高幡不動尊 #4

朝からわかっていたことではあるのですが、「奥殿」から外に出ると雲行きが怪しくなり始めていました。
まあ、梅雨の時期ですからいつ雨が降ってきてもおかしくは無い天候ですが、できれば濡れないで散策したいもので、若干ここからはスピードアップを図ります。

金剛寺旧五部権現社殿

「奥殿」の拝観を終わって参道に戻ると、その前に無料休憩所があったのでしばし休憩することにしました。 地下になっていてそこには「千体地蔵堂参拝口」と記載されています。
千体地蔵堂 中に入ると2方向の壁に千体地蔵がズラッと祀られています。

正福寺にも千体小地蔵がありましたが、正福寺の素朴な地蔵尊とくらべて、どちらかといえば神秘的な空気感のある地蔵尊です。しかしながらどちらも一人一人の願いの重さは代わらないのでしょう。
弘法大師 千体地蔵堂 ここには空海大師のほか、様々な仏像が安置されていて、まさに「仏像のデパートやあ」と古いギャグを口ずさんでしまうほどです。

地下ということも有るのでしょうが、千体地蔵などに囲まれているので個人的にはやや落ち着いて休憩という気持ちにはなれない場所だったので、足早に千体地蔵堂を後にしてしまいました。

金剛寺旧五部権現社殿 参道を奥に進むと右手に覆屋のある社があります。
「旧五部権現社殿」だそうです。

東京都指定有形文化財 金剛寺旧五部権現社殿   
所在:日野市高幡733番地 指定:昭和35年2月13日 
『新編武蔵風土記稿』巻106、高幡村不動堂の条に「五部権現祠、同辺ニアリ、三尺四方ノ宮作ニシテ覆屋アリ。境内ノ鎮守ナリ。祭神ハ八幡、稲荷、丹生、高野、青龍権現ノ五座ナリ」とあり、もと暦応3年(1340)3月の刻銘のある木製五部権現神儀(重要美術品)を祀っていた。
構造形式は、一間社流造り鉄板葺きで、桁行1.52メートル、梁間1.30メートル。
江戸時代初期の宮作りとして類例少なく、貴重である。
東京都文化財保護条例(昭和51年3月31日改正)により、文化財の指定種別を都重宝から東京都指定有形文化財に変更しましたので、石造標識については、このように読み替えて下さい。
昭和52年11月3日 建設 東京都教育委員会
(現地案内版説明文より)

この社は元々八幡社として勧請されたものが、暦応3(1340)年銘のある「五部権現社神牌」を祀ったことから、八幡社のほか4社を合祀して、この年に建立されたものと考えられているようです。
金剛寺旧五部権現社殿 「五部権現社神牌」は先ほど「奥殿」で拝観したあの“水銀の女神”のあった5神です。

金剛寺旧五部権現社殿 その後、江戸時代前期の寛文11(1671)年に再建されたもので、新編武蔵風土記稿にも覆屋があるとの記載なので、江戸時代からこの形だったのでしょう。

もとは不動堂の裏手にあったそうですが、奥殿建設工事のために平成8年、現在地に移されたのだそうです。意外に朱塗りといい非常に状態がよいので、その際に改修などされたのかもしれませんね。

大日堂

参道の突き当たりにあるのが「大日堂」です。
大日堂山門 大日堂山門扁額 その手前には由緒ありそうな「山門」がありますが、肝心の由緒はわかりません。

ただ、この山門の扁額に書かれている「十善花開處」の文字は伊東祐享元帥が書かれたものだそうです。
伊東祐享元帥とは元薩摩藩士で、後に海軍に投じ、日清戦争の際には初代連合艦隊司令長官として軍功を残した人です。この後の第3代目の連合艦隊司令長官があの東郷平八郎となるのです。
どのような経緯で書かれたものかは判りませんが、ネイビー・ヒストリーファンとしては興味を惹かれるところです。

山門をくぐり抜けると1本の樹木があります。
金剛桜 「金剛桜」という樹木だそうです。

金剛桜
金剛桜の原木・薬師桜は、山形県白鷹町高玉の薬師堂前に、1300年の齢を重ねてきたエドヒガンである。
同所の金田聖夫氏は、千年のいのちをさらに後世に伝えるため、薬師桜の種子を蒔いて作った台木に親木の芽を接いで、親と全く同じ遺伝子を有する分身を育てる事に成功した。
本樹は同氏が育成した分身を、平成14年11月15日、重要文化財・木造不動明王及二童子像の保存修理完了を記念して植樹し、「金剛桜」と命名したものである。
平成14年11月15日 
高幡山金剛寺・日野さくら愛好会、後援:東京薬科大学・コニカ株式会社』(現地案内板説明文より)

よほどの銘木と調べてみれば確かに山形県では随一の大きさを誇る桜のようです。
樹齢も1300年という位なので、さもサイドストーリーもあるのではないかと思いきや、確かに伝説は残っているようです。
古の征夷大将軍・坂上田村麻呂と娘の悲恋といえば凡そ察しはつくでしょう。
田村麻呂の子を宿した娘が大蛇で、その大蛇が生んだ黄金の太刀で田村麻呂が誤って大蛇を切り殺してしまい、娘を哀れんだ田村麻呂が手植えした木がこの薬師桜という、見事な伝説がある桜なのです。
時は西暦796年のことですから、何を言っても許される時を刻んでいます。いわゆる時効・・・。まあ、このような伝説があるから歴史がさらに面白くなるのです。

伝説は伝説として、もう一つ事実として挙げられるのがこの金田聖夫氏なる方で、実は“(財)日本さくらの会・さくら専門委員”という肩書きを持つ方らしいです。
そもそも樹勢の衰えた薬師桜の保存活動に携わったのがきっかけで、件の2世苗木の育成にチャレンジし始めたそうです。最初は3,000粒の種をまいて発芽したのは3粒だけという大変なスタートだったようですが、現在では7、8割は発芽・成長させられるようになったそうです。そして、この薬師桜2世を全国に広めようと皇居や京都の神社仏閣を手始めに、全国の神社仏閣や公園などに植樹されているのだそうです。
何らかしらの繋がりで譲り受けたものなのでしょう。不動明王ともども1000年も2000年も生き続けるのかもしれません。

大日堂 正面にあるのが「大日堂」です。

この大日堂は高幡山の総本堂で奥殿で拝観した大日如来像などが安置されていたところです。しかし江戸時代の安永8(1779)年の大火で本尊はその災を免れたのですが、本堂は焼失してしまったそうです。その後長く仮本堂のままだったそうですが、昭和57年から5年の歳月をかけて改修工事が行われたのだそうです。
現在の本尊は奥殿に安置されていますが、その他に土方歳三らの位牌も収められていうそうです。ここも土方・新撰組ファンには必見なのでしょう。

そしてもう1つの見所が「鳴り龍」です。
これは江戸時代の画家・公実筆という墨絵の竜が天井に描かれていて、真下に立って手を打つと「びゅる、びゅる」と鳴くのだそうです。基本的には反響した音がさも竜が鳴いたように聞こえるというものですが、このもので有名なのが日光東照宮の「鳴き龍」です。
これも拝観料200円で見られるそうですが、時間もないので今回はパスします。
それにしても“鳴り”と“鳴き”はどう違うのでしょうか。

お鼻井戸

大日堂から左手に進んで参道とは離れた裏道を散策します。
鐘楼に上がる階段がありますが、現在は通行禁止になっています。結構急な階段ですから事故でも起こったのではないでしょうか。

お鼻井戸 お鼻井戸 その階段の先に案内板のある湧水のようなところがあります。

お鼻井戸:建武2年(1335年)の大暴風で、山中の不動堂が倒れた時、不動尊像がお鼻をついた処と伝えられています。
(現地案内板説明文より)

国分寺のお鷹の道などの様に多摩地区では湧水がかなり多いです。
それだけ自然環境が残っていると言うことにもなるのでしょう。そしてこの高幡不動にも、その湧水のひとつとして「お鼻井戸」なる奇妙な名前の湧水源が残っているのです。

この湧水はかなり古くから有名なようで、江戸名所図会にも記載されています。

鼻井(庫裡の前、左の方の山の据にあり。広さ七尺ばかりの井泉をいふ。相伝ふ、建武二年乙亥〔一三三五〕八月四日の夜、大風発り御堂たちまちに転倒す。ゆゑに平地に引き下すといへり。その頃本尊の御首の堕ちたるところに清泉涌出す。後、鼻井と称し阿伽とす。諸人寒熱の二病・腫物・眼疾等その余諸病ともに、あるいは飲み、あるいはその痛むところに塗りて、平愈せずといふことなしといへり)。
(江戸名所図会より)

現在では特に飲んだり、塗ったりはできないようですが、ミネラルなどが豊富なので江戸時代では効き目があったのかもしれません。
当時は行列のできる井戸だったかもしれません。

五重塔

お鼻井戸から歩いてくると真新しい社が2社建立されていました。
大師堂 聖天堂 太子堂と聖天堂です。

どちらも今年春に落成したようですが、震災の影響でまだ落慶法要が行なわれていないそうで、あらためて来年に延期されることになったそうです。まさに木の香りが漂ってきそうな2社でした。
因みにこの聖天堂にはあの歓喜天が祀られるのでしょうか…。

あじさい あじさい その先の右側には綺麗なアジサイが咲き誇っていました。

そういえば今日は“あじさいまつり”の開催日でもあったのですね。今回はアジサイは横目でチラッと見ただけで終わりにしておきました。

五重塔 そのアジサイの横にあるのが「五重塔」です。

かなり目新しい五重塔で、浅草寺の五重塔を思い出します。
これは先代の金剛寺貫主である秋山貫主が昭和5年に貫主に就任した時、一生の間に五重塔を建てようと発願され、50年目の昭和55年に建立したものだそうです。
前貫主の熱い思いが達成されたと言うことでしょう。

この五重塔は総高45mという高さを持った平安時代初期の様式で建てられた堂だそうです。
通常は昇ることはできないのですが、毎年4月末の春季大祭の際だけ昇ることができるそうです。昇れるようになっているだけでもすごいものです。内部は狭いコンクリート造りの螺旋階段になっているそうですが、壁一面に釈迦の伝承に関する彫刻が刻まれているそうです。
前貫主はじめ寺院関係者の悲願ともいえる五重塔なのでしょうが、現時点では金剛寺には似合っていない感じです。まあ、50年、100年すれば馴染んでくるのでしょうが、仁王門や不動堂とのギャップがキッチュ感を覚えてしまいます。
単に屁理屈をこねているだけで、もうしわけないのですが…。

土方歳三

最後に散策したのが土方歳三です。
それほど興味はありませんが、やはりお膝元と言うことで締めくくりに見ておかなければならないでしょう。

土方歳三の銅像 丁度、参道をはさんで仁王門と対にあるところに「土方歳三の銅像」が設置されています。

この台座に刻まれた碑文を読むと凡その土方歳三の生涯が理解できます。

幕末新選組副長土方歳三義豊は土方義淳の第四子として日野市石田に生る  生来聡明多感にして剣の道を天然理心流近藤邦武先生に学ぶ  文久三年幕府の求めに應じて浪士組に参加将軍家茂公に從って上洛す  京都守護職松平容保公の預りとなり更めて近藤勇を頭に新選組を結成し自らは副長として市中見廻り警固につとめ池田屋事件禁門の変等に勇名を轟かす 然し激動の時代 こと志と違って賊軍の汚名を被せられ鳥羽伏見の戦の後慶喜公從って海路江戸に戻り以後勝沼守都宮会津と転戦し明治二年五月十一日箱館戦争のさ中に戦死す  多摩の風土に育まれ義に生き節に殉じた歳三の三十五年の生涯は没後百数十年を経た今も男の美学として廣く語り継がれている  先に明治九年高幡山第二十九世賢雅和上は境内に近藤・土方両雄の碑を建ててその殉節を顕彰するも更に此の度東京日野ロータリークラブ会員一同はクラブ創立三十周年記念事業として弁天池々畔に出陣姿の土方歳三像を建立してその事績を永く後世に伝えんとするものである
(銅像碑文より)

近藤勇・土方歳三顕彰碑 ここにも記載してある通り隣には近藤勇・土方歳三顕彰碑が建てられています。

市指定史跡 近藤勇・土方歳三顕彰碑
この碑は新選組の近藤勇・土方歳三の事績を記したものである。文の撰者はもと仙台藩の儒者大槻磐渓、筆者はもと幕府典医頭・医学所長松本順であり、篆額はもと会津藩主・京都守護職松平容保が書いたものである。
近藤・土方両志士は多摩の地に生まれ、新選組局長ならびに副長として幕末動乱のうちに大きな足跡を残した。
明治9年4月、時の金剛寺住職賢雅大僧正が佐藤俊正・糟谷良順・土方義弘・本田定年・橋本政直・近藤勇五郎・小島為政等とはかり両志士の殉節を顕彰し、冥福を祈るために建碑を計画し、明治21年7月にいたり竣工したものである。
昭和60年3月 日野市教育委員会
(現地案内板説明文より)

このように現在では多くの方たちに愛される土方・新撰組として人気のようですが、これらの銅像・顕彰碑建立に当たっては紆余曲折があったようです。

明治2年に函館で土方は戦死したのですが、戊辰戦争終結後も新政府の反新政府戦死者に対する扱いは過酷で供養すら侭ならない状況が続き、明治7年になってやっと反新政府軍戦死者の祭祀、慰霊が許可されたそうです。
これにより明治9年、佐藤俊正(歳三の義兄)、糟谷良循(歳三の兄)、土方義弘(歳三の甥)、近藤勇次郎(勇の甥)らの所縁の人たちの尽力により顕彰碑が建立されることになったのです。
しかしながら碑文の内容が幕府への忠節を讃えるものであったため、顕彰碑が完成しても建設の許可が得られず、明治15年に改めて神奈川県例に申請し、明治21年7月にここ高幡不動境内に建立されたのだそうです。
碑の原文は多摩郡小野路村の名主、小島鹿之助為政という人が作成したもので、この人も天然理心流を近藤周助に学び、近藤勇にとっては兄弟子にあたることから、勇、為政、そして佐藤彦五郎の三人は義兄弟の契を結んだくらい縁の深い方だそうです。
この原文を基に当時一流の学者であった大槻磐溪清崇によって撰文され、旧会津藩主松平容保に篆額を願い、本文は松本良順が揮毫したそうです。錚々たる方たちが協力してくれたようですが、当初、篆額は前将軍の徳川慶喜にお願いしたところ、慶喜はうつむいて落涙し返事をしなかったそうです。複雑な気持ちが交錯していたのかもしれませんね。

このようにして建立できた顕彰碑ですが、銅像もまたひと波乱あったようです。
当初、地元有志の間で近藤勇・土方歳三・井上源三郎の銅像建立の話が持ち上がり、設計図も出来上がり、資金の目途もついたところで、日野市の幹部より暴力団まがいの人たちの銅像を建てるのは文化都市日野市に相応しくないということで、計画が一時中断してしまったことがあったそうです。
明治の時代ならいざ知らず、平成の時代に新鮮組を暴力団と言わしめる日野市幹部が文化都市に相応しいのかどうかを先に考えなければならない事態です。まあ、結局建立されたのですから良かったものの、もし建立されなければそれこそ文化都市の称号を返上しなければならない汚点でしょう。

一つには香取信吾主演の大河ドラマの影響も大きいのでしょうが、事の結果はあくまで歴史上のことですから、その是非を今さら問うても意味のないことです。それよりも人間として魅力的なものに憧れるということで評価してもかまわないのではないでしょうか。
個人的には、新撰組や土方がそれほど魅力的とは感じませんが、特に嫌う理由もありませんし史的には興味深い人々ではあると思っています。

まだまだ見どころは沢山残っているのですが、時間の都合もあって以上で高幡不動の散策をは終了ですが、最後に門前の「たい焼き 橘屋」でたい焼きを食べてから高幡不動をあとにしました。
たい焼き 橘屋 たい焼き 橘屋 このたい焼き屋は注文を受けてから焼くので、作り置きはしていないということで、手で持てないくらいの熱々のたい焼きが食べられます。

結構おいしかったので、一度賞味してはいかがでしょう、餡まで熱々のたい焼きというのは、そう無いでしょうから…。
平安絵巻から幕末の動乱という非常に珍しい取り合わせの高幡不動でした。

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