見沼区七里周辺散策

片柳地区の散策を終えて、次に向かうのが七里地区です。
すっかり初期の目的を忘れそうなほどの散策になってしまいましたが、テーマは「加藤保男」です。
そこで次は最大の目的地と言える「加藤保男」の眠っている墓地に向かいます。
なんと言っても情報が少ないので、縁の場所はもうここしかありませんが襟を正して詣でたいと思います。

さいたま市 思い出の里市営霊園

七里地区最初の地は、加藤保男が眠っている「思い出の里市営霊園」です。
エントランスからは真直ぐ伸びた中央通路が何処までも続いていそうで、かなり広大な霊園であることが見て取れます。さいたま市 思い出の里市営霊園 さいたま市 思い出の里市営霊園

まずは霊園の概要を知っておきましょう。

思い出の里市営霊園は、広大な見沼の田園を望み、周辺には、武蔵野の面影をとどめる斜面林があるなど緑に囲まれた自然環境に恵まれた地に公園墓地として昭和51年4月に開設され、新緑、紅葉など四季折々の風景が楽しめる散策の場所として、また、故人の安らぎの場所として市民の皆様にご利用いただいております。
園内の27ヘクタールの広大な敷地には、サクラ、ケヤキ、ハナミズキなど3,000本を超える木々が植栽され、緑豊かな樹林に芝生墓地、普通墓地合わせて16,879区画の墓所が整然と配置されております。また、14年度には、市民の皆様の墓地のご要望にお応えするため、公園墓地のシンボルともいえる3階建ての屋内墓地、3段型壁墓地の屋外墓地、お墓の跡継ぎを必要としない1代限りの墓地の合葬式墓地の3種類の墓地、合わせて2,218区画の墓地を新たに整備いたしました。
その他、園内にはご遺骨を預けることができる納骨堂や通夜・告別式、法要等を行うための会館、利用者のための駐車場(337台)、休憩所などがあります。

◇墓地の種類及び設置数
思い出の里市営霊園には、市民の墓地需要及び墓地意識の多様化に対応するため、9種類、19,097区画の墓地が整備されております。
○芝生墓地(3.3平方メートル)13,741区画 ○芝生墓地(4.5平方メートル)1,292区画 ○普通墓地(5.0平方メートル)1,846区画 ○屋内墓地(6体用)400区画 ○屋内墓地(8体用)424区画 ○屋外墓地(4体用・上段)267区画 ○屋外墓地(4体用・中段)260区画 ○屋外墓地(8体用・下段)267区画 ○合葬式墓地 600区画
◇納骨堂
納骨堂は、25平方メートル2棟に3段のコンクリート製の棚があり、400体のお骨が収容できる一時収蔵施設であります。
◇会館
会館は、鉄筋コンクリート造平屋1,095平方メートルに第一葬祭場、第二葬祭場、和室、洋室、霊安室があり、葬儀、法要等に利用できます。
(さいたま市オフィシャルサイトより)

確かに何処までが霊園なのか見極められないくらい広いです。以前訪れた「青葉園」よりもさらに広いです。
この霊園は区分けがされており、事前に4区と言うことだけ知っていましたので案内図を見て進みました。
右手に大きな建物を見ながら進みます。これが屋内墓地のようです。屋内墓地

屋内墓地の先の右側の駐車場に車を止め、丁度駐車場を出た左側の植栽で囲われたエリアが4区です。さいたま市 思い出の里市営霊園

そして広い4区エリアにポツンと1基だけある墓所が加藤保男の墓所です。ちょうど裏側から見るとちょうどエベレストのようなイメージなのでしょうか。4区加藤保男墓所

墓石が2つあるのは左側が保男氏の墓で、右側が加藤家の墓のようです。加藤保男墓所 加藤保男墓所

墓石の後にはエベレストをイメージしたのでしょうか、山をかたどった岩が置かれています。
その岩の前には2つの赤っぽい石碑が置かれています。
左側の石碑には「エベレストの白き神の胸に安らかに眠れ・大宮市長馬橋隆二」、右側の石碑には「保男はいつまでも私達の心の中に生き続ける・中村和夫」と刻まれていました。
馬橋隆二大宮市長は、1983年市民栄誉賞を贈った当時の市長で、中村和夫とは1973年の登頂の際の名義スポンサー(或いは取材班かも知れません)のTBSの方のようです。

一方、墓石の手前にある記念碑は「加藤保男エベレスト春秋厳冬期登頂十周年記念 1992年10月」の記念碑で、加藤保男の母校である日本大学文理学部体育学科・桜門十期会が建立したもののようです。記念碑

そして墓石の右側面には戒名が刻まれています。
墓石 「昭和五十七年十二月二十七日 戒名蓋岳院釋明保居士 俗名保男三十三歳」

“蓋岳院”は「力は山を貫き、気は世をおおう。元気盛んで、天下をひと飲みにする勢い、気宇壮大で厳寒のエベレストをも、ひと飲みにする勢い」という意味を表したものなのだそうです。
“釋”は、浄土真宗の習わしで、釈迦の姓をいただいた意味で、“明”は、無明、迷いが、御仏の光明の中で悟りを開くことを表したものなのだそうです。

更に左側面には親しい方からの追悼の意が記されています。墓石

●1973年、日本エベレスト登山隊 隊長 湯浅道夫
「三たびエベレストの頂きに立った君はさわやかな笑顔で登山のもつ進歩の思想と美しく生きることの尊さを私達仲間と多くの若者にひたむきに語ってくれた」
●1984年、5月3日西面よりチョモランマに登る 西堀栄一郎
「加藤保男は自然を愛し自然にしたがったそこに世界最高の山があるからこそ」
●女流登山家今井道子記
「保(やっ)ちゃん、いくら卒論が「高所順化」でも余りににも素直すぎないかしらん。8848米のエベレストの女神に順応して供にしている姿をえがいています。私達山の仲間が保ちゃんに会にこれからも続くことでしょう。雪煙りの彼方に消えた保ちゃんがキット山の仲間を見守ってくれることを信じて市民栄誉賞と三冠王の保ちゃんよ安らかに・・・」

=アイガー北壁登頂パーティ=
アイガー北壁登頂パーティ 《写真:(C)山と渓谷社「エベレストに消えた息子よ」より》

最後に記載されているように、市民栄誉賞とエベレスト三冠王という偉業を成し遂げた事実と、それに関する様々なエピソードは本やネットで随分と紹介されています。
その中で、強烈な印象として残ったのは第2回エベレスト登頂後のことで、特に凍傷で足の指を失ったことです。
この時のことを自身が講演会で話していますので、抜粋させていただきます。

…、病院に入っているうちに足が今度、ミイラみたいになっちゃったんですね。ほいで、全部で8ヶ月半、入院してたんですけれども、だんだんだんだんその…手の感覚が無いし、その…痛くも何にもないんです。で、ひまにまかして、こう…ナイフでもって、そーですねー、かつおぶしあるでしょ、かつおぶしみたい…んなもんで、こう削ってたんです。自分の手を、ミイラんなったところを。そのうち何か下の方に白いのが見えてきて、こりゃいったい何だろうと。筋かなーと思って針でもって、こうつっついてたら、それが自分の骨なんですね。で骨がもう、じかにここへ出てきちゃってるんです。ほいで、こりゃあもうだめだと。ほいで、その時点でしょうがないから切ってくださいってことで、あきらめて手足を切断してもらいました。
(中略)
最初に病院を出て、2年たたないうちにナンダデビという7816m、インドで1番高い山に遠征の誘いがあって、で僕はこの山は6000m以上行かないと、6000mまでだったら手伝いに行くけれども、それ以上は行かないっていう条件で山に行ったんです。
ところがあのー、初めて気がついたんですけれども、足の指がないっていうのは、ゆるい下り坂を下れない。あのー、階段でもそうなんですけれども、階段を下りようとする時に…みんなはもう全然気がついてないと思います。左にグッと体重をかけて…前の指の方に体重をかけないと足が1歩でてかない。
それが足の先が無いから体重のかけようがないんです。それでも我慢して歩いてました。もうあぶら汗が流れてくるし、痛くて。そして足から血が吹き出てくるんです。もうせっかく足先がこう、きれいにかたまってるんだけれども、体重をグイッとかけるともう血管がもろに破れて血が吹き出てくると。
それでも、ナンダデビという山に行って、登山期間中、1番強かった。キャラバンでずーっとあの、ふもとを歩いている時はみんなの半分ぐらいのスピードしか出せないけれども、山の上行ったら今度、みんなが僕の半分ぐらいのスピードしか出せない。それでもって、1番頑張れた。初めてそこで自信が出たんです。
(加藤保男「最後の講演」より)

=凍傷手術後の手足=
凍傷の手足 《写真:(C)山と渓谷社「エベレストに消えた息子よ」より》

何なのでしょうか、このショッキングな出来事は。確かに一般的に凍傷で指を切断、といった話題はよく聞きますが、この様に生々しい話となるとは驚愕です。
そして更に指がないことからの歩行困難や出血など尋常ではありませんよね、絶対。山男では当たり前のことなのかもしれませんが…。
更に更にもっと驚愕したのは、これだけのことを経験しながら何と明るいのでしょう。単にポジティブな性格といってしまえばそれまでですが、恐らくここまでポジティブにならないと登山、特に8000m級の登山などはできないのでしょう。
そんな生々しい話しがされていますので、ぜひ一読されてみてください。特に亡くなる1ヶ月前くらいの講演ですから貴重です。

参考:【Squarenet Plaza】 -加藤保男「最後の講演」-http://www.squarenet.co.jp/kato/kouen.htm

このように功績と共に壮絶な人生(…であろう)を送られた加藤保男ですが、先の墓石に刻まれた追悼文では、一般的にイメージする山男の性格とは違うようです。
ここでは加藤保男のキャラクターをピックアップしてみます。
その性格を長尾三郎著の「エベレストに死す」では以下のように書かれています。

加藤保男は180センチ、72キロ。登山家としては大柄なほうだ。日本人に珍しく眉目秀麗で、端正な甘いマスクをしており、やや鼻にかかったバリトン、なめらかな魅力的な話し方は、どこか人を酔わせる魔力を秘めていた。その証拠に、彼には熱烈な女性ファンが多かった。
隊員の中には酒豪たちが結構多いが、加藤はふだんは飲まず、煙草も吸わない。この長身のクライマーは、ケーキなどの甘いものが大好き、というのも登山家としてはちょっと異色だった。彼は生まれ育った埼玉県大宮市の名産、「十万石」という饅頭を好み、遠征中も両親に送ってもらい、カビがはえていても平気で食べた。食欲も旺盛で、他の隊員たちが食欲不振でゲンナリしていても、人の二倍も三倍も食べてまだ足りない顔をしていた。
したがって体力は抜群で、疲れというものを他人には見せなかった。金田正樹医師によると、一度ヌプツェ(7879メートル)に高度順化のトレーニングに登ったときだけ、「苦しい」と、青息吐息で帰ってきたことがあったが、あとはケロリとしていた。
そこから「怪物」というニックネームを隊員たちからもらったが、この怪物は陽気で多少おっちょこちょいのところがあった。興がのると、「森の石松」や「野狐三次」などの浪曲をうなった。太陽がいつも自分の頭上に輝いているような明るさがあり、その性格が誰からも愛された。
(「エベレストに死す」より抜粋)

「十万石」というのも流石に埼玉県だけあるのですが、大宮市の名産ではなく行田市です。
我々一般人が描いている山男とはちょっと違うかもしれませんが、多くの人たちから愛され親しまれていたようです。
そしてこのように多くの人たちに愛された加藤保男でしたが、周知の通り帰らぬ人となったのです。
そして当時、保男の父親の墓所は実家の福井県だったそうですが、次男だったためにこの市民霊園を購入し加藤保男の墓所を建て、1983年(昭和58年)11月27日、一周忌がこの霊園で行われたときには200人余りの参列者が寒風の中佇んでいたそうです。
そして現在もこの墓にはお骨もなく、何も入ってはいませんが、遺体が見つからない方が両親にとっては色々な夢を見させてくれているとも考えているようです。唯一見つかった遺品であるヘルメットは茶の間に置かれていたそうです。あの多くの友人の集まった賑やかな茶の間でしょう。
お参りをさせていただいて市民霊園を後にしました。

西福寺

今回の主目的である加藤保男の墓所参詣を終えましたが、散策はまだまだ続きます。
次なるは市民霊園のすぐ北東の隣にある「西福寺」を訪ねます。 ちょうど霊園の1区のところに裏門があり、そこを出たところが「西福寺」です。1区 裏門

山号標のある入口から入ると立派な山門があり、「松崎山」の扁額があります。西福寺 西福寺山門

西福寺
所在地:さいたま市見沼区大字大谷935
西福寺は、山号を松崎山と称する曹洞宗の寺である。開山(寺を興した初代の住職)は常泉寺(見沼区染谷)の第四世禅怒宗明禅師(元亀元年(1570)4月13日示寂)である。開創年代は不明であるが、資料に天文12年(1543)の記述が有り、それが開創年代と推測する。
本尊には、平成13年(2001)の本堂新築落慶法要にて釈迦牟尼仏を奉安している。
また、境内には聖観世音菩薩、六地蔵尊、延命地蔵尊、白山妙理大権現、大黒天、永代供養無縁塔を祀っている。
当寺は、大谷の台地上の東端に位置し、南・東・北側は加田屋新田から続く低地が入り込んでおり、寺の北側にはかって船着場があったという。(現在のホタルの里・付近)
明治15年から同19年には当寺で大谷学校が開かれ、学校教育が行われた。
平成23年3月 さいたま市
(現地案内板説明文より)

1543年は、種子島にポルトガル人が来航し鉄砲が伝来した年で、室町時代末期です。
そもそも現在の七里地区の“七里”は、かつてこの地にあった七ヶ郷(大谷、猿ヶ谷戸、門前、宮ノ下、膝子、新堤、風渡野)を合併した村名「七里村」の名残なのです。
そしてその中の大谷は南北朝時代にはすでに「大谷郷」と称しており、かなり古くから存在していたようです。そのような古くから開けた土地柄ゆえに、古刹としての由緒をもっているのでしょう。

参道の左手には六地蔵が祀られています。六地蔵

六地蔵尊縁起
茲に奉安せる地蔵尊菩薩像の御開眼の年代は定かではないが大字大谷、通稱札場の六地蔵尊として往古より八石下田地域に念仏講中者はもとより数多くの信心帰趨とされ、以来風雪寒暑に五穀豊穣、家門の隆昌、悪病退散、そして子孫の長久等などの御加護の佛力は広大無辺なるを以って、遠近の信者により永年祈願の地蔵尊として崇拝し親しまれてまいりました。
然し時代の変遷として遇ゝ当六地蔵尊は古い昔の事故に私有地に建設されておりましたために、このたび現溝中近隣関係者各位の意により現在の地西福境内が最も適処となり遷座することと相成りました。
昔々より祖先崇、そして子育ての為と共に地蔵尊信心に明け暮れてまいりました私たち衆生に、無量無辺の功徳力と大慈悲心を持って御加護下されることに感謝し、私たちは一層の帰依信心の念を捧げ、御供養申し上げることを誓願いたしたいものです。
昭和56年8月24日 
西福寺31世 中村昭雄 六地蔵世話人一同
(現地案内板説明文より)

各地の多くの寺院に六地蔵は祀られていますが、なかなか縁起が判るものは少ないです。
恐らく“通稱札場”というのは高札場のことなのでしょうか、きっと船着場あたりにあったのでしょうか。
ある意味、安住の地に移ったということでしょう。詳しいことは判りませんが、こういったことは関係者のかなりの努力がないとできないようですね。まさに信心は力なり、といったところでしょう。

六地蔵の奥の境内の庭園も枯山水のように美しく整備されています。庭園

そして最後になってしまいましたが、新しく綺麗な本堂を参拝して西福寺を後にしました。本堂

大谷ホタルの里

西福寺のすぐ右側が「大谷ホタルの里」に続く緑地と水路です。
「見沼田圃の散歩道 農と見沼代用水の原風景」という道標があります。道標 大谷ホタルの里

水路の淵にはまるで船着場を再現したかのような場所もあります。この水路が古の船着場のあった川なのかどうかは判りませんが、この水路に沿って「ふれあいゾーン」「生態系ゾーン」「景観ゾーン」と続いているそうです。
このあたりは「ふれあいゾーン」で、水辺で遊べるような場所を作るため、階段護岸などで昔からある水路をイメージさせたものだそうです。

水路沿いを上ってくと「景観ゾーン」となります。大谷ホタルの里

このあたりでホタルを見ることができるようです。大谷ホタルの里 大谷ホタルの里

大宮第二公園の「ホタルの碑」や寿能城址での「蛍の宮」の伝説、江戸時代の「蛍狩」の版画、そして宮中への蛍の献上などで旧大宮市は蛍の名所ということを知りました。しかし1950年代にゲンジボタルが絶滅し、ヘイケボタルも激減してしまったようです。ちょうど加藤保男や我々の世代が子供のころでも、実際の蛍を見たことがない時代です。

そこで、旧大宮市のモデル事業としてこの「大谷ホタルの里」が作られたのだそうです。決して人工でつくれば良いというものではないでしょうが、それでも清流を復活させる啓蒙活動の一助になれば、それはそれで意義のある事業といえるでしょう。
既にホタルの季節は終わってしまいましたが、来年は是非一度ホタルを見に来ましょうかね。

七里総合公園

「大谷ホタルの里」から更に北に進むと「七里総合公園」があります。七里総合公園

丁度、見沼代用水東縁と加田屋川に挟まれた長細い公園です。

入口脇の駐車場に車を止めて東に歩くと、まずは子供たちの遊具が置かれています。七里総合公園

比較的大型の遊具でブランコとか…。名称がよくわからないのですが、どうやら宝くじの普及宣伝事業のために造られたようです。なぜこれが宝くじ普及に繋がるのかが良く判りません。

その反対側にはチェアーの設置されたデッキがあり、バードウォッチングができるようです。七里総合公園

先に見えるグラウンドは多目的グラウンドだそうで、今日は野球が行われています。

先に進むと加田屋川を渡る木造風の橋がかかっています。加田屋落し都市下水路 加田屋川

左の写真の方が上流側で、この少し先辺りから「加田屋落し都市下水路」と呼ばれる流域で、右の写真が下流側で「加田屋川」と呼ばれる流域です。

そして「加田屋川」の左手が親水公園で、この七里総合公園のメイン施設です。七里総合公園

本来は水が流れのでしょうが、節電の関係でしょうかストップされています。

そしてこの先は池やビオトープなどがあり、あくまで自然と親しむ造りの公園なのです。
この公園を最後に七里地区を離れます。

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