普済寺

高幡不動を後にして、最後に向ったのが立川市です。
日野市からはほぼ北上する方向ですが、多摩川を越える手前辺りから道沿いにモノレールが併走しています。今の今までモノレールがあったことを全く知りませんでした。
それもそのはずで、今回の散策地は初めて訪れた土地ですから目新しいのはあたりまえでしょう。
といいながらも20分ほどでめざす最終目的地の「普済寺」に到着しました。

立川氏館跡

車を駐車して山門に着きましたが、驚愕の灯籠のお出迎えです。
普済寺山門 お化け灯篭 非常に大きな灯籠で、高さ7m、重さ20トンの大灯籠です。世に言うところの“お化け灯籠”ってやつです。

普済寺参道 そのお化け灯籠のある山門を抜けて、綺麗に整備された参道を進んだ先には、今度は楼門があります。

楼門 聖徳太子像 この楼門は「澄心閣」と名付けられていて、昭和45年に建立した入母屋唐様式扇垂木総檜造の四脚門です。

称号「澄心閣」は三笠宮殿下の命名で、階上には聖徳太子尊像が祀られています。
重厚感のある由緒のありそうな楼門ですが、意外と新しい楼門で驚きました。

閻魔堂 楼門の左手には六角の閻魔堂があります。

中には高さ約90cmの閻魔大王像と10体の脇侍、地蔵菩薩立像、そして、お馴染みの脱衣婆が安置されているとのことです。天保5(1834)年尾造立されたものだそうなので、こちらは結構古いものです。

そしてこの普済寺の文化財についての説明があります。
それによると、ここ普済寺には十数年前まで重要な文化財がいくつも所蔵されていたそうです。
例えば本尊の聖観世音菩薩像、開山物外可什禅師坐像などですが、多くは平成7年の火災で焼失してしまったようです。

玄武山普済寺内文化財案内
1.開山物外可什禅師坐像(重要文化財)※平成7年4月焼失
物外和尚は、文和2年(1353)に立川宮内小輔宗恒の建てた普済寺の開山として、鎌倉の建長寺から招かれ、貞治2年(1363)12月8日、建長寺で亡くなっている。この木像は、物外和尚が亡くなってから7年目の応安3年(1370)11月に造られた。木像の高さは、約94センチメートル(3尺1寸)で、現在はほとんど黒色をしているが、本来は漆塗着色像である。造立社の中には、六面石幢を建立した性了の名も見える。

1.釈迦牟尼坐像(市指定有形文化財)※平成7年4月焼失
天文8年(1539)仏師・上総法眼宗琢の作で、高さ約91センチメートル(3尺)の坐像。
脇侍および十六羅漢像と共に本堂左側仏壇に安置されている。本堂の東側にあった仏殿の本尊である。

1.板碑群(市指定有形文化財)※平成7年4月の火災により破損
板碑は青石塔婆ともいい、死者の追善供養や逆修供養にために建てられたものである。関東では、緑泥片岩(秩父青石)で作られたものが多い。造立年代は鎌倉時代から室町時代にわたっている。普済寺には、現在、63枚の板碑が保存されている。この寺の北側の墓地にある首塚と呼ばれるところから、明治14年(1881)に掘り出されたと伝えられるものである。これらの板碑の年代は、六面石幢の造られた延文6年(1361)以前のものがほとんどで、それ以降としては応永25年(1418)のものが1枚あるのみである。

1.普済寺本尊像
高さ約76センチメートル(2尺5寸)、臨済宗の寺の本尊に多く見られる宗朝式裳掛像の様式の聖観音坐像である。宝永7年(1710)の鎌倉の仏師・宅間法眼の作になる。(一部抜粋)
(現地案内板説明文より))

と言うように幾つかの文化財が灰となってしまったようです。
この平成7年の火災と言うのは、何と放火によるものだったそうです。勿論、どんなところでも放火などと言うことは許せない行為ですが、特にこのような重要な施設は狙われやすいのかも知れません。なんとも残念なことです。

楼門の前に「六面石幢」の道標がありますが、まずは本堂で参拝です。
本堂 太鼓橋を渡ると正面に実に立派な本堂が鎮座しています。堂々たる風格の本堂です。

立川氏館跡 本堂で参拝を済ませて戻ると、本堂の左側に土の盛られた一画があります。

東京都指定史跡 立川氏館跡
所在地:立川市柴崎町4-20-46 指定:大正8年10月標識指定、平成6年3月22日史跡指定
玄武山普済寺は、開山は物外可什禅師、開基は立川宮内小輔宗恒により文和2年(1353)に創建されたとされます。立川(河)氏は武蔵七党西党日奉氏の支援で、地誌類の記述や、多摩川を望む眺望・防御に適した土地、現在も山門脇に残る土塁、普済寺北側の通称首塚から発見された板碑80余基などから、この普済寺の地が立川宮内小輔の居館とされます。この鎌倉時代の居館に南北朝時代に屋敷内に寺(普済寺の前身)を建立し、戦国末に立川氏滅亡した後に現在の普済寺となったとされてきました。
平成8年(1996)以降の発掘調査等により、15世紀前半から16世紀前半期にかけての屋敷に伴う建物跡、井戸跡、門跡、柵列跡や東側土塁脇から区画を示すV 字溝などの遺構が発見されています。居館は、切り立つ段丘崖と直行する東西2本の土塁や地割などから寺域を囲む長方形区画の居館が想定されていますが、地中レーダー探査による想定範囲を超えた区画溝の痕跡もあり、居館と寺院の変遷過程の再検討が必要です。 平成22年3月 建設 東京都教育委員会
(現地案内板説明文より)

どうやらこれは土塁跡のようですが、どうも普済寺は立川氏の歴史と言っても良いくらいの繋がりがあるようです。
そのあたりのことが普済寺の略縁起に記載されていました。

略縁起
玄武山 普濟寺は、禅宗のうち臨済宗建長寺派に属し、多摩一円に末寺18ヶ寺を有する同派屈指の名刹です。
その開創は古く南北朝時代の文和2年(1353年)で、当時、立川一帯を領有していた立川宮内少輔宗恒が、鎌倉建長寺から物外可什禅師を招いて開山とし、その居城の一隅に一族の菩提寺として、一宇を建立したことにはじまります。
以来、立川氏の庇護のもとに、多数の僧侶が修行に励む荘厳な道場として隆盛を極め、また、貞治年間(1360年代)からは、約40年間にわたって、いわゆる普濟寺版大乗経典を刊行、当地方の仏教・文化の殿堂として重要な役割を果たしておりました。
しかし、応永の末頃から永享年間(1430年前後)に至ると、打ち続く戦乱の中で立川氏は没落し、相前後して普濟寺も一時衰退の憂き目を余儀なくされました。
その後、約百年間の歴史は詳かになっておりませんが、永正年間(1504~21)に入ると、立川一帯は高幡(日野市)城主平重能の勢力下となり、普濟寺も同氏の帰依を受けることになりました。
そしてその施財によって面目を一新し、寺域も旧立川城の一隅からその全域へと拡大、約一万坪の境内には七堂伽藍をはじめ、六院の塔頭が甍を並べるに至ったといわれています。
平氏はその後間もなく後退し、かわって天文の末頃(1550年代)には、後北条氏の幕下となった立川氏が勢力を挽回し、再び普濟寺の大檀那となりました。
しかし、それも束の間のことで、天正18年(1590年)、同氏は豊臣軍の攻撃を受け、主家北条氏とともに敗れ、その際普濟寺も兵火に罹って大半の堂宇・寺宝を焼失してしまいました。
翌年、徳川家康より御朱印20石の地が寄進され、命脈は保たれたものの、以後しばらくは衰微状態から脱し得ませんでした。
堂宇の再建は数十年後の万治年間(1660年頃)に至って始められ、そして元禄4年(1691年)までに方丈・仏殿・庫裡・鐘楼・塔頭(心源庵・有慶庵)が復興され、ようやくにして『江戸名所図会』の挿絵にみられるような荘厳な景観を現出するに至りました。
なお、仏殿と有慶庵は明治初期に、老朽化したため取り壊され、また、庫裡・本堂はそれぞれ嘉永6年(1851年)、昭和15年に再建されました。(以下省略)
(「普済寺」オフィシャルサイトより)

この立川氏の流れをまとめてみると以下のようになります。
平安時代:立川南部の地頭となる。
鎌倉時代:『吾妻鏡』に立河氏の記載。また宝治合戦で戦死者を出したとされる。
1353年:普済寺を建立する。
1430年頃:永享の乱等の戦乱により、衰退する。
1455年:分倍河原の戦い (室町時代)で立河原合戦が起きた。享徳の乱が始まった。
1504年:立河原の戦いが起きる。長享の乱の事実上の決戦であった。
1550年頃:立川南部の支配を回復する。なおこの頃河越城の戦いで、後北条氏が勝利した。
1590年:後北条氏の滅亡により、八王子城下の立川氏も滅亡する。
このように詳細な記録はあまり残されていないようですが、現在の立川市の礎となった歴史で、現在の立川市の文化や発展は、立川氏や普済寺抜きには語れないと言うことでしょう。

江戸名所図会の普済寺 一方、江戸時代から有名であった普済寺のようですが、この略縁起にも書かれていた江戸名所図会の絵図がこちらです。

かなり広い境内で、山門、惣門に続いて本堂がありますが、現在の本堂は当時よりも更に立派なものではないでしょうか。
左手には多摩川を眺め、その先に富士を望むと言った実に風光明媚なロケーションだったようです。
更にこの絵図のキャプションには「境内に延文年間に制するところの六面の石塔を存せり。」と記載されていることから、江戸時代でも「六面石幢」は既に有名だったようです。

このように街の歴史に深く関わっている普済寺ですが、やはり一番の目的は江戸名所図会にもある国宝「六面石幢」です。
参拝も済んだので、道標の通りに向かいます。

六面石幢

鐘楼 境内をグルッと回るようにして進むのですが、途中真新しい「鐘楼」がありました。

最近再建されたのでしょうか。元々梵鐘自体は元禄4(1619)年鋳造だったものだそうですが、この新しい鐘楼にある梵鐘がそうなのでしょうか。
庭園 本堂の裏手に来るとミニミニ極楽浄土のような雰囲気を味わえる風情です。

さらに進むと川沿いの狭い通路となります。
眼下には多摩川の支流である「残堀川」が流れていて、このあたりは春になると桜で大層綺麗なところだそうです。
残堀川 今日は生憎の天気ですが、快晴であればこの先に富士山の姿を見ることができるのかもしれません。

通路の突き当たりに、その「六面石幢」があります。
六面石幢 六面石幢 手前にあるのが石碑で、松の間に見え隠れしている覆屋に「六面石幢」が置かれているのです。

国宝 六面石幢
石幢は、延文6年(1361年)足利義宣の時代、開山物外可什禅師の直弟子であった性了禅師が道場鎮護の為に発願、支那唐末の詩画僧として高名な禅月大師の書かれた二王(阿吽金剛)と四天王(東方持国天王・西方広目天王・南方増長天王、北方多聞天王)と当時の
仏像彫刻師道円に刊刻(浮彫)させたものである。石材に秩父産の緑泥片岩(青石)で六枚の石板(高さ1m66cm・5尺5寸、巾約42cm・1尺4寸、厚さ9cm・3寸)と上・下の蓋・台板にはめこんで六角に組み立てた石幢である。大正2年国宝に指定されたが戦後一旦解消、昭和28年11月4日再度国宝の指定を受け、覆屋は風化保護のため昭和29年9月に設けられたものである。
昭和46辛亥年7月吉祥日建之
普済現住26世 壽翁昌代
(石碑碑文より)

石幢の“幢”とはもともと「はた」を意味していて、仏堂では笠の下に美しい布を垂らすなどして仏の世界を荘厳に表現するものであるようです。四角または多角の笠の下に、それぞれの辺から織物をたらした形を石に置き換えられたものが石幢であ、中国では白色大理石によるものが多く見られるそうです。
日本では主に中世に四角、六角、八角の石柱の上に石製の笠、宝珠を載せた石幢がつくられたようです。関東で見られる石幢の中には、石の板を組み合わせて石柱としている石幢があり、ここ普済寺の石幢もこのタイプです。
このように特別な形式の石幢でもない一般的なもので、尚且つ考古資料部門の国宝としてはもっとも制作年代の新しいものであるそうで、これだけで言えば特に国宝に指定されるほどのものではないようなのです。
しかしながら、それでも国宝として指定されるには当然それなりの理由があるわけで、実はこの類の石幢に彫られるのは一般的には六地蔵などが多いようなのです。
しかしながら普済寺の「六面石幢」には、仁王尊と四天王が彫られているところが、学術的に大変貴重なものであることから国宝に指定されたのだそうです。

このことは国宝などに指定される以前の江戸時代でもその価値が理解できていたようで、江戸名所図会でもこの6面を詳細に書き写しています。
江戸名所図会の六面石幢 その絵がこれで、「普済寺境内六角古碑」と題されています。

右から那羅延堅固、密迹金剛、増長天王、多聞天王、持国天王、広目天王が描かれています。
そして解説には以下のように記載されています。

六面塔(高さ6尺ばかり、1片の幅1尺5寸あまりありて、六面の石し1片1片に蓋石と台石とを穿ちて、立て合はせたるものなり。前面の2枚には金剛、密迹の2王を彫刻し、後面左右の4枚は四天王の像を刻せり。極めて妙作なり)
(江戸名所図会より)

阿形は那羅延堅固で、吽形を密迹金剛と呼ぶようで、この2尊を合わせて仁王様一般的にはいわれています。
最後に「極めて妙作なり」と記載されているのが、当時でも如何に評価されていたのかが窺えます。
六面石幢 六面石幢 六面石幢 覆屋のガラスが結構汚れていることから離れて写真を撮るとボケてしまいますし、ガラス面に密着するとこのように全体が入りません。

まあ、いずれにしても私のデジカメでは、絵柄まで綺麗に写せませんでした。

そしてこの「六面石幢」は明治の時代まで境内裏の墓地にあり、明治22年頃に現在地に写され、昭和26年に国宝に指定されたことにより覆屋は付けられたそうです。
最後にこの六面石幢に覆屋の無かったことの古い写真を見つけたので掲載させていただきました。(問題あれば当然削除いたします。)
六面石 《写真:(C)江戸時代の隠れた名画達》

緑泥片岩は加工しやすい代わりにやわらかいので、風雨にさらされるといずれ浮彫りは全てなくなってしまう可能性があるので囲われたのです。
これでよほどのことがない限りいつまでもこの国宝は保存されていくのでしょう。

国宝六面石幢を見学して、帰りがけに墓地内の首塚をと思ったのですが、いよいよ雷が鳴り始め夕立の恐れもあるので、今回の散策はこれで終了いたしました。
共同墓地 最後の最後に駐車場近くの共同墓地が、なかなかユニークな墓地だったので写真に収めておきました。

「国宝・正福寺地蔵堂」で始まった今回の散策は、同じく「国宝・六面石幢」で終了しました。途中では国指定史跡・武蔵国分寺跡」、そして「重要文化財・金剛寺不動堂」など、今回はかなりレベルの高い文化財を見て回ることができました。
それもそのはずで今回の多摩地区は古の武蔵国の中心地ですから、それなりの歴史を持つエリアです。もっと丹念に散策できれば更に興味深い歴史に触れられるでしょう。
更に今回は東村山市・国分寺市・日野市・立川市と回りましたが、武蔵国の文字通り府中であった府中市や国立市、八王子市などなど尽きることの無い歴史を感じることができそうなエリアも残っています。
大変充実した今回の散策ですが、何とか第2弾も行ないたいものです。

2011.07.16記

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks