見沼区春岡周辺散策

「大砂土東」「片柳」「七里」と回ってきて最後は見沼区の北部にある「春岡」地区です。
「春岡」地区とは地番で言うと、卸町、小深作、春野、深作、丸ヶ崎、丸ヶ崎町、宮ヶ谷塔あたりになるのですが、今回の散策は国道16号線を中心に深作、丸ヶ崎周辺を散策します。
最初に訪れるのは、この地域でトライアングルをなしている3つの寺院です。

多聞院

テンプルトライアングルの最初は「多聞院」です。まさしく国道16号線沿いの地番では“丸ヶ崎”です。
「持寶山多聞院」と刻まれた寺号標の前の参道の先にには多少くすんだ朱の山門があります。多聞院 多聞院

山門のあたりは趣のある良い風情です。
山門をくぐった先の参道の左側には六地蔵が鎮座しています。六地蔵

大宮市指定有形文化財 丸ヶ崎六地蔵石仏
所在:大宮市大字丸ヶ崎1186 多聞院 指定:昭和52年4月14日
埼玉県域における中世石仏の遺存例は極く稀で、この地のほかには妻沼王子石仏(12世紀)と、中五十子観音石仏(15世紀)が知られているに過ぎない。この六地蔵石仏のうち向かって右側の5体は、猪首状で簡素な表現から室町時代中~後期(16世紀)のものと推定され、背面に「慶傳禅門逆修」、「…方尓(方ヘンに尓)陀仏逆修」の銘が、左側の一体には「寛永19年」(1642)の紀年銘が刻まれている。この地域の名主層夫婦が、あらかじめ自分達の死後の冥福を祈って造立したものと考えられる。なお、もと近くの観音堂境内にあったが、保存のため現在地に移した。
昭和55年3月 大宮市教育委員会
(現地案内板説明文より)

云われてみれば一番左側だけスッキリした首筋です。六地蔵

地蔵尊の背後がだいぶ傷んでいるようですし、経年磨耗もあって早めに保存ができてよかったですね。
当時の名主が誰だったのかは分りませんが、死後の為に造立したということで、やはりそれなりの財力を持っていたのでしょう。

そしてここにはもう1つ文化財があるようです。

大宮市指定有形文化財 丸ヶ崎円空作菩薩坐像
所在:大宮市大字丸ヶ崎1186 多聞院 指定:昭和54年5月4日
小型で表面がやや摩耗しているが、表現様式ならびに鋭い彫刻技法の特徴から円空仏と見られる。頭上に宝冠を頂き、膝上に宝珠と思われるものを持つ形式から観音菩薩または虚空蔵菩薩と考えられるが、尊名を決定することはできない。一部に金箔が認められるが当初のものでなく、もとは素木のままと思われる。なお、近くの丸ヶ崎新田薬師堂内で発見され、当寺に移したもの。
昭和55年3月 大宮市教育委員会
(現地案内板説明文より)

見ることはできないようですが、円空仏となると江戸時代前期頃の作となるわけです。
円空仏の特徴は、デザインが簡素化されていて、野性味に溢れながらも不可思議な笑みを浮かべているのが特徴です。円空としては民衆が気軽に拝める量産型の仏像として製作し、野に置かれることを望んでいたのだそうです。
その為、生涯に12万体の仏像を彫ったといわれているようで、現存するものだけでも5,000体を超えるそうです。それでも貴重な文化財となるのはその特異なデザインによるものなのでしょう。

最後に本殿で参拝を済ませますが、多聞院自体の縁起や由緒などは全く分りませんでした。多聞院

また、先ほどの文化財も元々多聞院に有ったものではないことから縁起の参考にもなりませんし…。
これくらいの規模を持ちながら歴史の全くわからない寺院も珍しい限りです。

宝積寺

次に向かうは「宝積寺」です。
境内の駐車場に車を止めると、アンパンマン一家のお出迎えです。良くある石材屋の提供ですが、子供たちなら喜ぶでしょうね。宝積寺 宝積寺

こちらの山門も簡素ながらしっかりしたもので、手前に仁王像が鎮座しています。宝積寺

山門をくぐりぬけて参道を進むと、同じように左手に六地蔵が祀られています。六地蔵

こちらの六地蔵はなかなかシックな六地蔵です。
また、右側には小さな板石塔婆や古そうな墓石があります。宝積寺 宝積寺

更に先に進んだ左側に大きな板石塔婆が建立されています。板石塔婆

大宮市指定有形文化財 宝積寺板石塔婆
所在:大宮市大字深作3357 宝積寺 指定:昭和36年12月9日
高さ:189.0cm、最大幅:54.0cm、厚さ:6.0cm
板石塔婆は供養のため造立された卒塔婆の一種で、市内では大小1200基余り(県下一の基数)確認されていますが、これは大日堂板石塔婆(天沼町)についで市内2番目の大きさです。以前は近くの路傍に建てられていましたが、管理保存のため当寺へ移したものです。
石材は力泥片岩で、塔身部上部に5点具足のアーンク(梵寺の胎蔵界大日如来)を藥研彫し、その下に造立趣旨が刻まれています。
<陰刻銘>※両側には梵字光明真言を刻む

悲母三十三ヶ年青石一基奉書写一乗
貞和三亥丁十一月九日□□阿闍梨 敬白
…一部同読誦一千部殊法界衆生也

これによると、貞和3年(1347)11月9日に、□□阿闍梨とい僧が母親の33回忌の供養として造立したことや、「青石一基」の文字から、当時は板石塔婆を「青石」と呼んでいたことなどを知ることができ、資料としても貴重です。
多少の風化は認められますが、彫りも深くどっしりしており、南北朝時代初期を代表する板石塔婆といえましょう。
昭和56年3月 大宮市教育委員会
(現地案内板説明文より)

埼玉県を散策しているとこの板石塔婆だけは非常にたくさん見る機会が多いです。
これはそもそも鎌倉武士の信仰に関係し、基本的には鎌倉武士の本貫地(本籍)とその所領に限られることから、関東地方に多く存在している訳です。
この宝積寺もまた、多聞院と同じように縁起・由緒が全く分らず、そしてこの板石塔婆もこの場所にあったわけではないので、寺院と板石塔婆との関連性もないということになってしまいます。
最後に本殿に参拝してこの地を後にします。宝積寺

覚蔵院

最後のトライアングルは「覚蔵院」です。
ここは国道16号線を跨いだ先にある寺院で、到着すると山門は閉じられ深閑とした雰囲気です。覚蔵院

山門脇には馬頭観音や地蔵尊が立てられています。覚蔵院

さて一体全体入ることができるのだろうかと、塀沿いに回ってみると本堂の横から入れるようです。

この「覚蔵院」は、日雅和尚が海鏡山覚蔵院として開山し、和尚が比叡山で修行したおり、拝領した女獅子を寺宝として、五穀豊穣、悪霊退散の祈祷をしていたそうです。
その後、中興の祖といわれる盛範が、男獅子と天狗の面を作り、念仏聖、田楽等を取り入れた創作舞を村の若者に舞わせていたのが、現在、諏訪神社で受け継がれている「深作ささら 獅子舞」のもとと伝えられているのだそうです。
伝承では約350年前の創建といわれているようですが、真偽の程は分りません。
明治の頃に一度再建されたようなのですが、老朽化のため地所を売却して現在の本堂を再建したようです。覚蔵院 覚蔵院

この「覚蔵院」は先に訪れた「多聞院」の預かりのようなので、基本的にこちらは無住寺のようです。
境内には古い墓石や石仏がありますが、それらの年代を知ることはできないようです。覚蔵院

こうして春岡地区でのトライアングル寺院を巡ってきましたが、何となく消化不良のような気分です。

深作多目的遊水地

今回の散策の最後は「深作多目的遊水地」です。深作多目的遊水地 深作多目的遊水地

遊水地とは豪雨時の水害を防ぐ役割のためのもので、一般的には柵などで囲われてしまい立入禁止となるケースが多いようです。ま、当然危険と言うこともあり、最後に国や自治体の責任になってしまうわけですから、100%近く安全が確保できなければ開放されることは難しいでしょう。
しかし、ここの深作川遊水地の周辺には、遊水池公園やアーバンみらい公園があり、遊水地とその周辺が見事に融合しているのです。
特に親水公園としてだけでなく、バードウォッチングや生態系の観察、さらには学術調査なども進められているような、非常に注目を浴びつつある遊水地のようです。

遊水地にはこのような木道も整備され、川面での観察や釣りなども行われています。深作多目的遊水地

また、一画にはこのように立入禁止エリアもあるのですが、これは自然観察区域として学術的に調査が行われているからのようです。深作多目的遊水地

付近にはマンション群もあり、日がな一日のんびり過ごすには良いところのようです。
この辺りにもまだまだ自然はいっぱい残っているようです。

最後に…

文中にも何度か出てきた加藤ハナ著の「エベレストに消えた息子よ」を読ませていただきました。著書

1984年出版ですから既に27年前の本ですが、アマゾンで590円で買い求めました。結構今でも残っているのですね。
本来なら加藤保男氏の著書を読むところなのでしょうが、家族の目からの加藤保男の姿を知りたくてこちらにしました。最も保男氏の著書もアマゾンで200円程度で売られてはいましたが…。

=運命の兄弟:ベッターホルン北壁=
兄・滝男(右)と 《写真:(C)山と渓谷社「エベレストに消えた息子よ」より》

といってもここで読書感想文を書くつもりもありませんが、本を読んだ中での加藤保男のイメージを勝手に創り上げてみました。

「加藤保男」とは、優しさを持ち周囲に気配りができ、誰にも負けない不屈の精神・闘志を持ち合わせている。そしてこの性格に明るさとポジティブのオブラートで包んだ180cmのイケメンで、更に名声とそれなりの富を掴んでいる究極のサミッター、ということになる訳です。「天二物を与えず」というのですが、加藤保男に限っては三物も四物も与えてしまったようです。
その代り残念なことに天は、そんな究極の男を長く生かせてはくれなかったようです。

=烈風の中を8848mの頂を目指す=
エベレスト登頂 《写真:(C)山と渓谷社「エベレストに消えた息子よ」より》

しかし、関係者は勿論のこと、彼を間接的に知った方々も随分と勇気付けられた方がたくさんおり、忘れられない偉人となったようです。
また一方では私のように全く知らなかった者たちも、新たな感動と尊敬の念を持ってその存在を知ることができました。
これからも多くの人たちの思い出としていき続けていくことでしょう。エベレストの今は夏です・・・。
今回はちょっと違った趣の散策でしたが、いつもとはちょっと違った充足感を得られました。

2011.08.06記

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks