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高幡不動尊 #2

まずは高幡不動尊の重要文化財をじっくり見学させていただきました。
本来こう言った参詣の仕方が良いかどうかは分りませんが、このような機会がなければこの地に来ることも無いかもしれませんから、個人的には有りだと勝手に思っています。
でもまあ、ついでに参拝と言うのも確かに後ろ指刺されそうですが…。

上杉憲顕の墳

不動堂の裏手には「奥殿」と呼ばれる宝物殿のような建築物があるので、次はその「奥殿」に向かう途中の手前に小さな社殿があるので立ち寄ってみました。
上杉憲顕公之墳 上杉憲顕公之墳 社殿には「上杉憲顕公之墳」と記載されています。

上杉堂(上杉憲顕の墓)
上杉憲顕は氏憲の子。享徳4年正月(1455年)足利成氏の軍と立川河原に会戦、深手を負い高幡寺に入り自刃した。
自然石はその墓標で、俗間信仰に茶湯石(服石)と言い、百か日忌払い供養の伝承がある。(鎌倉大草紙)
(現地案内板説明文より)

と言うことで写真1枚撮って「へえ」の一言でその場を離れてしまったのですが、後で調べるとこれにも中々興味深い事実があったようです。
先ずは江戸名所図会の記述から。

『鎌倉大草紙』〔室町末期に成るか〕に日く、「享徳4年〔1455〕正月21日、武州府中分倍川原へ寄せ来る。成氏〔足利成氏、1434-97〕五百余騎にて馳せ出で、短兵急にとりひしぎ、火出づるはどに攻め戦ひける間、上杉方の先手の大将右馬助入道憲顕、深手負ふて引きかねけるが、高旗寺にて自害す。鎌倉勢も勝軍はしけれども、石堂・一色以下百五十人討ち死にして、戦ひつかれ分倍河原に陣を取る」云々 (高旗寺といふは、当寺のことをいふなるべし)。
(江戸名所図会より)

最初に確認しておかなければならないのが、著名な上杉憲顕は2人いたということで、一人はこの室町時代末期の憲顕で、もう一人は鎌倉時代末期から南北朝時代の武将で、後の初代関東管領となった憲顕で、一般的のこの項での上杉憲顕は“上杉憲秋”といわれているようです。そしてこの憲顕は山内、扇谷と同様の犬懸上杉家という上杉一族なのです。

ことは応永23(1416)年に関東地方で起こった戦乱・上杉禅秀の乱に端を発します。上杉禅秀は憲顕の父で前関東管領である禅秀が鎌倉公方の足利持氏に対して起こした上杉禅秀の乱で、憲顕は父に従い一軍を率いて持氏と戦ったのですが、途中病を得て戦線離脱し京へ逃れ命を長らえたのでした。
その後、関東では関東管領の山内上杉憲実は、永享の乱で鎌倉公方持氏を敗死させたのですが、持氏の子、成氏が公方に就任すると持氏を敗死させた憲実は現在の山口県に亡命し憲実の子憲忠が関東管領になったのですが、享徳3(1454)年成氏に殺害されてしまいました。
そこで管領家の山内、扇谷、犬懸の上杉一族は、鎌倉公方成氏と享徳4(1455)年正月、立川や府中で大決戦を行ったのです。これがまた歴史の面白さで、この戦いを「分倍河原の戦い」というのです。
「分倍河原の戦い」といえば、先に訪れた武蔵国分寺跡での鎌倉幕府と新田貞義軍との戦いがそうでしたので、歴史上2度同じところで戦があったということになります。
当時の武蔵国の国府が府中にあったことから、ここが一つの重要な拠点となるわけなので2度繰り返しても不可思議ではないものの、この辺りが歴史の必然・偶然の面白さともいえるのでしょう。

話を元に戻すと、憲顕はこの「分倍河原の戦い」で上杉方の先手の大将として奮戦したようですが、同月21日深手を負い、自分の運命を悟り高幡寺(現在の高幡不動)に入って自決したのです。
その上杉憲顕の墓がこの上杉堂で、その墓標が茶湯石(服石)だということなのでしょう。しかしながら江戸名所図会では、あえて先の記述とは項をわけてこのように記載されています。

服石(不動堂の後ろ、愛宕の祠の傍らにあり。幅六尺ばかり、高さも五、六尺ばかりあり。あるもの、「この石を拝すれば、穢れに触れず」といふ。ゆゑに忌明のとき、土人この石に詣でて後、諸の仏神に参詣すといへり)。
(江戸名所図会より)

確かに茶湯石(服石)は不動堂の裏にあったようですが、果たして「愛宕の祠」というのが上杉堂を指しているのか、もしそうだとしても“傍らにあり”という記述から墓標とは考えにくいのではないかと推測します。
仏教の世界では故人となってから仏の世界に旅立つまでの期間を四十九日としています。したがって七七日忌(四十九日)は故人にとって新仏になる準備が整ったことと、遺族にとっても死者の穢れが取れる大事な日として手厚く法要が営われるのです。
そしてその後の法要が百カ日忌で故人が新仏になって初めての法要となるのです。従ってかつては七七日忌と同じような規模で法要を行うとされていたそうですが、現在では極々内輪で簡素に、或いは行わないというのが一般的だそうです。
このようなことから江戸時代には百カ日忌として、この茶湯石(服石)で法要が営まれ、いつしか上杉憲顕と合体したのではないでしょうか、全くの推測ですが。

奥殿-1

上杉堂の次は文化財の宝庫ともいえる「奥殿」へ向かいます。
奥殿 奥殿チケット 流石に文化財を収蔵しているだけあって、外観は周りと調和したデザインですが、造りは頑丈そのものと言った感じです。

早速、拝観料300円で入館します。

丁度、入館したときに係りの方から後僅かで館内の説明が始まるので、それまで待たれてはとのことでしたので、折角の機会なので説明を聞きながら展示品を拝観することにしました。

拝観が始まったときには20名くらいのかたがいらっしゃったでしょうか。
写真撮影は禁止なので写せませんでしたが、比較的若い僧侶の方が案内をしていただくようで、参加者20名のうちの多くはこのあたりの歴史ボランティアの方が勉強に来ているようでした。
勿論、全てを案内していただくと大変な時間がかかるので、主にポイントを絞ってご説明いただきました。

最初が「大日如来像」です。
高幡不動の名で知られているので注目はどうしても不動像に目がいってしまうのですが、金剛寺としての本尊が「大日如来像」なのです。

市指定有形文化財 金剛界大日如来像 平安時代10世紀
像高 八三・八Cm 一木造 材質 ケヤキ・脚部 榧
関東地方稀に見る古仏で平安中期の作 金剛寺の本尊として永く大日堂にご安置されていたが、平成十九年から京都の(財)美術院に依嘱し造像当初の姿を最大限に保存する方式で修復作業がとり行なわれた。
(奥殿参拝のしおり)

このように、この像は2007年9月から約1年をかけて京都市の美術院国宝修理所で修理され、2008年10月に戻ってきたものなのです。
興味深いのは、今回の場合は、単なる老朽化の補強ではなく本来の彫刻面が下地の上の布張りや漆箔などで覆われていたものを取り除き、現代の技法による補強を行なったことです。
これによって少しスリムな「大日如来像」となったのですが、その剥ぎ取られた補強材も展示されていて、あたかも脱皮のような…、といったら罰が当たるでしょうが、そんな感じで非常に珍しいものを見ることができました。
説明では「1000年前の古い姿になって戻られた」という優雅な説明がなされていました。確かに脱皮は無いですね…。
この修理によってこの「大日如来像」が平安時代中期の10世紀頃のものであることが判明したそうで、現在は日野市の指定文化財となっています。

次に案内されたのが「鰐口」です。鰐口とは大抵賽銭箱の手前にある紐のついたドラみたいなものです。
これは重要文化財に指定されていると言う、大層貴重なものなのです。
鎌倉時代、文永10(1273)年銘の関東地方最古と言われるところが文化財としての価値なのでしょうが、特にこの鰐口には高幡不動の由緒が記載されていることも1つの特徴のようで、清和天皇の勅願により慈覚大師が建立し、第二の建立は平円・陽成天皇で、このときに源頼義奉賓の由緒が刻まれ、第三建立の永意の時に東密系に替った事が知られるという記述がされているそうです。
平たく言えば開基されたときは天台宗だったはずが、いつの間にか真言宗に代わってしまったということが書かれていると言うことで、この経緯については金剛寺もよく分らないのだそうです。
それにしてもこの鰐口は江戸名所図会でも記載されているのですから、よほど古から知られた存在だったのでしょう。

同じ展示室の隅にあるのが「歓喜天像」だそうです。
文字通りのセックスのシンボルだそうで、男女が抱き合った形で頭が人頭ではなく像の頭になっていて、多くは厨子などに安置され秘仏として一般に公開されることは少ない像なのだそうですが、ここ高幡不動では多くの方に見ていただきたいという思いで、特に秘仏にもせず公開しているのだそうです。
更にこの高幡不動の歓喜天は現存する最古の木造歓喜天なのだそうです。
ここまで言われるとどうしても見たいのは本能で、撮影が禁止のため、ここはあえてパンフレットの写真を掲載させていただきました。(問題あれば削除いたします)
歓喜天 《写真:(C)高幡山金剛寺》

説明によると歓喜天の好きなものは3つあるそうで、酒・大根・甘いものだそうです。
そして現在この中の“甘いもの”として「歓喜団子」と言うものが有るそうですが、現在は京都の店1軒だけでしか作られていないそうです。
ここまで説明を聞くともう少し掘り下げてみたくなるのが人の性、というよりは興味本位といったところでしょう。まずは「歓喜天」から紐解いて見ます。
まずはパンフレットの説明からです。

歓喜天像 平安時代
歓喜天は歓喜自在天・大聖歓喜天とも言い、略して聖天とも言う。象頭人身で、単身像には二腎・四腎・六腎・三面四腎像もあるが、男女二天が抱擁する双身像が一般的である。もとバラモン教の神で仏道修行者を誘惑する悪神であったが、仏教に帰依して魔障を排除する仏法守護神となった。
平安後期の作と推定される本像は男女二天の顔が正面を向く数少ない例で現在発見されている歓喜天像としては最古と言われている。
(奥殿参拝のしおり)

歓喜天とは、写真でも分るように二人で1つの神様ですが、本当の神仏は一方の女神の方だけなのだそうです。この写真ではどちらが女神か分りませんが、この女神が十一面観音の化身とされているのです。そして、もう一方は神ではなく毘那夜迦王という、説明で言うところのバラモン教の神という、どちらかと言えば魔物的な存在なのです。
この毘那夜迦王が疫病をはやらせ人々を苦しめているのをみて心を痛めた十一面観音は、毘那夜迦王の前に現れた際に何と毘那夜迦王と同じ姿に化けたのだそうです。そしてこの時、十一面観音は、仏法の信仰と引き換えに毘那夜迦王の欲望を鎮めましょうと申し出て、その姿に魅了された毘那夜迦王は喜んで承諾し、女神との抱擁の中で自らの欲望を堪能する一方、仏法の素晴らしさに感じ入る様子から、この抱擁する仏像を「歓喜天」と称するようになったのだそうです。
簡単にいえば△◆※・・・○×?#□@+●!!!!なのです(恐らく想像したとおりです)。
では一体何故に像の頭なのかと言えば、勿論、人の頭の歓喜天もあるようですが、どうやらインドの神で象の頭を持った「ガネーシャ」の影響ではないかと考えられているようです。
いずれにしても煩悩の権化みたいなセックスと信仰をどのように融合させるかがポイントだったのかもしれません。そしてそれを見事に信仰として具現化できたのが歓喜天というるのでしょう。

このように“怪しげな”(バチがあたるだろう、きっと)神仏ながら、霊験は非常にあらたかだそうで、一心に祈れば必ず何らかの形で奇跡的な救いの手が差し伸べられるという、大変ありがたい神仏だそうです。ただし、同時にひどく畏れ多い存在でもあり、いい加減に信仰するとバチが当たるのだそうです。(バチが当たるのは確定のようです…)
いわゆる綺麗なバラには棘がある、的な…(違うか、これもバチが当たるかなあ)。
いずれにしても容姿からは想像もできないパワーがあるのでしょう。そのせいかどうかは分りませんが、意外とこの歓喜天を自分で作る人が結構いるそうなんです。
『使呪法経』という書物にも「この像を作る功徳はお金には代えられない」と書かれているほどなのですが、折角作ったにもかかわらず後の供養を毎日行なわなければならない難しい儀式があることから、それが続かないためにお寺に奉納していしまう人も多いそうです。
ペットを飼うのと訳が違うのですから、扱いには注意しなければならないようです。それにしても自作するって言うのは、やはりその形あってのことからでしょうか。

そしてその難しい儀式をかいつまんで見ますが、基本的には歓喜天法(聖天法)と言うものがあるそうです。
まずは準備から。
円形の円檀に供物である“酒・大根・歓喜団(子)”を供えます。方檀の場合は供物を円形にならべるのだそうです。そして壇上に安置されている歓喜天の背後に生花を挿した華瓶を一個置きます。これが基本形のようです。
こうして準備ができたら次は修法(供養)で、もっとも一般的なのが浴油供という方法で油で歓喜天を沐浴させることだそうです。
銅器に清浄な油を入れて人肌に暖めて、その油を柄杓などで汲んで歓喜天の像に油を注ぐのです。108回を単位として1日に7回行なわなければならないようです。
他にも華水供・酒供などがあるそうですが、確かに一般人ではできない難しい供養です。

このようにしてお祀りされる歓喜天ですが、最後に歓喜天の好物の内、現在京都のお店1軒しか製造していない「歓喜団子」について調べ置きます。
現在、この歓喜団子を製造しているのは京都市東山区祇園にある「亀屋清永」というお店だそうで、元和3(1617)年創業の400年近い歴史をもつ老舗です。
その歓喜団である「清浄歓喜団」がこちらです。
清浄歓喜団 《写真:(C)亀屋清永》

“金袋”の形と言うのも歓喜天らしくてそそられますが、この商品についても、店舗についてもなかなか面白い歴史を持っているので、一度サイトを見られるとよいでしょう。

参考:【亀屋清永】http://www.kameyakiyonaga.co.jp/index.php

このように歓喜天にもなかなか興味深いところがたくさんありましたが、最後に調べてみたところやはりありました「日本三大聖天」です。
1.本龍院(通称・待乳山聖天)東京都台東区
2.宝山寺(通称・生駒聖天)奈良県生駒市
以上の2寺は揺るがないところのようですが、やはり第3の候補は幾つかあるようです。
歓喜院(通称・妻沼聖天)埼玉県熊谷市、足柄山聖天堂(通称・足柄聖天)静岡県小山町、大福田寺(通称・桑名聖天)三重県桑名市、東楽寺(通称・豊岡聖天)兵庫県豊岡市が凌ぎをけずっているようです。
そういえば100選で妻沼聖天を訪れましたが、本尊は確か歓喜天御正体錫杖頭というものでした…。

まだまだ掘り下げどころ満載なのですが、一応歓喜天はこれにて終了します。今度、歓喜天特集でもしようかしらん…。
ちょっとはしゃぎ過ぎの感は否めませんが「奥殿」拝観はまだまだ続きます。

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