入間川七夕まつり #3

八幡神社を出て北上し再び七夕通りと交差する中之坂の交差点に戻ります。
このまま真直ぐ進めば今日午前中に来た「新富士見橋」に戻るのです。
それにしても屋台の出店が非常に多いのが目に付きます。それだけ来場者が多いということでしょうが、最近の祭りでは地元の出店者を優先して、いわゆる“的屋”と言われる露天商は営業できなかったり、あるエリアだけに限ってといった按配で制限されているところが多くなった気がします。是非は別として、やはり露店はまつりの風物詩であることを改めて感じさせられました。

まつり囃子

ここからは中之坂の交差点を真直ぐ進まずに、交差点を左折して七夕通りを西に進みます。
こちらでもやはり綺麗な七夕飾りが沢山飾られています。
七夕飾り 七夕飾り

特に狭山らしい七夕飾りがこちらです。 「航空自衛隊 入間基地幹部会」だそうで、七夕飾りの中央には“ブルーインパルス”でしょうか、5機の編隊飛行を模しているようです。
航空自衛隊 入間基地幹部会

地元の方にとってこういう基地の街って言うのはどう思われているのでしょうかね。まあ、米軍より自衛隊だからということもあるのでしょうが、何か溶け込んでいるような気もするのですが、第三者が勝手なことを言うのもナンですので、これ以上は深入りはよしましょう。
ただ、このような基地に関して、少しばかり興味深いことを知ったので記憶にとどめておきます。

それは全国各地にある米軍基地や自衛隊駐屯地に関しての話題で、 現在、在日米軍施設に関しては、以下の3通りに分類されるそうです。
1.在日米軍が専用で利用している施設
2.日米地位協定に基づいて日米で共同使用している施設
3.日米地位協定に基づいて米軍が一時的に利用可能な施設
この中で<1>が多いのは普天間飛行場を始めとする沖縄県で25施設あるそうです。
そして、上記の<1><2>を併せた場合の土地面積は、やはり沖縄県の229,245千㎡がトップで、2位の青森県の23,743千㎡の約10倍になります。
しかし、意外なことに<1><2><3>すべてを併せた場合の1位は北海道の344,601千㎡で、2位の沖縄県は232,933千㎡となるそうです。
また埼玉県に絞ってみると、1~3までのすべてで2,297千㎡とかなり狭い範囲でしかないようです。
それでも結構意外なことがありました。
てっきり埼玉県には在日米軍専用施設というのは無いと思っていましたが、3つの専用施設があったのです。

そのうちの2つは通信施設の分野で、所沢通信施設と大和田通信所(新座市)です。
そしてもう1つが駐屯地・基地の分野で、キャンプ朝霞です。
「キャンプ朝霞」は、かつてキャンプ・ドレイクとして在日米軍駐屯地だったところが返還されて現在、陸上自衛隊朝霞駐屯地となっているはずですが、実はこの中で唯一未返還なエリアがありそうなのです。それは「AFN送信所」というエリアだそうです。
この聞きなれない「AFN送信所」とは、現在「AFN Tokyo」と呼ばれる横田基地にあるラジオ放送局の放送を送信しているアンテナの置かれたエリアのことなのです。現在アンテナは2本あり米軍基地や米軍住宅地区が多い神奈川方面に指向性を持たせるため230度(西南西)を向いているのだそうです。
横田基地にそんな放送局があるのかと驚きましたが、かつての「FEN(Far East Network)」だと言えば40代以上の方は理解できるでしょう。現在では、AFN Iwakuni、AFN Sasebo、AFN Okinawaの4局が日本にあるそうです。
そして<2>については埼玉県には無く、<3>については「陸上自衛隊朝霞駐屯地」と「航空自衛隊入間基地」の2ヶ所となるようです。
従って有事の際は、この入間基地にも米軍機が飛来することもあると言うことですね。

さて、その狭山らしい七夕飾りを先に進むと左側に囃子屋台があります。
天満天神社の近くにも菅原町の山車が置かれていましたが、こちらは山車ではなく屋台です。
埼玉県狭山市豊年足踊り

提灯には「逆井」と書かれており、屋台には「埼玉県狭山市豊年足踊り」と書かれています。
“豊年足踊り”という妙な名前ですが、かなり由緒あるお囃子のようです。

笹井豊年足踊り
この囃子は王蔵流で、江戸時代に川越藩主の松平信綱の上覧を賜ったところから、上覧囃子ともいわれています。また、川越の中台の王蔵流のお囃子を習いに行ったので、王蔵流のお囃子であるともいいます。
お囃子の曲目には7曲あります。ヤタイ(屋台)、ミヤショウデン(宮昇殿)、カマクラ(鎌倉)、コモリウタ(子守唄)、エンバ(遠馬)、カマクラゼメ(鎌倉攻め)、シチョウメ(四丁目)があり、この中で、鎌倉、子守唄の曲を静か物といいます。屋台の曲の吹き出し・ブッコミ(太鼓)・吹き出し・シゲ・ヂ(これは心棒といい中心の曲です)・乱拍子・キザミ・ブッキリは、笛を演奏する人によって、中のフレーズを変えるそうです。
笹井豊年足踊りは笹井囃子の演目の一つで、幕末から明治初期にかけて当地の桜井藤太郎が苦心を重ねて創作したもので、当初は瞽女の三味線に合わせて踊っていましたが、いつのころからかお囃子の演目に加えられたとのことです。この踊りは演者が仰向けになって両足を高くあげ、左足にヒョットコの面と男物の衣装を、右足にオカメの面と女物の衣装を着け、さまざまな仕草を演じてみせるというもので、扇や傘を操るさまは見事です。
上覧囃子の頃はまだ足踊りはなかったようで、4月は農作物の豊作を祈願して、10月は豊年を祝って奉納されるところから、豊年足踊りと称されるようになりました。
お囃子は毎年、笹井白鬚神社の元旦祭や春・秋の祭礼(4月・10月の第3土曜日・日曜日)のほか、宗源寺のお釈迦様花まつり、七夕まつり(8月第1土曜日・日曜日)、水富公民館市民文化祭(11月上旬)等に奉納・上演されています。
狭山市指定文化財〔無形文化財〕 指定日:昭和52年(1977)9月1日
(狭山市オフィシャルサイトより)

ここでその豊年足踊りが見られるのでしょう。時間があれば見たいものですが、ここは残念ながら先に進みます。
先ほどの菅原やここ逆井などのように狭山ではお囃子は盛んなのでしょうか。
狭山市のウェブサイトには狭山市の囃子連は10団体掲載されています。
かつては5月に稲荷山でつつじ祭が開催され、各地区から床の無い踊り屋台である多数の底抜け屋台が集まって祇園囃子を演奏したそうです。しかし、つつじ祭りが開催されなくなると共に各地区の底抜け屋台も衰退していったそうです。
そして現在ではこの七夕まつりのような大きな祭りには、各地区とも山車などを飾って居囃子を披露しているのだそうです。

サイトには10団体すべてが紹介されていますが、主な奉納先だけ引用しておきます。
◆柏原祇園囃子:柏原の八坂神社(白鬚神社境内社)で行われる夏祭り「天王さま」
◆西方囃子:八雲神社(元旦祭・7月天王様)、梅宮神社(2月甘酒祭)、奥冨神社(4月大祭)、西方薬師堂(8月西方薬師さま)など
◆入曽囃子:常泉寺観音堂の観音待ち、野々宮神社の春季大祭・天王さま・秋季大祭・星祭りなど
◆広瀬囃子:広瀬神社の元旦祭、春季大祭、秋季大祭、禅龍寺の節分会、広瀬浅間神社の火まつり等
◆堀上囃子:堀兼神社の元旦祭、春祭(4月中旬) 、天王さま(7月中旬)、秋季大祭(10月中旬)の他、堀兼ふる里まつり(7月下旬)、堀中まつり(8月第1土曜日)等
◆青中囃子:氷川神社の元旦祭、 春季例大祭、天王さま、秋季例祭、新狭山ハイツの銭洗い弁天さま、堀兼ふる里祭(7月下旬)など
◆菅原囃子:八幡神社では、元旦祭や4月および9月の祭礼、7月の天王様、天満宮(天満天神社)では3月の天満宮例祭、福徳院不動尊では4月の祭礼、そのほか入間市の愛宕神社や飯能市吾野の朝日稲荷など
◆下諏訪囃子:清水八幡宮例大祭(5月第3土曜日)
◆鵜ノ木囃子:鵜ノ木愛宕神社の元旦祭と4月の祭礼、7月下旬の「鵜ノ木の夏まつり」

全てが市の文化財に指定されているそうです。
そういえば広瀬神社には「広瀬囃子」の後継者を募集していましたよね。
どこも後継者つくりで大変なのでしょうが、何とか乗り切って後世まで伝承できると良いですね。

昔むかし、ショーケンやいしだあゆみ、山崎努、中原ひとみ、室田日出男という渋い役者達が出演していた「祭りばやしが聞こえる」という日テレの番組があり、主題歌も柳ジョージとレイニーウッドというこれまた渋ーーーいグループが演奏していました。
何か、そんなドラマをふと思い出すような心持になってしまいました。
何か日本の風景ですね、祭りは…。

更に進むといよいよ七夕通りもこのあたりで終わりです。
七夕通り

七夕通りの最後の七夕飾りはこちらの「かにや」というお菓子の店の七夕飾りです。
「かにや」七夕飾り

飾りには「透かし水 ひやしあめ」と書かれていて、この暑い日にはもってこいだね、などと考えていると隣にテントがあり、そこで「ひやしあめ」が飲めるではないですか。至れり尽くせりとばかりに1杯いただきました。
透かし水 ひやしあめ

素朴な甘みとほのかな生姜の香りが、夏の暑さをホンの一時でも忘れさせてくれ…、ませんよ、これだけ暑いのですから。それでも意外とスッキリした飲み口にはじめての私としてはプチ感動です。

関西などではポピュラーな飲み物のようですが、関東では余り目にしませんので、これまで飲んだことはありませんでした。
もそもと海軍兵学校で遠泳実習の際に汐風で荒れた喉を潤す褒美の飲料に採用され、この伝統が敗戦後も海上自衛隊幹部候補生学校に受け継がれたものだそうです。まあ、自衛隊絡みでこの地にも流行っているといったところでしょうか。
サービスに弱い私としては、ここにある「かにや」を紹介しなければならないでしょう。

この「かにや」は、昭和25年10月に創業なので、既に60年以上の歴史をもっているようです。
かにや

1号店が昭和36年5月の狭山市駅西口店だそうなので、そもそも狭山市発祥というバリバリ地元の企業で、現在では埼玉県に10店舗を展開しています。
特に皇室への献上品が多いことが特徴でしょう。
昭和天皇・皇后両陛下、皇太子殿下(今上天皇)、三笠宮殿下、高円宮妃久子殿下、清子内親王殿下といった具合で、だから美味いとか高級ということではありませんが、品質などにおいての1つの信頼の証とはなるでしょう。
主力は和菓子のようですが、洋菓子もかなりあるようです。
面白いのはネーミングで、「ケンキ」「拍手さい彩」「関東あばれんぼう」「母なる大地」、更に「いざ鎌倉」まで地元密着型の面白さもあるようです。
しかしながら、これだけを面白がっているわけにはいきません。これらの菓子には“深いい”話しがあるのです。

歴史と文化が育んだお菓子の醍醐味
牛乳の歴史は大変に古く、お釈迦様の時代にはすでに飲用されていたといわれ、日本へは七世紀中頃に朝鮮半島を経てその加工技術が伝えられました。
都から遠く離れたここ武蔵国にも官牧や勅旨牧としての牛牧が各所におかれていたようです。
「諸国酥を献ず」という当時の記録に残されているように、古来、牛乳を精製していく過程には五つの段階があり、それぞれ乳・酪・主酥・熟酥・醍醐の五味と称されていました。
酥というのは練乳のことで、さしあたりコンデンスミルクといったところです。この酥をさらに精製したものが最上の味である醍醐で、現在のバターやチーズなどに相当します。この最上の味という意味あいから今日の「醍醐味」という言葉が生まれたわけです。
ここ武蔵の人々は、入間地方を中心に移住した渡来人の指導でいち早く乳加工の技術を覚え、薬や栄養剤として食すほか、その味を楽しんだ物と思われます。
古来より乳製品やその加工品は美味の代名詞として使われるほどおいしい物だったのです。
かにやのケンキや関東あばれんぼう、いざ鎌倉など数々のお菓子は、こうした牛乳の歴史や古来の武蔵の人々の食生活に思いを馳せながら、本物のお菓子の「醍醐味」を楽しんでいただけるよう心を込めて作っております。
(「かにや」オフィシャルサイトより)

これだけのウンチクが隠されていたのです。
ここまで聞けば一度は食べてみようと思いますよね。
そうなんです、このウンチクは後で知ったので、このときにはお店にも寄りませんでした。いやあ、全く惜しいことをしました。
しかし、通販でも取り寄せできるそうなので、一度頼んでみましょうかね、といいながら買った験しが無いのが私のいい加減なところです。
ということで、食べた方の感想をお待ちしています、と話題を摩り替えてしまいました。

参考:【かにや】http://www.kaniya.co.jp/index.php

七夕まつりの最後に“深いい”話を聞いて何となく満ち足りた気分になりました。

諏訪神社

ちょうどこれで午前と午後の2回に分かれましたが、霞野坂から始まった「七夕通り」を散策してきました。
流石に見事な七夕飾りに、見とれながらもしっかり歴史を堪能できました。
ここからは、変則五差路(結構五差路が多いですね)の路地を北に向かいます。

路地の左側に「諏訪神社」という小さな神社があります。
諏訪神社

神社は小さいですが、ここにも文化財があるようです。

狭山市指定無形民俗文化財 お諏訪さまのなすとっかえ
所在地:狭山市入間川4-4483 指定年月日:平成9年6月2日
諏訪神社は、長野県の諏訪大社を分祀したもので、祭神は「建御名方神」です。
なすとっかえは、自分の畑で採れたナスを神社に納める代わりに、神前に供えてあるナスを戴いて帰るもので、毎年8月の第4土曜・日曜に行われる神事です。その由来には次の伝説が残されています。
昔、諏訪神社の裏に底なし沼があったころ、ある日村人達がそこを通りかかると、沼から水しぶきがたち、龍神が暴れ始めました。驚いた村人達は、持っていた鎌や鍬と一緒に、採ったばかりのナスが入った籠を投げ出して逃げ帰りました。これを聞いた村の若者達が駆けつけてみたところ、空っぽになった籠が浮かんでいるだけで、沼はすでに元の静けさをとり戻していました。しばらく後、村人の夢枕に龍神が現れてこう言いました。「私はあの沼に住む竜神だが、騒がせて悪かった。実は夏病に苦しめられていたのだが、投げられたナスを食べたところ病がすっかり治った。これからは諏訪の大神に仕え、村のために尽くすつもりだ。」
こうして夏病にナスが効くことを知った村人は、神前にナスを供え、代わりに龍神からナスをいただき、夏病を避けたといわれています。
平成12年3月 狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会
(現地案内板説明文より)

とにかく参拝は済ませておきましょう。
諏訪神社 実にシンプルな社殿です。

創建年月は不詳だそうですが、今から400年以上前に甲斐・武田氏の落人が土着したとき、信濃の諏訪大社を分祀勧請したという伝承があるそうです。

時期的に、入間川の「七夕まつり」が終わると、今度は諏訪神社で「なすとっかえ」が行われるのですが、かつて「七夕まつり」が現在のように盛んでなかったころは、入間、広瀬、柏原、入曽、そして遠くは川越や高萩(日高町)の方からも大勢の人達がきて、「なすとっかえ」が一番賑わったそうです。 現在の「なすとっかえ」はまず神事が行われ、献上されているナスに祝詞が上げられ、玉串を奉納して神事が終ります。その後社殿で「なすとっかえ」が行われるのですが、数年前からは取替えは行われずに「厄除のナス」として販売されているのだそうです。
案内板にその模様の写真が掲出されています。
お諏訪さまのなすとっかえ 《写真:(C)狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会》

その後、子供神輿が担がれ地区内を練り歩くようですが、その神輿は大変珍しいナスの神輿だそうです。
更にかつて境内では、入間川の河原から砂を運んで土俵を造り、村相撲が行われていたそうですが、現在は行われていません。
そして夜の帳が降りると、境内の中心に建てられた櫓のまわりで奉納踊りが踊られるそうです。
ナスが夏の毒消しといわれたことから始まったわけですが、夏野菜の代表格であるナスは、同じ夏野菜であるキュウリやトマトなどと共にカロチン・ビタミンC・Eなどを多く含むことから夏バテに効果が高いと科学的に言われている現代とはちがい、その季節にはその季節の野菜を食べようという「身土不二」という考え方が自然に実についていたのでしょう。
このような考え方が、祭りに形を変えた一種の食養運動ともいえる行事になったと考えられるでしょう。現代の野菜嫌いの子供達にも受け入れやすい食育なのかもしれません。伝統によって現代の抱える問題点が少しでも解消できるなら、とっても素晴らしいことです。

それにしても珍しく妙に素直な龍神がいたものです。

本富士見橋

諏訪神社を北上すると再び国道16号線に突き当たります。
途中には庭で夕方からライブを行う準備がされていました。
路上ライブ あくまで個人のお宅ですが、かなりカッコイイですね。

その交差点の先が「本富士見橋」です。
本富士見橋 本富士見橋

一方通行の狭い橋で新富士見橋ができるまでは、こちらが主だったのでしょう。
少しややこしい2つの橋の経緯を調べて見ます。

はっきりとした時代はわかりませんが、少なくとも明治時代には「本富士見橋」(恐らく当時は「富士見橋」だと推測しますが)が存在していたようです。
木造の橋で、現在の本富士見橋と同程度の規模の橋だったようです。
そして時代が昭和になりモータリゼーションの到来と共に、当時の「本富士見橋」では対応できないため、昭和29年ころには「新富士見橋」が建設されていたようです。
そして昭和31(1956)年、新富士見橋が完成し、自動車道の橋として活用されはじめたのですが、それとても大きな橋ではなったので、歩道の分狭い箇所もあり、その為後に人道橋が加えられたものと思われます。
そうした時代に木造の本富士見橋は、昭和37年の洪水により流されてしまった為、現在のコンクリート製で再建され、昭和38年現在の「本富士見橋」が完成したようです。
このときはすでに「新富士見橋」が完成していたので、あえて大きな橋にしなかったのでしょう。それが現在の一方通行の所以なのだと思われます。

折角なので「本富士見橋」を渡って見ます。
下流に見える白っぽい部分が「田島屋堰」で、ここから狭山市の飲料水を取水しています。
入間川下流 田島屋堰

狭山市の場合、95%が県水で、残りの5%がこの堰で取水される伏流水や井戸などの地下水による自己水なのだそうです。
上流方向には「新富士見橋」が見えます。
入間川上流「新富士見橋」方面

この辺りもかなり浅瀬にはなっているようです。
流石に入間川あっての狭山とも言える光景です。
「本富士見橋」を渡って七夕まつりの散策は完全に終了です。

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