史蹟武蔵国分寺跡 #2

七重塔跡から一旦“史蹟碑”のところに戻り、今度は中心施設跡を見学します。
武蔵国分寺跡 七重塔址の周囲を見渡すと、何も無いことが余計非常に広い境内だったことを実感させてくれ、このこと一つでも国分寺建立の詔が如何にに巨大なプロジェクトであったかが窺えます。

余談ながら、この周辺はかつて起こった未曾有の大事件である「三億円事件」の“第2現場”となったところだそうです。当然“第1現場”は府中刑務所ですが、そこで奪った現金輸送車であるセドリックをこの“第2現場”で乗り捨て、予め駐車していた濃紺のカローラに乗り換えた場所なのだそうです。
従ってここに遺留品であるセドリックが残されたわけなのですが、この乗換えを想定していなかったために初動捜査で逮捕できなかった遠因とも言われている重要な現場だったようです。

中門跡

中門跡 中門跡 途中、“史蹟碑”の手前の空き地にポツンと立っている石柱があり、そこには「中門址」と刻まれています。

いわゆる“山門”というところでしょうか。
礎石 傍らに大きな石が置かれている場所があります。

礎石について
1.2の石は、武蔵国分寺主要伽藍建物に使用されたと思われる礎石(立川市砂川町3-10-2. S56.10.31 砂川昌平宅より寄贈)
3.4.5の石は、恋ヶ窪堂址の建物に使用された礎石(国分寺市泉町3丁目-33地内)
昭和57年3月 国分寺市教育委員会
(現地案内板説明文より)

1.2は奥の比較的大きな2つで、それ以外が3.4.5の石です。
歴史的に貴重なものなのでしょうが、木材などと違って石の場合は成分などの分析ができないので、年代測定といったことは無理なのでしょうから、やはり柱を載せていた痕跡があるから判別したということでしょうか。
江戸名所図会「国分寺伽藍旧跡」 これについては前述した“江戸名所図会”に「国分寺伽藍旧跡」として描かれています。

左下にある大きな石が礎石です。江戸名所図会が書かれたのが1832年ですから180年前ということになりますが、当時はまだ人の何倍かもあるような礎石がむき出して残存していたのでしょうか。

これについては『二王門の旧跡(寺前半町あまりを隔てて、南の方の畑のうちに、その礎石を存せり)』と記載されています。当時は中門ではなく“二王門”と言っていたのでしょうか、それともまた違う門のことだったのでしょうか。
いずれにしても江戸時代においても江戸近郊の名所として紹介されていたわけですから、いかに興味深い場所だったかがわかります。
この「中門址」の内側が武蔵国分寺の中心施設のあった伽藍なのでしょう。

伽藍跡

先の史蹟碑のところに戻り、少し先に進んだところに中門址と同じような石柱が置かれています。
金堂址 「金堂址」と刻まれていて、ここが武蔵国分寺の中心だったところです。

金堂とは仏像が安置されていた建物で、今で言うところの本堂です。
36mX16mくらいの建造物だそうなので、かなり大きな金堂だったようです。
金堂址 ここにはその礎石がいくつが残されていて、その間隔で建物の大きさが実感できます。

これらの並べられた礎石を見ると、一層武蔵国分寺跡だということを改めて認識させてくれます。

先の江戸名所図会には、以下のように説明されています。

『続日本紀』〔七九七〕「聖武紀」に日く、天平十九年〔七四七〕十一月己卯、天下諸国に詔して、国別に金光明寺・法華寺を造らしむ。下略
『延書式』〔九二七〕第二十六巻に日く、武蔵国、正税・公廨各四十万束、国分寺料五万束、薬師寺料四万二十束、梵釈四王料七千七百束、云々。
『東鑑』に日く、建久五年〔一一九四〕十一月二十七日、近国一宮ならびに国分寺、破壊を修復すべきの旨仰せ下さる、云々。
同書に日く、寛喜三年〔一二三一}五月五日、給旨に任せ、国分寺において、最勝王経を転読すべきの由、仰せ下さる。関東御分国々、行然これを奉行す、云々。
たのもしな世を祈れとて定めつつ国を分かてる寺のかずかず  称名院』(江戸名所図会より)

ここで興味深いのは、「武蔵国、正税・公廨各四十万束・・・」とあり、当時の武蔵国は、正税・公廨各四十万束は国の等級では“大国”格(大国>上国>中国>下国の4種)で、全21郡119郷を数える有数な令制国だったようです。
因みに、この当時の武蔵国の出挙稲数は、『武蔵国、正税・公廨各四十万束、国分寺料五万束、薬師寺料四万二千束、梵釈四王料七千七百束、文殊会料二千束、薬分料一万束、修理池溝料四万束、救急料十二万束、悲田料四千五百束、俘囚料三万束(四百十六人分)、勅使繋飼御馬秣料二千二十束、神埼牧牛直五千五百三十四束』の合計1,113,754束となっています。現在の東京都・埼玉県とは比べ物にはなりませんが、意外と古から畿内より遠国とは言えども大きな国だったようです。

講堂跡 金堂の先の草に覆われたエリアが「講堂址」です。

講堂は読経や修行をする場で、こちらの建物も金堂と同じ36mX16mの建物だったようです。
発掘調査中 金堂と講堂の右手には現在発掘調査中なのでしょうか、ブルーシートと柵で覆われたエリアがあります。

この辺りには「鐘楼」や「僧坊」などがあった場所のようです。

武蔵国分寺跡を抜けて北に進むと、今度は現在の国分寺の参道となります。

おたかの道湧水園

国分寺寺号標 国分寺寺号標 “国分寺”と刻まれた大きな寺号標のある交差点を右に進み、武蔵国分寺跡資料館に向います。

資料館には武蔵国分寺跡などで出土した貴重な文化財が展示されています。

資料館は「おたかの道湧水園」という施設の中にあるようです。
「おたかの道湧水園」とは、平成18年に史跡の追加指定を得た国分寺東側一帯のエリアを整備し平成21年に開園した施設です。この中には湧水などの自然資源と資料館という文化資源を保護・保存する施設があり、その為の協力金として入園料を徴収するシステムとなっているのです。
おたカフェ 入園券 その入園料は湧水園の手前にある史跡の駅「おたカフェ」と言う施設で求めることとなっているようです。

これは現在全国で約1700ヶ所ほどある“まちの駅”の1つだそうで、地域の情報発信や休憩などができる公共的施設です。
この愛称は「おたかの道」と「カフェ」を合わせたネーミングとなっている、ちょっとおしゃれな建物です。
ここでその入園券100円を買い求めて湧水園に入園しますが、その前に再三でてくる「おたかの道」についての由来を知っておきましょう。

お鷹の道
江戸時代の寛延元年(1748)に国分寺市内の村々は、尾張徳川家の御鷹場に指定され、慶応3年(1867)に廃止されるまで村人の生活に多くの影響を与えていました。
崖線下の湧水を集めて野川にそそぐ清流沿いの小道はいつのころからか「お鷹の道」と呼ばれ、昭和47年~48年に国分寺市が遊歩道として整備しました。
(現地案内板説明文より)

こんなところから「おたかの道」というネーミングになったようです。
旧本多家住宅長屋門 早速「おたかの道湧水園」に入園しますが、入園する入口が既に文化財のようです。

国登録有形文化財 旧本多家住宅長屋門  年代:弘化5年(1848)
旧国分寺村の名主家の門。建築の注文書が残っており当初の規模などが分ります。1階東側に2間の座敷が設えられ、隠居などの居室として使用することが想定されたのではないかと思われます。事実、幕末の慶応元年(1865)から名主家の子息である医師本田雖軒が一時期ここで開業していました。
長屋門とは門の形式の1つです。近世の大名・旗本などが家臣の居所として長屋と門を結合して建築したものです。民家の場合は長屋部分を物置などに使用していました。近世では、村役人または名字帯刀を許された家の門形式として公に許されていました。武蔵国分寺資料館
(現地案内板説明文より)

スタッフの方によると先日の大地震では、まさに倒れるかと思えるほど揺れていたそうですが、やはり釘などが余り使われていない建造物だけあって逆に倒壊はまぬがれたようです。そういっても老朽化していることは間違いないようで、近々補修されると言う事です。
旧本多家住宅長屋門 長屋門の反対側の中央には戸があり、かつてはここに階段が架けられて養蚕を行なっていたようです。

ここに記載されている本多雖軒とは名主本多良助の四男で、国分寺で医療に従事するかたわら教師でもあったようです。その本多家とはどのような家系なのかは分りませんが、現在でも国分寺市の北東部に本多という地名や、本多八幡神社などがあることから、かなりの名主だったことはここからでも窺い知ることができます。

ギンモクセイ 長屋門の左手にある垣根で囲われた大きな樹木は“ギンモクセイ”の木だそうで、花の季節になると非常に良い香りが漂うそうです。

ただ余りにも大きいので、花が目に入らず香りだけが一人歩きをするので、見学者は必ずその花を探そうと辺りを見渡すそうです。
個人的には“ギンモクセイ”というのを初めて知ったのですが、“キンモクセイ”があるのだから「ギン」があってもおかしなことではないけれど…、程度にしか思いませんでしたが、調べてみれば「ギンモクセイ」の変種が「キンモクセイ」なのだそうです。
意外な事実でした。

旧本多家住宅倉 そのギンモクセイの先にももう1つ建物があります。

国登録有形文化財 旧本多家住宅倉 年代:明治33年/昭和8年改修
倉2階の棟木に「維時宝永五年創建 明治三十三年十二月三世本多良助全部新造(略)」と言う墨書があり、江戸時代中期に宝永5年(1708)に建った倉を明治33年(1900)に新築したという経緯が分ります。
現在の目地を切ったモルタル洗い出しの外壁は、都立殿ヶ谷戸庭園内の同年代建築の蔵と似ており、同年代の流行を示しています。
聞き取り調査で、家財道具などを収納していたことが分ります。
(現地案内板説明文より)

改修されてしまっていることと、今ひとつ現在のイメージが物置小屋風に見えてしまうので、若干文化財としてのイメージとはかけ離れた感じを受けてしまうのですが…。
ただ、流行の一端をになう意匠であったという処は興味を魅かれるところではあります。

倉から遊歩道を進むと左手に建物が見えてきますが、突き当たりに湧水のポイントがあるようなので、まずは真直ぐ進んでみます。
湧水源 湧水源 この遊歩道の左側は保全地区なので立ち入り禁止なのだそうですが、そのポイントから9m先に湧水源を観察できるようになっています。

国分寺市から世田谷区まで続く武蔵野段丘南側の国分寺崖線は、古多摩川の流路によってつくられた地形で、通称「ハケ」と呼ばれています。
関東ローム層の下には砂利の混ざっている武蔵野礫層があり、台地に降った水が地下水として流れています。国分寺崖線の下では、この礫層が地表にあらわれている場所があり、ここから水が湧き出しています。
真姿の池湧水群を含めたこの付近の湧水は野川の最源流となっています。
(現地案内板説明文より)

野川は、東京都を流れる多摩川水系多摩川支流の一級河川で、国分寺市から小金井市・調布市・狛江市を経て世田谷区で多摩川に合流する河川です。
この湧水源は確かに湧水源の1つではあるようですが、湧水源の中の湧水源(キングオブキングみたいなものですが…)は、国分寺市東恋ヶ窪1丁目にある日立製作所中央研究所だそうで、そこから発した湧水にこの湧水源や真姿の池湧水群などが合流して野川となるのだそうです。
ハケの構造についてはこちらで図解されています。
ハケの構造 《イラスト:(C)武蔵国分寺跡資料館見学のしおりより》

それだけ自然豊かな地域であると言うことの証でしょう。なお、野川についてはこちらのサイトが非常に判りやすいので参考にされるとよいでしょう。

参考:【郷土学習資料:ハケ〈国分寺崖線〉と野川】三鷹市教育センター http://www.education.ne.jp/kyoiku-center-mi/river/index.htm

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