史蹟武蔵国分寺跡 #4

最後に訪れるのが、所謂江戸時代の「国分寺」です。というよりは現在の、といったほうが良いかもしれません。
古の国分寺(跡)があり、江戸時代の国分寺があり、そして現在の国分寺がある場所が国分寺という、真にややこしいところなのですが、それがまた歴史の面白さを生んでいる一端でもあるのです。

国分寺楼門

お鷹の道を進むと国分寺に行き着きます。
ここは「おたかの道湧水園」へ向うときに見た「国分寺」の寺号標から真っ直ぐな参道と交差する場所です。
国分寺楼門 ちょうどその交差点に立派な楼門がそびえています。

市指定重宝 国分寺楼門
昭和51年10月7日指定
建物は間口3間(約6.2メートル)奥行き2間(約3.7メートル)の楼門造り、板金葺で、江戸時代の建築様式をよくとどめています。
この門は、米津出羽守田盛(通称内蔵助)の元菩提寺として建立された米津寺(東久留米市)の楼門を明治28年に移築したものです。国分寺境内の諸建築物とともに、国分寺の変遷を知る上うえで重要な建物です。

米津出羽守
出身地は、三河国碧海郡米津村で出羽守田盛の時に久留米村前沢を知行地とする。石高は15,000石、大阪定番を勤める。
国分寺市教育委員会
(現地案内板説明文より)

現在の米津寺には山門がありません。明治時代の火災で殆どの建物を焼失してしまったことから、再建のために残った山門をこの国分寺に売却・移築したのだそうです。それを基にして鉄筋コンクリート造りの本堂や、八角堂などの伽藍を整えており、米津家4代の当主、および親族の墓所は都指定史跡なのだそうです。
どのような経緯で国分寺を売却先に決定したのかはわかりませんが、万治3(1660)年創建の由緒ある米津寺の山門ですから、それなりの歴史と価値があるということでしょう。

国分寺楼門 ここでこの楼門の中に掲出されている札に注目していしまいました。

『・・・弘法大師 国分寺「くにをわけ たからをつみて たつてらの すへのよまでも りやくのこせり」・・・』と記載されています。
調べてみればこれは“ご詠歌”というもののようです。
ご詠歌とは、仏教の教えを五・七・五・七・七の和歌の構成で、旋律=曲に乗せて唱えるもので、日本仏教においては平安時代より伝わる宗教的伝統芸能の一つなのだそうです。
一般的には平安時代の中頃の花山天皇が西国33ヶ所巡礼の時に各札所で詠んだ和歌を、後世の巡礼者が節をつけて巡礼歌として歌ったものが最初と言われているようです。
これと同じように四国88ヶ所巡礼でのご詠歌がこの歌のようです。 四国88ヵ所巡礼内(土佐国16ヵ所)の29番札所である南国市の摩尼山国分寺がこの歌を詠まれているようです。
漢字に置き換えると「国を分け 宝を積みて 建つ寺の 末の世までの 利益のこせり」ということで、“国を分け・・・”が国分寺のことで、“利益のこせり”というのがご本尊のご利益のことをいうようです。

というように巡礼地の国分寺であれば、このご詠歌が歌われると思ったのですが、どうやら早合点だったようです。
同じ四国88ヵ所巡礼には各県に国分寺があり、その国分寺ごとにご詠歌は異なっていました。
15番札所:徳島市・薬王山国分寺
「薄く濃くわけわけ色を染めぬれば 流転生死の秋のもみじ葉」“濃く”=国、“わけ”=分です。
59番札所:今治市・金光山国分寺
「守護のため 建ててあがむる 国分寺 いよいよ恵む 薬師なりけり」
80番札所:高松市・白牛山國分寺
「国を分け 野山をしのぎ 寺々に 詣れる人を 助けましませ」
というように、宗教的な教えもあるのかもしれませんが、どちらかというと各寺院の特徴を表したものとも思えます。それはそれで非常に判り易いものです。
因みに、薬王山国分寺は「阿波国分寺跡」として徳島県指定史跡で、摩尼山国分寺は「摩尼山国分寺」として国指定史跡、金光山国分寺は「伊予国分寺塔址(跡)」として国指定史跡、白牛山國分寺は「讃岐国分寺跡」として国の特別史跡に指定されています。

国分寺万葉植物園

国分寺 楼門の後ろが現在の国分寺の境内です。築地塀と門柱がなかなか立派です。

遠目からでもかなり樹木に覆われた境内というのが見て取れますが、植物園も兼ねているのです。

市指定天然記念物 万葉植物園 指定年月日 昭和39年1月15日
史跡武蔵国分寺跡(国指定)を訪れる人々に、この寺が栄えていた頃に編さんされた「万葉集」より、当時の歌人達が好んで歌の題材とした植物を集め、国分寺創建のころの生活や、文化、思想を知る一助にと、元国分寺住職、星野亮勝氏が昭和25年に計画し昭和38年まで、13年かかって採集したものです。
現在約160種の植物が集められていますが、これらは当地で裁植可能な限りの万葉植物を集めてあります。また、万葉植物には異説が多いので、異説のある植物はつとめて同じ場所に植えてあります。広さは約8,000平方メートルで万葉植物は一括して市の天然記念物に指定しています。
平成4年11月 国分寺教育委員会
(現地案内板説明文より)

こつこつと努力された結果が、このように花開いたということでしょう。まさに徳の高い方だからこそのなせる業です。
境内の入口からが植物園の始まりで、入口近くに早速見慣れた木が植えられています。

国分寺万葉植物園「ノイバラ」 「うまら」で、和名では“のばら”、“のいばら”のバラ科で日本品種の代表原種です。

これは5月、6月に訪れたバラ園で見てきましたので良く憶えています。流石にバラの盛りは終わっているので花は咲いていませんが、白い小さな可憐な花を咲かせます。
万葉集では「道の辺の荊の未にはほ豆のからまる君を離れか行かむ」と詠まれています。この歌は敷島公園のバラ園で解説されていて、“道端のうまら(ノイバラ)の先に絡みつく豆のように、私に絡みつく君をおいて別れゆく”という意味の歌でした。
このように160種の植物が和歌とともにこのように植栽・解説されているので、好きな方にはたまらないでしょう。今まで幾つか万葉植物園をみましたが、これだけの種類があるのもそう無いのではないでしょうか。
国分寺万葉植物園 国分寺万葉植物園 国分寺万葉植物園 まさに処狭し、といったところでしょう。

国分寺本堂 ここで後先にはなってしまいましたが、本堂に参詣です。

江戸名所図会「国分寺」 この国分寺についても江戸名所図会ではこのように描かれています。

そして国分寺を以下のように紹介しています。

医王山国分寺
最勝院と号す。国分寺村にあり。府中より北の方、十八町を隔つ。当寺は天平年間〔729-49〕、行基菩薩草創するところにして、聖武天皇〔701-56〕の勅願所なり。中興開山を教心阿閣梨と号す。いまは新義の真言宗なり。
(中略)
当寺、往古源頼義朝臣〔988-1075〕・同義家朝臣〔1039-1106〕、奥州征伐発向の頃も当寺へ入りたまひ、その頃は盛大の寺院なりしといふ。あまたの星霜を経て、元弘〔1331-34〕の兵火に亡びしを、新田家にて再興ありしも、兵革の世つひに古へに復すことなし。
しかるに宝暦年間{1781-64〕、権大僧都法印賢盛、衆縁を募り新たに医王閣を営建し、伝ふるところの霊像を安じて霊跡を表す。いま古伽藍の礎石のみ、厳然として田間阡陌の間に埋もれて懐旧の情を催せり(この寺前畑の中に、かつたい塚・かうかけ堺など字する地あり。ある人いふ、かつたいは乞食、かうかけ場は頸掛け場なるべしと。よつて按ずるに、古へ合戦の後、敵方の首級を掛けし地なれば、その傍らに乞食など住居してありしならんか)。
(江戸名所図会より)

現在の国分寺に関しては武蔵国分寺の消滅から紐解かなければならないでしょう。
当時、鎌倉幕府の北条家に対して元弘3(1333)年5月8日、新田義貞は上野国(現在の栃木県)で鎌倉幕府打倒の兵を挙げました。この時の新田軍はわずか150騎ばかりだったのですが、南行しながら源氏一派が合流し、5月9日外様御家人の最有力者である足利高氏(後の尊氏)の嫡男が加わったことにより凡そ20万の軍勢に膨れ上がったそうです。
新田軍はこの軍勢で鎌倉街道沿いに南下し入間川を渡ります。そして5月11,12日の小手指原と久米川の戦いで幕府軍を撃破したのです。幕府軍は武蔵国の最後の要害である多摩川で新田軍を食い止めるべく分倍河原(現在の東京都府中市)に撤退したのでした。
この敗報に接した鎌倉幕府は、新田軍を迎え撃つべく急遽10万の軍勢を派遣し分倍河原の幕府軍と合流したのです。
5月15日、2日間の休息を終えた新田軍は分倍河原の幕府軍への攻撃を開始しましたが、援軍を得た幕府軍の士気は高く、逆に新田軍を返り討ちにし新田軍は堀金(現在の狭山市堀兼)周辺まで退却を余儀なくされたそうで、この敗走の際にこの“武蔵国分寺”が焼失したと言われているのです。
この後は新田軍の奇襲により幕府軍を撃破し、この分倍河原の戦いで新田軍が幕府軍に対し決定的な勝利を収めたことにより幕府軍は完全な守勢に転じ、ついに新田軍は鎌倉に乱入し倒幕最後の合戦となる“東勝寺合戦”につながるのです。

倒幕のなった後の建武2(1335)年に新田義貞により薬師堂が寄進され旧金堂付近に建てられたそうですが、往古の繁栄を見るには到底至らず、一地方寺院として細々と命脈を保っていたにすぎなかったようです。
時代は下って江戸時代の社寺保護政策により享保18(1733)年にやっと本堂が建立されたのでした。これが現在の本堂で、その後の昭和62年に改築されたものだそうです。

国分寺薬師堂

本堂を参拝した後は、江戸名所図会にも見える薬師堂に向います。
不動堂石段 このように現在でも石段があり、まるで江戸時代の名残を留めているかのようです。

仁王門 石段を上がると立派な仁王門が建っています。

市指定重宝 国分寺仁王門 指定年月日 昭和39年1月15日
この門は、宝暦年間(1751-1763)に建立された入母屋造の八脚門で、間口が9.0メートル、奥行が3.6メートルあります。
使用されている建築材は、「新編武蔵風土記稿」の仁王門の条に、「此の門近世までの薬師堂なりしを再興の時きりちぢめて仁王門にせり」とあるように、建武2年(1335)に建立された旧薬師堂(江戸時代初め頃の「国分寺村古絵図」によると僧寺の金堂跡付近にあった)に使用されていたものを再利用したと伝えられていますが、杉材の柱などに残る組立て用の穴の彫り方からこのことがうかがえます。
この門の左右には、阿(口を開いている)・吽(口を閉じている)ニ体の仁王像(高さ2.5メートル)が安置されていますが、享保3年(1718)造立されたもので、作者は不明です。
平成4年3月 国分寺市教育委員会
(現地案内板説明文より)

非常に興味深い内容です。
江戸名所図会にも「二王門(石階の中腹にあり。金剛・密迹の二像を置く。作者いまだ詳らかならず。堂材は古へのものにして、旧地は半丁あまり南にあり)。」と記載されているように、金堂付近にあった旧薬師堂とは紛れも無い新田義貞の建立した薬師堂のことですから、本来は鎌倉時代末期の建造物ともいえるでしょう。
仁王像 仁王像 こちらがその阿吽の仁王像です。

仁王像の作者は不詳とのことですが、かなり重厚感のある仁王像で、門自体が旧薬師堂であるのですから、必然的にこの像は江戸時代のものと考えられるわけです。

薬師堂石段 仁王門を抜けるとまた石段があり、その石段を上がると少し広い平坦な部分になります。

北院跡 北院跡 その一角に石柱が立っており「北院址」と刻まれています。

かつての武蔵国分寺にあった「北方建物」といわれるところで、この北方建物がどのような施設だったのかはわかりませんが、このあたりまで施設があったのですから、いかに寺域が広大だったかを改めて感じさせてくれます。

国分寺薬師堂 さらに数段の石段を上がるといよいよ薬師堂です。

国指定重要文化財 木造薬師如来坐像  指定年月日:大正3年4月17日
市指定重宝 国分寺薬師堂 指定年月日:昭和51年10月26日
薬師堂に安置されている木造薬師如来坐像は、平安時代末期、あるいは鎌倉時代初期の製作と考えられ、作者は不明です。
寄木造の漆箔仕上げで、像高は約191.5センチメートルあります。蓮華座に坐し、印相は右手が施無畏印、左手に薬壷を持っています。台座および光背は後代の補作と思われます。
薬師如来は、日光・月光の両菩薩を脇侍とし、眷属として十二神将を従えていますが、当国分寺の十二神将は、頭部の墨書から元禄2年(1689)の作であることがわかっています。
薬師堂は、建武2年(1335)新田義貞の寄進により国分僧寺の金堂跡付近に建立されたと伝えられているもので、その後、享保元年(1716)に修復されましたが、宝暦年間(1751-1763)に現在地で再建されたものです。
堂内正面の長押には、明和元年(1764)奉献された深見玄岱の筆になる、「金光明四天王護国之寺」の寺額がかけられていますが、この寺額は東大寺西大門の勅額を模したものです。
平成4年3月 国分寺教育委員会
(現地案内板説明文より)

毎年10月10日に開帳されるとのことですので本尊を拝むことはできませんが、唯一武蔵国分寺の栄枯を見続けてきた薬師如来坐像は、今をどのように見ているのでしょうか。まさに歴史に彩られた国分寺の唯一の証人ともいえるでしょう。
四国八十八か所石仏巡り 江戸時代に再建された薬師堂を眺めていると、裏手に沢山の石仏が安置されています。

これは四国八十八か所石仏巡りというものだそうで、いわゆる“お砂踏み”と同じようなものでしょうか。
これを最後に武蔵国分寺跡を後にすることになりました。
武蔵国分寺跡と国分寺は、平安と江戸と現在をつなぐ歴史を偲ぶことができる非常に興味深い場所でした。

帰りは薬師堂の左手にある脇門から境内をでます。
土師竪穴住居跡 すぐ左側に「国分寺公園」という小さな公園があり、その一角に何やら案内板が立っています。

市指定史跡 土師竪穴住居跡 指定年月日:昭和39年1月15日
昭和31年、日本考古学協会仏教遺跡調査特別委員会によって、初めて武蔵国分寺跡の本格的な発掘調査が行われました。
この時、僧寺の金堂・講堂跡とともに薬師堂の西側でも調査が行われ、僧寺の寺域を境する北辺・西辺の両溝跡と寺域の内外に同時代の竪穴住居跡が四棟発見された。この中で、寺域内より発見された二号竪穴住居跡を史跡指定したものです。
この住居跡は、規模が4m×4.2mのほぼ方形をしており、煮炊きを行った竈が北壁に2ヶ所、東壁に1ヶ所設けられていた。住居内部からは完形の土器8点、完形の1点など多数の遺物が出土しています。
名称の「土師」は、当時一般的に使用されていた土器の一種類である土師器を指しており、「土師器を使用していた時代の」という意味です。
平成4年3月 国分寺市教育委員会
(現地案内板説明文より)

“竪穴住居”といわれるとどうも縄文時代をイメージしがちですが、あれは“竪穴式住居”ですから、“式”で区別されているのでしょう。
現在は埋め戻されているのか何も無い状態ですが奈良・平安時代の生活の息吹を感じる住居跡で、どうやらこの辺りには無数といって良いくらいの住居跡があるようです。これだけの規模の武蔵国分寺ですから、人口もかなり多かったことでしょう。
本村八幡神社 そして、公園の後にある「本村八幡神社」に参拝して、「史跡武蔵国分寺跡」散策の最後としました。

「史跡武蔵国分寺跡」は“国分尼寺跡”や“東山道遺跡”などまだまだ見所は沢山あるのですが、時間の都合も有り今回はここで終了としますが、「史跡武蔵国分寺跡」の一端といいながらも国分寺市ならではの貴重な史跡を知ることができた充実した時間でした。

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