高幡不動尊 #3

目が点の歓喜天を終えて、次の展示コーナーに移ります。
モチベーションがかなり上がってくる感じです。なかなかこういった場所ではないことです。

奥殿-2

先ほどの「歓喜天像」とは打って変わって地味な文化財で「五部権現社神牌」という位牌のようなものが5つ並んだものです。
地味ながらも国指定の重要美術品なのです。

重要美術品 五部権現社 神牌五基 南北朝時代暦応3年(1340)
五部権現社(都指定文化財)のご神体で表に源頼義勧請の八幡大菩薩を中心に垂迹神を配し、裏に本地仏を刻む、本地垂迹の好資料である。
書は中興開山儀海上人のものと推定され、上部の種子、下部の三昧耶形とも見事である。
(垂迹神)稲荷大明神 (本地仏)虚空蔵菩薩
(垂迹神)丹生大明神 (本地仏)胎蔵界大日
(垂迹神)八幡大菩薩 (本地仏)金剛薩捶
(垂迹神)高野大明神 (本地仏)金剛界大日
(垂迹神)清瀧権現位 (本地仏)如意輪観音
(奥殿参拝のしおり)

この当時は神仏習合ですから、表に神が祀られ、裏に仏が祀られても何の不思議もないわけです。
ここでの説明で興味深かったのは「丹生大明神」で、 丹生大明神とは丹生都比売大神のことで、天照大御神の妹神なので女神です。
“丹”は朱砂(朱色の硫化水銀)のことで、その鉱脈のあるところを“丹生”というそうです。朱砂はそのまま朱色の顔料となり、精製すると水銀が取れるのです。したがって丹生都比売大神は、朱砂を採掘する一族が祀る神であると考えられているようです。
水銀の女神というのもなかなか色っぽいものですが、反面、悪女的でもありますね。
歓喜天のノリが続いてしまっています・・・。

この展示室にはまだだ興味深い展示物が数多くあります。
なんと言ってもこの「奥殿」の特色のひとつとして、これらの仏像や資料のほかに地域がら土方歳三関連の展示があることでしょう。
この展示室にも土方歳三直筆の手紙があり、この手紙は鳥羽・伏見の戦い(いわゆる戊辰戦争勃発)前に書かれたものだそうで、近々京都で一大事が起こりそうな気配を綴っていて、もしこのことで死ぬようなことがあれば高幡不動で弔って欲しい、とのことが書かれているそうです。流石に日野の英雄と名刹の関係が窺えます。
案内によると最近これらの土方の文書を取材にきた方があった様で、その方たちは新撰組の「せん」の字が“テヘン”の「撰」の字なのか、“シンニュウ”の「選」なのかを調べているそうで、ここ高幡不動に残る文書はすべて“シンニュウ”の「選」になっているそうです。
中々ディープな研究をしている方がいるのですね。

次に説明をいただいたのが反対側にある「像内文書」です。

重要文化財 像内文書 南北朝時代暦応2年(1339)
不動明王の頭部に納められていた六十九枚の古文書。南北朝期の常陸合戦のおり、武蔵守護高師冬に動員された地元武士・山内経之が常陸に向う途中や下河辺・駒城合戦の陣中から妻子や知人、高幡山の住僧などに書き送った消息文でその真に不動尊や大黒天の印仏が押されている。 中世武士の生々しい記録でもあり資料的価値が極めて高い。亦印仏は戦死した経之の菩提を弔う為のものと推定されている。 尚像内文書六十九枚のうち五十枚は山内経之の筆跡である。』(奥殿参拝のしおり)

かなりボロボロになっていましたが、字はある程度読み取ることができるようです。
内容については出陣にあたっての費用は全て自分持ちで、戦地でも馬や武具・食料の補給、戦費調達、さらに兵員の補充など苦労が耐えない事が綴られているそうです。そして留守を預かる妻と子の所領対策への励ましを書いています。その様な中で自分自身は常に死と隣り合わせの日々を送っているという赤裸々な内容となっているようです。

その一つの例としてこのような手紙があります。

月日不明(暦応二年)、経之書状、僧の御方・六郎宛
下河辺庄の向いに着きました。下向しない人は所領を没収されると言われています。その他訴訟をする人などは本領までもとられるとのことです。笠幡の北方の「しほえ殿跡」も………いかにしても銭二、三貫文ほしいのです。大進房に仰せて銭五貫文を借りて下さい。

大進房とはこの高幡不動のことをいうそうで、高幡不動から借金をしてくれといった内容です。
華々しい軍功を挙げて歴史の一端に名を残すのはホンの一握りの人たちで、多くはこのように名も無き(名は有るか・・・)人々の苦労の積み重ねの上で成り立っているということは、いつの時代でも同じことかもしれません。
時代は違えども、一方では土方歳三のように名を残す人と、山内経之のように人知れず苦労を重ねている人々といった、実に対照的な展示物で、歴史は華やかな部分をクローズアップしがちなのですが、このような日陰の歴史にも重要な価値があるということです。
何となく切なくなる手紙です・・・。

「像内文書」の近くには「勧進状」というこれも重要文化財が展示されています。
これは建武2年後の再建された不動堂を元の山上に戻そうという発案を乗海という僧が起こし勧進帳を作成したのです。勧進帳とは寄付を募るための趣意書ですから、説得力のある文章が必要となるわけです。そこで、当時の名文家であった深大寺の長弁和尚に勧進帳の案文を依頼したものなのです。
結局、この計画は頓挫したのですが、時の名文家に依頼したことと、このようなプロジェクトがあったということに興味を覚えるところです。

最後の展示室には、やはり地元のヒーロー、土方歳三に関する展示がされています。
様々な遺品、関連品などが展示されているのですが、説明があったのは何本かの揮毫です。揮毫とは毛筆で文字や絵を描くことで、特に知名人が頼まれて“書”を書くことをいうのでです。
ではその知名人とは、勝海舟と山岡鉄舟の2舟、榎本武揚、大鳥圭介で、要するに説明の余地も無い著名な旧幕府関係者達なのです。
明治12年に土方歳三の親戚筋にあたる「平忠次郎」という人が、土方亡き後これら旧幕府関係者をアポなし訪問し、一筆書いて欲しいと頼んだのだそうです。

「田舎に泊まろう」よりももっとハードルの高い訪問ですよ、これは。ちなみに明治12年前後の動向を調べてみました。 勝海舟:明治7年正四位、明治8年元老院議官、明治20年伯爵を受爵
山岡鉄舟:明治6年以降、宮内大丞、宮内少輔を歴任、明治20年子爵
榎本武揚:逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任
大鳥圭介:明治18年元老院議官に就任
このようにアポなしでしかも「土方歳三の親戚」ですといって、すんなり面会できるとも思えない面々なのです。確かに子孫の方が言うには、一応、平忠次郎の住所と名前が書かれた蚕種(蚕の卵)製造の鑑札(板)を身分証明書代わりに見せたと言うのですが、それにも“平忠次郎 神奈川県南多摩郡上田村”とし書かれていないのですから、よほど度胸があったのでしょう。
そしてそれに対して会って頂けたというところに、各人の懐の広さと、土方歳三の人徳を感じるのです。特に榎本武揚は取り次いだ女中に「土方君の親戚なら、ぜひ座敷に上がってもらうように」と訪問を受けたそうです。そして榎本武揚の揮毫と忠次郎氏の記念写真まで撮ってくれたそうですから、懐旧の情に駆られたのではないでしょうかね。
これら4人の揮毫とそしてその記念に撮られた写真も展示されていました。また、土方歳三の直筆の旗もダウンサイズされて掛け軸に付けられていました。
新撰組や土方歳三のファンなら一度は訪れている「奥殿」かもしれません。

ここまでが「奥殿」の展示品ですが、最後に参拝するのが不動堂の本尊である「不動明王座像」です。
これもパンフレットの写真を掲載しておきます。
不動明王像 《写真:(C)高幡山金剛寺》

重要文化財 木造不動明王像並びに雨童子像
高幡不動尊の丈六不動三尊は 関東唯一の平安時代の巨像で本尊は本丈六・両童子も半丈六で、古来日本一の不動三尊と伝えられ、三尊に火炎光背を加えた総重量は1100キロを越す。
関東武士勃興期の気分を伝える豪快な尊像で、11世紀末頃の作・当地の西党系諸民族が造立に関係したと推測されている。
建武2年(1335)の大風で大きな被害を受けたが、3年5ケ月をかけた此の度の修復作業で、南北朝期の変更部位は殆んど造立時の姿に戻された。然し大風被害の大きかった本尊の胸部・腹部は康永の修理を尊重して修復されている。
亦 此の度の修理では不動明王の火炎光背上部の三ツ宝珠から袈裟様の小布と不動明王の印仏のある短冊状の紙片に包まれた舎利一顆が発見されている。
尚 中尊の不動明王像は正統的な作風を示すが脇侍の両童子像はユーモラスな姿態で地方的な味わいがある。

不動明王坐像 平安時代(重文):像高・285.8cm 火炎光背・419.8cm、材質・頭部・体部-桧・膝部-榧
矜羯羅童子像 平安時代(重文):像高・193.2cm 材質・朴
制托迦童子像 平安時代(重文):像高・230.4cm 材質・橡
(奥殿参拝のしおり)

一見しただけで、豪壮でいながらそこはかとない優美さを感じさせる不動明王像です。三尊で1トンをこえる重量ですから相当なものです。ここでの説明で1つ利口になったのは仏像の大きさでした。
“本尊は本丈六・両童子も半丈六”と記載されていますが、この「丈六」とは寸法のことだったのです。
丈六=1丈6尺のことで、現在の単位に直すと約4.85メートルとなります。ではなぜこの1丈6尺が仏像の大きさの基準となったのは、釈迦の背丈が1丈6尺あったことから由来しているのだそうです。
となると釈迦は5メートル近い大男と考えられ…、る訳は有りませんね。実際に当時の中国である周の時代の1丈6尺は、日本における1丈6尺の約4分の3だったそうなので、約3.6メートルと言うことになりますが、これでも不自然ではあります。しかしながら仏像では大型の仏像は坐像が多いので、丁度、坐像と人間の立った大きさがほぼ一緒と言へば、納得できないこともないようです。
いずれにしても、この釈迦と同じサイズで(あろうと…)作られた仏像のことを丈六仏といい、半丈六仏は見字どおり丈六仏の半分なので、8尺(約2.45メートル)の仏像と言うことになるのです。
従ってこの不動明王坐像も像高285.8cmですので立像の場合なら倍の1尺6寸となることから丈六仏ということになるのです。そして、この丈六仏が一つの基準となり、この丈六を越える仏像は全て大仏というそうです。

因みに両童子は半丈六ですが、立像なので“半”なのですが、この両童子について江戸名所図会での記載があります。

本尊不動明王は (古仏にして、作詳らかならず)座像一丈余あり(炎光に布字十有九を刻し、利益無辺自心堅固の相をあらはせり)。
脇士二童子、化人の作なりといふ (寺記にいふ、「あるとき忽然として化僧一人来り、告げて云く、『この本尊に二童子なきは不可なり、予これを作るべし』と。住持諾す。よつて化僧は一室に入って戸を閉ぢ、あへて戸外に出づることなし。不日にして造功畢んぬ。つひに異僧は去つて、その行方をしらず」と云々。その室の地に稲荷を勧請す)。
(江戸名所図会より)

一体この化僧とは誰なのでしょうか。ちょっと興味を覚える両童子です。

こうして最後に不動明王を参拝して「奥殿」を後にすることになりますが、ここで素朴な疑問として、この「奥殿」に入館しなければ(拝観料を支払って)本尊は拝めないという、若干理不尽なことに行き当たります。
奥殿 奥殿 これにはキチンと対応されていて、参拝だけの方は正面の向拝からガラス越しに本尊を拝んでいただき、文化財拝観を兼ねて参拝される方は膝元まで近づいて参拝できると言う仕組みになっているのです。

最後に一応、主な文化財を掲載しておきましょう。
●建造物:不動堂(重要文化財)康永元年、仁王門(重要文化財)室町時代、五部権現社殿(都有形文化財)寛文十年
●仏像:不動明王像(重要文化財)平安時代、衿掲羅童子像(重要文化財)平安時代、制托迦童子像(重要文化財)平安時代、大日如来像(市指定文化財)平安時代(十世紀)、歓喜天像・菩薩像三謳 平安時代
●仏画:尊勝曼茶羅(重要美術品)南北朝時代、弁財天十五童子(都有形文化財)室町時代、古仏画十点(市指定文化財)鎌倉時代~室町時代
●絵画:田公実作品群十七点(市指定文化財)江戸時代
●工芸:鰐口(重要文化財)文永十年銘、不動尊火炎刻文(重要文化財)康永元年銘、五部権現神牌(重要美術品)暦応三年、太刀(伝伯=菅安綱作 平山季重侃刀)、薙刀(三条宗近作 (在銘) 北条氏照所持)
●古文書:勧進状(重要文化財)応永二十二年長弁和尚文案、
 聖経頬:像内文書(六九点)(重要文化財)南北朝時代、弘法大師ご遺告(重要文化財)平安時代、理趣経曼茶羅(重要美術品)鎌倉時代、八箇大事(重要美術品)平安時代、神護寺経(重要美術品)平安時代、金剛寺文書(都有形文化財)江戸時代(4,110点)、土方文書(8点)(都有形文化財)室町~桃山時代、古今集(市指定文化財)至町時代 今川範政筆、古書・古経典(市指定文化財)(約8,000点)
●その他:文永の板碑(市指定文化財)鎌倉時代(文永八年)、新選組記念碑(市指定史跡)明治9年銘 21年建立、新選組関連資料群 数十点 幕末~明治初年
山茱及び愛宕山の自生針葉樹林 市指定天然記念物

以上の主な文化財をはじめとして約20,000点以上の文化財を保有しているのだそうです。
これだけの文化財が拝観できて300円で解説付き(価格の問題では有りませんが)ですから、必見と言っておきましょう。
個人的には歓喜天だけで300円払っても惜しくないですが…(完全に尾を引いています)。

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks