見沼区大砂土東周辺散策

加藤保男生家周辺から始まった散策は、まだまだ多くの見所を残しながらも一応大宮区は終了とし、次は今回の主目的である見沼区を散策します。
さてこの見沼区ですが、区名の由来は文字通り見沼代用水で代表される“見沼”から命名されたわけですが、埼玉県出身者、特に現在のさいたま市周辺の者にとっては、今ひとつしっくり来ない区名なのです。
というのは、見沼といえば代用水や通船堀のことで、現在残っている地名からも旧浦和市の方が相応しいことは明白です。確かに大宮に見沼が全く縁がないかということではないので、旧大宮市が見沼区になってもおかしくはないのですが、それでもやはり筋が通らないような気がしています。
実際に住民投票された結果、“見沼”は第4位であったにも関わらず採用され、現在の「緑区」では“緑”は6候補中5位ながら採用されています。更にこの“緑”は5区で候補に挙がっていながら最終的に旧浦和市に採用されたことから、旧浦和と旧大宮との確執、更に旧浦和勢の差別的政策とも見られているようです。

このあたりの真偽は定かではありませんが、上尾市でもこのような旧浦和市の噂が広まっていました。
上尾市もこの合併には無関係ではなく、元々は「YOU And I」合併計画で上尾市も含まれていたのです。しかし合併前に旧浦和市の圧力(あくまで推測)から上尾市は合併に反対の立場を採ったため住民投票に委ねられたのです。
これは単に上尾市が合併すると旧大宮市が合併後のさいたま市の中心になってしまうことから…、などという噂が実しやかに広がっていましたが…。
結果は住民投票で反対となったことから、合併はならず住民の判断によるものだけに、これ以上の中傷はなくなったかと思ったのですが、合併無しと決定した後に、投票の際の合併賛成のビラは賛成派が独自に作成したものであるのに、反対のビラは上尾市が作成していると言うのはおかしいであろう、という最もな意見が出ていましたが、最後にはウヤムヤになっていました。これも1つの都市伝説かも知ません。
余談ながら投票当時は、まだ引っ越して5年ほどで愛着がなかったことと、当然、県庁所在地になるわけですから、土地の価格が上がり家を売却するときにメリットがあるかな、程度の打算的な理由から合併賛成に投票しました。結果的にはどちらでもそれほど暮らしは変わらないのでしょうが、合併などは所詮ホンの一握りの利権者たちのお祭りだということです。

前置きが長くなってしまいましたが、長くなりついでに見沼区の概要です。
見沼区は人口・面積共にさいたま市の10区の中で2番目の規模を持ち、新興住宅街と豊かな自然の残された街で、大別すると大砂土東地区、春岡地区、七里地区、片柳地区の4区域で構成されているそうです。やはりそうなると見所は自然環境と社会環境との調和と言うことが大きなテーマとなっているようです。
最初に訪れるのは、先の寿能城址で伊達城のことを知りましたので、その伊達城址を訪れるため「大砂土東地区」を散策します。

八雲神社

伊達城址を訪れる前に、折角の機会ですから「大砂土東地区」の文化に触れることにします。
先ずは伊達城跡から北へ約1.5kmほど北上したところにある「八雲神社」です。 八雲神社は第2産業道路の一本西に並行する道路の角にあります。
到着して目に飛び込んでくる風景は巨木がそびえ立っていることです。八雲神社 砂の大ケヤキ 

大宮市指定文化財天然記念物 砂の大ケヤキ 
所在地:大宮市東大宮1-30-3 指定:昭和37年4月14日
ケヤキはニレ科に属する落葉樹で、武蔵野の防風林を代表する樹木です。昭和41年9月には「県の木」に指定されました。
この砂の大ケヤキは、古くから八雲神社の御神木として崇められており、毎年6月30日には注連縄が張り替えられます。観音堂西側にそびえているので、昔から「観音様の大ケヤキ」として広い範囲の人々から親しまれてきました。
樹齢は600年と推定されますが、樹勢はいまだ衰えることなく、春には新しい葉とともに薄い黄緑色の小さな花を開き、とてもおだやかな樹形で遠くからも望むことができます。
樹高:30m、枝張り:23.8m(東西)・25.5m(南北)、根廻り:19.3m
平成6年3月 大宮市教育委員会
(現地案内板説明文より)

樹齢600年でいまだ樹勢衰え知らずとは、一体どんな老人と思ってしまいますが、人でも植物でも長生きで元気が一番でしょう。
八雲神社の由緒がわからないのでナンとも云い様はないのですが、恐らくこれだけの古木が残っているということは神社自体もそれなりの歴史を持っていたといえるでしょう。よほどでない限り都市部では開発によって樹木は伐採されますから、古木にとって境内だったことが生き残れる一つの道でもあるわけです。 砂の大ケヤキ  下から4mくらいでしょうか、結ばれているのがその注連縄のようです。

現在のはちょうど1ヶ月前ほどに掛けかえられたものと思われます。
そしてこちらがその観音堂です。観音堂

元々は堂内に円空作の観音像と菩薩像がの2体があったのだそうですが、劣化が激しいため現在は市立博物館に保管されているとの事です。

このケヤキと観音堂と道を隔てたところに社があるので、そちらにも行って見ます。八雲神社

手前の社は天満宮で菅原道真が祭られていました。天満宮 天満宮

その右隣の社には神輿庫と案内板があります。砂の万灯

大宮市指定文化財天然記念物 砂の万灯
所在地:大宮市東大宮1-13-9 指定:昭和38年9月14日
7月の中旬になると市内各所で「天王様」のお祭りが行われます。ここ八雲神社でも悪疫退散・五穀豊穣を祈願して、華やかに万灯が奉納されます。
万灯は、神が降臨する際の目標物が特殊に発達したある種の灯籠です。
「砂の万灯」は山台に立つ人形と灯火をともす四角形の箱を彩る錦の絢爛さに加え、挿し花の美しさが見る者の目を魅了します。
祭礼日には、朝から囃子連が景気を盛り上げ、組ごとにそれぞれの工夫が凝らされた万灯が午後4時ごろに勢揃いします。7組の万灯が勢揃いした様はなかなか壮観で、境内は多くの人で賑わいます。
祭礼日 7月14日
平成6年3月 大宮市教育委員会
(現地案内板説明文より)

案内板にその祭礼の際の万灯の写真が掲出されています。
砂の万灯 砂の万灯 いわゆる山車のようなもので、確かに写真を見るだけでも絢爛さが伝わってくるようです。

社の中を拝見すると、大きなベニヤ板でできた箱が置かれていて、一部分中が見えるようになっており、そこには鳥居をみることができます。砂の万灯

恐らく万灯の一つが収められている御輿殿なのでしょう。
かつては例祭の14日夜から15日朝にかけて村中総出で練り歩いたそうですが、大正12年に電気が供給されるようになって、昭和初期からは電線の問題で渡御ができないため、以降万灯は境内に並ぶだけになったそうで、東京の祭りから山車がなくなり神輿に代わったのと同じ理由です。
それでも現代では、伝統の祭りが継承されているだけでも良しとしておく時代です。
先ごろ行われた例祭もさぞや賑やかだったのでしょう。

天満宮の左側には富士塚があります。富士塚 富士塚

この辺りにも御岳信仰が篤かったのでしょう。
かなり綺麗に整備された富士塚でここから先ほどの砂の大ケヤキを見てとれます。
砂の大ケヤキ  流石に大きいです。

鷲神社

「八雲神社」の後は、ここから南に1.4kmほど南下したところにある「鷲神社」に立ち寄ります。神社2連発です。
社号標には「村社 鷲神社」と刻まれていますので、この大和田周辺の鎮守なのでしょう。鷲神社 鷲神社

石造りの鳥居を抜けると参道右手に神楽殿があり、正面に社殿が鎮座しています。鷲神社 鷲神社社殿

明治6年に村社となった以前については不明のようですが、一説では創建は中世時代、あの今や“ラキスタ”で有名な鷲宮神社を勧請したとも言われているようです。
江戸時代は東覚院が別当として管理していたそうですが、明治になり神仏分離による社僧廃止により明治2年に大宮氷川神社預かりとなったそうです。
先ずは参拝を済ませます。
この社殿は安政2(1855)年建立のものだそうで、唐破風の屋根が重厚感を醸し出しています。
また社にある幟は幕末の三筆と呼ばれた書家である市河米庵が揮毫したものだそうです。
祭礼のときなどには見ることができるのでしょう。

ここで興味深い話というのは見沼にまつわる伝説がここには残されていることです。それは「見沼の笛」という伝説です。
まだ見沼溜井になる前のもっと沼が広かった室町時代、現在の見沼区大砂土から中央区与野にかけて、夕暮れ時に決まって何処からともなく笛を吹きながらさまよい歩いている美しい女性がいたそうです。特に月夜の晩などはこの世のものとも思われないくらいの心地よい笛の音だったようです。
そして余りにもその笛の音が美しいので、この笛の音を聞いた若者は魅せられたように笛の音に引き寄せられたのだそうです。しかし、引き寄せられていった若者達は誰一人として帰って来るものがいなかったそうです。こうして一夜ごとに若者達の姿は村から消えうせ、その数も何十人もの数にのぼってしまいました。
事の重大性に驚いた村の長老達は相談をした結果、これは見沼の主が何か怨みに思うことがあり、このあたりの若者を人身御供に取るのであるから、見沼の主を熱心に供養するのがよかろうと、見沼の辺に塔を建てて供養したのだそうで、現在、魔除けの神といって大和田あたりに立っている塔がそのときの供養塔であるという伝承もあるようです。

この話が全国に広まると、この話を聞いた都のさる有名な武士がその見沼の女の正体を確かめようと見沼の辺までやってきたのです。武士は見沼のほとりに立って美女がやってくるのを待っていると、果たして美しい笛の音とともにその女性が近づいてきました。武士はこの時とばかりに切りつけ、手ごたえがあったと思った瞬間、不思議なことに激しい雷雨と暴風がやってきて、その女性は消えうせその女性の正体を突き止めることができませんでした。
翌朝、武士が昨夜のところに行ってみると、何事もなかったかのような静まりだったのですが、ただそこに1本の竹の笛が落ちていたので、その笛を拾い上げ近所の神社にその笛を納めたのだそうです。
数年後、その神社を一人の老女が訪れて、その笛を吹かせて欲しいと頼みに来ました。神主はこれを許して老女が吹く笛の音を聞いているうちに、音色の美しさに神主は寝入ってしまったのでした。
神主が目を覚ますと、老女も笛も姿を消してしまいました。驚いた神主は近くの農家の人々にこのことを話すと、人々は口々に「少し前に神社の中から美しい雲がふわりと天空に昇り、その雲の中から美しく優しい笛の音が聞こえた」と告げたそうです。
こうして、その後人々は、その笛の音の主である老女は見沼の竜神が姿を変えて現れたのだと語り継ぐようになったそうなのです。
そして、この伝説の中の笛を納めた神社が、この大和田の鷲神社であるとも、片柳村中川の氷川神社であるとも言われているのが、この「見沼の笛」伝説なのです。

事実、この鷲神社の縁起には、先の「蛍の宮」やこの「見沼の笛」と同巧異曲の伝説が伝えられているそうです。

今を去ること七百余年の昔(現在からだと八百余年前にあたる)人皇第七十七代後白河天皇の御宇、仲秋の夜毎に当社附近に非常なる美女あらわれて玉をころがすが如き美音の笛を吹きけるによって、附近の人々その美しき笛を聞かんとて船を仕立て見沼を渡りけるに、不思議やその内の一人の若者必ず行方不明となりて帰らざりき。そのこと十数回に及びし故、人々妖怪変化のしわざなるべしと怪しみ、それへと伝へられ、このことを聞き伝へて力強き者、武術すぐれし者共、吾こそはその化身の本体を見現わさんとて来れども、何れも行方不明となり、或は死体となりて附近の山林中、或は沼の中より現われ、不思議のこと益々はげしかりしによって、その事武蔵国府の知る所となり、足立左馬之介なる弓の名人国の命を受けて、この妖怪を退治なさんと一夜名月を利して、かの笛の音に近づき、手練の強弓引きしぼって放てば、矢は正に手ごたへありたる如く、折からの名月は、にわかに吹き起りし黒雲にかくれて、あまつさへ豪雨降りしきりて実におそろしき程なりきと、左馬之介あくる朝この地に至りて見るに、ただ何事も無きが如くに静まりて、一管の笛のみ波間に漂ひてありき。それより後は彼の美女再びあらわるることなく、不思議の事もあとを絶ちたり。よってかの笛を鷲神社の宝物として永く伝へしと云へり
(「大宮市史第五巻 民俗・文化財編」より)

流石に見沼の竜神伝説は根深く広く伝えられているようで、それだけ水神への信仰が篤かったともいえるのでしょう。
次はこのまま南下して主目的の伊達城址へ向かいます。

伊達城址と大和田陣屋址

「鷲神社」から10分程度で伊達城跡に到着です。
当時この辺りにあった「伊達城」は、現在“やわら樹の里”という老人ホームとなっています。やわら樹の里

寿能城址でも記述されたように、当時の伊達城は岩槻城の前線基地として寿能城とともに建築され、その城主には岩槻城の城主である太田家の家老であった伊達房実が任命されたのでした。
当時の伊達城の規模は最大で東西250m、南北150mで、標高はこの辺りでは最も高い19mあり、非常に見晴らしの良い地点なので、見沼の低地を挟んで対岸に寿能城や土呂陣屋をみることができるということで、これらと相互に補完関係を築いていたようです。

しかし現在この「伊達城」に関する遺構は殆どなく、僅かに「疱瘡神」を祀った小さな石の祠だけが唯一の遺構のようです。
正門から先がなだらかな坂でのぼっているのが見て取れますが、これが標高19m故なのでしょう。やわら樹の里

正門を入った右手にある林の中にその祠を見ることができます。疱瘡神 疱瘡神

まさに小さな祠ですが、現在でもお参りされているようです。
この耳慣れない疱瘡神とは、文字通り天然痘を擬神化した悪神なのですが、医学の発達していない時代において人々は、病気の原因とされる疫病神や悪を祀り上げることにより病状が軽く済むように祈ったのだそうです。
一般的に疱瘡神には特定の祭神はなく、自然石や石の祠に「疱瘡神」と刻んで疱瘡神塔とし、本来これらの塔は村の入口や神社の境内などに祀られたようです。
かつて伊達城周辺でも疱瘡が流行し、この病気平癒を祈願して近くに建立されたものなのでしょう。

現在は老人ホームの建物で風景が遮られていますが、ホンの一角から見沼の低地を望むことができました。
伊達城跡からの眺望 緑の水田が鮮やかです。

かつてもこの光景が見られていたのでしょう。

ここから南に300mほど進むと道路わきに「大和田陣屋」と書かれた道標があります。大和田陣屋跡 道標

大宮・岩槻道歴史散歩コース 大和田陣屋と伊達氏 ここは大和田町1丁目です。
この道は、西は寿能町を経て大宮の町中に通じ、東は蓮沼や東宮下を通り、日光御成道に合流し東北自動車道岩槻インターチェンジの西側へ通じ、大橋で綾瀬川を越えて岩槻市内へと結ばれています。旧国道16号が開通する以前は、大宮と岩槻を結ぶメーンストリートでした。道沿いに江戸時代の年号が刻まれた石造物や各村々で祭られた神社を目にすることができます。
当地一帯は市内でも最も標高が高く、海抜18.6mを測る地点があります。冬の晴れた朝には秩父の山並みが見え、寿能町や土呂町の住宅を見下ろすほどの高さがあります。高所で周囲への展望が良い所であったため、中世~近世にかけては軍事拠点として利用され伊達陣屋・大和田陣屋などと呼ばれている陣屋が築かれていました。陣屋の主・伊達与兵衛房実は岩付(槻)城主太田氏の家臣で、当地は寿能城とともに岩付(槻)城の軍事拠点としての役割を果たしてきました。伊達与兵衛房実は、徳川家康が江戸に入った以降は家康に召し抱えられ大和田の地を治めました。
今もこの道の周辺に高さ3mの土塁が残り、往時を偲ばせています。塁上の一部には大木が茂り、うっそうとしています。
さいたま市教育委員会生涯学習部文化財保護課
(現地案内板説明文より)

この通りがかつてのメインストリートです。岩槻道 岩槻道

右側は坂道になっていて、ここでの標高を気付かせてくれます。左側をまっすぐ進めば岩槻城となる歴史ある街道です。

ここで確認しておきたいのは“城”と“陣屋”です。ここでは伊達陣屋と呼んでいますが、一般的には伊達城、そして大和田陣屋という呼び方が多いようです。
そこで根本的な内容の違いを確認します。
そもそもは1615年徳川幕府(家康)が制定した「一国一城令」に基づくもので、一国(大名の領国=後の藩)には大名が居住または政庁とする1つの城郭だけを残して、その他の城は全て廃城にするというものです。
これにより安土桃山時代に3,000近くあったといわれる城郭が約170までに激減したのだそうです。
それと並行して大名の格付けも行われ、国主-順国主-城主-城主格-無城(陣屋)の5階級が制定されたのです。

国主大名および順国主大名とは、領地が一国以上である大名を言い、従四位下侍従以上に叙任し、参勤交代で参府・出府時、将軍に拝謁以前に上使として老中が大名邸に伝達にくる栄誉をもつ家などというような条件をもつ大名のことです。
国主大名として有名なのは、松平加賀宰相・前田家や松平薩摩守・島津家などがあり、順国主大名としては伊達遠江守・宇和島伊達家や丹羽左京大夫・児玉丹羽家などがいます。
城主大名は一国は持っていなくても国許の屋敷に城が認められている大名をいいます。幕末の慶応3(1867)年には151家あったそうです。武蔵国では忍藩の忍城、岩槻藩の岩槻城、川越藩の川越城だけが認められていたそうです。
なお、城主格大名とは国許の屋敷が陣屋である大名のうち、城主に準ずる待遇をうける大名をいったそうです。
そして無城大名は、一般的に3万石以下の城を持たない大名のことをいい、この大名が居住又は政庁とする館が陣屋と呼ばれていたのだそうです。
この中には旗本領や大藩の家老の所有地である地行所の政庁が置かれた屋敷なども陣屋と呼ばれたようです。

このような経緯をふまえると、最初の伊達陣屋は戦国時代(安土桃山時代)で大名制度のない時代でしたから“伊達城”で、大和田陣屋は大名制度化ですから“大和田陣屋”ということになるのでしょう。

先ほどの道標から住宅地に入って見ると、綺麗に刈り込まれた生垣があります。大和田陣屋址 大和田陣屋跡大和田陣屋址

現在の大和田陣屋跡は、個人の住宅になっているようです。
そしてこの個人宅の住宅の生垣がかつての土塁址のようです。大和田陣屋跡土塁 大和田陣屋跡土塁

若干、わかりづらいのですが唯一の遺構のようです。

伊達城と大和田陣屋は位置のずれがあります。
江戸時代当時の伊達房実は250石を与えられてこの大和田陣屋を構えたそうですが、どうやら大和田陣屋が出来上がった後に伊達城は破却されたようです。
そのために位置がずれているのでしょう。
実に面白い歴史を知ることができましたが、旧大宮市にこのような歴史があったこと自体結構驚きでした。

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