史蹟武蔵国分寺跡 #3

湧水源を見たあとは「武蔵国分寺跡資料館」に入館します。
貴重な文化財などがかなり所蔵されていていて、写真撮影もOKなようです。

武蔵国分寺跡資料館

武蔵国分寺跡資料館 武蔵国分寺跡資料館 こちらがその資料館ですが、よく見ると建物にあるべきものが無いのです。

2階建てなので当然屋根が2層になっていますが、上層の屋根に雨どいが付けられていないのです。本来は下層のエントランスの屋根にも雨どいを付けたくなかったのだそうですが、流石に滝に打たれる修行僧ではないので、下層には付けたそうです。
これは、この湧水園が樹木で覆われていることから、木々が雨どいに詰まって雨どいの機能を果せないからのようです。そしてその都度清掃しなければならないので、一層のことということで雨どいをつけないようにしたそうです。
返って雨が降ると綺麗な滝が見られるとスタッフの方がおっしゃられていましたが、確かに一理あるかもしれません。

七重塔の模型 入館するとカウンターに七重塔の模型が置かれています。

結構精密な模型のようですが、その横に“祝 入園(館)2万人”のキャプションがあります。これは平成21年10月18日にオープンし、翌年の平成22年11月13日に2万人を達成したのだそうです。
他の施設と比べたわけではありませんが、この手も施設で約1年間で2万人と言うのは結構ハイペースなのではないでしょうか。

武蔵国分寺跡ジオラマ エントランスから奥に進むと最初の展示室に武蔵国分寺のジオラマが置かれています。

これは国分寺境内にあった昭和27年開設の「国分寺市文化保存館」に展示されていた1/200のスケールのジオラマだそうで、修復して展示されているそうです。
中央の建物が金堂と講堂で、その前の門が中門です。右手に七重塔を見ることができます。
その更に手前にある門は「南門」といそうで、かなり大きな門だったようです。

ジオラマの後には展示ケースに様々な出土遺物が展示されています。
出土遺物 出土遺物 出土遺物 瓦、土器、鉄製品などを見ることができます。

その奥の第2展示室には国分寺の文化財が展示されていますので、幾つかピックアップしてみます。

銅造観世音菩薩立像 最初は「銅造観世音菩薩立像」です。

銅造観世音菩薩立像 東京都指定有形文化財 指定日:昭和58年5月6日
東山道武蔵路跡出土 国分寺市教育委員会所蔵 座高28.4cm、重さ2,647g
この観世音菩薩立像は昭和57年3月、武蔵国分尼寺の寺域確認調査の際に、僧寺と尼寺の間を南北に走る東山道武蔵路に当たりところから発見されました。
観世音菩薩は、「観音経」などで説かれる菩薩として知られ、人々の声を聞き、求めに応じて救いの手を差しのべる慈悲深さによって多くの信仰を集めました。
発見された像は、頭部に阿弥陀如来の化仏を施した低い三面宝冠をいただき、蓮肉上に立ち、わずかに右膝を出し遊足としています。素朴で童顔な面相はやや面長で口元には古式の笑みをたたえ、姿勢は正立像で、胸幅は広く、下腹部を前方に突き出した体躯がこの像の特徴です。
火災にあったのか、左肘より先、右手指、天衣や台座の大部分は欠失していましたが、東京国立文化研究所で保存修復されました。
このような作風は奈良法隆寺の夢殿の観音像などと類似することから、白鳳期後半(7世紀末から8世紀初頭)に東国で制作されたものと考えます。
現在、関東地方で最も古い白鳳仏であり、素材の銅の分析の結果、国内で採掘された銅が利用された可能性が高く、その意味でも重要なものです。
(館内解説パネルより)

銅造観世音菩薩立像出土状況 パネルには出土状況の写真も掲載されていました。

こう言ったものが出土したときは、本当に学者冥利に尽きるのでしょうね、きっと。

隣には欠けた椀のようなものと皿があります。
緑釉唾壷と緑粕花文皿 左側が「緑釉唾壷」というもので、右側が「緑釉花文皿」というものだそうです。

多喜窪横穴墓出土の緑釉唾壷 市指定重宝 指定日:昭和39年1月15日
多喜窪横穴墓出土 国分寺所蔵 底径9.5cm、器高10.0cm(現存部)
この唾壷(ダコ)は、多喜窪横穴墓の奥壁中央付近に掘り下げられた直径1m、深さ15cmの小穴から見つかりました。小穴の底には木炭がまばらに敷かれ、その上に拳大の礫があり、その上下から人骨が見つかっています。唾壷は穴のほぼ中央の位置に逆さに置かれていたことから、被葬者の副葬品と考えられます。
唾壷の口縁は外側に開き、胴部は丸みをおびています。底部の低い蛇ノ目高台部分に特徴があり、ヘラにより削り出して作られています。越州窯の青磁を模倣して作られた器種と考えられ、平安時代中頃につくられたものと推定されます。
(館内解説パネルより)

緑釉唾壷復原イメージ このパネルにも復元イメージが掲出されています。

唾壷というのは、現代で言うところの“タン壺”です、逆に平安時代にあったことのほうが驚きです。
“和名抄”に記載されている内容から、平安時代には室内装飾の具のひとつであったようで、色合いもある意味ではオシャレです。

武蔵国分寺跡出土の緑粕花文皿 東京都指定有形文化財 指定日:平成2年3月22日
武蔵国分寺跡出土 国分寺市教育委員会所蔵  口径15.7cm、器台2.5cm
奈良時代(8世紀中頃)に創建された武蔵国分寺の周辺には、国分寺の造営や、その後の維持にかかわった人々が居住した竪穴住居跡が、多数発見されています。
この緑軸花文皿はそうした1件の竪穴住居跡の床面から出土しました。
平安時代(10世紀中頃)に現在の愛知県瀬戸市付近で生産され、武蔵国分寺へもたらされたと推定されます。
皿は口径15.7cm、器高2.5cmの高台付きの小型皿で、全体に淡いうぐいす色の釉がかけられ中央に大日如来の種子「ヴァン」が梵字であらわされ、その周辺には蓮華のおしべと八葉の花弁の線刻画をめぐらしています。
このような特徴をもったこの皿は、武蔵国分寺での仏教儀礼に使用された仏法具と考えられます。
(館内解説パネルより)

これが所謂「瀬戸物」でしょうか。
もともと瀬戸の焼き物が他の地域の焼き物とは違った一番の特徴が釉をかけてあることなのです。猿投地区(現豊田市猿投)には猿投窯と呼ばれる一大窯業生産地があり、そこで生産される灰釉が施された須恵器が灰釉陶器とも呼ばれ、高級食器として流通したのだそうですが、平安時代末期から製品が粗悪化し衰退したようです。
これが鎌倉時代になり宋からの施釉陶器の技法を用いるようになって瀬戸物(瀬戸焼)の価値があがり、日本陶器の起源となったのだそうです。
そのような意味では特に平安時代の陶器は貴重なのかもしれません。

唐草四獣文銅蓋 そしてもう一つ隣に玉虫色の蓋の欠けたようなものがあります。

唐草四獣文銅蓋 東京都指定有形文化財 指定日:平成9年3月14日
僧寺寺院南西地域竪穴住居跡出土 国分寺市教育委員会所蔵  口径16cm
この銅蓋は、武蔵国分寺の寺院地南西の鍛冶工房と思われる竪穴住居跡から出土しました。
本品は、もとはや鋺や壷、加盤などの蓋と考えられますが、出土した竪穴住居は火災により焼失した住居で、この蓋も火熱により三分の一ほどが欠損し、溶けて歪んでいます。保存処理の過程で線刻文様のあることがわかりました。その文様は環状紐の内側に蓮珠文と四葉文があり、紐の外周には四単位の獣形文と唐草文がめぐらされ、獣形文と唐草文付近には魚々子(小さな粒を刻んだ細エ)が施されていました。
このような奈良時代の銅製品は法隆寺や東大寺の正倉院などに残されています。
文様の類似した製品は正倉院所蔵の佐波理蓋第二号(南倉47)のみで、8世紀後半に制作されたものと考えられ、文様が共通している点から朝鮮半島で製作された可能性も指摘されています。こうした製品の地方伝播を考えるうえで貴重なものです。
(館内解説パネルより)

これは焼けたことによってこのような綺麗な色に変わったのでしょうか。
それにしても正倉院には大変貴重な文化財が数多く残されているのですね。改めて正倉院の価値を認識させられました。

国分寺市指定の文化財 国分寺市指定の文化財 反対側には国分寺市指定の文化財が展示されています。

右側には旧石器時代の石斧、縄文時代の土器、そして左側には中世時代の板碑、近世の徳川将軍家寺領安堵朱印状が展示されており、各時代の文化財がひと目で理解できます。
流石に平安時代までの武蔵の中心地域だったこともあり、国分寺市には数多くの文化財が残されているようです。

最後の展示室は「瓦」の展示室です。
たかが瓦と思えるのですが、文化財にこそ指定されていませんが武蔵国分寺跡の遺物としては指定文化財、或いはそれ以上に価値のある遺物ともいえるものでしょう。
国分寺伽藍旧跡 先の江戸名所図会での「国分寺伽藍旧跡」絵図で子供の立っている場所の足元には、古瓦が散在しているのが見て取れます。

このように江戸時代からこの武蔵国分寺跡には、殆ど保存されること無いのですが、様々な貴重な遺物があったことは知られてはいたようです。
「瓦」の展示室 「瓦」の展示室 メインの展示では様々な瓦の種類を展示されています。

単に瓦とはいいながらも、一般に知られている瓦は「鬼瓦」位で実は他にも使われる個所によって名称があるそうです。

瓦の名称
屋根瓦は、やや反った長方形の女瓦(平瓦)を下から順に重ねて並べ、合わせ目に半円筒形の男瓦(丸瓦)を同じく重ねてかぶせ、雨漏りを防ぐようにしたもので、本瓦葺きともいいます。
棟には堤瓦を何枚も重ねた上に棟瓦を置き、棟と女瓦の最上段とのすき間は面戸瓦でふさぎました。女瓦の平均的大きさは30cmX40cm、重さは4~6kg、男瓦は20cmX40cm、2~3kgほどあります。
軒先を飾る瓦として、男瓦列の先端には文様のある円型の板(瓦当という)をつけた鐙瓦(軒丸瓦)が、女瓦の先端には宇瓦(軒下瓦)がありました。棟の端を飾る瓦は、中世以降に角のある鬼面文を用いたことから鬼瓦と呼ばれています。
(館内解説パネルより)

「瓦」の名称 これをイラストにしたものが一緒に掲載されています。

勿論、現在では呼び方もかわっているようですが、ここでの名称は“歴史的名称”として呼ばれている名称だそうです。
瓦の出現は約2800年前の中国とされていて、日本には凡そ1420年前の西暦588年に仏教とともに伝来したと言われており、現存する日本最古の瓦は飛鳥時代のものです。
奈良、平安時代になると瓦は寺院や宮殿のほか官衙にも用いられるようになり、特に地方でも国府や国分寺といった国家権力を象徴する建物にも用いられるようになったようです。しかし、この時代は公的な建物しか使用されることは無く、私的に使用されるのは次の鎌倉時代になってからのようです。

文字瓦 このように貴重な瓦がたくさん展示されているのですが、その中でも特に興味を引かれるのは「文字瓦」と言われるものです。

文字瓦
武蔵国分寺跡からは、様々な文字が入った瓦が多量に出土しています。内容別に分けると、国名、郡名、郷名、人名、文書、その他となり、このような文字が刻まれた瓦を文字瓦と呼んでいます。
文字を表す方法で分けると、押印、押型、模骨、ヘラ書き、指書、墨書、朱墨書があります。
郡名瓦・郷名瓦は、文字瓦の中でも最も多く出土しています。郡名瓦は、21郡の中で天平宝宇2年(758)に設置された新羅郡を除く、20郡のものが出土しています。
郷名瓦は120郷中33郷のものが確認されています。
(館内解説パネルより)

この文字瓦は特に珍しいのか先の江戸名所図会でも精密にスケッチされています。
江戸名所図会の文字瓦 その絵図がこちらです。

ここでは10種類の郡瓦がスケッチされています。江戸時代でもやはり価値のあるものだと思われていたのでしょうか。
ここではそのうちの幾つかをピックアップしてみます。

こちらが左ページの「埼玉郡」「豊島郡」「幡羅郡」「男衾郡」「荏原郡」です。
文字瓦「埼」 文字瓦「豊」 文字瓦「幡」 文字瓦「男」 文字瓦「荏」

こちらは右ページの「那珂郡」「榛沢郡」「比企郡」「大里郡」「秩父郡」です。
文字瓦「中」 文字瓦「榛」 文字瓦「企」 文字瓦「大」 文字瓦「父」

現在では、このように写真で理解できますが、写真の無かった江戸時代ではこのようにして絵筆でそのタッチまで描いていたようです。ただ「埼玉郡」の家“埼”が反転されているのはどうしてでしょうか。

瓦 瓦 瓦 そのほかにも「郷名」「人名」などの瓦が展示されています。

展示室 瓦に触れられるコーナーもあり、他では余り見られないであろう貴重な遺物を見ることができました。

流石に古の都にある資料館らしく、非常に充実している資料館でした。

真姿の池湧水群

おたかの道湧水園で「真姿の池湧水群」のことを知ったので、ここから歩いても2、3分のようですので立ち寄ってみることにしました。
小川 綺麗に整備された歩道の横に小川のように流れているのが湧水でしょう。

真姿の池湧水群 少し進むと左手に弁財天が祀られている「真姿の池」に到着です。

東京都指定名勝 真姿の池湧水群
所在地:国分寺市西元町1-13 指定:平成10年3月13日
真姿の池は、都内では青梅市の御岳渓流とともに環境庁の「名水百選」に選定された「お鷹の道・真姿の池湧水群」の一部であり、東京都の国分寺崖線緑地保全地域にも指定されている。
真姿の池の由来は、嘉祥元年(848)不治の病に苦しんだ玉造小町が、病気平癒祈願のため国分寺を訪れて21日間参詣すると、一人の童子が現れ、小町をこの池に案内し、この池の水で身を清めるようにと言って姿を消したので、そのとおりにしたところ、たちどころに病は萎え、元の美しい姿にに戻った。それから人々はこの池を真姿の池と呼ぶようになったという伝説からきている。真姿の池は“新編武蔵風土記稿”に「広さ二間四方許、池中の弧嶼に弁天の祠宇を置く、この池水も田地へ灌く」とある。
周辺の雑木林は、下草の刈り払いが行なわれて管理が行き届いており、国分寺崖線の雑木林景観がよく保存されている。国分寺崖線とは国分寺から小金井・三鷹・調布・狛江を経て世田谷の等々力渓谷に至る標高差約15メートルほどの崖線で「ハケ」と呼ばれている。東京を代表する湧泉の価値を文化財として評価された最初の自然地理的名勝である。
平成11年3月31日 建設 東京都教育委員会
(現地案内板説明文より)

弁天池 弁天池 6月ということもあってかなり鬱蒼とした雰囲気ですが、弁天池の水は澄んでいるようです。

江戸時代から鎮座している弁天堂ですから、かなりの由緒を持っている証です。

名水百選 湧水源 池の道を挟んだ左側に小川があり、その突き当りが源泉となっているようです。

東京都指定名勝 真姿の池湧水群
昭和60年に環境省(当時環境庁)の名水百選に選ばれ、水路沿いの遊歩道と池周辺に複数の湧水があることから、「お鷹の道・真姿の池湧水群」と名付けられた。平成10年には国分寺崖線湧水群の中の代表的な湧水であるとして、東京都名勝に指定され、保存が図られている。
地層断面模式図で示すように、長い時間をかけて自然が作り上げたローム層や礫層などの地層を多摩川の流れが削ってできた国分寺崖線の下から湧き水が出ている。
この辺りでは「水口八十八ヶ所」という言葉があり、多くの湧き水源があった。しかし、都市化などにより、枯渇したり埋め立てられた結果、湧水源も湧出量も少なくなっている。
「真姿の池」の名のいわれは、約千年前の平安時代、玉造小町という女性の病気が国分寺の薬師如来の霊験で治り元の姿に戻ったことによると伝えられている。
国分寺教育委員会 平成20年3月
(現地案内板説明文より)

おたかの道湧水園でも知りましたが、この国分寺崖線である「ハケ」がろ過装置となって湧水になっているということで、まさに自然の恵みというべきことでしょう。
流石に名勝に指定されているので、今後、湧水源が消失することもなくなるのでしょう。

ここからは「お鷹の道」を逆に進んで国分寺に向います。
湧水の小川 蛍の澄む小川 お鷹の道は途中に蛍の澄む小川があったり、また湧水園から湧き出している小川が流れ出ているのが見て取れます。

お鷹の道 手づくり郷土大賞 ここまで整備するには随分と労力が要ったことでしょうが、流石に「手づくり郷土大賞」を受賞しているだけのことはありそうです。

自然が溢れているおたかの道湧水園でした。

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