、それもまた1つのロマンと考えればそれはそれで有りでしょう(って簡単に納得…)。

この山門については、そもそも正福寺が創建以来何度か火災にあっているという言い伝えがあり、江戸時代になって再度の復興が行なわれたそうです。中でも月山禅師が宝永3(1706)年に示寂するまでの間には、本堂や庫裡などの諸堂宇とともに山門も建てられ伽藍もきちんと整ったことから、月山禅師は正福寺の中興とされているようです。
地蔵堂と比べてしまうと、さも価値が低いような気がしてしまうのですが歴とした江戸時代の建造物で、決して価値が低いわけではないのです。
元々の山門が朱塗りだった頃は、それはそれで煌びやかに美しい光景でもあったのでしょうが、やはりこのような枯れた景観もまた風雅なものなのです。

貞和の板碑

参道の先の地蔵堂 山門を潜り抜けて参道を進むと正面に「地蔵堂」が鎮座しています。

貞和の板碑 国宝との対面にはやる気持ちを抑えて、参道の左手にある小さな堂宇に注目です。

ここにも「貞和の板碑」という文化財が安置されているからです。

東村山市指定有形民俗文化財 貞和の板碑
所在:東村山市野口町4-6-1 指定:昭和44年3月1日
この板碑は都内最大の板碑といわれ、高さ285cm(地上部分247cm)、幅は中央部分で55cmあります。
碑面は釈迦種子に月輪、蓮座を配し、光明真言を刻し、銘は「貞和五年丑己卯月八日、帰源逆修」とあり西暦1349年のものです。
この板碑はかつては前川の橋として使われ、経文橋または念仏橋ともよばれていました。江戸時代からこの橋を動かすと疫病が起きると伝えられ、昭和2年5月に改修のため板碑を撤去したところ付近に赤痢が発生したのでこれを板碑のたたりとし、同年8月に橋畔で法要を営み、板碑をここ正福寺境内に移建したものです。
昭和60年11月 東村山市教育委員会
(現地案内板説明文より)

囲っている堂は「保存堂」というそうで昭和38年に建てられたそうですから、それまでは露天に野晒ということになります。
元々は現在の多摩湖町周辺一帯の信仰の篤い有力な領主層が造立したのではないかと推測されているようです。その後、この記述にもある通り前川の橋桁に利用されたのですが、この板碑の表面が裏返しとなって碑面が川面に写って見えたことから「経文橋」とか「念仏橋」と言われるようになったそうです。
これもまた実に風流な光景ですが、その後の祟り騒ぎですっかり超現実的な空間に引き込まれてしまったようです。

貞和の板碑 残念ながら被写体が近すぎて板碑全体を写すことができませんでしたが、それだけ大きい板碑であるということです。

ちなみにこの板碑は、東村山市指定有形民俗文化財の記念すべき第1号だったそうです。

正福寺地蔵堂

古木と地蔵堂 参道の突き当りが、国宝「正福寺地蔵堂」で、隣の大きな樹木がその歴史を偲ばせているかのようです。

国宝正福寺地蔵堂 国宝正福寺地蔵堂 国宝正福寺地蔵堂 それほど大きな建造物ではないのですが威風堂々とした存在感は国宝故なのでしょうか。

正福寺千体地蔵堂と堂内
この正福寺千体地蔵堂は、都内唯一の国宝建造物です。地蔵堂本尊及び小地蔵尊像は、市指定文化財となっています。
千体地蔵堂は、鎌倉円覚寺舎利殿とともに唐様建築を代表する建物です。波形欄間、花頭窓、屋根の反りなどに特徴があります。昭和8年から9年に屋根の茅葺きをこけら葺きに改修した際に発見された墨書銘により、室町時代の応永14年(1407)の建立とわかりました。寺の縁起では鎌倉幕府の執権北条時宗が鷹狩りの際病気になり、夢の中で地蔵菩薩からもらった丸薬で病が治ったことから地蔵堂を建立したといわれています。
地蔵堂本尊は、昭和48年の修理のとき文化8年(1811)、江戸神田須田町万屋市兵衛弟子善兵衛と書かれた墨書銘が発見されました。
また小地蔵尊像については、江戸時代の地蔵信仰が盛んなとき、多くの小さな地蔵尊の木像が奉納され、堂内の天井に近い長押に置かれ、(写真参照)千体地蔵堂の名もここに由来します。祈願する人は、小地蔵尊像を一体借りて、家に持ち帰り、願いが成就すれば別に一体添えて奉納するというもので、像の裏側には祈願者の名前や年号が入っており、大ささは10cmから30cmほどのもので正徳4年(1714)から享保14年(1729)のものが多く、奉納者は、地元は勿論、所沢・国分寺・小金井などに及んでいます。
平成6年(1994)3月 東村山市教育委員会
(現地案内板説明文より)

国宝正福寺地蔵堂 やはりこの屋根の反りに1つの特徴があったのですね。

そこでここではまず唐様建築から紐解かなければならないでしょう。
寺院の建築様式の歴史の始まりは、飛鳥・天平時代に中国から伝えられた建築様式が平安時代を通して日本化し、柱を細く天井を低めにした穏やかな空間が好まれ、「和様」と呼ばれるこの日本化した建築様式が最初のようです。
平安時代後期になると、平清盛の大輪田泊対外開港などにより中国(宋)との交易が活発になったことから再び中国の建築様式が伝えられ、最初に入ってきたのが東大寺再興の際に用いられた「天竺様」という建築様式で、その後、禅僧が活発に往来し中国から伝えられた寺院建築様式が「唐様」と呼ばれるようになったのです。
これらの建築様式がこの後現代まで伝承されていくのですが、第二次世界大戦後、建築史家の太田博太郎が“天竺様ではインドの建築様式と混同されるので、最初に使われた東大寺大仏殿から「大仏様」と呼ぶべき”と主張し、さらに“唐様は禅宗寺院に使われたので、「禅宗様」と呼ぶべき”と提唱したことから、現在の建築史では寺院の建築様式は一般的に「和様・大仏様・禅宗様」と呼ばれ分類されているのです。

次にここで記述されている「唐様(禅宗様)」の特徴について調べてみます。
屋根の反りに付いては一目瞭然ですが、ここで比較されている鎌倉円覚寺舎利殿と比べると確かによく似た建造物です。
国宝正福寺地蔵堂 鎌倉円覚寺舎利殿 左が正福寺で、右が円覚寺。
《写真:鎌倉円覚寺舎利殿(C)BUILTLOGIC/創作日誌》

気のせいなのか正福寺地蔵堂の方が若干反りが強い様に感じますが、流石に時代を代表する建築物で、荘厳さは変わりません。
このように国宝であるオーラを発しているところは、まるでサンタナとマクラフリンの“魂の兄弟たち”であると感じるのは私だけでは…、私だけでしょう、きっと。

話を禅宗様に戻して、特徴の2つめである「波形欄間」とは、波形の縦連子を入れた欄間のことだそうです。
波形欄間 これが「波形欄間」なのでしょう、確かに不思議な形状をしています。

花頭窓 そしてもう1つの「花頭窓」とは、上枠を火炎形あるいは、花形に造った特殊な窓のことで火灯窓とも呼ばれているそうです。

当然、禅宗様として中国から伝来したのですが、後の安土桃山時代頃から禅宗以外の仏教寺院や、仏教寺院でない神社や天守などの城郭建築や書院造の邸宅などにも使われた例もあるようです。これは「波形欄間」とは異なり、あくまでデザイン性のよさから禅宗様以外にも使用されるようになったからです。
基本形はこの正福寺のように上枠以外立枠・下枠は直線的な花頭窓ですが、15世紀末期から16世紀にかけては、銀閣寺のような立枠が上から下にかけて曲線的かつ末広がりに造られるようになり、更に時代がさがって17世紀では西本願寺のように下も上枠と同じように造る場合もでてきたそうです。

そのほかの特徴としては、以下のものがあるようです。
・屋根の下に美しく放射状に配置された木材の「扇垂木」。
・海老のように湾曲した形の虹梁の事で、側柱や本柱など高低差のあるところに用いられる「海老虹梁」。
・組み物を、柱の上だけでなく柱間にも置いて密に配する形式である「詰組」。
・虹梁などと上の梁を支える役割をしている中央に膨らみのある瓶の形の束である「太瓶束」。
・凹型の輪郭を持つ装飾である「繰り型。
このような特徴が他とは違った禅宗様独特の雰囲気を醸し出しているのでしょう。
外観からの印象、特徴というのは以上なのですが堂内もまた特徴的なようです。しかし残念ながら堂内を見学することはできません。
堂内が見られるのは、1年の内でも8月8日、9月24日、11月3日の3日間しかないようですので、ここは想像を働かせるしかないようです。

東村山市指定有形文化財 正福寺千体地蔵堂本尊
所在:東村山市野口町4-6-1 指定:昭和48年3月31日 指定第12号
地蔵堂の本尊は、木像の地蔵菩薩立像で堂内内陣の須弥壇に安置されています。右手に錫杖、左手に宝珠をもつ延命地蔵菩薩で、像の高さ127cm、台座部分の高さ88cm、光背の高さ175cm、錫杖の長さ137cm。
寺に伝わる縁起には古代のものと伝えられれ、また一説には、中世のものとも伝えられていますが、昭和48年の修理の際に発見された墨書銘によって、文化8年(1811)に江戸神田須田町万屋市兵衛の弟子善兵衛の作であることがわかりました。
平成5年(1993)3月 東村山市教育委員会
(現地案内板説明文より)

と言うことで本尊を見ることはできませんでしたが、機会があれば一般公開のときにまた訪れてみたいものです。
更にこの地蔵堂内には小地蔵尊像も安置されているようです。

東村山市指定有形民俗文化財 正福寺千体小地蔵尊像
所在:東村山市野口町4-6-1 指定:昭和47年3月31日指定第11号
正福寺千体地蔵堂と呼ばれるとおり、堂内には、多くの小地蔵尊が奉納されています。一木造り、丸彫りの立像で、高さが10-30cm位のものが大部分です。何か祈願する人は、この像を一体借りて家に持ち帰り、願いが成就すればもう一体添えて奉納したといわれます。
背面に文字のあるものは、約300体で、その年号は、正徳4年(1714)から享保14年(1729)のものが多く、奉納者は東村山を中心に、所沢、国分寺、小金井にまで及んでいます。
平成5年(1993)3月 東村山市教育委員会
(現地案内板説明文より)

正福寺千体小地蔵尊像 これについては先の案内板に写真が掲載されていました。多少見難い写真ですが長押しにおかれた地蔵尊を見ることができます。

まあ、本当に千体あるのかどうかは判りませんが、それだけ多くの信仰を集めたと言う証でしょう。
目を転じてみると、地蔵堂の左手に小地蔵尊が外にも安置されています。

“願いをこめて” 小地蔵由来
ここに納められた小地蔵は毎年11月3日文化の日に行われている地蔵まつりに有料頒布されたものです。国宝千体地蔵堂におきまして、当山御住職が開眼法要された地蔵様です。
市内の知的障害者の方々が一体一体心を込めて製作した、味わいのある手造りの木彫り地蔵です。
ご購入された方の病気平癒、子養育、家内安全、厄除等の願いが込められています。1年間ご家庭にて大切に保存された小地蔵を当寺に納め御安置するものです。江戸時代より続いた借り仏信仰の風習を復活した行事です。
平成16年(2004)6月 地蔵まつり実行委員会
(現地案内板説明文より)

小地蔵 小地蔵 ズラッと奉納された小地蔵は、一つ一つは小さいながらこれだけの数となると荘厳さが漂ってくるものです。

1体として同じものはないということで1つ1つは確かに味わいのある手造りの暖かさが伝わってくるような地蔵尊です。

旧国宝保存法では1929年、そして現在の文化財保護法では1952年に国宝に指定されて以来、2009年11月30日に旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)が国宝に指定されるまで、都内で唯一の国宝建造物だったのがこの正福寺でした。
そもそも京都、奈良を中心とした近畿エリアに国宝が多いのは当然で、京都だけでも27件が国宝に指定されています。それに比べて東京には2件、関東(静岡まで)、東北を合わせても12件しかないのですから、いかに貴重な建造物であることがこれだけでも理解できます。
個人的には関東以北の12件のうち、何度も外から眺めている赤坂離宮は別として、国宝見学は正福寺以外は福島県いわき市の「願成寺(白水阿弥陀堂)」と栃木県日光市の「日光東照宮・輪王寺」しかありません。関東では数少ない国宝建造物ですから、せめて「円覚寺」くらいは一度見たいものです。

正福寺境内

国宝を十分堪能した後は本堂への参詣に向かいます。
境内のあじさい 境内にはアジサイが彩りを添えています。もう、すっかりアジサイの季節に変りつつあるのですね。

アジサイの前を抜けると立派な本堂が鎮座しています。
本堂 1985年から88年にかけて建て替えられた本堂なので、かなり新しく綺麗です。

本堂以外の伽藍に国宝や重文のある寺院の宿命でしょうか本堂はある意味忘れられた存在になりがちで、判ることといえば本尊は“千手千眼観音”くらいなものです。
そして本堂自体が境内の一番奥にありますので、まるで静寂が支配しているかのような気配です。 落ち着いた雰囲気のなかで参拝を済ませました。

鐘楼 本堂の丁度反対側には鐘楼があります。

新編武蔵風土記稿では、「鐘楼。本堂に向て左の方にあり。9尺四方、鐘銘の末に享保12年とほれり。」と記載されているようで、9尺四方とあることから約3m弱四方の鐘楼だったようです。現在とは位置も違うようで、やはり火災等で焼失してしまったのでしょう。

十三仏像 本堂から駐車場に戻る間に「十三仏像」が並んでいます。

これは平成18年の正福寺創建730年記念に建立されたものだそうなので、かなり新しいものです。
確か申年の守護神は“大日如来”だったはずですから、参拝だけ済ませておきました。

八坂神社 これで正福寺の参詣は終了ですが、境内の一画には「八坂神社」があります。

江戸時代以前は天王社・天王宮と呼ばれた旧野口村の鎮守で、創建年代等は不詳ですが正福寺と同一の頃ではないかと考えられているようです。江戸時代にここから約1.5kmほど南下した現在の府中街道沿いの栄町に勧請され、明治になって八坂神社となったのだそうです。
現在、こちらの八坂神社は祭礼時の仮社として神輿が納められ、この神輿が街道を練り歩くそうです。
八坂神社 牛頭天王 なかなか凝った扁額が掲額されていて、神仏習合における神である牛頭天王と祭神が刻まれています。

新編武蔵風土記稿によれば、「稲荷社。本堂に向て左の方にあり。2間に9尺東向なり。白幣を神体とす。前に鳥居あり。」と境内に稲荷社はあったようですが、天王社の記述はないので神仏習合として正福寺の境内に天王社があったわけではなさそうです。

これにて参詣と散策を終え、一種独特の国宝の持つオーラに包まれた正福寺を後にしました。

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