史蹟武蔵国分寺跡 #1

国宝のある正福寺を後にして、次に向ったのが「武蔵国分寺跡」で、現在は“国指定史跡”となっています。
「武蔵国分寺跡」は文字通り国分寺市にあり、東村山市からは都道17号線、通称「府中街道」を南下したところです。 土曜日といえども多少の渋滞もあり、凡そ30分程度かかって到着しました。

武蔵国分寺

ナビの通りに到着すると、一見したところ単なるだだっ広い空き地にしか見えませんが、とりあえず僅かながら人だかりのある辺りに向ってみます。
史蹟武蔵国分寺跡 史蹟武蔵国分寺跡碑 すると交差点の角に「史蹟 武蔵国分寺址」碑がありました。

ちょうどこの辺りが史跡の中心なのかも知れません。
となれば先ずは「武蔵国分寺」から知らなければならないでしょう。

国指定史跡 武蔵国分寺跡 指定年月日:大正11年10月12日
天平13年(741)の聖武天皇の詔により、鎮護国家を祈願して創建された武蔵国分寺は、昭和31年以来の発掘調査によって東西720メートル、南北(中軸線上)550メートルの寺地と、寺地中央北寄りの僧寺寺域(360から420メートル四方)および寺地南西隅の尼寺寺域(推定160メートル四方)が明らかになり、諸国国分寺中有数の規模であることが判りました。
さらに、この中で寺地・寺域は数回の変遷があることが確認されています。
また、僧寺では諸国国分寺中最大規模の金堂をはじめ講堂・七重塔・鐘楼・東僧坊・中門・塀・北方建物、尼寺では金堂(推定)・尼坊・中門(推定)などが調査されています。
武蔵国の文化興隆の中心施設であった国分寺の終末は不明ですが、元弘3年(1333)の分倍河原の合戦で焼失したと伝えられています。
史跡指定地域約10万平方メートルは、現在、史跡公園の整備に向けて土地の公有化を進めています。
平成8年1月 国分寺市教育委員会
(現地案内板説明文より)

この武蔵国分寺は、奈良時代から鎌倉幕府滅亡までの約600年に渡り、現在の東京都・埼玉県である武蔵国の文化の中心地として存在してきた、まさにシンボルといえるのでしょう。
そこで先ずはこの国分寺が建立されるまでの歴史を追ってみます。

まずは奈良時代の首都である平城京とその時代の背景を知るところから始めなければならないでしょう。
平城京は和銅3(710)年、奈良盆地北の端、現在の奈良市西郊の造営されました。その前の都であった藤原京の約4倍の規模を持ち、南北約4.8km、東西約4.3kmという広大な都市で、天皇を中心とした律令国家体制の確立と仏教に基づく国家支配を目指した仏教都市です。唐の都、長安を真似て中央に南北に朱雀大路を通して右京と左京に分け、各京内は東西・南北に走る大小の路により条坊に区画された条坊制で、当時の人口は約20万人と推定されているそうです。
都には大官大寺、本薬師寺、飛鳥寺が藤原京から移転され、鎮護国家の機関およびシンボルとして位置づけられたのでした。その一方地方に置いては霊亀2(716)年、「寺院併合令」が出され、地方寺院の統制や荒廃した寺の修造が全国的に行われた時代だったようです。
着々と平城京の整備が続く中で、養老8(724)年、聖武天皇が即位します。しかしながら聖武天皇即位後には次々と出来事が起こります。
例えば聖武天皇の某王が満1歳で亡くなったために皇位継承問題が起こり、国内では飢饉、干害、災害、疫病などが流行し、朝廷に置いては故・藤原不比等の子である藤原四兄弟が天然痘で亡くなり、その後の支配者層では混乱が進んでいったのです。そしてこの状況に拍車をかけるように聖武天皇の従兄弟にあたる藤原広嗣が大宰府で反乱を起こしました。
こうした一連の悩みを抱えた聖武天皇は天平12(740)年12月15日、都を平城京から恭仁京(京都府)へ移し、さらなる仏教による統治を目指したのでした。

ここで混乱しないよう理解しておかなければならないのが、聖武天皇による遷都です。
ここでいう恭仁京は当時の山背国相楽郡で、現在では京都府木津川市にあたるようですが、勿論、この後の平安京とは違い、あくまでも奈良時代としての遷都です。
天平13(741)年9月には恭仁京の左京右京が定められ、11月には大養徳恭仁大宮という正式名称が決定され、大極殿が平城京から移築され宮殿が造られました。さらに条坊地割りも行われ、木津川に大きな橋が架けられ都としての体裁が整っていく途中の天平15(743)年の末には恭仁京の造営を突如打ち切り、当時離宮であった紫香楽宮(近江国甲賀郡・現滋賀県甲賀市)で都の造営が始まったのですが、天平6(744)年2月には難波京(現大阪市中央区)に遷都し、さらに天平17(745)年5月には平城京に戻されたのです。
このように平城京は造営されてから僅か5年の間に3回も遷都されたことは、人臣の不賛同や天災などが起こり続けたことによるものではないかと考えられ、聖武天皇のより一層の苦悩の日々の表れといっても過言ではないかもしれません。

こうした紆余曲折の中の天平13(741)年に発布されたのが「国分寺建立の詔」だったのです。
この詔は、度重なる飢饉や疫病の流行と内乱の混乱に対して、仏教による鎮護国家確立のための一つの手段だったわけです。
詔の前半は、諸国に国分寺を建立しようと思った経緯が述べられており、続いて具体的な活動・行動を示唆し、後半は3条の条文を記載しています。

国分寺建立の詔(現代語訳)(『続日本紀』天平13年3月の条)
「私は徳の薄い身であるのに、おそれ多くも天皇という重い任務を受けている。しかし、民を導く良い政治を広めることができず、寝ているときも目覚めている時も恥ずかしい気持ちでいっぱいだ。昔の賢い君主は、みな祖先の仕事をよく受け継ぎ、国家はおだやかで無事であり、人びとは楽しみ、災害はなく幸福に満ちていた。どうすれば、このような政治ができるのであろうか。この数年は、凶作がつづき伝染病が流行している。私は恥かしさとおそろしさで自分を責めている。
そこで、国民に大きな幸福をもたらしたいと思う。以前(天平9年11月)、各地の神社を修造させたり、諸国に丈六(一丈六尺=約4.8m)の釈迦牟尼仏一体を造らせるとともに、大般若経を写させたのもそのためである。おかげで、今年は春から秋の収穫の時期まで雨が順調で五穀も豊かに稔った。これは、誠の心が伝わったためで、神霊のたまわりものである。これからもますます尊ばねばならない。金光明最勝王経には「もし広く世間でこの経を読み、供養し、広めれば、われら四天王は常に来てその国を守り、一切の災いもみなとりのぞき、心中にいだくもの悲しい思いや疫病もまた消え去る。そしてすべての願いをかなえ、喜びに満ちた生活を約束しよう」とある。
そこで、諸国はそれぞれ七重塔一基を敬って造り、合わせて金光明最勝王経と妙法蓮華経各十部を写経させることとする。私もまた、金文字で金光明最勝王経を写し、塔ごとに一部ずつ納めたいと思う。これにより、仏教の教えが大空・大地とともにいつも盛んとなり、仏のご加護が常に満ちることを願う。
七重塔を持つ寺(国分寺)は「国の華」であり、必ず良い場所を選んでまことに長く久しく保つようにしなければならない。人家に近すぎると悪臭が漂うからいけない、遠すぎると集まる人が疲れてしまうから望ましくない。国司は国分寺を荘厳に飾り、いつも清潔に保つように努めなさい。間近に仏教を擁護する神々を感嘆させ、仏が望んで擁護されるように願いなさい。全国にあまねく布告を出して、私の思っていることを民に知らせなさい。」

〈条文〉
第一条
国毎の僧寺(国分僧寺)には、寺の財源として封戸を五十戸、水田十町を施し、尼寺(国分尼寺)には水田十町を施しなさい。
第二条
僧寺には必ず二十人の僧を住まわせ、その寺の名は金光明四天王護国之寺としなさい。また、尼寺には十人の尼を住まわせ、その寺の名は法華滅罪之寺としなさい。二つの寺は距離を置いて建て、僧尼は教戒を受けるようにしなさい。もし僧尼に欠員が出たときは、直ちに補充しなさい。毎月八日に、必ず最勝王経を読み、月の半ばには戒掲磨を暗誦しなさい。
第三条
毎月の六斎日(八・十四・十五・二十三・二十九・三十日)には、魚とりや狩りをして殺生をしてはならない国司は、常に監査を行いなさい。
(武蔵国分寺跡資料館解説シートより)

これほど率直で真摯な天皇がいたのでしょうか。
現在の天皇・皇室はあくまでシンボルですから論外として、天皇による中央集権体制での天皇とは、政略家として知られた後白河天皇や、知略に富んだ後醍醐天皇などのイメージが付きまといますが、この詔などを知ると天皇の意外な一面(これが本来なのかもしれませんが)が窺えます。
いずれにせよ、こうした経緯と背景によって各国に国分寺が建立されることになったのです。

では最後に何故この地に国分寺が建立されたかという理由ですが、基本的には中国から帰国した遣唐使からもたらされた、中国の四神相応思想が基本になっていると考えられています。
1.玄武(丘陵):北には東西に連なる国分寺崖線と麓の清らかな湧き水
2.朱雀(湖沼):南に広がる広大な低湿地
3.白虎(大道):西に南北を通る東山道武蔵路
4.青龍(流水):東に流れる野川
以上の条件を備えていたことが、この地帯が適地として選ばれた理由のようです。
こうして造られた古の文化がここに甦っているのです。

七重塔跡

ここで実際に武蔵国分寺跡を訪ねて見ますが、前述された説明文にも「寺地・寺域は数回の変遷があることが確認されています」とある通り、大きく分けると3期に分けられるようです。

史蹟武蔵国分寺跡変遷-1 ●創建期(8世紀中頃~):国分寺建立の詔によって造営が開始される時期

真北から約7度西に傾く寺域地が定められ、中心付近に七重塔を造立。
史蹟武蔵国分寺跡変遷-2 ●僧・尼寺創建期(~8世紀末):僧・尼寺の主要な建築物が造られる時期

創建期の寺域区画を西へ200メートル拡大し、尼寺の区画も整備される。
史蹟武蔵国分寺跡変遷-3 ●整備拡充期(9世紀代):七重塔が再建される最も整備されていた時期

僧・尼寺創建期の寺域を東山道まで延長する拡充整備される。

そこで、ここでは少し戻って最初の建築物である七重塔跡に向います。
七重塔跡 石碑から5、6分歩いたところでしょうか、柵で囲われた一画が七重塔跡です。

七重塔跡 国指定史跡武蔵国分寺跡
指定年月日 大正11年10月12日
国分寺造営の詔に「造塔の寺は国の華たり」と象徴的に記されている塔は、「金字金光明最勝王経」を安置する国分寺の重要な施設でした。
この塔は「続日本後紀」によって承知2年(835)に雷火で焼失し、10年後に男衾郡(埼玉県比企郡)の前大領(郡の長官)の壬生吉志福正がその再建を願い出て許可されたことが知られています。
昭和39年の発掘調査の結果、塔基壇が修復されていることや礎石の下に瓦片を大量に詰め込んでいることなどが明らかになり、このことが証明されました。
塔の再建にあたっては北方建物の新築・講堂の増築・寺地内付属諸院の整備なども併せて行ったようで、創建以来の本格的な造営事業に発展したと推察されます。
平成6年1月 国分寺市教育委員会』(現地案内板説明文より)

言ってみれば各国の国分寺のランドマークといったところでしょう。
七重塔復原図 案内板には、その七重塔の復原図が掲載されています。

奈良東大寺の七重塔は高さ100メートルとも言われているようですが、ここ武蔵国分寺の七重塔は約60メートルくらいだったようです。塔の中には階段などが無いため上まで昇ことはできない構造です。
七重塔跡 そしてこれらが礎石ですが、この石の中にはお経が収められていたそうですが、江戸時代の“江戸名所図会”でもこう説明されています。

層塔旧跡(国分寺の少し東南、半丁あまりを隔ててあり。草樹繁茂するところの少しの岡なり。方九尺ばかり六角に礎を居ゑたり。往古、その塔の中真を収めたるものなりとて、うちに径三尺ばかり石にて畳みたる空穴ありて、内に水をたたへたり)。
(江戸名所図会より)

確かに六角形に置かれていて、その真ん中に1mくらいの礎石があるのが見て取れますが、特に穴はないようです。
それでも江戸時代から礎石と見られていたのですから、かなり有名だったのでしょう。

七重塔跡 さらに七重塔の再建については、比較的最近の2004年、2つ目の塔跡が発見されたことから再建された位置を巡って論争が起こっていたそうです。

この論争の結果は、先ず最初の塔跡に基礎を修復した跡が見つかり、そこから焼けた創建時の瓦が出土し、もう一つの塔跡からは9世紀半ばと見られる土器が出土したのですが、後者の塔跡では出土した瓦の量が少なかったことから、ここには塔が建立されなかったと考えられ、従来どおり最初の塔跡の場所で創建し再建されたということで一応の決着を見たようです。

となると2つ目の塔跡は・・・、ということになり一般的に考えられるのは断念説で、何かの理由で結局は元の場所に再建されたという理由です。
しかし、これには考古学的な視点だけでなく、塔再建後の878年に発生した地震との関連説もあるようです。
これは付近の立川断層が原因とされマグネチュード7.4の大地震と推定されており、この地震により再び倒壊したのではないかという可能性なのです。つまり塔頂上部の装飾の断片が塔跡から東南にかけてかなり離れた場所から見つかっていることから推測されていて、2つ目の塔跡は2度目の再建の際に築かれ途中で放棄されたのではないかという説なのです。
正しいのがどれかは判りませんが、こういった研究ができるところが考古学の面白さでもあるのでしょう。このような因果関係には興味を惹かれますね。

記念碑台座 因みに、七重塔跡の横に石垣で摘まれた七重塔の土台のようなものがあります。

これは地元の方たちがここに国分寺跡の碑を建てる予定で造ったものなのだそうですが、国指定史跡ということで自由に碑などを造ることが許可されないことが後に判ったため、やむなく中断された石垣なのだそうです。
気持ちはわかりますが、それにしても如何にも、と言った石垣にみえるのですが、決して七重塔の石垣跡ではないのです。

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