旧鎌倉街道散策 #1

横軸に置いた狭山の歴史を幅広く、そしてある部分ではディープに堪能した後は、縦軸の鎌倉街道に向います。
簡単に鎌倉街道を確認しておきましょう。
一般的に鎌倉街道には「上道」「中道」「下道」とそれらをの脇道や結ぶ道があります。埼玉県には「上道」と「中道」が走っています。そして狭山市はその「上道」が通っているのです。
早速、その鎌倉街道に向います。

鎌倉街道

最初に訪れるのは、奥州道です。
“奥州道”と言っても珍しい交差点名で、しかも“奥州道交差点”という名前の交差点という複雑さです。
奥州道交差点 奥州道交差点

この交差点の少し北側に鎌倉街道の案内板があります。

歴史の道
鎌倉街道
鎌倉幕府の成立とともに整備されたといわれる中世の道「鎌倉街道」は、武蔵武士を代表する畠山重忠をはじめ新田義貞等多くの武将たちが、その栄枯盛衰の物語を踏みつけた道として、また、さまざまな文化の交流の場として利用され、狭山市の歴史の展開に大きな役割を果たした道です。
狭山市内を通過する鎌倉街道の伝承路は、児玉方面(群馬県藤岡方面)に向かう通称「上道」があり、上道の本道(入間川道)と分かれた鎌倉街道には、堀兼神社前を通る道があります。このほか、「秩父道」などと呼ばれる間道や脇道もあります。
また、逆に「信濃街道」・「奥州道」といった鎌倉から他国への行き先を示した呼び方もあります。
狭山市
(現地案内板説明文より)

そもそも、鎌倉街道「上道」の根拠の一つには、鎌倉時代に編まれた「宴曲抄」の中の歌謡“善光寺修行”の中に、この鎌倉街道「上道」の地名が織り込まれていることによります。

神奈川県内
由比の浜(鎌倉市由比ヶ浜) - 常葉山(鎌倉市大仏坂北西の常葉) - 村岡(藤沢市宮前を中心とした付近) - 柄沢(藤沢市柄沢付近) - 飯田(横浜市泉区上飯田町・下飯田町付近)-
東京都内
井出の沢(町田市本町田) - 小山田の里(町田市小野路町) - 霞ノ関(多摩市関戸) - 恋が窪(国分寺市の東恋ヶ窪及び西恋ヶ窪) - 久米川(東村山市と所沢市との境付近)-
埼玉県内
武蔵野(所沢市一帯の地域) - 堀兼(狭山市堀兼) - 三ツ木(狭山市三ツ木) - 入間川(狭山市を流れる入間川で右岸に宿があった) - 苦林(毛呂山町越辺川南岸の苦林宿) - 大蔵(嵐山町大蔵) - 槻川(嵐山町菅谷の南を流れる川で都幾川と合流する) - 比企が原(嵐山町菅谷周辺) - 奈良梨(小川町の市野川岸の奈良梨) - 荒川(寄居町の荒川) - 見馴川(児玉町を流れる現在の小山川) - 見馴の渡(見馴川の渡) - 児玉(児玉町児玉) - 雉が岡(児玉町八幡山)-
群馬県内
鏑川(藤岡市と高崎市の境を流れる) - 山名(高崎市山名町) - 倉賀野(高崎市倉賀野町) - 衣沢(高崎市寺尾町) - 指出(高崎市石原町付近) - 豊岡(高崎市の上・中・下豊岡町) - 板鼻(安中市板鼻) - 松井田(松井田町)

といったように鎌倉からちょうど碓氷峠辺りまでの道のりです。
その中で狭山市を見ると、堀兼(狭山市堀兼) - 三ツ木(狭山市三ツ木) - 入間川(狭山市を流れる入間川で右岸に宿があった)という地名が記載されているのです。

この案内板には、鎌倉街道の地図が描かれているのですが、これらの地名をプロットしてもう少し詳しく調べてみます。
鎌倉街道略図 《写真:(C)狭山市》

なお、図は鎌倉街道のサイトを開設している鎌倉街道上道埼玉編様からお借りしました。

図1でみるように武蔵野(所沢市一帯)ではこのように、現在の新所沢駅あたりで鎌倉街道は分岐しているのだそうです。オレンジの太線が鎌倉街道です。
図1 図1《地図:(C)鎌倉街道上道埼玉編》

左側(西武新宿線の南側)を走るのが「上道」で、右側(西武新宿線を越えて北側)を走るのが「堀兼道」という上道の支道なのだそうです。
そしてこの「上道」「堀兼道」を北上したのが図2です。
図2 図2《地図:(C)鎌倉街道上道埼玉編》

地図の上部に“堀兼”の名称が見られます。左側には現在の入曽駅周辺を通っているのが「上道」です。
さらに「堀兼道」を進んだのが図3となるます。
図3 図3《地図:(C)鎌倉街道上道埼玉編》

現在の新狭山駅辺りに“三ツ木”の名称が見られます。その手前で「堀兼道」はさらに分岐しているのですが、このあたりは明確に判明していないところです。
そして九頭龍大権現碑のあるあたりで、入間川を渡っているようなのです。それが図4となります。
図4 図4《地図:(C)鎌倉街道上道埼玉編》

さらに先に進むと図4のように「堀兼道」はいくつにも分岐する(不明ではあるため)のですが、一応智光山公園あたりに進むのです。
図5 図5《地図:(C)鎌倉街道上道埼玉編》

さて次に「上道」を追ってみると、図2で入曽駅周辺を通ったあと、図6のように狭山市駅から市街地を縦貫して入間川をわたり、信濃坂に進んでいます。
図6 図6《地図:(C)鎌倉街道上道埼玉編》

そして「上道」は信濃坂を通って北上し、先ほどの図5のところで「堀兼道」と合流しているのです。従って、“善光寺修行”で詠われたのは「堀兼道」だったと考えられているのです。

参考:【鎌倉街道上道埼玉編】http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/annai/kama1.html

このように不明な部分も多いことから推測の域を出ないところもあるようですが、現状ではこれが狭山市における鎌倉街道の全容といったところのようです。
そして、この案内板の地図には「上道」と「堀兼道」を繋ぎ、横断する「新河岸街道」も描かれています。
いずれにしても「いざ鎌倉」のために造られた鎌倉街道ですが、それが文化や生活も支え、最後には鎌倉幕府滅亡の一因となるのですから面白いものです。

また、この案内板の隣には「信濃坂」と書かれた標柱が立っています。
信濃坂 信濃坂

案内板の「信濃街道」に当たるものなのでしょうか。
この坂は、昔、信濃の国へ通じていたことからそう呼ばれたとの説明がありますが、坂の下の交差点は“奥州”道で、坂の名が“信濃”坂という、ちょいとややこしい名称なのです。
鎌倉時代以前からも碓氷峠は坂東と信濃をつなぐ道として使われてきましたが、当時は碓氷坂と呼ばれ難所としても有名でした。そして、この碓氷坂と駿河・相模国境の足柄坂より東の地域を坂東と呼んでいたそうです。
さてその碓氷坂から西方面には、古来から信濃国府所在地の近くに位置し、多くの学人たちが集まる地域である塩田平という場所がありました。当時の信濃国府が現在の長野県上田市で、この塩田平は上田市からさらに南西に向ったあたりです。
そしてここには建治3(1277)年頃、鎌倉幕府執権北条時宗の連署であった北条義政が隠居し塩田の地に居を構えた塩田城がり、以降、塩田北条氏三代の居として栄えたそうです。
したがって碓氷坂からこの上田・塩田方面に向う街道を信濃街道と呼んだのかもしれませんが、それにしても随分手前の埼玉県によくこの名称を付けたものだと感心してしまいます。

このような歴史を辿る街道だからこそ、魅力的で多くの方が鎌倉街道を研究しているのでしょう。

影隠地蔵

信濃坂をホンの少し下った角に「影隠地蔵」があります。
信濃坂 影隠地蔵

影隠地蔵 市指定文化財 史跡
所在地 狭山市柏原204-1 指定年月日 昭和52年9月1日
影隠地蔵と呼ばれるこの地蔵尊は、源義仲の子で源頼朝の娘大姫の婿である清水冠者源義高にまつわる伝説をもっています。
源義仲が京都に兵を挙げたのち、後白河法皇の宣旨を受けた頼朝の弟範頼・義経軍に敗れて討死しました寿永3年(1184)のことです。
頼朝に人質となっていた義高は我が身に難が及ぶのを避けるため、大姫のはからいで頼朝の手からのがれ、父義仲の出生地でもあり関係の深かかった畠山重能の住む現在の比企郡嵐山町へ向う途中、この入間川の地まできたときに、追手の堀藤次らに追いつかれたことが、吾妻鏡(鎌倉時代の史書)に記されています。
一度はこの地蔵尊の陰で難をのがれたものの、ついに捕えられ、藤内光澄に斬られたといわれています。
現在の地は狭山~日高線道路の拡張により、もとの場所から少し移動していますが、入間川のはんらんにより、幾度か場所が移動していると思われ、また、地蔵尊についても義高の悲劇をあわれんだ村人が建てたともいわれています。
(清和源氏略系図・桓武平氏略系図 省略)
平成3年3月 狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会
(現地案内板説明文より)

そもそもは後白河法皇の打倒平家の宣旨を受け、いち早く寿永2(1183)年に挙兵した木曾義仲は、以仁王の遺児・北陸宮を奉じて信濃国を中心に勢力を広げ、同じ源氏の源頼朝とは独立した勢いを見せたのでした。
そして、頼朝と対立していた頼朝の叔父の志田義広と新宮行家を庇護した事により、同年3月には義仲は頼朝と武力衝突寸前となりました。そこで義仲は11歳の嫡子であった義高を人質として鎌倉へ差し出す事で、一旦は両者の和議が成立したのです。親戚同士で争っても仕方ないことですし、何と言っても頼朝は源氏の本家ですから、簡単には逆らうことができなかったのは至極簡単に想像がつきます。
そして、その義高は信濃の名族の子弟である海野幸氏や望月重隆らを伴い、頼朝の長女大姫の婿という名目で鎌倉へ下ったのです。

こうして人質となった義高の運命が説明にあった通りなのです。
元々この地蔵は木像でしかも広瀬側というので信濃坂を挟んで西側でしょうか、そちらの地蔵堂に安置されていたそうです。石の像になったのは明治7(1874)年のことだそうですが、はっきりとした理由は不明だそうです。恐らく明治政府の排仏毀釈に関係しているのではないかと考えられているようです。
影隠地蔵

いずれにしても義高や義経、さらにヒールであった平家一族への非常な振る舞いにより、頼朝というのは現代ではあまり人気が無いようです。頼朝といい、次の時代の尊氏といい、当時としては仕方なかった、或いは当たり前のことであったことが(さらに伝承が本当に正しいのかどうかも不明でありながら)、時代の価値観により不人気、或いはヒールになってしまうこともあるのですから時の征服者というのは、なはかな難しいものです。

影隠地蔵の前には小さな石橋供養塔がありますが、「南 江戸道」「北 小川道」「裏には本川」などと刻まれていて道標になっています。
道標 道標 やはり鎌倉街道だけのことはありそうです。

次は、「南 江戸道」に向かって南下します。

清水八幡神社

信濃坂から南に鎌倉街道を下ってくると、当然の如く入間川に突き当たります。そして入間川を渡るのですが、当時は橋などがなく「八丁の渡し」という箇所で入間川を渡ったようです。しかしこれも“渡し”といいながらも渡し舟があるわけでもなく、単に浅瀬を渡っただけのようです。
そしてこの「八丁の渡し」というのが「上道」を言うのか、「堀兼道」でのことを言うのかは議論の分かれているところのようですが、ここでは「上道」を下ってきたのですから、上道での八丁の渡しを歩きます。
ただ、上道での「八丁の渡し」もはっきり判っているわけではないようで、現在の「新富士見橋」の辺りであったろうと考えられているようです。

今回は「新富士見橋」から1本上流の「昭代橋」の袂の柏原河川敷公園が臨時駐車場になっていますので、ここに駐車して先ずは昭代橋を渡ります。
ここが入間川で先に見える橋が「新富士見橋」です。
昭代橋から見た下流の「新富士見橋」

先の浅瀬の辺りが「八丁の渡し」だったのでしょうか。ここからは多少遠いので「新富士見橋」へ向います。
国道16号線沿いを歩いても5、6分でしょうか、「新富士見橋」の袂の歩道橋に到着です。 確か博物館の名所版画にもありました。
新富士見橋 自動車用と歩道用ののあるかなり立派な橋です。

今度は橋を進んでみます。
左側が下流で先に見える橋は「本富士見橋」で、右側が上流で先に見える橋が「昭代橋」です。
新富士見橋から見た本富士見橋方面 新富士見橋から見た昭代橋方面

八丁の渡し辺り 下流のちょうど中州のある辺りが八丁の渡し辺りではないかと考えられているところのようです。

実際がどうだったかは判りませんが“悲劇の渡し”ということになるでしょう。

橋の袂に戻ってさらに16号線を「本富士見橋」方面に向うこと2、3分で右側に「清水八幡神社」があります。
国道16号線の縁に張り付いたような位置にあります。
清水八幡神社 清水八幡神社

境内に入ってすぐ左側に「清水冠者源義高終焉の地」と刻まれた大きな看板があります。
清水八幡神社

そう、影隠地蔵で殺害された義高を祀った神社なのです。

鳥居の先にそれ程大きくは無い社殿がありますので、先ずは参拝を済ませます。
清水八幡神社 清水八幡神社拝殿

境内には幾つかの由緒などを記載した案内板や説明パネルがありますが、当然同じような内容ですので、一番詳しそうなものを引用します。これは社殿の左側に置かれていた由来書です。

清水八幡宮由来記
所在地 狭山市入間川3-35
祭神 木曽清水冠者義高公  祭典日 毎年5月第3日曜日(前日土曜日宵宮)
源義高は鎌倉時代木曽義仲の侍女巴との間に生まれた嫡子で、比企郡岩倉山大蔵が生まれ故郷であり、七ヶ所の清冷水を汲んで産湯を使った故清水冠者又は志水冠者義高と名乗ったと伝えられる。
義仲が治承4年(1180)頼朝とともに行家から以仁王の平家追討の令旨を得て挙兵し、寿永2年(1183)に北陸道を京へせめのぼる直前、背後を固めるため対立状態にあった伯父頼朝に幼少(6才)の時人質として送られたが、後成人になるや頼朝と政子との間にできた娘大姫の婿となり鎌倉営中に住居を構えていたが、義仲は後白河法皇の義仲追討の宣旨を受け西上した範頼、義経軍に敗れ、寿永3年1月20日栗津原の戦に討死するが、日頃疑り深い頼朝は彼義高の意中を計りかね勅勘を蒙って討たれた者の息子を放置する事も出来ず「娘をくれておくも無駄なこと、堀藤次折を見て密かに小冠者を片付けい」と密談(実際には殺す意図はなかったとも伝えられて居る)侍女はこの様子を見て東御殿にかけつけ告げたのである。寿永3年4月16日元歴と改元されその月の二十日宵のことで、この知らせを聞いた大姫は自分の夫義高を助けようと母政子と力をあわせ自分の衣装で女装をさせてまわりを女たちに囲ませ従士六名ばかりと共に祖父義賢の地(大蔵館)・義仲を授けた畠山重能の地(管谷館)である現在の嵐山町めざし鎌倉街道に沿って逃亡し、府中、所沢を過ぎ入間川の八丁の渡しに出たとき頼朝が追手として送った堀藤次親家等に追いつかれ藤内光澄の為に遂に此の地で討たれたのである。
かくて寿永3年4月26日藤内光澄等が鎌倉に帰り、この事を頼朝に報告するや姫君は悲嘆のあまり槃水を絶つに及んで間もなく14才を以って死亡せり。母なる政子は、頼朝の仕打を怒ると共に直接義高を刃にかけた光澄を打ち首にし、義高の霊をまつるため討ち果てた地入間河原に祠を建てた(5月)と云う次第である。
正徳3年(1713)八幡神社縁起によれば槻の木を植え塚を築いたとの事なるが、政子は廟所を転じ神祠を営み清水八幡宮とあがめ自から入間川の地に来り供養をし且神田を寄附されたという。この為に社殿は朱の玉垣をめぐらし壮麗なものであったが、応永9年(1402)の大洪水に全てを流出したる由、亦現在の八幡宮の附近に梨畑があり人々は梨原と言い、朱塗の美しい神社を梨原御殿とも言った。その後今から約180年前現在地より北方3丁程の杉林中より石祠が発見され現在の処に鎮座し再建されたるものなり。
参考資料 狭山の文化財及入間川風土記

なお木曾清水冠者義高公の墓は、鎌倉市内、臨済宗常楽寺にあり、墓所は裏山標高70m位かと思われる場所に100㎡程の広さとなっており、墓の周囲には公孫樹、黒松の大木等茂り、中心に石材の高さ40cmの祠と「木曾清水冠者義高公之墓」なる墓石とが建立され、後世建てられた石碑には次のような由来が記されてある。

石碑
木曾冠者義高之墓
義高ハ義仲ノ長子ナリ義仲嘗テ頼朝ノ怨ヲ招キテ兵ヲ受ケ将ニ戦ニ及バントス、義高質トシテ鎌倉ニ至リ和漸ク成ル、
爾来頼朝ノ養フトコロトナリ其ノ女ヲ得テ妻トナス後義仲ノ粟津ニ誅セラルルニ及ビ遁レテ入間河原ニ至リ捕ヘラレテ斬ラル 
塚ハ此ノ地ノ西南約二丁木曾免トイフ由間ニ在リシヲ延宝年中此ニ移ストイフ旭将軍ガ痛烈ニシテ豪快ナル短キ生涯ノ余韻を傅へテ数奇ノ運命ニ弄バレシ彼ノ薄命ノ公子ガ首級ハ此ノ地ニ於テ永キ眠ヲ結ベルナリ
大正十五年一月 鎌倉同人會建

附記
常楽寺
栗船山常楽寺と号し開基は北条泰時、開山は退耕行勇と伝えられ大覚禅師の初道場で、寺の名は泰時の法名常楽殿からとったものです。また鎌倉国宝館に寄託されている有名な梵鐘は重要文化財に指定されています。
(現地説明パネルより)

という大変長く詳しい由来書なので、これ以上の説明も必要ないのですが、その後、頼朝は念願であった京都の宮中(後鳥羽上皇)に大姫を嫁がせようとしたのですが、これ以降大姫は常に病がちで、頑として縁談を受け付けなかったようです。そして上洛途中、大姫は原因不明の病に倒れ、建久8(1197)年、20歳の若さで短い一生を鎌倉の地にて終えたそうです。
そして、「私が死ねば、縁談は断らなくても立ち消えとなります。そして私はそれだけ早く義高様の側に行けます。」と言ったとかか言わないとかの伝承があるようですが、やはり当時としては極当たり前の政略なのですが、やはりすんなり納得はできないでしょう。
最後の最後まで悲しく切ない話なのですが、その中でも特に喜劇のような悲劇が藤内光澄です。「何でやねん・・・」(って、関西人ではないが)と絶叫したくなるほどの不運を背負ってしまったようです。

案内板には常楽寺の石碑の写真が掲載されています。
常楽寺石碑 《写真:(C)狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会》

このような悲劇を語る八幡神社は、由来書にもあるとおり応永9(1402)年の洪水で全てが押し流されてしまったため、その後は江戸時代まで現中央公民館の場所にあった成円寺という寺院に移されたといわれています。
しかし、明治になって成円寺が廃寺となったため現在地に再度移ったようです。そして江戸末期に近くを流れる赤間川から、永享2(1430)年の石祠が掘り出され、そこに義高が入間川で殺害されたことが刻まれていたそうで、その石祠は昭和34(1959)年に再建された、こちらの本殿に安置されているそうです。
清水八幡神社本殿 最後に本殿をお参りして、たくさんの悲劇から逃げるように清水八幡を後にしました。

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