見沼区片柳周辺散策 #2

見沼区の南端である上山口新田で、癒される風景や興味深い歴史を知った後は、方角を東に向けます。
いわゆる見沼区の南端を西から東方面での散策で、先ほどまでは見沼代用水の西縁を下ってきたのですが、ここから東方面に移動し、代用水の東縁を北上するロケーションとなります。

中山神社

上山口新田から一旦県道1号線、第2産業道路に戻り少し北上すると「中山神社」があります。
この神社の一の鳥居は第2産業道路の左側にあり、左折した少し先に鎮座しています。中山神社 一の鳥居

道路の片側に位置している奇妙な配置の鳥居で、これはこの道路が元々参道であったことからこうなったもののようです。
したがってこの鳥居をくぐって参道を進むと、途中で参道は第2産業道路に分断され、その先に参道が続いていると言うことになるのです。参道を分断する第2産業道路

そして100mほどの参道を進むと二の鳥居となります。
二の鳥居 こちらは先ほどの朱の煌びやかな一の鳥居と違い、ぐっと趣のある鳥居です。

そしてこの鳥居に掲げられている扁額にはなんと「氷川神社」と書かれています。氷川神社の掲額

中山神社 
所在地:さいたま市中川143
中山神社は、かつて中氷川神社と呼ばれた中川の鎮守である。創建を人皇十代崇神天皇の御代二年と伝えられる古社である。明治40年7月、神社合祀の際に社名を現在の中山神社に改められたが、今でも通称は「中氷川神社」で通っている。「中氷川」の由来は一説には、見沼に面した高鼻・三室(浦和)・中川の地に氷川社があり、各々、男体宮、女体宮、簸王子宮を祀り、当社が高鼻(男体)、三室(女体)の中間に位置したところから付けられたという。
天正19年(1591)11月、徳川家康から社領15石の御朱印を賜った格式のある神社である。
当社の祭礼の中でも、毎年12月8日に行われた鎮火祭は特に有名で、焚き終わった炭火の上を素足で渡り、無病息災及び火難がないよう祈願するものである。ただし、近年は事情によりこの行事は中断している。
現社殿の裏側に旧社殿が保存されているが、これは桃山様式をもつ市内最古の建造物として大宮市指定文化財となっている。
昭和59年3月 さいたま市
(現地案内板説明文より)

以前訪れた【見沼田んぼと見沼通船堀】での氷川女体神社でもこの由緒が語られていたのですが、今回でやっと最後の中山神社を訪れることができたわけです。
氷川三社マップ こちらがその位置関係です。

確かに直線でつながれ、ほぼ等分のとところに中山神社がある配置です。現在ではこれをパワースポットということでクローズアップしているケースもあるようです。

そもそもこの直線は、古代の遺跡には直線的に並ぶように建造されたものがあると云う仮説の「レイライン」と呼ばれる直線のことで、1921年イギリスのアマチュア考古学者アルフレッド・ワトキンスによって提唱されたことから、一躍遺跡の直線的配置が世の注意をひきつけることになったものです。
確かにそういわれるとこの三社の配置などはまさしくレイラインでしょう。しかしながら、レイラインの存在を認める動きというのは学術的に主流ではないようです。
それは、レイラインが実在するならば、古代の人々がどうしてそのような直線性を持たせたのかが不明で、更にこれは偶然でも発生するという疑問があったからのようです。
勿論、これらの疑問についてはそれなりの解釈があるようですが、現状でのレイラインは都市伝説的なものと考えておく方が良いのではないか考えたほうが無難でしょう。

この3社についても、2社建っていたので(3社の創建がはっきりしないため)その中間、或いはその延長線上に建てたといったことも考えられますが、当時のスキルを考えるとどうなのでしょうか・・・。
いずれにしても歴史ロマン的には非常に面白い発想だと思います。鵜呑みにはできないけれど、「あるかも知れない」程度に考えておくと歴史も更に面白くなりますね。
中間の中山神社は、“レイラインの3社のパワーが集まった一大パワースポットである”などという今流行の旅番組で1回TV放映すれば、参拝客は一気に増加することでしょう。

このような3社の関係ゆえに「氷川神社」と記載されているのでしょう。確か女体神社の扁額には「武蔵国一宮」と記載されていましたから。
参道の右側に多くの摂末社があります。
神明社・飯成社・淡島社・疱瘡守護社・磐社・石上社・竈神社・稲田宮主社は1つの社に納められ、その手前に荒脛神社があります。摂末社 荒脛神社

ここで興味深いのが、この「荒脛神社」です。この社は“アラハバキ”という日本の民間信仰の神を祀った社なのです。
日本の神を便宜上大別すると以下のようになります。
日本神話由来の神:天照大神、伊弉諾尊、伊弉冉尊など。
陰陽道(道教)の神:四神(東の青竜・南の朱雀・西の白虎・北の玄武)、風神、雷神など。
民俗信仰の神:七福神、シーサー、ビリケン、貧乏神
人神、現人神:菅原道真、東郷平八郎など
これらのほかに、琉球やアイヌなどの神もいるようですが、一応大きく分類するとこうなるようです。

そして件の“アラハバキ”ですが、これは民俗信仰の神として位置付けられているようです。
“アラハバキ”は東北地方を中心にみられる民俗信仰で祀られる神で、中央集権体制に支配される前の地方神として縄文系の神とも云われているようです。
しかしながらその起源は不明点が多く、歴史的な経緯や信憑性について諸説あるのだそうです。更に「東日流外三郡誌」で遮光器土偶の絵が示されていることから、それに影響を受けたフィクションなどもあるため謎の神として扱われているようです。
この“アラハバキ”を祀る神社は全国にあるのですが、東北以外では客人神(門客神)として祀られているケースが多いのだそうです。
この客人神とは、その神社の主祭神との関係が深くない神で、このような外から来た神の霊力によって土地の氏神の力を一層強化してしてくれるという信仰によるものだと考えられているようです。したがって客人神は、拝殿の一隅や随神のような所に祀られたりするのだそうです。
しかし、そこは謎の神たる所以で、この解釈についても別な解釈があり、この客人神とは氏神が来る前の本来の地主神のことをいい、神社の建つ前の土着神という説もあるようです。

この土着神としての解釈に別のアプローチとして、こんな考え方もあるようです。

古代荒脛(あらはばき)族と称する種族が武蔵国及び奥州に多く居住していた。京都の人々は彼らを蝦夷と蔑称した。足立郡に荒脛社が多くあり、今は氷川社の末社となっている。
荒脛王阿部氏は熊谷郷に王居を構えていた。阿(くま)族の集落をクマガイと称す。阿族は安部、阿部、熊谷を苗字として奥州太平洋岸に多く居住している。埼玉古墳稲荷山鉄剣銘の被葬者は熊谷郷出身の阿部氏である。熊谷郷は後世の成田村で、此地より荒脛族羊氏の後裔成田氏が発祥する。
(埼玉苗字辞典より)

東北が武蔵を含んでいたとしても、遠い西国から見れば無理もないことかもしれません。いずれにしても謎の神・客人神としてのある意味での存在感はたっぷりあるようです。
そして、大宮氷川神社にも「門客人神社」という摂社があり、元々は“アラハバキ”を祀った「荒脛巾神社」と呼ばれていたようです。
しかし、現在、この「門客人神社」には、日本神話のヤマタノオロチ退治の説話に登場する夫婦神であるアシナヅチ・テナヅチの2神が祀られているそうです。
経緯などははっきり分らないのですが、いずれにしても氷川神社と中山神社がこの“アラハバキ”で結びついていることは間違いないようです。
“アラハバキ”が氷川神社を追われたので、中山神社に移したのでは、などという勝手な話を作るのもまた一興かと…。

参道を先に進むと、右側に石碑のようなものがあります。境内 御火塚

「御火塚」と刻まれています。 ここで鎮火祭が営まれたのでしょう。

この鎮火祭とは、「ほしづめのまつり」と読み、神道における祭祀のひとつなのだそうです。元来は国家が行う祭祀の大綱を定めた「神祇令」に記載されていることから公的な祭祀で、宮中(皇居)の防火守護を祈願するものです。毎年旧暦の6月と12月の晦日の夜に宮城の四隅で火を起こし、古代の祭祀貴族の一つで、卜占による吉凶判断を業としていた氏族である“卜部”氏家伝の秘事を行なう行事だったようです。
この神事が徐々に地方にも広がり、各神社によって特色ある祭祀の形となって斎行されていったそうです。
中山神社でも、元来の鎮火祭が変化して火渡り神事ともなったのかもしれません。
かつてこの散策を始めた初期の頃訪れた【不動ヶ岡不動尊総願寺】での火渡り式を見学したことを思い出しました。
どのような理由で中断されているのかは分りませんが、いつか復活すると良いですね。

だいぶ寄り道をしてしまいましたが…、参道の左手にあるのが神楽殿です。神楽殿

横からの支えが気になりますが、やはり先般の地震の影響でしょうか。
拝殿 拝殿 さて今度こそ拝殿にて参拝です。

社叢に包まれたこの凛とした雰囲気がたまらなく良いのですね、特に古ければ古いほど…。
社殿はそれほど大きくもなく荘厳さもあまり感じなく、氷川神社や氷川女体神社と比べようもありませんが、それでもそれなりの由緒 だけの重みは感じることができます。
本殿は華美な彫刻もなくいたってシンプルな“一間流造り”ですが、コバルトブルーの屋根とのコントラストが落ち着いた中にも多少の煌びやかさを演出しているようです。本殿 本殿

社殿の裏には旧社殿が鎮座しています。といっても覆屋で囲まれていますが。中山神社旧社殿 覆屋

大宮市指定文化財建造物 中山神社旧社殿 指定:昭和45年8月11日
中山神社は、古くは氷川社と称し大己貴命を祀る旧中川村の鎮守で、大宮市高鼻町の氷川神社と浦和市三室の氷川神社の中間に位置するため、中氷川神社とも呼び慣わされてきました。明治の終わりに山の山村神社などを合祀して現在の社名に改めました。境内では十二月八日に神事の「鎮火祭」が執り行われていましたが、現在は社殿前に建立された「御火塚」と記された小さな石碑がその名残を留めているにすぎません。この鎮火祭の火によって「中氷川」の氷が溶けてしまい、この地を中川と呼ぶようになったともいわれています。
旧社殿は、板張り床の外陣に至る階段を設け、祭神を安置する母屋前方の屋根を、角度を変えて軒先よりさらに長くして、反りを付した板葺の二間社です。また、社殿側面の床板には脇障子や端の反り返った欄干がついていた痕跡が見受けられます。このような造りを「流造り」といい、一間社で社殿正面の階段や脇障子のないものを「見世棚造り」といい社殿のもとになる型です。この旧社殿は簡素な板葺きの「見世棚造り」が二間社となり、階段などを装飾して「流造り」に発展していく過渡期の建造物といえます。桃山期のものと考えられ、県内に現存する社殿でも古い型式に入り、市内では最古のものであり、建築学上大変貴重な資料です。
平成3年3月 大宮市教育委員会
(現地案内板説明文より)

まずは中川の地名の由来に拍手を贈っておきましょう。埼玉県にしては粋な話しで、こうゆう話しができれば“駄埼玉”にならずにすむでしょうが・・・。
さて旧社殿ですが、このままでは何も分りませんので柵の隙間から写真を撮ってみました。
なるほど確かに側面には、いわゆる透かし彫りなどの彫刻を施した“脇障子”はありません。中山神社旧社殿

これが「見世棚造り」の特徴なのでしょう。
しかしながら、その特徴の1つである階段はこのようについています。中山神社旧社殿

つまり脇障子はないけれど階段があることから過渡期の社殿と言われるのですね。実に分りやすい建造物です。
ただ、基本的にこれは本殿であって、社殿ではないですよね。これが社殿ならば余りにも小さすぎますから…。

氷川三社の最後を見られ、更に多くの興味深い歴史や文化を知ることができました。
やはり由緒ある古社は何か“持って”ますね。

見沼自然公園

「中山神社」から一気に東へ県道214号線を進むと、次の目的地である左側に「旧坂東家住宅見沼くらしっく館」がありますが…、ナビをつけていながらもうっかり通り過ごしてしまい、少し先でUターンしようと思いながら、右手に公園があったので一旦公園に入ってみました。
この公園は「見沼自然公園」というそうで、1994(平成6)年に開設された11ヘクタールもある比較的新しい公園です。文字通り見沼の自然を生かした贅沢な公園ともいえるでしょう。
この公園も実にややこしい場所にあり、地番は緑区になるのですが、入口の前は見沼区という境界にある公園です。
緑区ながら折角なのでUターンだけでなく、少し散策をしてみました。

公園のエントランスにはおしゃれな標識が立っており、その後には舟の形を土台にした案内板がありました。見沼自然公園 野田の通船堀跡

野田の通船堀跡
この水路は、江戸との往復の船を通した私設の運河跡です。享保13年(1728年)、見沼溜井は干拓されて新田となり、在来の溜井に代わる用水として見沼代用水路が開かれました。この公園の北東に接し流れているのが、見沼代用水の東縁用水路です。同16年、代用水路縁辺の村々と江戸とを結ぶ内陸水運が幕府によって開かれました。これを見沼通船といい、年貢米、薪炭、野菜、柿渋、酒などが江戸に運ばれ、江戸からは、肥料、塩、雑貨などが運ばれて来ました。
見沼通船には、各所に河岸(荷積み場)が置かれ、拠点に通船会所が設けられました。この公園に隣接する中久喜家宅は、染谷河岸と呼ばれており、河岸があったとともに通船会所がありました。中久喜家の祖は、井澤弥惣兵衛為永に従って見沼の新田開発に就事したということです。一方、同家では居宅庭先まで通船堀を私的に設け、芝川(見沼中悪水路)、加田屋川を経る通船を開き、代用水路側との両方の船荷を効率的に取扱いました。
浦和市では、公園造成にあたり、この通船遺跡をそのまま残し、近世の産業交通の歴史を学ぶ場としました。
平成6年4月 浦和市
(現地案内板説明文より)

という事で、その通船遺跡はと眺めると、どうやらこの斜面の下がそのまま通船掘のようなのですが、樹木が生い茂っているのではっきりと見ることはできません。野田の通船堀跡 野田の通船堀跡

やはり遺跡などを訪れるのは冬に限ります。
それでも、そういった貴重な遺跡が残されているのですから、いかに見沼代用水とそれらの関連するものを大事にしているかが窺えます。まさに見沼の文化といっても良いでしょう。

エントランスから真っ直ぐ伸びるメインストリートを進むと広場が見えます。メインストリート

広場にはオブジェが幾つか置かれていますが、中央にあるのが龍のオブジェで、これには見沼の龍の伝説が込められています。広場のオブジェ 広場の龍のオブジェ

ここには今までに聞いてきた「見沼の笛の音」、「見沼の弁天様」、そして以前知った国昌寺の「開かずの門」の伝説のプレートがはめ込まれていました。

広場の先は広い芝生の広場となっていて、その先に中ノ島のある池が見えます。
池の辺ではキャンプ気分のファミリーもいて、のんびりした空気の流れている公園です。芝生広場と池

芝生広場の左側には銅像が置かれているので近くで見てみます。井澤弥惣兵衛為永銅像

見沼代用水路の開祖である「井澤弥惣兵衛為永」の銅像でした。

見沼代用水路の開祖 井澤弥惣兵衛為永
井澤弥惣兵衛為永は紀州溝ノ口村(現和歌山県海南市)に生まれ、その年を明確に表すものはありませんが。徳川幕府が寛政年間にまとめた系譜集によると、承久3年(1654年)になっています。
為永は幼少の頃より学問、特に算術に秀でており、若くして紀州藩に仕え、水利事業にその才能を発揮し、紀ノ川水系に造成された亀池は代表的な施設として現在でもその姿を保っています。
享保元年、徳川吉宗が8代将軍なった頃の幕府は財政状況が大変苦しく、財政改革に乗り出した吉宗は紀州徳川藩主当時、治水事業に能力を発揮していた為永を享保7年、江戸に召し出し紀州流といわれる土木技術により多くの新田開発をし、財政改革に大きく貢献しました。
為永は、享保10年、新田開発のため見沼を視察し、干拓後の水源を見沼に代わって利根川より水を引くこととし、享保12年(1727年)より工事を開始し、元荒川の底を通す伏越・綾瀬川の上を通す掛渡井等を構築し、翌年の春に完成させ、総延長約60キロに及ぶ見沼代用水路をわずか半年にて完成させました。これにより見沼溜井約1,200ヘクタールの新田開発と八丁堤下流の水源を確保することになりました。また、見沼代用水の開削に合わせ小林沼(菖蒲町)等の、数多くの沼地を開墾し、黒沼・笠原沼用水、天久保用水、高沼用水を始めとする多くの用水路を手掛けています。そして閘門式運河としての通運施設を開発し、芝川と東縁・西縁用水路を結ぶ通船堀を享保16年(1731年)完成させています。これは当時のわが国の技術のレベルの上でも、世界の通運史上からみても特筆されるものであり、現在通船堀跡は国指定史跡となっています。
為永は晩年、美濃郡代を兼ね元文3年(1738年)3月にその生涯を閉じたとされています。
(署名・印鑑・花押)
なお、「見沼代用水路」の名称については、見沼に代わる水源としての用水路との理由から命名されたものです。
(現地案内板説明文より)

この銅像は井澤弥惣兵衛為永の生誕350年を記念して建立されたものだそうで、まさに見沼のスーパースターですから当然といえば当然でしょう。
特にいうべきこともありませんが、このような案内板に署名・印鑑・花押が記載されているのも珍しいものです。井澤弥惣兵衛為永 署名・印鑑・花押

通船掘に龍、そして井澤弥惣兵衛為永というまさに見沼を凝縮したような自然公園でした。

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