~紀州藩の御鷹揚~

概要

「ぐるっとくん」を「沼南駅」で下車し、新幹線高架沿いの側道を三百五十メートルも北上すると、道路は丁字路となる。「古代蓮」の案内板のある所を右折し、高架下を通り過ぎると正面は「原市沼」である。沼には葦が生い茂り、低木の樹木が叢生しているので、高架下の歩行者の位置からその全貌を見ることはできない。沼沿いには、地元有志によって古代蓮園が設けられているが、それらを見ながら二百五十メートルほど東へ歩くと、小さな排水路の橋となる。橋を渡り左折して、細い竹藪の中の道路を百メートルも東北へ進むと、視界が開けて河畔となる。これが原市沼から流れ出る「原市沼川」で、下流は綾瀬川に流入している。

 江戸時代の原市沼は、「東西百間、南北六百間」と記され、また「上沼・下沼」の二つの沼があったとも記録されている。下沼は後に新田化されるが、沼の対岸に「小室陣屋」があり、「陣屋囲沼」「小室沼」とも呼ばれている。この辺り一帯は当時紀州藩の「御鷹場」であったこともあり、安永六(一七七七)年には鶴が巣を掛けたと、「鳥見役」に村役人が届けを出している。また沼の新田開発をめぐっては、対岸の小室領としばしば争論が起こったりしている(『新編武蔵風土記稿』上尾市史第三巻』)。

 寛政元(一七八九)年六月晦日、遠州横須賀藩主であった西尾忠需は、七十四歳で江戸屋敷において没しているが、忠需は原市の領主であった西尾吉次の子孫である。遺骸は横須賀(現掛川市)龍眠寺に葬られるが、原市の妙厳寺にも墓石が建立されることになり、家臣たちが原市村に派遣されている。来村した藩士は村役人から手厚い供応を受けるが、その時原市沼に案内され記録も遺している。記録には沼で採れる「ジュン菜」が名物で、沼一面に「河骨」が自生していると記している。「誠に絶景なり」と讃嘆の声を発しているので、丘陵を背景にした見事な風景が展開されていたとみられる(『原市はなし(話)』)。

 沼から流れ出る「原市沼川」の川幅は約四メートル、水は比較的澄んでおり、時々大きな魚影を見掛けたりする。河畔の土手を三百五十メートルほど歩くと、幸手道に架けられた「境橋」となる。この橋は「入会橋」とも称され、明治期にはここに「河岸場」が設けられている。ここから綾瀬川合流点までは、約一キロ余り下ることとなる(『武蔵国郡村誌』『綾瀬川の水運』)。
(元埼玉県立博物館長・黒須茂) -「公報あげお」より引用-

原市沼川を下る

今回の出発点はニューシャトル「沼南駅」で、文字通り「原市沼」の南にあるから“沼南”駅なのですが、上尾市の地番には後にも先にも“沼南”という地名はありません。 あくまで駅名としての沼南です。
沼南駅前には「原市沼の古代蓮」の案内板が設置されています。ニューシャトル沼南駅 ニューシャトル沼南駅

新幹線の高架下をひたすら真直ぐ進み、突き当たりに来ると右への案内板が掲出されています。高架下側道 高架下側道

右に曲がってその高架下を抜けると、概要にもある通り「原市沼」なのですが、葦や樹木で沼を見ることはできません。高架下側道 原市沼 原市沼

道沿いを進むと左側に「原市沼」についての説明があります。

原市沼
原市沼は、武蔵丘陵の低地の遊水地の1つであり、文政11年(1828年)官撰の「武蔵風土記稿」にも、「原市沼の東にあり、原市沼と呼ぶ、沼の向きは丸山村の内 伊奈熊蔵が陣屋なり、沼の広さ東西百間、南北の径六百間許、ここより流れ出る一条の川あり、其の末綾瀬川に沃げり」とあり、近郷に知られた散策の地でもある。しかし周辺の農家にとっては、唯一の用排水池のため、枯草や魚貝採集の利権の争いは、元禄7年(1694年)の検地によって名称が原市沼と定まった後も、繰り返し行われ、その都度、幕府評定所の裁許を受け、境界を示す「御定杭」を設置したりした。この沼が話題に上がったのは、この付近一帯に紀州家の御鷹場あり、森あり水ありの地であったためか、安永6年(1776年)禁鳥である真鶴が、この沼に飛来ふ化し、そのため、紀州家は、原市名主等に命じて、見張番所から監視させ、江戸から鳥見奉行ほかを派遣し、その生育を見守ったことは良く知られたことである。沼も古くは、上沼と下沼(現沼南高校)とあり、それを結ぶ一条の川には、河岸場があり、年貢輸送の帆船が走っていたことを、風土記稿の挿絵で知るものである。われわれは今も水清くその昔鶴も舞い下りた此の沼の事をなつかしく思うものである。
昭和61年3月 原市沼を愛する会
(現地案内板説明文より)

江戸時代当時、この周辺は「小室領」だったようで、丸山村を始め、小室宿村、別所村などがあったようです。因みに原市村は吉野領、瓦葺村は南部領になるようです。
案内板にはこの周辺の地図が描かれています。現在の航空写真と比べると随分沼が小さくなっています。原市沼 原市沼

撮影した時期もあるのかもしれませんが、航空写真では沼には見えません。

ここに記載されている一条の川とは「原市沼川」ですが、この原市沼を源流としているわけではないのです。
正式には「原市沼川」とは準用河川で利根川水系綾瀬川の支流になります。準用河川とは1級でも2級河川でもないが、特に市町村長が重要であると認めた河川をいいます。
源流は上尾市菅谷周辺で、そこから南東に流れ上尾市・伊奈町を流れて原市沼に注ぎ、ここから県道3号さいたま栗橋線をくぐり、伊奈町小室と上尾市瓦葺の境界で綾瀬川右岸に合流する河川です。
以前、もう少し上流で【原市沼つるの話】という案内板があり、そこでその鶴の顛末が記載されていました。
原市沼の古代蓮 そして、この案内板の隣が【原市沼の古代蓮】園です。

古代蓮園沿いの先がその小さな排水路の橋ですが、余りに短くその割には幅があるので橋には見えません。用水路にかかる橋 用水路

その橋を渡った先は現在はゴルフ練習場となっています。ヤードの標識だけが立っていますが、無料の練習場なのですかね…。ゴルフ練習場 ゴルフ練習場

練習場ですから囲いがあるのですが、一部分だけ開いていて、そこから原市沼川へ行けるようですが結構な藪です。原市沼へ

この中を進んでいったのでしょうか。
ま、とにかく行ってみますが、元々湿地帯なので所々水が流れていて、嵌らないように用心深く進みます。
藪と格闘しながら抜けた先は、確かに視界が開けて河畔となります。
原市沼 原市沼

丁度、このあたりは葦が生えていて、はっきりとした沼の形は判りませんが、湿原のような様相から沼であるらしいことが見て取れます。

このまま下流に向かって歩きます。
右手に案内板があります。原市沼川

昭和初期の改修以前は土堤の先から沼の水面で、水は矢印の様に流れており当時の原市と小室の境界線でした。したがって右の三角形の水田は現在も伊奈町分です。
(現在地の標高は約7.3mくらいです。)
上尾市青少年育成連合会原市団地地区会議
(現地案内板説明文より)

昭和初期の現在地周辺の地図が掲出されています。原市沼川

船着場跡の辺りが現在の古代蓮園あたりでしょうか。60~70年も過ぎるとかなり様相が変わっているのが分ります。
恐らく中央の幅の広い川の部分が現在のゴルフ練習場辺りかもしれません。
ゴルフ練習場 ここからでも練習場のヤード標を見ることができます。

そして地図では現在地あたりに橋があったようですが、これがその名残でしょうか…。
橋桁? 橋桁?

橋の土台のような気もしますが、どうでしょう。
そしてその橋の土台辺りから、うっすらと水の流れがあったかのような堀のようなものが続いています。川跡

これがその橋の下を流れる川の名残かもしれません。
全容が良く見えないので推測するしかないのですが、昭和初期においては沼や川はもっと広く、輸送の要所としては重要だったのでしょう。

概要では、このあたりは「ジュン菜」が名物で、沼一面に「河骨」が自生していると記載されていますが、全くその面影をみることは出来そうもないようです。
因みに「河骨」とは“コウホネ”というスイレン科の植物で、6月~9月頃に黄色の花を咲かせるのだそうです。
絶景には程遠い、というより景色が良く見えないということもありますが、やはり秋から冬にかけてがそのよさを知るシーズンかもしれません。

このまま下流に進みます。
葦が茂っているので実際の川幅がよくわかりませんでしたが、途中からこのように川の全容がはっきりしだします。原市沼川

時々、ガサガサ、ジャボンという音が聞こえますので、概要にあるとおり意外と大きな魚がいるようです。

この辺りからは対岸がはっきり見えます。丁度樹木の覆い茂っている辺りが小室領の陣屋あたりでしょうか。小室陣屋方面

この先は徐々に川幅も広くなり、川沿いの樹木がなくなってきます。
原市沼川 原市沼川

しばらくすると小さな水門が現れます。原市沼川水門

当然増水した場合などに水量を調節するためのものでしょう。

境橋 そしてその先で「境橋」に到着します。

この橋の通りが嘗ての「幸手道」だったのでしょう。この道を右手の南方に進むと以前「さってみち」と刻まれた庚申塔のある【佐四良稲荷神社】に向かい、橋を渡って北方向に進むと蓮田・白岡を抜けて幸手に向かうのです。
但し、現在は通行禁止となっています。境橋

どうやら3月の震災の影響のようです。4ヶ月経過していますが、このようなところにも爪痕が残っているようです。

ここにも案内板があります。

境橋付近の遺跡
境橋は昭和初期の河川改修で従来の石橋を架け替えたものです。
その頃は橋の下のシジミ取りは悪童どもの格好の水遊びの対象でした。
ここは大むかしの4000年位前は海と川の接点で数ヶ所の遺跡や貝塚が発見され、栗橋バイパスのあたりは海だったとのことです。
原市沼を愛する会
(現地案内板説明文より)

栗原バイパスという道が良く分らないのですが、この原市沼川を下るとその先に県道3号線さいたま栗橋線がありますので、その辺りまでが海だったということでしょう。
勿論、想像もできないことですが、沼地といったところが4000年の地球の歴史のホンの一端を残しているのかもしれません。
原市沼川 そして原市沼川はこのまま綾瀬川と合流しし、その役割を終えるのです。

2011.08.09記

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