入間川七夕まつり #2

昼食を済ませたあとは再び七夕まつりに戻ります。
人手が出てくるのは夕方あたりからでしょうが、暑い日中でも子供たちを中心にそれなりに賑わっています。

天神社

狭山市駅から再び七夕まつりの中心である七夕通りに戻りますが、先ほど来た図書館前を通らずに、駅前から反時計回りに北上し霞野坂の交差点を左折して七夕通りに戻ります。
再び七夕飾りを見て歩くと、やはりありました“なでしこJAPN”です。
狭山市役所市民部の七夕飾り 狭山市役所市民部の七夕飾り

狭山市役所市民部の七夕飾りです。
でも、何故か裏側は“東北新幹線「はやぶさ」”なんですね。
その先の左側にお囃子山車が出ています。
青中囃子連

提灯には「菅原」と記されていて、「青中囃子連」の提灯も見えます。
夕方くらいにはお囃子も始まって祭りの雰囲気も一気に盛り上がるのでしょう。

少し先の右側には「天満天神社」があります。
天満天神社

境内入口には「天満天神社門」が立っており、その先に朱の鳥居があります。この規模の神社には、ある意味似つかわしくない門と大きな鳥居です。

門を入ると随分と懐かしい光景が目に飛び込みます。
昭和の縁日にあった“射的”ですが、これだけ手広く!?・・・、営業しているいる射的も今や珍しいかもしれません。
射的

そしてその先には何と「お化け屋敷」があるではないですか・・・。
お化け屋敷

いやあ、まだ縁日にこのようなものが生息していたとは感動です。
私の子供時代には近所の氷川神社の“おかめ市”が毎年冬に行われていたのですが、流石に冬だったのでお化け屋敷ではありませんでしたが、「見世物小屋」ということで、“ろくろっ首”や“へび女”などの胡散臭い化け物が見られました。
遊園地以外ではこのような見世物小屋は消滅してしまったものと思っていましたが、細く長く生き延びていたのですね。
ちょうど正面入口には「入ろうか、止めようか、ここが思案のしどころ」とばかりのパンチの効いた“思案橋”があります。
思案橋

そしてそこにいる呼び込みのお姉さんの引き込みの上手い事、上手い事。次々と客が吸い込まれるように入っていきます。
この辺りが縁日の小屋の面白さでしょう。
蜘蛛女 また、小屋のイラストがまたそそるのです。

本来なら「スパイダーウーマン」でしょうが、やはり「蜘蛛女」が相応しいイラストです。
こちら側には「記念生首」と記念にはしたくないような写真プレートがあり、また、「おばけさんにはさわらないで・・・」と誰も触らないと思うのですが、とにかく凝った小道具で昭和のノスタルジーを感じさせます。
生首記念 お化け各種

いずれにしても昭和にタイムスリップしたかのような縁日地帯でした。

正面に「天満天神社」が鎮座しています。
天満天神社

天満天神社
祭神:菅原道真公
由緒
当神社の建立年代は明らかではない。先年までの社殿は、文久2年(1862)に改築されたものであったが、昭和37年3月25日新築した。
祭神は京都北野神社福岡県太宰府天満宮より道真公の分霊を鎮祭する。
付記
新編武蔵風土記稿に「神體坐像なり」とあり、もとは御神像があったと考えられるが、現在は紙のご幣のみである。
当社の管理は新編武蔵風土記稿に「村持」とあり、天神組、下組、新田組の三組の氏子によって行われてきたが、天神社があるところから、この地域が菅原町と総称されるようになり、昭和15年町内会の創設によって天神組が菅原町1丁目、下組が2丁目、新田組が3丁目と改称された。
平成6年3月吉日 奉納 総代 粕谷金五郎
(現地案内板説明文より)

先ほどの山車の「菅原」は菅原町のことだったのですね。
天満天神社 小さな社ですが、地元には依然と尊崇されているのが窺えます。

参拝して天神社を後にしました。

八幡神社

七夕通りを進み午前中右折して再び中央図書館前を通る道へ進み、途中、徳林寺と反対方向に右折し、七夕通りと並行した通りを西に進みます。
この通りには飾りは少ないのですが、幼稚園などの学校関係の飾りが並んでいます。
幼稚園の七夕飾り 幼稚園の七夕飾り

見た目の美しさより、子供たちの手作り感が溢れている七夕飾りです、

この通りを抜けると変則五差路があり、南側に「八幡神社」の社叢と鳥居が見えます。
八幡神社社叢 八幡神社一の鳥居

鳥居の脇には「村社 八幡神社」の社号標があります。
鳥居を抜けて石段をあがります。途中踊り場があり直角に曲がってさらに石段であがります。
24段石段 47段石段

鳥居から踊り場までの下段が24段あり、踊り場から境内までの上段が47段の合計71段の石段だそうですが、上段は赤穂47士にちなみ、下段は中国の故事である24孝をとり享保12(1727)年に造られたものだそうです。
24孝とは中国における後世の範として、孝行が特に優れた人物24人を取り上げた書物で、儒教の教えを重んじた歴代の中国王朝が孝行を特に重要な徳目としたものだそうです。
これはこれで理解できますが、47段は何の関係があって47士にしたのでしょうか。まさか格好良いから、何て理由ではないでしょうね。
この石段はこのように下段と上段と直角に曲がっていますが、元は上段から直線だったようで商店街の通りまで参道が延びていたそうです。

石段を上がると二の鳥居があります。二の鳥居も一の鳥居同様、石造りの鳥居です。
八幡神社二の鳥居

一の鳥居ともども注連縄がすごく綺麗です。どうでも良いことなのですが、妙に目がいってしまいます。
そして二の鳥居の先に拝殿が鎮座しています。
拝殿

非常に歴史を偲ばせる重厚な拝殿です。

ここ八幡神社は旧入間川村の総鎮守だそうですが、過去に何回かの火災により古記録を焼失したため、その創建年月は不明のようです。しかし社伝「八幡神社縁起」によると元弘3(1333)年5月に新田義貞が鎌倉幕府を攻めるために兵を挙げ、この地に兵を進めた際に合戦に向けての戦勝祈願に参拝したということから、鎌倉時代(末期?)の創建と考えられているようです。
この新田義貞の鎌倉倒幕への経緯は、以前国分寺市の国分寺を訪ねた【「東京多摩地区」彷徨】で知りましたが、もう一度おさらいをしてみます。

新田義貞は元弘3(1333)年5月8日、群馬県・生品明神で旗挙げし、笠懸野~八幡荘~菅谷~将軍沢(10日)~笛吹峠~入間川~小手指ヶ原(11日)~久米川(12日)~分倍河原(15、16日)~鎌倉(18日)と攻め、22日には鎌倉の東勝寺に北条高時をはじめ一族280名あまりを自刃に追い込みました。15日間の行程だったようです。
狭山周辺での行程をクローズアップすると、10日には入間川の北岸(信濃坂~入間川あたり)に到着していたようです。一方、鎌倉の北条方では新田勢を迎え撃つため桜田貞国を大将として鎌倉街道を北進し、5月11日両軍は所沢の小手指ヶ原で合戦を繰り広げ、新田勢は鎌倉方を撃破したのです。恐らくこの小手指ヶ原の合戦の向けてこの八幡神社で戦勝祈願を行ったのでしょう。
そしてこの後、久米川の戦い、分倍河原の戦いを経て倒幕を果すのです。
それまでは源氏一族の保護の下、武門の神として隆盛を誇ってきたようですが、このような経緯から後世、新田義貞の信仰が厚く一時「新田の八幡宮」と呼ばれたこともあったほどだったそうです。
最もその後、新田義貞は尊氏によって滅ぼされてしまうのですから、確かに一時のことでしょう。しかも室町時代になってからは目と鼻の先の徳林寺が入間川御所として足利基氏が滞陣したことから、「新田の・・・」などとは言ってはいられなかったでしょう。恐らく基氏あたりも八幡社ということもあり参拝にきたのではないでしょうかね。
それでも新田色が現在でもはっきり残っていて、賽銭箱や燈籠に新田家の家門である「大中黒・新田一つ引」が残されています。
大中黒・新田一つ引 大中黒・新田一つ引

現在でも観光資源として新田義貞あっての八幡神社ということでしょうか。

参拝を済ませてから拝殿から本殿に廻ります。
一段高い盛り土の上に本殿が鎮座しています。玉垣に囲われた本殿と拝殿の間には幣殿は無く神門があります。
本殿

かすかに窺える本殿は彫刻が施された煌びやかな本殿のようです。

ここから本殿を時計回りに廻るように境内を散策します。
境内の左手には「神楽殿」があります。
神楽殿

この日は祭りの関係でしょうか、境内に車が止められているので全体をはっきりと捉えることはできませんが、それでも歴史を感じさせる神楽殿です。
神楽殿の隣には「八雲神社」があります。
八雲神社

創建は徳川三代将軍家光から朱印地を与えられていることから江戸初期あたりと考えられていて、社殿は文政7(1824)年の建築で、他の八雲神社同様、江戸時代は「牛頭天王」でしたが、明治初年に改称されたそうです。
夏季例大祭の神輿は、この社殿に納められていて安永2(1773)年の造営で重量400kgもあるそうです。

「八雲神社」の右手方向、本殿の後方には境内社がいくつもあります。
入間川神社 石段を上がったところにあるのが「入間川神社」です。

入間川神社
祭神:日清、日露、第二次大戦の戦役に殉じた軍人軍属及び旧入間川町の発展に貢献した文化人を祀る。
由緒:昭和20年大戦の終結に伴い旧入間川小学校の奉安殿を現在地に移し22年2月鎮座祭が斎行された。
例祭:4月15日
(現地案内板説明文より)

奉安殿とは、戦前の日本で天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物のことです。
教育勅語が制定された1910年代に御真影の下賜が始まり、このころから奉安殿の設置が始まったと考えられています。
特に四大節祝賀式典(四方拝と呼ばれる「元日」、神武天皇の即位日である2月11日の「紀元節」、当時の昭和天皇の天皇誕生日である4月29日の「天長節」、明治天皇の誕生日の11月3日の「明治節」)には、職員生徒全員で御真影に対しての最敬礼をし、教育勅語が読まれたそうで、それ以外の日は常に最敬礼することが求められていたそうです。
当初、奉安殿は講堂や職員室・校長室内部に奉安所が設置されていたようですが、火災、空襲などの災害から守るため校舎内部の奉安所は金庫型となった一方、独立した奉安殿の建築も進められ、前者の校舎一体型は旧制中学などに多く、後者の独立建築型は小学校などに多くあったようです。したがってこの入間川神社の社殿は旧入間川小学校に独立して建てられたものだったわけです。
勿論、昭和の時代ですから文化財にはならないでしょうが、意外と奉安殿が残っているというのも珍しいのではないでしょうか。恐らく戦後すぐ取り壊された最たるものでしょうから。
そう言われてみれば、私の母校も戦前の創設で、当然リアルタイムではありませんが!(ここは強調しておこう)、学校の校庭に社らしきものが写っていた写真を見たことがありました。あれが奉安殿だったのでしょうね。

入間川神社の左隣には初めて聞いた「思兼神社」という社があります。
思兼神社

この「思兼神社」の祭神は、“八意思兼神”と“聖徳太子”だそうです。
まあ、聖徳太子について今更紐解く必要はないでしょうが、“八意思兼神”については少し調べる必要がありそうです。

“八意思兼神”とは日本神話に登場する知恵の神で、これでオモイカネと呼ぶそうです。
名前の“オモイ”は「思慮」、“カネ”は「兼ね備える」の意味で、多くの人々が持つ思慮を一人で兼ね備えているという意味になります。
“八意”とは多くの知恵という意味があり、また立場を変えて思い考えることを意味するようです。思想・思考・知恵を神格化した神で、高天原(神の世界)の知恵袋とも言われているようです。
その一例が天照大神の岩戸隠れの際、天照大神を岩戸の外に出すための知恵を他の神々に授けたというエピソードが良く知られています。
知恵の神故に学問・受験の神として信仰され秩父神社などに祀られていますが、そのシェアは後世の菅原道真に取って代わられたようです。
現在では、聖徳太子が全国に寺院の建立を促したことから、建築の祖神としても崇められており、英智の神と建築の祖神の2柱で工事関係者からも信望が篤いようで、家を建てる際の建前と関係のある手斧初の儀式の際に祭られる神とされているようです。

他にも「琴平神社」「大鷲神社」「高良神社」「甚兵衛大権現」「疱神社」「御嶽山」など多くの末社が祀られています。
境内社

これらの境内社の右手に八幡神社の本殿がはっきり見えます。
そして本殿の前には「史蹟 新田義貞駒繋の松」があります。
史蹟 新田義貞駒繋の松

新田義貞が戦勝祈願に訪れた際に馬を繋いだ松ですが、現在ではすっかり朽ちていますが、返ってそれが史蹟らしい雰囲気を醸し出しているといえるかもしれません。

そしてその後に鎮座しているのが本殿です。
本殿

八幡神社本殿 市指定文化財 建造物
所在地:狭山市入間川3-6-14 八幡神社  指定年月日:昭和48年3月1日
八幡神社は祭神応神天皇を祀り、当社殿は寛政8年(1796)に初釿をし7年を要して完成したという。当社に伝わる「本社殿棟木書記之事」という古文書によると「享和二竜次壬成(1802)穐(秋)7月5日棟札」となっており、徳川時代末期の建造であることが明らかである。
入母屋の流造りの特性をもち、一間社造りの胴のしまった均整のとれた唐破風の向拝があり正面は千鳥破風の珍しい建築様式で、四囲の彫刻は精巧を極めた優雅な社殿総彫で強く建築装飾の粋をつくした透彫である。脇障子にも彫刻が施され、勾欄をめぐらせた見事な造りである。
また、彫刻製作者が明らかななのも珍しく、棟札に「上州勢多郡上田沢湧丸 並木源二襍訓作 享和壬成夏六月彫之 上野国勢多郡深沢上神梅村鏑木半二邦高彫之 享和二成六月ヨリ七月七日迄」という墨書が記されている。
平成元年3月 狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会
(現地案内板説明文より)

どこから見ても凝ったすばらしい彫刻の施された本殿であることが窺われます。
本殿本殿彫刻 本殿彫刻

しばし見事な芸術品を堪能しましょう。

この八幡神社には他にも文化財があるようです。

さわりの壷 県指定文化財 工芸品
所在地:狭山市入間川3-6-14 八幡神社  指定年月日:昭和29年10月25日
さわりの壷は、大正12年(1923)に拝殿造営のため、本殿を移転するとき、玉垣の神門の下から発見されたもので、中から少量の籾粒と金銀の箔片が検出されました。このことから、これが、当社創建当時の地鎮祭に供えた鎮物を埋蔵するのに用いた「鎮壇」であったことが推定されます。
さわり(砂波利・砂波理・砂張)とは、銅を主として錫・鉛(または銀)を加えた黄白色の合金で、たたくと良い音がするので、響銅の字があてられたり、また胡銅器と書かれたりします。
この壷は室町時代の制作と推定され、高さ187mm、口径70mm、最大直径100mmで、形が非常に優美で、安定感があり、黄金色に白線の色が映え、しっとりと高質な風格をもっています。
平成4年3月 埼玉県教育委員会・狭山市教育委員会
(現地案内板説明文より)

この壷が室町時代の制作で創建当時のものであるなら、新田義貞が戦勝祈願に訪れることはできないはずですが…。かなりピンポイントの時代で検証しなければならなくなるでしょうね。
案内板には、その壷の写真が掲出されており、確かに優美な形状は見て取れますが、残念ながらモノクロなので色は良く判りません。
さわりの壷 《写真:(C)埼玉県教育委員会・狭山市教育委員会》

さらにもう一つが無形文化財です。

八幡神社獅子舞 市指定文化財 無形民俗文化財
所在地:狭山市入間川3-6-14 八幡神社  指定年月日:昭和46年4月1日
獅子舞の起源は唐の時代に雅楽の一部から変化し、その後日本に伝来し、かつ農耕文化と結びついて水の信仰にまで発展したといわれています。
八幡神社鹿子舞の起源については明らかではありませんが、正徳3年(1713)の古記録に盛大に行なわれていたと書かれています。
八幡神社鹿子舞は、越後系・庭土舞・ねっこふんがえしに属する獅子舞で、「鹿子舞」と書かれる由来は武蔵地方で鹿を「しし」といったことからだと伝えられています。
この鹿子舞は毎年9月14日・15日に入間川地区の神社をまわり、15日の最後に八幡神社で舞います。
行列は金棒(先導、つゆ払い)氏子安全旗一人、神官一人、氏子総代五人、各地区世話人、ほら貝(山伏)一人、花笠(ささら)四人、歌役四人、笛役四人、山の神(天狗)一人、赤鹿子(男鹿子 若者)、金鹿子(牝鹿子女、頭上に宝珠)、黒鹿子(太夫鹿古年寄り、節のある角あり)、各地区世話人、の順に並び、舞は、道中、宮参り、いりは、竿掛り、岡崎、あげ唄、狂い、岡崎、わが獅子、引きはと地ささら、岡崎、やりとり、岡崎、引庭、という順で舞われます。
平成4年3月 狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会
(現地案内板説明文より)

何故鹿を“しし”というようになったのかというと、明治時代の初め、神仏分離以前の別当寺であった成円寺を獅子舞の一行が出発したところ、神仏分離政策により獅子は仏教に属するものとして咎められたそうです。この時、機転を利かせて「これは獅子でなく鹿子で、鹿は神の使いである」といって禁を免れたことから、以来、鹿子舞と書くようになったとのことなのです。
また、この鹿子舞の最大の特徴は「各盞(かくさん)の儀」と呼ばれる儀式が伝承されているところにあるそうです。これは奉納舞を始める前と終わりに行うものだそうで、「来年の同月同日の何時まで」と次回の儀式が必ず行われるように約束することだそうです。面白い儀式ですが、次回の儀式ができなかったらどうされるのでしょう・・・。
嘘つきは教育に悪いですしねェ。

新田義貞縁の地として、狭山市では外せない歴史を持った八幡神社でした。

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