大宮区散策 #2

“鬼婆伝説”を辿った散策ルートでしたが、このまま北上を続けます。
この日は結構道路が混雑していてイライラが募りますが、ここは押さえて忍の一字です。

寿能城址

同じように5分ほど産業道路を進むと右側に寿能団地があり、その角の交番の前に「寿能城址」と刻まれた石碑が立っています。寿能城址碑 寿能城址碑

この石碑は昭和6年に建てられたものですから、寿能城址がクローズアップされたのは比較的新しいと言うことでしょうか。
それでも鬼婆伝説とはまた違った歴史を知ることができそうです。

寿能城址碑 この交差点を右折して東に進みます。

5分も経たないうちに「寿能公園」に到着です。寿能公園

公園の入口から中央に舗装された通路があり、左側は民家で右側は緑の公園となっているようです。

見沼西縁散歩コース 寿能公園  ここは寿能町2丁目です。
寿能公園一帯は、かつて氷川神社、大宮公園から続く松林におおわれた緑豊かな地域でしたが、県営寿能住宅の造成などで松林が切り開かれ、住宅地に生まれ変わっています。
当地は今から400年以上も昔、戦国時代の永禄3年(1560)に潮田出羽守が居城した寿能城の跡地で、北中学校付近までが城域だったといわれています。築城の30年後に豊臣秀吉の軍勢によって落城、その土塁は、周辺が宅地化されるまで残されていました。園内にはゲートボールを楽しむに格好の広場となっておりボールを打つ音がよく聞こえてきます。
散歩コースは見沼代用水西縁に沿って続き、南は大宮第二公園、北は御嶽社、土呂町の地蔵堂、市民の森、見沼グリーンセンターへと続いていきます。
さいたま市教育委員会生涯学習部文化財保護課
(現地案内板説明文より)

公園内を進むと確かに右手には広い空間があり、ゲートボールで賑わう様子が想像できます。寿能公園

左手には民家に隠れて見えませんでしたが、児童公園にはないような珍しい遊具が置かれています。寿能公園

1つ1つの遊具に番号が振られていて1~8までの番号がついています。
これは遊具と言うよりは運動器具と言った方が近いような器具です。
1.つまずきにくくする運動、2.太ももの後をのばす運動、3.腕の力をつける運動、4.太ももの力をつける運動、5.腹筋・背筋の力をつける運動、6.バランスをとる運動、7.肩や腕の筋力をつける運動、8.体をのばす運動、用の器具があります。
一見したところ子供だましのようにも見えますが、真剣に行なうとかなり鍛えられるのではないでしょうかね。
下手なジムで高いお金を使うよりもリーズナブルで効果的かもしれません。

文字通りわき道にそれてしまいましたが、今度は真直ぐにその城址に向かいます。寿能公園

寿能城址石碑 まさに城の石垣を思わせるような土台に、比較的大きな墓石が建てられており、手前には石碑があります。

寿能城跡
ここは寿能城本丸の跡と伝える。
寿能城は潮田出羽守資忠の居城である。
資忠は岩槻白鶴城主太田資正の第四子で母方潮田家をつぎ 永禄3年(1560年)ここに築城、大官、浦和、木崎寺を所領とした。
城地は東西約873メートル、南北約436メートルあり。
見沼の沼沢をめぐらした要害で、東方に突出した小高い所を出丸と呼び、今も寿能という小字名を残している。
資忠は小田原の北条氏に属し、天正18年(1590年)長子資勝とともに小田原にろう城し奮戦したが4月18日父子ともに討死し、家臣北沢宮内等が守備した当城も同年6月豊臣勢の火にかかって落城した。
墓石は資忠の没後50年の命日に6代の子孫潮田勘右衛門資方が、弟資教にしるさせたものである。
大正15年県史跡に指定されたが、太平洋戦争中、高射砲陣地として雑木林は開墾され、今また、新市街を現出するに至り、その一部を市の小公園として永く保存することとなった。
(現地石碑碑文より)

落城までの歴史をもう少し掘り下げてみます。
歴史を少し遡って1500年代の頃の旧大宮市周辺は上杉謙信の上杉方の支配下にありました。
その当時の軍事拠点は川越城や岩槻城で、岩槻城はあの太田道灌が築城したことで知られています。
その道灌の子孫である太田資正が城主となり上杉軍と戦い、上杉軍に敗北し、上杉方となってからは小田原の北条氏康・氏政などと対抗していた時代でした。このように当時、この太田資正は関東では名のある武将の一人だったようです。

1560年、川越城が北条方に落ちたことから、岩槻城の前線基地として旧大宮地区に寿能城、伊達城が築城されたのです。
そして、ここにも記述されているように寿能城主に潮田出羽守資忠、そして伊達城主に太田家家老の伊達与兵衛房実が充てられたのです。
寿能城の北面・南面は谷、東面は見沼(用水路になる前)で、西面に堀を掘って自然と人工の要害で守られたようです。そして見沼を隔てた大地に伊達城を置き、南に中丸城・松野城を建て北条方に備えたのだそうです。
鉄壁の守りに見えた布陣も内部の亀裂で一気に崩れます。
1564年、資正が宇都宮に出かけている最中に長男氏資が北条方と組み、資正を岩槻城から追放し寿能城も北条方の支配下に入ることになったのです。
この当時の潮田資忠は、氷川神社に土地を寄進したり、五穀豊穣のため稲荷社を勧請するなど信心深い人物だったようです。
しかし、戦国時代末期、秀吉の小田原攻めに対抗するため一族・郎党、小田原城に入城するのですが、1590年、石田三成により嫡男・資勝と共に潮田勢37名が討ち死にしたそうです。

その後、秀吉配下の浅野軍との合戦になり寿能城は同年落城し、寿能城家老、北沢宮内、加藤大学は氷川神社に蟄居となったそうです。そして最後に難攻不落の岩槻城が落ちて、この周辺の戦いは終ったのでした。
家康の江戸時代になってからは、岩槻城陥落で降参した伊達与兵衛房実が召抱えられ、伊達城のあった地域に陣屋を置いて大和田地区を治めたそうです。
更に蟄居となった二人の家老の内の加藤大学は氷川神社に仕える家となり、北沢宮内は多くの武将達と帰農し大宮町の発展に尽力したようです。
しかし、この寿能城周辺は家康より開発を命じられたため城は跡形もなく消え去り、ここで戦国時代から江戸時代初期までの寿能城の歴史が幕を閉じたのでした。

そして時代は下って大正~昭和初期に、“蛍の姿を借りた姫が寿能城の悲劇を供養して欲しい”という「蛍の宮」という伝承が広がり、青い石の供養塔が太田資忠の墓石の隣に建立され、命日の4月18日に供養祭が行われていたそうです。
しかし、太平洋戦争時にこの寿能寺跡が高射砲陣地となったことから、多くの土塁などが削られ、先の供養塔等も失われたそうです。
そして現在はこの寿能公園となった一画に「資忠公の墓所」、そして見沼用水にかかる「潮田橋」、更に「出丸跡」が残るだけとなったようで、この公園が本丸があった場所で、墓碑のある塚が物見櫓の跡だと言われているそうです。
そして昭和37年埼玉県指定旧跡となり現在に至っているのです。

大宮公園(第1)と大宮第2公園に囲まれた平和そのものの地域ですが、やはり歴史を紐解いてみると様々な悲劇や惨劇、そして復興に発展と言う事実が浮かび上がってくるものです。
そしてこちらが資忠公の墓碑です。潮田出羽守資忠墓石

歴史を感じると共に、大きな石垣の上に安置されていますが、やはり何となく一人では寂しいかもしれません。
なお、ここも前述した通り江戸名所図会に挿絵が掲載されています。江戸名所図会「黒塚・旧墓所」

恐らく鳥居のあるところが稲荷社で黒塚で、沼をはさんだ中央に小さくそれらしく見えるのが墓碑でしょうか。
判りにくい挿絵ですが名所として紹介されているところに面白さを感じます。

寿能公園を後にして、更に東に進むと目の前にある短い橋が、先ほど説明のあった見沼用水にかかる「潮田橋」です。潮田橋 潮田橋

見沼西縁散歩コース 

潮田橋

 ここは寿能町2丁目です。
見沼代用水西縁は、江戸時代半ばに8代将軍徳川吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛が、享保13年(1728)に利根川の水を現在の行田市下中条から引いてつくった農業用水です。現在は、周辺の水田が減少したため飲料水としても利用されるようになり、大宮・浦和市境から荒川へ送水されています。
「潮田橋」は、戦国時代の終わり頃、当地にあった寿能城の城主・潮田出羽守資忠の名に因んで付けられたと思われます。寿能城は、永禄3年(1560)に岩槻城の支城として築城されますが、天正18年(1590)に小田原攻めの豊臣秀吉の軍勢に攻められ落城します。橋の西方80mにある寿能公園は、城域の一部であるといわれ園内には潮田出羽守資忠の墓碑が建てられています。ここから東方は、城の「出丸」と呼ばれ見沼の低地に突き出すような地形になっています。
約150m上流の寿能上橋を右へ進むと芝川を越え、大和田町へ入ります。坂を上った一帯は、市内でも最も標高の高い場所で、寿能城・岩槻城と結びつきの強かった大和田陣屋がありました。寿能城を中心とする当地周辺は中世の大宮の軍事拠点といえましょう。
現在は、大宮第二公園、大和田公園(野球場・プール・テニスコート)、市民体育館などの整備が進み、球場の北側は夏の花火の会場となるなど広く利用されています。
さいたま市教育委員会生涯学習部文化財保護課
(現地案内板説明文より)

因んで名付けられたわけですから、歴史的にも価値のあるものなんのでしょう。
見沼代用水が南北に通じているわけですから、橋の数も非常に多いはずです。このあたりの地番は“寿能町”ですから、寿能城や潮田資忠が深く根付いている歴史の町ともいえるでしょう。

ここから東方に歩くと大宮第2公園に突き当たりますが、この辺りが“出丸”なのでしょうか。出丸方面

特に出丸を示すものはないようなので、真偽のほどは判りませんが、この森の辺りがそのようです。出丸方面 出丸方面

いずれにしても現在残っている僅かな貴重な遺構といえるのでしょう。

大宮第2公園

こうして大宮駅前の大栄橋の加藤保男の生家周辺から始まった大宮区の散策も、大宮区での最終目的地である大宮第2公園までたどり着きました。
出丸の先には通称「ひょうたん池」とよばれる調整池に到着です。ひょうたん池

ここは芝川第7調整池として、洪水などによる芝川の水位を調整するための池なのです。芝川

調整池 この橋の下から芝川の増水時に水が吐き出されるのでしょう。

平常時は市民の憩いの場として、そして緊急時は防災施設としてつくられたもので、今までにも調整池を幾つか見てきましたが、ここまで整備されているのは少ないのかもしれません。

ひょうたん池からは寿能城の歴史散策を終了して、公園の西側にある駐車場方面に戻ります。
するとそこには「蛍の碑」と刻まれた大きな記念碑が建てられていました。大宮第2公園 蛍の碑

見沼源氏蛍発生の地
大宮の蛍狩りは渓斎英泉の版画にも刻まれ、見沼畔が旧幕時代にすでに江戸近郊の蛍の名所として著名であったことを記している。
明治26年、宮中への蛍献上が始まり、それは大宮の初夏を彩る恒例の行事となった。当時の歌謡には「篭に納めて九重の大内山に奉る」と謡われている。虚子編の歳時記にも「武蔵大宮は蛍の名所云々」とある。
昭和7年6月、上流は土呂の御嶽東から、下流は天沼の字浅間までの間が、史蹟名勝天然記念物保存法第1条の適用によって保護地区に指定された。
しかし、第二次世界大戦後、農薬等の普及によって可憐な蛍はその光を消した。鹿島橋畔にあった源氏蛍発祥地の碑も、道路拡張によって撤去され、今はない。
今、この由緒ある蛍の名所が、歴史の中に埋没することを惜しみ、環境浄化によって、再び豊潤な自然が甦ることを悲願して、ここに新しい碑を建てる。
永く後世にこれを語り伝えたい。
昭和54年10月
大宮市教育長 中藤喜八郎書
大宮ライオンズクラブ認証10周年記念
寄贈:大宮北ライオンズクラブ・大宮見沼ライオンズクラブ
(現地案内板説明文より)

この辺りが蛍の名所だった故に前述した寿能城での「蛍の宮」の伝承があったということでしょうか。
まずは渓斎英泉の版画を探してみましたら、はっきりと大宮であるかどうかは分りませんが、英泉作の「今様蛍狩りの図」というのがありました。
三枚揃いのこちらの錦絵で、なかなか華やかな蛍狩りです。
今様蛍狩りの図 今様蛍狩りの図 今様蛍狩りの図 《写真:(C)和風素材.com》

ここに記述のある“九重の大内山”とはすべて現在の皇居を表す言葉で、当時で言えば江戸城ということになりますが、勿論江戸城に直接配達するわけにはいきませんので、基本的には紀伊徳川家の上屋敷(現在の赤坂御料地から迎賓館付近)に運んだようです。
年代不詳ながら現実に記録があるようで、ある巳年の5月19日に依頼があり、22日午前7時頃までに大門宿、間宮新田、北原新田、大崎新田、加田屋新田、辻村新田あてに鳥見役の会田平左衛門から各村500匹(大崎新田以下は見沼川筋が多いので1000匹)、合計4500匹を採って出すようにという内容のものです。そして先の上屋敷に運んで各大名屋敷で蛍の鑑賞が行なわれたようです。
如何に見沼が蛍の名所であるかをうかがわせるものです。
現在でも大宮公園を始めとして多くの自然が残されているのですが、流石にその公園の中の駐車されている車の量を見れば、蛍を復活させるのは難しいと思わざるを得ないところです。

この「蛍の碑」の先が大宮第2公園の西の端で、公園沿いに流れているのが「見沼代用水」です。見沼代用水西縁

見沼西縁散歩コース 見沼代用水西縁 ここは寿能町2丁目です。
見沼代用水は、水源を利根川に求めた農業用水として江戸時代中期の享保13年(1728)に開削されました。上尾市瓦葺で東縁と西縁の二筋に分流、西縁は東大宮~本郷~土呂~寿能~堀の内~天沼~北袋町へ流れ、かつては用水の東に通称“見沼たんぼ”が広がり、上流から下流へと緑のジュウタンを敷きつめたような風景が広がっていました。水田を潤した水は芝川へ流れ、汚れのない水は動植物の生息に適し、昭和30年代初期まではゲンジボタルの繁殖地として著名な一帯でした。その後、周辺地の住宅化が進み、用水は護岸工事が施された都市型の水路となり、かつての水田地帯には大宮第2公園、大和田公園が造成され市民憩いの場にと姿を変えています。用水に沿った地域は、都市化されつつもまだまだ緑も多く、また歴史のある見所が連なっています。北は寿能公園(寿能城跡)、御嶽社、土呂町の地蔵堂、市民の森、見沼グリーンセンターへと続いています。
さいたま市教育委員会生涯学習部文化財保護課
(現地案内板説明文より)

行田市の取水口、上尾市の瓦葺、旧浦和市の見沼通船堀、見沼田んぼなど見沼代用水に関しては数ヶ所これまでに訪れましたが、埼玉県、特にさいたま市を中心とした中央部は、見沼代用水とは切っても切れない歴史があります。ここ旧大宮でもやはり見沼代用水に関連した歴史がいくつも残されていることを知りました。
歴史と共に都会と自然の共存のモデルとして、これからもこの見沼代用水と共に自然も残されていくのでしょう。

折角なのでこの西縁を少し歩いてみますが、北から来たので(…そうゆうつもりではない)このまま西縁沿いを南下します。
すこし進むと左手に「万葉の並木道」と刻まれた石碑が置かれています。万葉の並木道

万葉の並木道


日本最古の和歌を集めた「万葉集」には、4516首の歌があり、それらの中には157種の植物が詠み込まれております。
そうした万葉時代の人々は新芽・若葉・花・黄葉などに、その時々の想いを託して歌を詠んでまいりましたが、私たちは、由緒あるこの見沼用水路の辺りにそうした万葉人の心を捉えた木々を集めてこの並木道を造りました。
これから自然を愛する多くの方々がこの道を往くとき万葉の木、そしてその歌を読みながら遠い昔の豊かな情調をもった万葉人の心にふれ、そぞろ歩きを楽しんで頂けたら幸いと存じます。
昭和58年師走 建立 平成6年9月吉日 改修
結成25周年記念 大宮北ライオンズクラブ
(現地案内板説明文より)

万葉の並木道 今までにも数ヶ所の万葉植物園を訪れましたが、並木道になっているのは初めてです。

情緒のある並木道ですが、できれば舗装しないほうがもっとそれらしい感じがでるでしょう。また、恐らく並木道の両サイドの樹木などに木の名前などの案内板があったようですが、かなり無くなっているので残念ながら万葉植物園的な要素はありませんでした。
まあ、真夏でも涼しい並木道をのんびり散歩するのもまた良しとするところでしょう。

万葉の並木道を進んで、見沼代用水を渡って西縁の右側に出ると「万葉親水公園」というポケットパークのようなものがありました。万葉親水公園

手前には水車があり、小さなせせらぎと石畳の小路が続いていて小休止するにはうってつけの場所です。万葉親水公園 万葉親水公園

万葉親水公園に水をひいている代用水路西縁 ただ、本来は見沼代用水から引いた水で水車が回るのが売りなのですが、水は流れていても水車が回っていないのはご愛嬌でしょうか。

折角なので少し休憩して次に向かいます。

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