見沼区片柳周辺散策 #3

見沼区片柳地区はここよりまだ南部に広がっていて、やはり井澤弥惣兵衛為永の縁の地である「万年寺」や、見沼の代表的な自然や風景がみられるのですが、一部以前の散策で訪れましたので今回は割愛です。
ここからは先ほど通り過ぎてしまった「旧坂東家住宅見沼くらしっく館」に向います。

旧坂東家住宅見沼くらしっく館

後戻りをして「旧坂東家住宅見沼くらしっく館」に到着です。
旧坂東家住宅見沼くらしっく館 ちょうど夏休みシーズンなので、子供の為のイベントが開催されているようです。

エントランスを抜けると右手にその旧坂東家住宅をみることができます。
旧坂東家住宅見沼くらしっく館 かなり大きな古民家です。

前庭には夏休みのイベント用でしょうか、懐かしいコマ、メンコ、竹トンボなどの玩具が置かれています。玩具

これらも子供の学習の一つなのでしょう。

この旧坂東家住宅は、この周辺である片柳の加田屋新田を開発した、坂東家の屋敷をほぼ同じ位置に復原したもで、建坪87坪もある江戸時代末の1857(安政4)年に建てられた格式の高い住宅なのだそうです。

旧坂東家住宅
旧坂東家住宅は、3時期にわけて造られており、床上部分が安政4年の建立であることが柱のほぞ穴の墨書により判明しています。土間の部分の建立はこれより古く、中二階を持つ建物背面に突出した八畳の部屋が一番新しいものとされていますが、それほど大きな時期の隔たりはなく造られたものと考えられています。向かって右手の土間は建物の間口約半分を占め、土間部分は壁により「ウマヤ」、「オトコベヤ」、「ダイドコロ」等の部屋に仕切られており、馬屋の部分は前面に突出しています。板が貼られた「カッテ」が床上部分の「オクザシキ」から続いてあり、囲炉裏が設置されています。床上部分は六間取りとなり、オクザシキの隣には「オモテ」があり、オクザシキから続く中2階を持つ「ハチジョウ」が建物北側に突出しています。次に「ザシキ」と「ゲンカン」がありゲンカンには式台がついています。西側部分は「オク」と「オクデイ」と呼ばれる部屋でオクデイは床の間と付書院を持ちます。西側廊下の奥には湯殿と便所を設けています。旧坂東家住宅は六間取りという大きな間取りを持ち、この地の名主の屋敷としての規模と格式を備えた家です。
(さいたま市オフィシャルサイトより)

同じサイトに間取り図があるので掲載させていただきます。
見取図 《写真:(C)さいたま市》

ここが玄関にある式台です。式台

式台とは、玄関の土間と床の段差が大きい場合に設置される板のことで、元々は武家屋敷で来客者が地面に降りることなく駕籠に乗れるようにもうけられた板の間のことだったそうです。
したがって、通常の民家でこの式台があるというのは、当時の1つのステータスでもあったということでしょう。

現在の入口はこちらの土間からですが、その横に「力石」が置かれています。
力石 「二十七・・・」と刻まれていますが、27貫(約101kg)の力石だそうです。

力石は基本的に約60kgの米俵より重いのが一般的ですので、極めてオーソドックスな力石といえるでしょう。

土間に入ると左手に「囲炉裏」があり、火がくべられています。囲炉裏

このような古民家を幾つか見てきましたが、“すす”による木材のコーティング、虫除けなどをかねて囲炉裏に火がくべられているのが極当たり前のようです。
スタッフの方によると殆ど毎日火を入れているそうです。煙と暑さで大変でしょうね。

囲炉裏の左となりの部屋がこのようになっています。
手前から「オモテ」「ゲンカン」「オク」の各部屋です。「オモテ」「ゲンカン」「オク」 お手玉にビー玉

「オモテ」にはお手玉、ビー玉、おはじきといった部屋の中で遊ぶ玩具が置かれています。女の子はこういったもので遊んでいたものですが、ビー玉は男の子の遊びでしたね。

その奥にある「ザシキ」と「オクデイ」です。「ザシキ」の“カヤ” 「オクデイ」

「ザシキ」には“カヤ”が吊られています。子供ころ“カヤ”の中で寝ていた経験がありますが、緑色のもっと透き通った感じのものでした。それにしても確かに昭和30年代にはカヤがありましたね。ちょっと懐かしい思い出です。
「オクデイ」は立派な床の間がついていますので、客間ということでしょうか。

一分銀 このような「一分銀」も展示されています。

これは安政4(1857)年に埋められて、平成5(1993)年に発掘されたものだそうです。
一分銀4枚が小判1枚にあたる1両だそうです。当時安政5年の貨幣価値からすると1両は現在の約6300円にあたるようです。
何枚かは判りませんが、100枚あるとすれば凡そ160,000円程度です。となると埋められたということもあり、ヘソクリかもしれないですね。

そして「オクザシキ」からの中二階の「ハチジョウ」の屋根裏です。黒光りの柱が重厚感を醸し出しています。「ハチジョウ」の屋根裏

一番奥にあるのが「湯殿」と「便所」です。「湯殿」と「便所」

このように歴史的な価値は勿論のこと、当時の名家の暮らしぶりというのが何となく想像できる古民家です。

それではその名家である坂東家とは一体どのような家柄だったのでしょうか。

坂東家と加田屋新田
坂東家は紀州(現在の和歌山県)名草郡加田村の出身です。初代助右衛門尚重は、正保元年(1664)に江戸北新堀(日本橋)に住んでいた商人で、屋号を「加田屋」といいました。
助右衛門尚重は、延宝3年(1675)、江戸に住みながら、その頃用水として伊那半十郎により開発されていた見沼溜池の一角に入江新田を開発しましたが、下流の村村の反対により享保3年(1718)二代目四郎左衛門直政の時、元の溜池に戻しました。
その後八代将軍徳川吉宗は新田開発を大いに推進し見沼溜井を新田として開発しました。この時、坂東家の当主は三代助右衛門尚常でした。彼は祖父が開発した入江新田の再開発を幕府に願い出て許可されます。そして江戸大阪町の住人らと協力して、65町2反余(約65ヘクタール)を開発し、江戸での屋号をとって加田屋新田と命名、代々この地の名主を務めました。この加田屋新田は享保16(1731)筧播磨守の検地により、614石2斗とされ、坂東家は465石7斗あまりを名請しています。三代助右衛門尚常は享保14年には幕府より見沼代用水東縁の新染谷の用水取り入れ口の見守り役と、そこから木曾呂までの用水路の見まわり役を命ぜられ、この役は名主役と伴に幕末まで代々継承されました。旧坂東家住宅は安政4年(1857)10代目助次郎の時の建築です。その後も13代目新助、14代目貞市は、大正から昭和にわたり、北足立郡片柳村の村長をつとめ、村政に貢献しました。
(さいたま市オフィシャルサイトより)

まさに片柳地区の名家の1つといえるのでしょう。
初代は日本橋だったようですが、二代目四郎左衛門直政の時の宝永4(1707)年8月に嫡男・助右衛門尚常をつれて入江新田に移り片柳に居住したようです。
因みにこの年の11月23日、「宝永大噴火」と呼ばれる富士山が大噴火を起こしたそうです。このあたりの田んぼも降灰で大変だったのでしょうが、季節的には稲刈りも終っていたころでしょうから、被害は少なかったかもしれません。
その後、現在まで富士山は噴火していませんので、一応富士山の最後の噴火となるわけです。

このように富士山の(便宜上の)最後の噴火から300年が経過しているのですが、この坂東家もまた同じように見沼に居住して以来、実に300年以上脈々と続いている訳です。
現在は、この旧坂東家住宅の隣にある新しい建物に住まわれているそうです。旧坂東家住宅 現在の坂東家

加田屋新田

早速、その「加田屋新田」を散策します。
青々とした稲が水田一杯に広がっています。加田屋新田 加田屋新田

「上山口新田」も素晴らしい光景でしたが、見沼田んぼで一番見沼田んぼらしい光景がここ「加田屋新田」といわれているそうです。

その中央に流れている川が「加田屋川」です。加田屋川 加田屋川 加田屋川

まさに坂東家縁の場所ともいえるでしょう。
この加田屋川は現在見沼区役所のある見沼区堀崎町付近を源にして、見沼区と緑区の境界に近い緑区南部領辻周辺で芝川と合流する準用河川です。この準用河川とは一級、二級河川に指定されなかった河川で、市町村長が公共性の見地から重要と考え指定した河川のことだそうです。

公式には、ここから北にある七里公園の隣にある東宮下小学校脇から上流を「加田屋落し都市下水路」、下流を「加田屋川」というのだそうです。
この河川は一般的な河川に比べて特異な特徴を持っているのです。
それは、一般的に河川と言うのは下流に行くに従って周辺流域が都市化していくのですが、この加田屋川はその逆になっているのです。そもそも源といわれるところが見沼区役所周辺で、先の東宮下付近までは住宅街や団地内を流れ、コンクリートで固められた水路のような都市河川の様相を見せるのですが、そこからの下流は見沼田んぼを流れる広大な緑地を流れる小川といった風情となるからです。先の正式名称もそれを言い表しているようです。
このようなことからかつてはウナギもいたと言う清流だったようですが、上流の宅地化や団地建設により下水が流入したため、水質は劇的に悪化したようです。現在では下水道も完備されたこともあり以前ほどの汚染流入はなくなったようですが、かつての清流を取り戻すには程遠いようです。
それでもいつの日か、見沼田んぼの保全と共に清流の戻ってくる日が来るのだと思います。

加田屋川沿いを散策していると妙に案山子の並んだ一角がありました。
中に看板があり「見沼田圃体験水田 見沼ファーム21」と書かれています。体験田圃 体験田圃

ここで少しこの見沼ファーム21について調べて見ました。

平成11(1999)年、埼玉県の見沼田圃公有地化推進事業の一つとして、県の委託を受け見沼田んぼの水田保全を目的に「見沼田圃体験水田米作り活動」を行うためのNPO法人として創立されたようです。
この体験活動は、米作りを通して見沼田圃の魅力や「農」の大切さを伝えることを目標とし、地元農家の協力のもと毎年多くの参加者とともに米作りを続けているそうです。
この見沼田圃の公有地化とは、見沼田圃の買取りや借受けを行なうことにより、荒れ地化の拡大や新たな開発の誘発を防止し、見沼田圃の保全を図ることを目的としているのだそうです。その為に当該土地所有者等から、買取り・借受けの申出があるときは、埼玉県、さいたま市及び川口市は協調して買取り・借受けを行なうこととしているようです。
そしてその対象となる土地は、
●具体的に土地利用申出がなされているもので、諸法令により許可を受けられる見込みがあるにもかかわらず、基本方針により土地利用を著しく制限され、土地所有者の希望を達成することができない場合
●相続の開始などにより基本方針にそぐわない土地利用が行なわれるおそれがある場合
●耕作放棄等により荒れ地化した農地で、農家の担い手不足等のため、適正な管理が見込めない場合(借受けの場合)
このように法令的に云うと、わかりにくくなるのですが、要するに見沼田圃に土地を持っていて何らかの理由でその土地を活用できない人の土地は買い上げたり、借り上げたりしますよ、ということなのでしょう。
言い換えれば、土地が活用できないからそこらの不動産屋に売ってしまって、突如、見沼田圃の真ん中にパチンコ屋ができたら、一大事で、折角の保全計画も台無しと言うことになってしまうわけですから、「困っているならさいたま市と川口市で何とかしますよ」ということです、きっと。
そしてその買取ったり、借り上げた土地を活用しているのが、これらのNPO法人や各種団体なのでしょう。実際にこの「見沼ファーム21」のほかにも、「NPO法人カンゾウを育てる会」「見沼福祉農園推進協議会」「浦和西高斜面林友の会」「NPO法人地域人ネットワーク」などがあるようです。
いずれにしても官民一体になって推進しなければ、見沼田圃の環境保全というのは一筋縄ではいかないものなのでしょう。

参考:【NPO法人 見沼ファーム21】http://www.minuma-farm21.com/

300年の歴史を持つ加田屋新田ですが、ただ日本の原風景などと喜んでいるだけではいけないということでしょう。
何処にも厳しい現実はあるようですから…。

八雲神社

加田屋新田を後にして、加田屋川沿いを北上します。
途中に「八雲神社」の道標があったので立ち寄ってみました。比較的住宅地の中にある神社です。

特に境内の仕切りもなくいきなりの社殿です。八雲神社

ただ意外と行っては失礼ですが綺麗な社殿です。結構現在でも信仰は篤いのかも知れません。
本殿は一間社ながら脇障子も階段もある流造りの本殿です。(早速覚えた用語を使いたくなる…)八雲神社 本殿 八雲神社 本殿

そして社殿の後には小さな社と神輿庫のようなものがあり、その前に案内板があります。染谷の振り万灯

片柳歴史散歩コース 染谷の振り万灯 ここは染谷です。
7月14日は八雲神社で行なわれる天王様の祭礼で、5本の万灯を若い衆が振りながら村内をねり歩く勇ましい祭りでした。準備は前日から村中の人が総出で山車の組立や万灯の飾り付けを行いました。また、当日は朝からお囃子の音で祭り機運をかり立て、夕方になると高張提灯を先頭に、かち役、5本の万灯、おみこし、山車の順に行列をつくって出発します。万灯を振る若い衆は化粧をして派手な長襦袢を着、片肌脱いで赤いたすきをかけ、しごきの帯を下げ、白足袋にぞうりばきという姿で、かち役の叩く拍子木に合わせて、七・五・三に振りながら行進しました。1本の万灯の重さは約30kgあり、3人交代で振りました。昭和14年頃まで振り万灯が行われていましたが、若者の減少と共にできなくなり、戦後2回復活しましたが、今は山車も出さずに2本の万灯を当日社前に飾りお祭りをしています。
さいたま市教育委員会生涯学習部文化財保護課
(現地案内板説明文より)

見沼区大砂土東地区にも「八雲神社」があり、そこにも「砂の万灯」と言われる祭がありました。
それと同じ天王様の祭礼で、当時は、高張提灯、かち役、5本の万灯、おみこし、山車とういう行列ですから如何に盛大だったかが伺えます。
残念なことに、この案内板には写真等は掲載されておらず、また調べてみてもネット上ではほとんど情報を得ることはできませんでした。図書館等で文献を探せばあるかも知れませんが、現状そこまでできませんから想像たくましくするしかないでしょう。
ただ、非常に残念なことは、ここは埼玉県の県庁所在地でありながら若者が減少しているということです。勿論、東京だとしても少子化で全体的に減っているのは確かですが、単なる減少だけでなく、恐らく興味も減少しているということかもしれません。現在のエンターテイメントは何でもありで、戦前までの娯楽のない時代とは違いますから、若者離れということもあるのかもしれません。現に私自身地元の祭りに15年も行ったことがなく今年初めて見に行ったくらいですから、偉そうなことはいえません。
このような伝統が忘れ去られていくのも仕方ないことかもしれませんが、ホンのちょっとでも残っていれば、全盛期には程遠いかもしれませんが、戻ってくる人もいるかもしれませんね。

最後に社殿の右側に集会所かと思っていた建物がありましたが、よくよく見れば「馬頭観音」だったようです。馬頭観音

“告”と恐ろしげに記された案内板によると、ここは新秩父札所染谷第6番観音堂で、信徒集会所として利用されているようです。一応、集会所と考えてもあながち間違いではなかったようです。
建物の中央には「馬頭観世音」と記された掲額がありました。馬頭観音

何となくちょっと不思議な世界に迷い込んだような「八雲神社」でした。

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