広瀬神社 #2

さてここからは一旦参道に戻って、社殿に向かいます。
参道の左手奥には「山車小屋」と「ミニ屋台小屋」と書かれた山車庫が何となくユーモラスです。
山車庫

さらに、その先の参道の左側には「霞神社」があります。
霞神社 霞神社

由来
霞神社は明治の日清日露の戦役以来、昭和16年の太平洋戦争に至る数次の戦役事変に、本地区旧水富村の在住の若者が出征され、尊い生命を日本国の為に捧げ散華された人々の御魂を斎奉られた鎮魂のお社です。
平成13年4月吉日
(現地案内板説明文より)

霞神社というのは宮崎県の霞神社が有名だそうですが、特にそこからの勧請というわけでもなさそうです。どういった意味で命名されたのでしょうかね。
ここで後先になってしまいましたが拝殿で参拝です。
広瀬神社社殿 広瀬神社拝殿

拝殿が非常に新しいのですが、これは2006年の改築されたのだそうです。

広瀬神社社号額 そしてこの拝殿の掲額もまた著名な書家のもののようです。

社号額の「廣瀬神社」の文字は、「明治の三筆」と称された維新の志士野村素介の書です。
野村素介:天保13年5月18日(1842)~昭和2年12月23日(1927)
父は長州藩士有賀留之介。長州藩の藩校明倫館で学んだ後、江戸にて漢学、兵学、書道を学んだ。
帰藩後明倫館舎長となり、同藩士野村正名の嗣子となる。
幕末、尊攘を唱え国事に奔走。維新後、欧州視察(1871)を経て文部大書記官などを歴任し、貴族院議員に勅撰された。
晩年は書家として著名で書道奨励会の会頭を務め、杉孫七郎、日下部鳴鶴らとともに明治の三筆と称された。
資性温厚で質素をたっとび、気品高く、人に対して親切丁寧であった。
※神社正面(鳥居前)に建つ石碑(「懸社廣瀬神社」)とあわせてご覧下さい。
御遷宮100年記念として 
平成22年秋 氏子中
(現地案内板説明文より)

「幕末の三筆」から今度は「明治の三筆」というバラエティに富んだ額のある神社です。
ここでは少し…、というより話は大きく脇道にそれて見ます。私以外には「だから何なの…?」という余談です。

この説明にあるように野村素介と言う人は随分と立派な方のようです。
その野村素介に娘がおりまして、名前を「大山久子」といいます。夫は旧薩摩藩の外交官である「大山綱介」と言う人でイタリア公使でしたから、当然夫婦でイタリアに在住していたことになります。
当時、既に名声を得ていたイタリアのプッチーニは、次なるオペラ「蝶々夫人」の題材を探していた頃に、当時のイタリア公使夫人の大山久子に日本の事情を聞き、民謡などの日本の音楽を集めたりしたそうです。彼女の在伊期間が明治32年で、「蝶々夫人」の初演が明治37年ですから、その間ということになるでしょう。意外な歴史があったものです。
しかし、彼女の話題はまだ続きます。時代は下って昭和の時代です。

戦後の昭和21年に現在の横浜市戸塚区に「聖母の園養老院」という、社会福祉法人聖母会が神奈川県から正式に養護施設として認可を受けて運営していた養老院がありました。
収容されていた人たちは戦災で身寄りを亡くした60歳以上の老女達で、老衰や病気でほとんど腰の立たない生活保護を受けている人が多かったそうで、当時143人の老女が収容されていたそうです。
1955年2月17日午前4時34分ごろ、老女の捨てた懐炉の灰の不始末から出火し、木造2階建てと修道院聖堂、肥料小屋1棟を全焼し、午前6時15分頃に鎮火したそうです。
聖母の園養老院火災

この火事により老女143名のうち職員2名を含む99人が焼死するという、デパート火災以外の非商業施設としてはワースト1位の大惨事となったようです。
そしてその焼死者の中にあの大山久子(当時85歳)がいたのだそうです。偶然にも51年前の1904年2月17日が、「蝶々夫人」の初演の日だったことは偶然にしても出来すぎでしょう。

更に興味深いのはこの大山久子と老人院火災のエピソードが、「黒死館殺人事件」・「ドグラ・マグラ」と共に三大奇書の1つである中井英夫の「虚無への供物」に引用されていたことなのです。
この「虚無への供物」は、1954年の洞爺丸沈没事故から始まった1954年から1955年にかけての東京目白の氷沼家を舞台にし続発した密室殺人事件の顛末を描いたミステリーで、確か氷沼一族の(誰だったかは忘れましたが…)1人が老人ホームの火災で焼死するという件が確かにあったような気がします。
10年以上も前に読んだ本ですから記憶も曖昧ですが、間違いなく言えることは「ドグラ・マグラ」の後に呼んだので実に読みやすかったのを憶えています。
「風が吹けば桶屋が儲かる」的な話で、要するに明治の三筆・野村素介が、三大奇書の1つである「虚無への供物」に繋がり、まあ、それは読んだよ、という、いわゆる“すべった話”なのです。
結局のところオチのない余談で、巡り巡った奇縁を面白がって見ただけのことなのです。

社殿に戻りますと、本殿は覆屋によって全く見ることはできませんが、幣殿の屋根が個性的です。
広瀬神社本殿

主祭神は若宇加能売命で、相殿神として神火産霊命・木花咲耶姫命・八衢比古命・八衢比売命・久那斗命の5柱が祀られています。そして若宇加能売命は、社伝ではこの神社の本社とされている大和国の廣瀬大社の祭神です。

こうして参拝を済ませましたが、帰りしな社殿の北側に下半分が赤い鐘楼のようなものがあるので行ってみますと庫裏とともに「太鼓楼」という建物があります。
境内の庫裏 太鼓楼

時を知らせたり、登城を知らせたりする役割の太鼓楼は、寺院や城郭に多いようですが神社にあるのは珍しいのではないでしょうか。
歴史的には新しいものですが、少し興味を覚えました。

太鼓楼の前には柵に囲われた老木があります。
不朽梅

不朽梅
梅の木は、樹齢200年を越えるとねじれてくるのだそうです。
この梅の木の樹齢は400年位(樹木医の診断)とのことですが、老いてなお、花を開かせ、新しい芽を伸ばすなど勢いがあります。
郷土の偉人清水宗徳翁は、境内にある「安政の句碑」の中に次の句を遺しています。

月澄めば 香も一入ぞ 梅の花

当神社の社容整備はもとより、近代日本の黎明期における宗徳翁の功績を讃え、偲ぶよすがとして、この梅の木を「不朽梅」と名付けることとした。
宗徳翁の俳号 「不朽軒義同」 そして逞しく生き続ける梅の木に因んでの命名である。
遷宮100年・翁没後100年記念として
平成22年春 氏子中
(現地案内板説明文より)

越生梅林】に樹齢650年の魁雪という老木がありましたが、おどろおどろしいねじれ方で、この不朽梅ほど綺麗にねじれていませんでした。
不朽梅 実にドリルの刃のように綺麗にねじれているものです。

その奥に「安政の句碑」があります。
安政の句碑

ここでは最後にこの神社に一番縁の深そうな清水宗徳について調べてみなければならないでしょう。
先ずは埼玉苗字辞典ではこのように記載されています。

高麗郡上広瀬村(狭山市) 日蓮宗信立寺祀縁に「寛永三年、金高三分納、関松倅名主清水橘右衛門宗親・是は根岸村光明院檀方也。弘化二年、立会役人上郷名主清水橘右衛門代倅斧次郎」。高麗郡根岸村新義真言宗光明院寛政二年宝篋印塔に上広瀬村清水吉次郎・清水権四郎。御用達にて、文化四年川越藩松平大和守役付に「二人扶持・上広瀬村頭取名主清水寛右衛門」。広瀬神社安政五年碑に当所清水豊治郎・清水要治郎・清水寛右衛門、元治元年神輿銘に上広瀬村名主清水寛右衛門宗宝奉納。浅間社元治元年筆子碑に当所清水和平・清水茂兵衛。明治五年田畑名寄帳に名主清水宥三、組頭清水豊三、宮地組清水一三・清水源三郎・清水岩太郎。私塾師匠名主清水寛右衛門宗宝・号双川亭・義正・明治七年没五十八歳。明治九年副戸長清水豊三・天保四年生。明治二十三年衆議院議員製糸業清水寛右衛門宗徳・天保十四年生・国税六十六円(明治四十二年没)。広瀬神社明治二十四年碑に当所清水真治・清水豊三・清水源三郎・清水一三・清水権治郎・清水岩太。明治二十七年地租調査に清水英・二十四円、清水源三郎・十一円、清水権次郎、清水岩太、清水セツあり。十五戸現存す。
(「埼玉苗字辞典」より)

このなかで清水寛右衛門宗徳は明治23年衆議院議員と記載されており、上広瀬村では文字通り名主であったことが窺えます。
清水宗徳は天保14(1844)年に代々名主と広瀬神社の神官を務める清水家の長男として、この上広瀬村に生まれました。
苗字辞典にも「上広瀬村名主清水寛右衛門宗宝」や「衆議院議員製糸業清水寛右衛門宗徳」とあるので清水家の当主は代々“寛右衛門”を名乗っていたのかもしれません。

宗徳は生まれつき聡明で物心ついた頃から学問を志していて、13歳で尊円流の大家・梅沢台陽に師事して書道と学問を学んだそうです。
ここでちょっと面白いのは先ほどみた巻菱流で書かれた「徳維新」の掲額です。巻菱流といえば、江戸時代までの日本の標準書体であった御家流(尊円流)から、明治時代の官用文字となった流派です。
時代の偶然なのか、宗徳は子供のころは尊円流を習い、大人になった時には巻菱流が流行っていたという、まさに歴史のはざ間を通りすぎていたようです。
文久2(1863)年に父の跡を継いで名主となり、22歳の頃には国学者・井上頼圀の許で国学と漢学、そして和歌を修めたそうです。そして上広瀬村最後の名主として明治維新を迎えることになったのです。

明治維新後、明治政府の制度改革により1872年に名主を含む地方三役が廃止され宗徳は戸長兼民事取締役となり、1870年には、広瀬神社の神官になっています。
このころ宗徳は事業をはじめ「教育事業」と「養蚕事業」を興しました。
教育事業では広瀬神社境内に「幼育学校」を創立して神官の育成をし、養蚕事業では県内最初の機械紡績工場「暢業社」を設立したのそうです。そのほか製紙業、乳牛事業、入間川の砂利採掘事業など、さまざまな事業に興味を示し手を出したそうです。
一方、これと前後して政治にも進出するようになり、1879年には埼玉県議会議員に選出され、さらには1890年の第1回衆議院選挙に立憲自由党から出馬し当選、衆議院議員となったのでした。

そしてこのころに取り組んだのが鉄道の建設でした。
手始めとしては埼玉県の当時の物流の中心地であった川越から東京までの鉄道輸送で、当時の甲武鉄道(現在の中央本線)国分寺駅から所沢町・入間川町などを経て川越町に至る鉄道「川越鉄道」の計画に創立委員として参加し、1895年全線開通をさせたのでした。
そして次に川越鉄道入間川駅(現在の狭山市駅)から水富村・元加治村・精明村を経て飯能町に至る馬車鉄道を計画し、1900年に「入間馬車鉄道」が設立され、翌1901年5月10日開業されたのでした。後に宗徳は入間馬車鉄道の第2代社長となったそうです。
この「入間馬車鉄道」が市立博物館に展示されていたものですね。

このように様々な事業に手を染めたのですが、結果としては成功とは言えなかったようです。
進取の気象に富んだ性格だったようですが、それらの理想は事業によって実現されたわけではなく、このことについては本人も認めていたようで、こんな言葉を残しています。

「世人は日が暮れてから提灯を捜すが、自分は朝から提灯をつけて仕事をする。日が暮れて狼狽しない代わりに、先走ってろうそくの無駄をする」

なかなかここまで自分の失敗を認める人も珍しいかもしれませんが、こんなところが親しまれやすい人物だったのかもしれません。
家柄の良さをバックボーンとし、神官と言う立場で物事を平等に見、進取の気性で事業を推し進めたのですが、私利私欲に走らず地域や住民のために尽力した、といったイメージが湧いてきます。
ある意味埼玉県の偉人といっても良いのかもしれませんね。

流石に1000年以上の歴史をもつ古社だけあって見所満載の広瀬神社でした。

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