入間川七夕まつり #1

鎌倉街道を下って狭山市街の中心部に近づきました。
ここからは、今回の主目的である「入間川七夕まつり」の散策です。
一旦「新富士見橋」まで戻って、そこから七夕まつりにはいります。

七夕通り

「新富士見橋」の交差点角にあるイオンの横の道から七夕まつりに向いますが、既に交通規制もされており、かなり多くの人が訪れているようです。
入間川七夕まつり

真っ直ぐ進んで中之坂の交差点を左折し、まずは祭りのメインステージのある「七夕広場」へ向います。

ここで先ず一つの疑問が浮かびます。七夕まつりで日本一有名な仙台の七夕祭りもそうであるように、7月7日の七夕の日では無く、何故1ヶ月遅れて七夕まつりが開催されるのでしょう。
これを調べてみると、そもそも七夕とは、日本古来の豊作を先祖の霊に祈る祭りである“お盆”に、奈良時代に中国から伝来した女性が針仕事の上達を願う“乞巧奠”や、巫女が水辺の棚で機織りをして神の降臨を待ち、村の穢れを持ち去ってもらう日本の行事である“棚織津女”などが結びついたお盆行事のなかでの一つの神事として行われてきたものなのです。
そして江戸時代においては、幕府が公的な行事・祝日として定めた五節句(1月7日「人日(七草)」、3月3日「上巳(桃の節句)」、5月5日「端午(菖蒲の節句)」、7月7日「七夕(星祭り)」、9月9日「重陽(菊の節句)」)の一つになっていたのです。
そして明治改暦以降、お盆が7月と8月に分かれるように、お盆の行事である七夕もまた7月と8月に分かれて行われるようになったのです。
このようにこの狭山市の「入間川七夕」まつりや仙台の「仙台七夕」などは、旧暦(月遅れ)の盆に行われ、平塚市の「湘南ひらつか七夕まつり」などは新暦(7月)に行われるようになったのです。
ちなみに、この平塚市の「湘南ひらつか七夕まつり」と狭山市の「入間川七夕まつり」、そしてそれに千葉県茂原市の「茂原七夕まつり」を関東三大七夕祭りというそうです。

このような神事としての七夕も現代では、神事との関わりも薄れ、もっぱら、観光客や地元商店街等への集客を目当てとしたものとなっているのが現状です。
戦後の復興期以降、神輿や山車などを繰り出す祭りとは違い、前日までに七夕飾りの設置を終えれば当日は人的な駆り出しも少なく、また商店前の通行規制も少ないため、商店街の機能を低下させることなく買物客を集められるということで、あくまで商業イベントとして、主に東日本各地で開催されてきたのです。
しかし、現在ではこのような装置集約型の商店街イベントでは予算がかかりすぎるため、より予算のかからない参加者集約型の都市イベントである「YOSAKOI祭り」が急速に多くなっているのです。
その様な背景の中での「入間川七夕まつり」ですが、本書の説明にもあるように起源は江戸時代の中頃に始まったとあります。七夕は江戸時代初期、仙台藩祖の伊達政宗が婦女子に対する文化向上の目的で七夕を奨励したことから仙台で盛んな年中行事になったようで、それに次ぐ歴史を持っているのがこの「入間川七夕まつり」なのだそうです。
要するに「入間川七夕まつり」は全国的にみても由緒と伝統がある、埼玉県が誇れる行事といっても過言ではないのです。

このメインステージのある通りが文字通りの「七夕通り」で、メインストレートとなるのです。
七夕通り七夕飾り

「七夕まつり」というのはここ狭山も含め初めて見るのですが、なかなか華やかなものです。
七夕飾り 七夕飾り 七夕飾り

まだ、一部準備中な七夕飾りもあるようですが、商店や企業、関係団体など等それぞれ趣向を凝らしたものがいっぱいです。
やはり時節柄でしょうか「がんばれ日本」的なものが多いようです。

そしてこちらがメインステージです。
メインステージ 狭山太鼓

2日間にわたるイベントの最初を飾る和太鼓「狭山太鼓」の演奏です。
どんなイベントでもこの和太鼓というのは外せないパフォーマンスで、やはりモチベーションが上がることにあるのでしょう。
七夕の神 広場の傍らには「七夕の神」というインスタントポケット神社が設えられています。

広瀬神社や清水八幡神社とは違い(当たり前か・・・)、どこと無くユーモラスです。

時間もお昼を過ぎたのでここで昼食にします。
屋台でつまむのも結構なのですが、ここは七夕飾りを見ながら狭山市駅方面に向います。もともと商店街イベントとして始まった七夕まつりですが、ここまで大規模になると商店街は全て休みになってしまうという、ナンとも本末転倒というのか・・・。
そこで駅方面ならと昼食に向ったのです。

「七夕通り」を右折して南下します。
途中、地元の中学生がスイカを配っていたので一口いただきました。なんと言っても今日はかなりの暑さになっていますから。
七夕飾り スイカ試食

本当は1玉500円で販売しているそうで、美味しかったのですがここでスイカを持ちながら散策はできませんから(と、いう理由で)試食だけいただきましいた。
ごめんなさいね。

徳林寺

その通りの左側の路地の先に寺院があったので行ってみました。「徳林寺」という寺院で、これは今回のプランには無かった寺院です。
屋根の反りが美しい山門がありますが、旧鎌倉街道沿いにあったといわれる寺院なので、歴史と伝説の豊富な古刹のようです。
徳林寺

はっきりした由緒はわからないようですが、元弘3(1333)年、上州で旗揚げした新田義貞が、鎌倉攻めの合戦のおり、この地(入間川)に本陣を置き、その守護仏として聖観世音を安置したことから始まったもので、後に文和2(1353)年から9年の間、鎌倉公方の足利基氏が、滞陣した入間川御所が置かれたのが、ここ徳林寺であったといわれているようです。
時代は違いますが、やはりここも鎌倉街道の歴史が色濃く残っていることが窺えます。

山門を入ると右手に案内板があります。

狭山市指定文化財 絵画 絹本着色釈迦涅槃図
所在地:狭山市入間川2-3-11 徳林寺  指定年月日:昭和61年11月1日
この図は、絹地に極彩色の仏画で、入滅した釈迦の周囲には、弟子たちをはじめ、諸王・大臣・梵釈・諸天・鳥獣までが集まり悲しんでいる様子が描かれています。筆者は「御絵所宗貞」です。御絵所というのは、朝廷又は幕府・社寺等に属する絵師のことです。
なお、この絵は田中・沢村を知行した旗本の小笠原家が、元禄元年(1688)に寄進したもので、延享5年(1748)に甲田重蔵が最表装したものです。

狭山市指定文化財 絵画 絹本着色釈迦八相図
所在地:狭山市入間川2-3-11 徳林寺  指定年月日:昭和61年11月1日
この図は、絹地に極彩色の仏画で、釈迦の生涯の主な事跡を描いたものです。
八相とは、第1下天相・第2託胎相・第3誕生相・第4出家相・第5降魔相・第6成道相・第7初転法輪相・第8涅槃相の8場面ですが、この図では第8涅槃相を除いた7つしか描かれていないため、涅槃図と合わせて八相図となるように描かれたものと思われます。
落款はありませんが構図もしっかりしており、大和絵系の相当名のある絵師によって描かれたものと推察されます。
平成23年3月 狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会
(現地案内板説明文より)

この案内板に掲出されている写真がこちらです。
左:絹本着色釈迦涅槃図、右:絹本着色釈迦八相図
絹本着色釈迦涅槃図 絹本着色釈迦八相図 《写真:(C)狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会》

詳しいことは判りませんが、ここに描かれている釈迦は大層大きいです。
以前、仏像の大きさは、釈迦の身長1丈6尺の約4.8mを基準にしていることを知りました。現在の尺換算30.3cmより、当時の1尺が約20cmという周尺においても約3.2mとなります。
ということから、この絵は間違っていないということになるのですが・・・。
それにしても合わせて八相図とは実に合理的です。

案内板の後には7体の観音像が安置されています。
七観音

七観音とは、元々六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)を輪廻しながら苦しむ人々を各界で救い輪廻から抜け出させてくれる六観音信仰という中国の信仰です。
この六観音とは、「地獄:千手観音」「餓鬼:聖観音」「畜生:馬頭観音」「修羅:十一面観音」「人界:准胝観音」「天界:如意輪観音」をいいます。しかし天台宗においては「人界:准胝観音」が、「不空羂索観音」に代わるため、その両方の観音を共に入れて全部で七観音というそうです。
一般的には7体を個別に、あるいは一石に7体を刻むものの2種あるそうです。
ここのある七観音は寛政5(1793)年に造られ、同寺の檀家を中心とした人たちによって奉納されたもののようです。
ちなみに一般的には同じ考え方の六地蔵が寺院に祀られているのが多いのですが、信仰の上では観音信仰は“現世での救済の祈り”で、地蔵信仰は“死後での六道のさまよいの中での救済、中でも地獄での救済願望”という意味合いがあるようです。
判り易い例としては、子供のすすり泣く声が響いている賽の河原は、六道の狭間にある世界なので唯一地蔵菩薩しか行けないのだそうです。したがって子供を救えるのは地蔵菩薩だけということで、一般庶民の信仰としてはこの何でも救ってくれる地蔵信仰が強かったようです。その様なこともあり、比較的簡単に親しみ易い六地蔵が各地に造られ、七観音は比較的少ないのかもしれません。

その先には凝った彫刻のある鐘楼があります。
鐘楼

また、境内の反対側の左側には「地蔵堂」があります。
地蔵堂 地蔵堂

この「地蔵堂」は子育て地蔵として“成円地蔵”という地蔵尊が安置されており、非常に親しまれた地蔵尊なのだそうですが、ここに「穴あき石」という一つの伝説が残されています。

昔むかしの話ですが、入間川の辺に働き者のお百姓の夫婦がすんでいました。この夫婦にはかわいい一人娘がいたのですが、生まれて間もないころ耳が聞こえなくなったそうです。 夫婦は何とか娘の耳を直そうとあらゆる医者に掛かり、様々なものに願いを込めたのですが、一向に直りませんでした。
そんな時に徳林寺の地蔵が霊験あらたかという話を聞いて、ワラにもすがるおもいで娘を連れて願掛けを行いました。そして21日の満願のある日、娘がニワトリの鳴き声で目を覚ましたことを知り、夫婦は喜び合ったそうです。
ところが、まずしい夫婦の家にはお礼に供えるものが何もありませんでした。
そこで夫婦は川原で拾った珍しい穴あきの石を持って行くことにしたのでした。そしてお礼とともに穴のあいた石に糸を通して吊るしたとのことです。
このことが評判となり、この地蔵尊に願をかける時には穴の開いた石に糸を通して吊るすようになったという伝説なのです。
言い換えると人間の一心が岩をも通すという由来から行われるとも言われているようです。

現在も、穴あき石が「地蔵堂」の前に吊られているのです。
穴あき石 それがこの石のようです。

なかなか興味深い風習ですね。

参道を進んで本堂を参拝します。
徳林寺 かなり立派で綺麗な本堂です。比較的最近再建されたのでしょうか。

ふらっと立ち寄った寺院に結構ディープな歴史が垣間見られました。

「徳林寺」を後にして幾つかの七夕飾りを見ながら狭山市駅へと向いました。
狭山市観光協会の七夕飾り 七夕まつりの影の主役?・・・の狭山市観光協会の七夕飾りです。

さらに狭山市シルバー人材センターや、中央図書館前には狭山市建設業協同組合の飾りがあります。
狭山市シルバー人材センター 狭山市建設業協同組合

なかなかカラフルで煌びやかな七夕飾りで、やはり震災関連のコピーが目を引きます
といっている間に「狭山市駅」に到着しました。それにしても暑いです。

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