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広瀬神社 #1

狭山市立博物館を出てから次に向かったのが「広瀬神社」です。
版画 舞い舞いホールの版画にもあったように狭山市の名所です。

車で15分ほどでしょうか、住宅街の中に目指す広瀬神社は鎮座していました。

「懸社 廣瀬神社」と刻まれた社号標と比較的新しいそうな石造りの鳥居があります。
広瀬神社鳥居 広瀬神社社号標

官社よりは格下ですが、諸社のなかでは一番の格上ですからそれなりの由緒を持っているはずです。
比較的長い参道を進むと途中、路地が分断していますが、その先がまた境内になっています。
境内社 境内に入って直ぐ左手に末社があります。

稲荷神社と八幡神社になっており、1つの覆屋の中に2社が鎮座されているようです。

境内の右側には大きな樹木があります。
大ケヤキ 大ケヤキ

埼王県指定文化財 天然記念物 廣瀬神社の大ケヤキ
所在地:狭山市広瀬2-23-1(廣瀬神社) 指定年月日:平成10年(1998)3月17日
ケヤキは楡科の落葉高木です。農家では防風林として植えることが多く、武蔵野の景観にとけこんでいる馴染みの木です。普通、高さは20メートルぐらいまでですが、この大ケヤキは高さ約30メートル、周囲約6メートルというまれに見る巨木で、樹齢7~800年と推定されます。
江戸時代末期の書物『新編武蔵風土記稿』の廣瀬神社の項に「…社辺に竹樹生茂り中にも古木の大槻三株あり、是を神とす、一は囲二丈、一は囲一丈五尺、一は囲二丈六尺余なり、是等を見て旧跡たることしるべし…」とあります。
現在はケヤキの巨木二本が相対して境内に立っております。
平成16年1月 埼王県教育委員会・狭山布教育委員会
(現地案内板説明文より)

何と言っても“ケヤキ”は埼玉県の木ですから、県民にとっては大ケヤキはもうお馴染みです。
しかしながら単独で全国的に著名なケヤキは埼玉県にはありません。それでもさいたま市にある約17kmにわたる日本最長のケヤキ並木は有名でしょう。 全国的には及ばずながらも目の当たりにすれば、これだけ大きいケヤキですから驚嘆です。
ご神木 御神木ですから注連縄と御神木の札が付けられています。

もう1本の大ケヤキは、ここから10mほど離れた場所にあります。
大ケヤキ大ケヤキ

もとは3本あったそうですが、落雷によって枯れてしまったとのことです。
社叢自体が“ふるさとの森”に指定されているくらいですから、ケヤキは社叢を代表するシンボルと言えるのでしょう。

大ケヤキの横には廣瀬神社の由緒が掲出されています。
由緒書

埼玉県入間郡水富村大字上廣瀬鎮座 延喜式内社 廣瀬神社
当社祭神ハ若宇迦能売命ヲ奉祀ス創立年月ハ詳ナラズト雖モ伝語ニ景行天皇ノ御代皇子日本武尊東夷ヲ征討シ給ウ時ニ是地相ノ大和国川合ノ地ニ酷似セリト称シ親ラ幣帛ヲ奉リ廣瀬ノ神ヲ斎キ祀リ武運長久国家安穏ヲ祈誓セラレシニ依リ創始セリト言ウ。
文徳天皇3年6月武蔵国廣瀬ノ神ヲ官社ニ列スト見エ延喜式内社ニ挙ラル爾後崇敬益加リ年代ノ久シキ間少モ変遷ナシ。
明治6年郷社ニ列セラレ同7年県社ニ昇格ス 同44年4月本殿拝殿社務所其他ノ設備全ク整ヘリ 大正9年4月覆殿ヲ再築セリ。
恒例ノ祭祀弥尊厳ヲ極ムルニ至レリ当社祭典中尤モ盛ナルハ古式神事ニシテ神輿ヲ四境ニ巡幸シ四隅ニ塞神ヲ祭ルノ式アリ。即チ年穀ノ豊穣ヲ報賽シ悪疫ヲ退却スルノ儀ニシテ地方ヨリ参拝スルモノ多ク頗ル賑ヘリ。

宝物
崇光天皇御宸翰   一軸
備前長船太刀    一口
外数点
祭日
例祭:4月4日、祈年祭:2月19日、新嘗祭:11月25日、古式神事神輿渡御祭:10月17日
延喜式内社 廣瀬神社社務所
(現地案内板説明文より)

うっすらボンヤリと判ったような判らないような、と言うことで噛み砕いた説明が必要です。
社伝による創建は、景行天皇の代ということから西暦71年~130年といった時代で、その子である日本武尊が東征の折、この地を通りかかった際、この地が大和国広瀬郡川合(現在の奈良県北葛城郡河合町)に似ているとして、その地に祀られていた廣瀬大社の神々を分祀し、武運長久と五穀豊穣を願ったことと記載されているそうです。
ただし、これについては日本武尊自体が伝説の人物であることと、分祀を行ったと言う記録がないことから、あくまでも伝承として考えるべきだといわれており、現在では「広瀬」の社号は廣瀬大社に由来するものではなく、この地が川の合流点に位置し広く瀬が広がっているから「広瀬」という自然地名からついたもので、偶然の一致であると言われているようです。

しかしながら入間郡内でも有力な古社であったのは事実で、『日本文徳天皇実録』の嘉祥3(850)年6月3日條に「詔以武藏國廣瀬神。常陸國鴨大神御子神主玉神。並列於官社」として官社に列せられたことが記されているそうなので、少なくてもこの時代には創建されていたと考えても差し支えないようです。
そしてその約80年後の延長5(927)年にまとめられた延喜式神名帳には、そのまま「廣瀬神社」の名で武蔵国入間郡五座の一座に列せられていることから、少なくても1000年以上の歴史を持つ古社といえるようです。
当時の入間郡五座は、この広瀬神社以外に出雲伊波比神社、中氷川神社、物部天神社、國渭地祇神社だったようです。

その後、時代はくだって江戸時代、この当時は真言宗の寺院であった宝蔵寺(現在は廃寺)が別当寺となり、この広瀬神社は上広瀬村・下広瀬村の鎮守となったそうです。
そして近代社格制度により明治6(1873)年に郷社に列せられたのですが、社格が低すぎるとして、当時、神官であり名主でもあった清水宗徳が社格を上げるよう運動し、翌7(1874)年に県社へ昇格したのだそうです。
明治42(1909)年には境内北隅にあった本殿を中央に移し拝殿を新築し、2年後の44年には社務所、神楽殿などの施設を整備して境内の陣容を整えたのです。

その後、大正9年に本殿の覆殿を再築し、昭和7年に神楽殿改築、そして昭和15年、紀元2600年記念事業とし太鼓楼を新築したのだそうです。
そして、毎年10月の秋祭りの境内では文化財でもある「広瀬囃子」が行われ、天狗に先導された神輿が市内を巡行し、山車の上では子供囃子も行われるという古来からの神事を継承しているようです。
この秋祭りが「古式神事神輿渡御祭」なのでしょう。

そのお囃子についても説明があります。

狭山市指定無形民俗文化財 広瀬囃子
伝承地:狭山市広瀬2-23-1(広瀬神社) 指定年月日:昭和52年(1977)9月1日
広瀬囃子は江戸末期の万延、文久のころ、「笛の佐平にや鶯さえも唄を忘れて聞きほれる」と江戸末期に俗謡にまでうたわれた「佐平の笛」こと村木佐平と「天孤の喜十郎」こと飯島喜十郎らが中心になり、神田囃子を学んだことに始まるといわれています。
囃子は享保年間(1716~35)に江戸の葛西郡香取明神を中心に神楽囃子として作り出され、文化、文政年間には近在に普及しました。現在埼玉県内に分布しているものを大別すると、江戸系統の葛飾囃子、神田囃子、上州系統の三手古囃子、それに本県独特の系統の秩父囃子の三系統があります。入間、比企地方には神田囃子が多く、その中でも広瀬囃子は、県内でも珍しい神田古囃子を受け継いでいます。
曲目は屋台、聖天、大馬、鎌倉、師調目、仁羽、などで六曲あり、使用楽器は大太鼓一、小太鼓二、鉦一、笛一となっています。
毎年、広瀬神社の元旦祭、禅龍寺の節分会(2月3・4日)、広瀬神社春祭り(4月第一土曜・日曜日)、秋祭り(10月第三土曜・日曜日)、広瀬浅間神社の火祭り(8月21日)などに奉納囃子がおこなわれています。
平成15年3月 狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会
(現地案内板説明文より)

ここだけに限らないのでしょうが、こういった文化財はなかなか後継者が少なくて困っているようです。
こちらでも後継者募集の案内が貼られていましたから、やはり結構大変なのでしょう。単に何か特典をつければ後継者が増えると言うものでもないでしょうし、実に難しい問題です。
こうゆう時、第三者はただただ小さな声で「頑張って」としかいいようがありませんが…。

元に戻って2本目の大ケヤキの隣には立派な神楽殿があります。
舞楽殿 ここでは「舞楽殿」と呼称されています。

ここでも「広瀬囃子」などが謡われるのでしょう。

更に舞楽殿の隣(どんどん境内の北に向かっています)には小ぶりの社がありますが、これは「神輿庫」のようです。
神輿庫

徳維新 この神輿庫の掲額についても説明があります。

徳維新
この文字を書かれた「雪城」は、江戸時代後期に活躍をした高名な書家です。
「幕末の三筆」と称された巻菱湖の四人の高弟(「菱湖四天王」と言われた)のうちの1人で、門下から厳谷一六・西川春洞・金井金洞の大家が輩出した。
師風をよく継ぎ、流麗婉美な書風で名を馳せた。
雪城 文化5年(1808年)~慶応2年(1866年) 本名:中澤雪城俊御 越後長岡藩出身

(墨書)慶應二丙寅年春三月吉日に献之
当所住人 領主 清水寛右衛門宗寶
当所大工 横田利八刻
(現地案内板説明文より)

「巻菱湖」というので、てっきり中国の湖かと思いましたが、菱湖は号で、本名、池田(後に巻)大任という人のことで、1777(安永6)年現在の新潟市に生まれたそうです。
菱湖は篆書・隷書・楷書・行書・草書・仮名のすべてに巧みで特に楷書を得意とし、世に広く書の手本として用いられ、「菱湖流」と呼ばれた書風は幕末から明治にかけての書道界に大きな影響を与えたそうです。
その特筆すべきことは、鎌倉時代から江戸時代までの武家社会における日本の標準書体であった御家流から、明治時代には明治政府の官用文字が菱湖流に改められたことでも判る通り、当時の影響力は大きく、門下生も1万人を越えていたという書の大家だったのです。
その巻菱湖の一の弟子ともいえる菱湖四天王のひとりですから、お願いするだけでも大変だったのではないでしょうかね。因みに他の三人は、萩原秋巌・大竹蒋塘・生方鼎斎という人だそうです。
この巻菱流の文字は、現在将棋の駒によく見られるそうです。それも特にプロ棋士のトーナメントに使われるような高級な駒に多く、中原誠などこの書体を好む棋士も多いのだそうです。

更に神輿についての説明もあります。

市指定文化財 工芸品 神輿
所在地:狭山市広瀬2-23-1 指定年月日:昭和61(1977)年11月1日
この神輿は、今からおよそ140年前の元治元年(1864)に当所の名主・清水寛右衛門宗宝により奉納されたもので、作者は当所の大工・横田長太夫です。
宝形造りで、全面黒漆塗り、四方の鳥居と垣及び内部は全面朱漆塗りです。壁面の一部は浮き彫りで、金箔押しとなっています。下框や屋根の頂など随所に透かし彫りや毛彫りによる金銅板の金具がとりつけられています。
四方の垂木下には金銅製の飾り板と小さな円鏡数十個が波璃の玉を通した金糸で綴られ、垂れ飾りとなっており、格調が高く豪華絢欄な神與です。
神輿並びに神與殿建立の棟札があり、その中に次の墨書きがあります。

武州高麗郡上廣瀕巴
別当 名主
社補 清水寛右衛門宗宝
元治紀元甲子稔秋九月
大工 当所
横田長大夫
平成20年3月 狭山市教育委員会・狭山市交化財保護審議会
(現地案内板説明文より)

案内板に写真が掲出されていますが、写真で見るかぎりでは豪華絢爛には見えませんが、歴史の重みといったところを感じさせてくれます。
神輿 《写真:(C)狭山市教育委員会・狭山市交化財保護審議会》

現在の祭りでは使用されていないのでしょうね、きっと。

そして「神輿庫」の斜め左に「旧殿跡」と書かれた立て札といつかの石碑があります。
旧殿跡

おそらくここにかつては本殿があったのでしょう。
由緒によれば「明治42(1909)年には境内北隅にあった本殿を中央に移し拝殿を新築し…」とありましたから。

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