高幡不動尊 #1

国分寺市を後にして、次に向うのは日野市にある高幡不動尊です。
国分寺市からは凡そ3、40分といったところでしょうか、PM1:00少し前に到着し先ずは門前町で昼食をとることにしました。
開運蕎麦 不動尊の一番近くにある文字通りの【そば処 開運そば】というそば屋で、結構美味しいお蕎麦をいただいて参詣に向います。

金剛山仁王門

高幡不動 この日は「第28回あじさいまつり」が開催中とあって華やかな装飾や屋台が出店しています。

早速、通りを渡って境内に入ります。
高幡不動 仁王門横には「別格本山高幡山金剛密寺」と刻まれた寺号標がありますが、高幡不動の正式名称は「高幡山明王院金剛寺」です。

高幡不動尊金剛寺の沿革
真言宗智山派別格本山、高幡山明王院金剛寺は古来関東三不動の一つに挙げられ高幡不動尊として親しまれている。その草創は古文書によれば大宝年間(701)以前とも或いは奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられるが、今を去る1,100余年前、平安時代初期に慈覚大師円仁が、清和天皇の勅願によって当地を東関鎮護の霊場と定めて山中に不動堂を建立し、不動明王をご安置したのに始まる。
のち建武2年(1335)8月4日夜の大風によって山中の堂宇が倒壊したので、時の住僧儀海上人が康永元年(1342)麓に移し建てたのが現在の不動堂で続いて建てられた仁王門ともども関東稀に見る古文化財である。足利時代は 「汗かき不動」と呼ばれて錬倉公方をはじめとする戦国武将の尊崇をあつめ、江戸時代には関東十一檀林・火防の不動尊として広く庶民の借仰をあつめた。当時門末三十六ケ寺を従えた大寺院であったが安永8年の業火により大日堂・大師堂をはじめ奥院伽藍を一挙に焼失した。その後、歴代住持の尽カにより徐々に復興に向ったが殊に昭和50年以降五重塔・大日堂・鐘楼・宝輪閣・奥殿等の工事が続き、更に近年大師堂・聖天堂の再建工事も完了、漸く往時を凌ぐ程の寺観を呈するようになった。
総重量1,100キロを越える巨像で、日本一と伝えられた重文丈六不動三尊は1000年ぶりの修復作業が完了し現在奥殿にご安置されている。
(「高幡山金剛寺」パンフレットより)

建武2年に堂宇が倒壊したとのことですが、同じ年に武蔵国分寺跡には新田義貞により薬師堂が建立されたという事実から、まさに歴史の面白さを感じる瞬間です。最も何の関連もないことですが・・・。
話を本題に戻しますが関東三大不動とは、ここ高幡山金剛寺と成田山新勝寺に玉山總願寺のことをいうそうです。玉山總願寺は埼玉県の加須市にある古刹です。これらの三大不動は2008年9月に玉山總願寺、そして2011年1月の初詣に成田山新勝寺を訪れていますから、一応これで関東三大不動尊はすべて参詣したということになります。
しかし、ここで一応と書いたのは、実はこの三大不動尊には別な説があり、高幡山金剛寺と成田山新勝寺は代わらずに、玉山總願寺に代わって、神奈川県伊勢原市の雨降山大山寺(大山不動尊)、或いは飯能市の高貴山常楽院(高山不動尊)ともいわれているからなのです。まあ、三大好きの日本人にとっては入るか入らないかで、随分と価値が変わり和すから自称・他称はともかく常に3つでは収まらないケースは多いようです。

話はさらに戻って、先の寺号標にもあった“別格本山”の称号ですが、以前訪れた「深大寺」も天台宗の別格本山で、正式名称も「天台宗別格本山浮岳山昌楽院深大寺」でした。
天台宗でも他でも同じように別格本山とは寺の格式で、頂点は「総本山」で真言宗智山派では京都市の「智積院」です。
以降の格式は以下の通りです。
・別院:愛宕薬師真福寺(東京都港区)
・大本山:成田山新勝寺(千葉県成田市)、川崎大師平間寺(神奈川県川崎市)、高尾山薬王院(東京都八王子市)
・別格本山:高幡不動金剛寺(東京都日野市)、大須観音宝生院(愛知県名古屋市)
・旧別格本山:十二坊上品蓮台寺(京都市北区)、出流山満願寺(栃木県栃木市)、赤井獄薬師常福寺(福島県いわき市)
・化主出身・隠居寺院:乙寶寺(新潟県胎内市)、蓮華峰寺(新潟県佐渡市)、長久寺(名古屋市東区)、千本釈迦堂大報恩寺(京都市上京区)、清和院(京都市上京区)、海住山寺(京都府木津川市)
以上の格式となっているようです。

因みに関東十一檀林の一つではあるようですが、真言宗では特に11ではなく16とか21寺とかの記述はあるようです。調べた範囲では埼玉県越生の「報恩寺」、桶川市の「明星院」などがあるようですが良く判りませんでした。有名なのは天台宗のようで「関東18檀林」があるようです。
いずれにせよ、歴史、格式、規模などから名刹であることは間違いないようです。

江戸名所図会「高幡不動堂」 その証に江戸名所図会にも「高幡不動堂」として掲載されており、以下のように説明されています。

高幡山金剛寺
高幡邑にあり(『東鑑』に、高幡三郎といふ人の名あり。このところより出づるか)。新義の真言宗にして、花洛三宝院御門跡に属す。大宝〔701-04〕より以前の開創にして、その後弘法大師再興あり、また慈覚大師〔円仁、794-864〕再興すといふ。(後略)
(江戸名所図会より)

沿革でも慈覚大師の開祖とあるのですが、よくよく調べてみれば慈覚大師は天台宗の座主だった方で、その後弘法大師の再興があったことから真言宗にかわったのでしょうか。なかなか寺伝というのも結構都市伝説に近いイメージがありますから、どうにでもなると言えばそれまでですが、ある意味、こう言ったところが歴史の醍醐味でもあるわけです。

仁王門 さて肝心の「仁王門」ですが、全体を写せるアングルがありませんでしたが、歴史を感じさせる見事な建築物です。

重要文化財 金剛寺仁王門
仁王門は室町時代に当初、楼門として計画されたが、途中何らかの理由で計画変更され、上層の主要部を覆うような形で屋根がかけられ、近年まで外観は単層であった。昭和34年、解体復原修理の際、楼門として復原され、銅板葺きとなった。
仁王尊は室町時代のものと推定されている。楼上の扁額<高幡山>は江戸時代初期の運敞僧正(号泊如)の筆である。
昭和58年3月1日 日野市教育委員会
(現地案内板説明文より)

このように当初の計画が変更されて建造された仁王門とのことですが、ここで興味深い事項があります。
先の江戸名所図会の仁王門と新編武蔵風土記稿の仁王門を比べて見ます。
江戸名所図会の仁王門 新編武蔵風土記稿での仁王門 左が江戸名所図会で、右が新編武蔵風土記稿の仁王門です。

江戸名所図会では単層の草葺屋根のように描かれていて、新編武蔵風土記稿では重層の瓦葺きのように見えるのです。
新編武蔵風土記稿が1830年頃の完成で、江戸名所図会が1836年の刊行ですからほぼ同じ時代の作品ながらこのように異なっているのは実に不可思議なのですが、現在までのところ理由は判らないようで、謎に満ちた建造物もまた歴史の面白さといえるでしょう。

仁王像 仁王像 仁王門と言えば仁王像で、当然「阿」・「吽」の2像が祀られています。

室町時代の作と言えど所々に綺麗な彩色が残っているのが驚きです。よほど保存状態がよかったのでしょうかね。
余談ながら今まで知っていたつもりだった“阿・吽”でしたが、単純に“あっ!”と“ウン”と符丁のようなものかと思っていましたが(アホですね)、たまたま調べていて初めてきちんとした意味を理解しました。
阿吽とは仏教の呪文の1つで、梵字において“阿”は口を開いて最初に出す音で、“吽”は口を閉じて出す最後の音を著していて、そこから宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされたそうです。現在で言うところの“阿”がビッグバンで、“吽”がブラックホールということでしょうか。
このような意味から前者を真実や求道心に、後者を智慧や涅槃にたとえる場合もあるそうです。
また、対となる物を表す用語としても使用され、狛犬や仁王、沖縄のシーサーなど、一対で存在する宗教的な像のモチーフとして口が開いている方を阿形、閉じている方を吽形と言うのだそうです。
そしてここから転じて2人の人物の呼吸まで合わせる様にともに行動しているさまを「阿吽の呼吸」と呼ぶようになったようです。
素朴な疑問ですが、そうなると五十音の“あ”から始まり“ん”で終わるのもこの「阿・吽」から影響を受けているのでしょうか。
結構「阿吽」も奥が深いようです。

仁王門の扁額 最後にこの仁王門の見所である扁額です。

運敞僧正とは江戸時代前期に智積院第七世化主として智山教学を興隆した方だそうです。所謂総本山の座主ですから、いかにこの金剛寺の寺格が高かったかが窺える扁額です。
仁王門 見所満載の仁王門を抜けて反対側から見ると仁王門の全容を見ることができます。

旗かけの松 そして、仁王門の先の左手にあるのが「旗かけの松」です。

源頼義が前九年の役で奥州征討に向かう途中、不動尊に戦勝を祈願し、軍旗を立てかけたと伝えられている松で、二代目だそうです。

宝輪閣 “山アジサイ”の展示 反対側の大きな朱の美しい建物は「宝輪閣」と呼ばれているお札所です。

丁度、今日は「あじさいまつり」なので、建物の前に“山アジサイ”が展示されていました。
毎年節分の日にはここで有名人が豆まきを行うところだそうです。

金剛寺不動堂

金剛寺不動堂 金剛寺不動堂 仁王門の正面には重厚感ある不動堂が鎮座しています。

重要文化財 金剛寺不動堂
不動堂はもと山上にあったが、建武2年(1335)の台風で倒壊し時の住僧儀海上人の発願によって、康永元年(1342)現在地に移建された。昭和31年の解体復原修理の際、江戸時代の彫刻群等、後世のものは全部取り除かれ、創建時の豪荘・簡素な堂に復原され銅板葺となった。
尚、堂内安置の丈六不動明王像ならびに両童子像(平安時代)・不動明王像内文書69枚(南北朝時代)及び鰐口(鎌倉時代・文永10年銘)は全て重要文化財に指定されている。
日野市教育委員会
(現地案内板説明文より)

ここではもう少し不動堂の歴史について掘り下げて見ます。
まずは、江戸名所図会での記載です。

…縁起に日く、平山武者所季重、幼きより当寺の不動尊を崇敬し、世に強勇の名を蹴はせり。治承〔277-81〕の頃平家追討のときも、鎌倉の右大将家に属し、義経〔源義経、1157-89〕に随ひて西国に赴き、一の谷に勇を輝かし、武名世に明らけし。ゆゑにその後当山の頂にこの本尊の御堂を建立す。しかるに建武2年乙亥〔1335〕8月4日、暴風の災ひに罹りて殿堂破壊す。よって後平地にうつせり。その頃の財主は平助綱および大中臣女等なりといふ。爾来天下風水あるいは疫病等の諸災あらんとするときは、仏体汗を生じたまふとなり。その威霊は枚挙すべからず。
(江戸名所図会より)

平山季重とは現在の日野市生まれの武蔵七党の1つの西党の武将で、頼朝から非常に厚い信頼を得ていました。“武者所”と呼ばれていたのは京都で上皇を守る衛士(武者所)を努めたことに由来しているそうです。
そして富士川の戦いや常陸佐竹氏の金砂城攻めなどで活躍し、その後義経の配下となって宇治川の戦い、屋島・壇の浦の戦いなどにも出陣して勇名を馳せたようです。
そのような名声を得たことから、生まれ故郷である日野の金剛寺に不動堂を建立したのではないかと言われているのです。
その後、義経討伐の際は奥州藤原氏攻めに加わり義経を討つ功を挙げ、その功績により鎌倉幕府が開かれると元老に取り上げられ栄華を誇ったようです。
その後も平山家は存続していたのですが、1590年の小田原の役で平山氏一族は滅亡、没落しました。しかしながら現在でも平山氏の子孫を称する人々が多摩地区に多く暮らしているそうで、「平山季重ふれあい館は図書館・交流センター」や毎年4月に開催される「平山季重まつり」などにより、現在でも平山季重は日野市周辺では尊崇されているようです。

そしてその後の建武2年に不動堂が倒壊し、本尊やその他仏像もみな破損してしまったのです。
そこで暦応2(1339)年、徳常郷(日野領豊田村辺り)地頭の平助綱と妻の大中臣氏女が力を合わせ、本堂一宇と本尊の不動明王と脇侍の二童子を修造したのだそうです。
その時、「康永元(1342)年6月28日修復の功おわんぬ」とし、大壇那平助綱・大中臣氏女夫婦、別当権少僧都儀海、本尊修復・小比丘郎意(仏師)、大工・橘応忠、鍛冶・橘行近、葺・手平教広など関係者の名が記されていたのだそうです。こうして昭和31年の解体復原修理まで600年以上の時を刻んできたことになるのです。
余談ながら「仏体汗を生じたまふとなり。…」と言うことから“汗かき不動”と言われた由来が理解できます。

早速、不動堂を参拝します。
不動堂での法話 堂内では法話が行なわれているようで、TVで解説されていた貫主の方でした。

やはりこのようなところで説教を聴くと身が引き締まる思いになるのでしょうね。
とりあえず参拝だけを済ませて不動堂を後にしました。

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