旧鎌倉街道散策 #2

まさに駆け足のごとく七夕まつりの散策を終えました。
恐らく夕方から夜にかけてが一番人出も多くなり、見ごたえもあるのでしょうが、結局体力的に続かないようなので今回はこれにて移動です。
最後はやはり鎌倉街道を散策します。

七曲井

狭山市外から旧鎌倉街道である県道50号線を入曽駅方面に南下します。
車でも10分程度でしょうか、右側に「観音堂」が鎮座しています。
常泉寺の観音堂

常泉寺の観音堂
所在地:狭山市大字北入曽
観音堂の創立は、建仁2年(1202)と言い伝えられている。
その後文保2年(1318)の旱魃の際に、村人が観世音に祈り古井をさらったところ、たちまち水が吹き出したと伝えられる。
本尊は、木造聖観世音菩薩坐像で、江戸時代後期の川越住仏師大覚の作であり、堂宇は宝永5年(1708)の再建である。
毎年1月11日の観音様のお祭りには、かつては、五色の布や鈴、新しい鞍や腹掛けをつけた牛馬が、お堂のまわりを回り、賑やかな祭りだったと言われている。

不老川
この川は、入間市宮寺付近に源を発し、野水を集めながら堀兼を通り、川越市で新河岸川に注いでいる。
地質的には、古多摩川の名残り川であるといわれている。
現在では、一年中水が流れているが、昔は、毎年冬期になると必ず水が涸れ「としとらず川」と言われ、「節分の夜、不老川の橋の下にいると年をとらない」との伝説がある。 
昭和61年3月 埼玉県・狭山市(案内板より)
(現地案内板説明文より)

現在、牛馬は回りませんが、その代わり先に知った「入曽囃子」が奉納され、常泉寺の住職が護摩をたくのだそうです。
この本尊いついても説明があります。

木造聖観世音菩薩坐像 市指定文化財 彫刻
所在地:狭山市大字北入曽1366-1 常泉寺 指定年月日:昭和61年111月1日
この像は、常泉寺所属の観音堂の本尊として祀られているもので、江戸時代後期の川越の彫仏師大覚の作である。
その昔、大干ばつがあり、観世音菩薩に祈り七曲井をさらったところ、たちまち清水が湧き出したという故事があり、七曲井の守り菩薩ともなった。常泉寺は元禄2年(1689)までこの地にあったが、観音堂を残し、現在地へ移転した。
像容は、頭上に宝冠を戴き、左手で未開蓮華を持ち、右手をあげている。宝冠は鍍金の透かし彫り金具である。顔立ちは端正で、端座の足を被う裳裾の襞も質感をよく捉え、全体的に均整のとれた像である。
台座裏に次の墨書きがある、
「川越彫佛師 大覚 現住隆寛代」
隆寛は、安永5年(1776)ごろから没年の文政2年(1819)まで常泉寺の住職を務めており、その間に造立されたものと推定される。
昭和63年3月 狭山市教育委員会・狭山市文化財保護委員会
(現地案内板説明文より)

写真が掲載されていますが、確かにバランスが良さそうな感じです。
木造聖観世音菩薩坐像 《写真:(C)狭山市教育委員会・狭山市文化財保護委員会》

観音堂境内に沿って「不老川」が流れています。
不老川

目の前の旧鎌倉街道の不老川をわたる橋が「入曽橋」です。結構水は綺麗ですが、川幅の割には水深が浅い感じです。
何故冬になって水が枯れると年をとらないのかがよく判りませんでしたが、現在の太陽暦とは違い太陰暦の時代では、旧暦正月(現在の1月~2月)に全員が1歳ずつ年齢を重ねる数え年の習慣であったため、その加齢の際に姿を現さない川から「年とらず川」或いは「年とらずの川」と呼ばれたそうです。同じように節分のころは旧暦の正月ですから、橋の下で過ごすと年をとらないという伝説にも繋がったものと考えられます。
かつて生活排水が流れ込むようになったころは水量が増え干上がることは無かったようですが、そのかわり汚染がひどかったようです。現在、生活雑排水が流れ込まなくなってからは水は浄化されてきたようですが、反対に水量が減り一部流域では水が干上がることがあるそうです。
いずれにしても、人々の生活にとっては水は無くてはならないもので、その供給源としての川は、いつの時代も重要で、それ故に川に纏わる話しが各地に残っているのです。

観音堂を参拝してから、裏手にある「七曲井」をみます。
「七曲井」と刻まれた石碑と「七曲井水神」という小さな社があります。結構ユーモラスな社です。
七曲碑 七曲井水神

そしてその後に柵に囲まれた「七曲井」があります。
七曲井

七曲井 埼玉県指定史跡
所在地:狭山市北入曽1368 指定年月日:昭和24年2月22日
この七曲井は、周囲70m余り、直径26m、深さ11.5mという大規模な漏斗状井戸です。
竪堀井戸を掘る技術が確立される近世までは、この井戸のように漏斗状に地下水まで掘り下げたと考えられます。井戸に降りる道は上部で階段状をなし、中央部では曲がり道、そして底近くでは回り道となっており、この道の形状が名前の由来になっているといわれています。また、井筒部は人頭大の石で周囲を組んだ中に松材で井桁を組んでありました。井戸所在地の小字名「堀兼井」、読みは「ほりかねい」、或いは「ほりがたい」から、古来この地方に住む人々にとって飲料水を得ることが困難であったことがわかります。
井戸が掘られた時代については、建仁2年(1202)との説がありますが、確かではありません。ただ、府中から入間川に至る奈良・平安時代の古道沿いにあるため、平安中期に開拓と交通の便を図るため武蔵国府(現在の役所)の手により掘られたと考えられています。
七曲井は、何度か改修が行われ、地球の人々の貴重な水源として活用されてきましたが、宝暦9年(1759)の改修を最後に歴史から姿を消します。その後、土砂やゴミの堆積によって埋もれてしまいました。昭和45年に埼玉県教育委員会と狭山市教育委員会によって発掘、復元され、地元の人々により大切に保存されてきましたが、最近になって壁の一部に崩落の危険性があることが明らかになりました。その為、平成17・18年度に崩落防止工事を実施しました。この工事により、現在見える姿は往時と異なるものとなってしまいましたが、井戸本体は半永久的に保存可能となったのです。
埼玉県教育委員会・狭山市教育委員会
(現地案内板説明文より)

中央に小さくある四角形の木枠が井戸でしょう。
七曲井

そしてその後ろ側の湾曲した壁が、崩落工事によって造られた壁なので、かつてはなかったものということです。
案内板の平面図では階段や曲がり道などの構造が描かれています。
七曲井平面図 《写真:(C)埼玉県教育委員会・狭山市教育委員会》

七曲井 そして、この工事をしないと後にある民家(井戸端園というのもまた洒落ています)ごと崩れてくるといったものだったようです。

今度は現在いるところから反対側の丁度民家の看板のあるあたりに廻ります。
井戸の口がはっきり判ります。
七曲井 七曲井

残念なことに草が一番茂っている季節なので、説明にある階段や回り道などは見えません。

歴史的に人々は昔、川の近くに集落を作り、そこに張り出しをつくって洗い物や水汲みをし、後に水をせき止めて水を溜めるようになり、これらの張り出しや水を溜めたもののことを「井戸」とよんでいたそうです。“水のある場所”という意味で「井処」からという説もあるようです。いずれにせよ世界最古の浄水目的での井戸は約9000年前だそうです。
やがて人々は山の麓に横穴を開け地下水を溜めて使うようになり、これによって人は川から離れて集落を作ることができるようになったそうです。そしてさらに現在の言うところの「井戸」を掘削する技術の向上により縦に穴が掘れるようになると、地下水のあるところならどこでも住めるようになり、「井戸」によって人々の居住範囲は大幅に拡大したわけなのです。

そのような歴史と役割をもった「井戸」ですが、大別すると「井戸」には2種類あります。「浅井戸」と「深井戸」なのです。
浅井戸とは地下の第一不透水層(岩盤)より上を流れる地下水を利用した井戸で、環境による影響を受けやすいため、現在では飲用以外に利用されています。一方、深井戸は第一不透水層(岩盤)より下を流れる地下水を利用しているため、地表からの影響がほとんどなく水質が一定しているのです。
技術の劣っていたころは多くが浅井戸で、技術の向上で初めて深井戸ができるようになったわけです。

深井戸については、ほとんど現在のボーリング工法によるものですが、浅井戸に関して幾つかの方法があるようです。
1つは「横井戸」と呼ばれるもので、崖地などで水平方向に井戸を掘削し設置する方法です。イランの乾燥地域に見られる地下用水路であるカナートがその代表的な井戸だそうです。
2つめは「丸井戸」で、直径1~3mの孔を、人力により垂直に地下水面に達するまで掘削し、掘削しながら孔壁に石積みブロックで、周りを補強しながら掘削していく工法です。10~20mくらいまで掘ることができるそうで、地下水位が浅いエリアなどにおいて造られた井戸です。
3つめは「まいまいず井戸」で、丸井戸の掘削方法で帯水層に達することができぬほど地表と地下水面が離れている場合には、まず地表にすり鉢状の窪地を堀り、その底に丸井戸を掘削する方法で、この「七曲井」などがその代表なのです。

この「まいまいず井戸」がこの地方(東京都多摩北部地域から埼玉県西部)に多いのは、武蔵野台地特有の地質学的背景があるのだそうです。
武蔵野台地は多摩川によって形成された扇状地で、武蔵野台地には脆い砂礫層の上に更に火山灰の層があるため、特に国分寺崖線より上は地表面から地下水脈までの距離が長いそうです。従って武蔵野台地では他の地域よりも深い井戸を掘らなければ地下水脈に達しないにも関わらず、地層が脆いために地下水脈まで垂直な井戸を掘ることが出来なかったのです。
そこで考え出されたのが「まいまいず井戸」で、一旦地表面からすり鉢状に地面を掘り下げて砂礫層の下の粘土層を露出させ固い地層が出てきてから改めて垂直の丸井戸を掘るということが考え出されたのです。
そしてその井戸の形状がカタツムリに似ていることから、カタツムリの意味の“まいまい”から「まいまいず井戸」となったようです。

これには伝承もあり、昔、日本武尊の東国征伐の際に武蔵の国の入曽あたりで休んでいたところ、食べ物は十分あったのだが、水がなかったことから「ここを掘りなさい」と命じ、当時から水脈が深いので「まいまいず井戸」を掘ったところ水が湧き出したそうです。
ところが余りの深さに人々は水を汲むときに稲妻型に道を造り、これが七曲りであったことから「七曲の井」と呼ばれるようになったということです。
そのイメージ(時代は違いますが)が、この案内板にイラストで描かれています。池原昭治氏の作品だそうです。
七曲井イラスト 《写真:(C)埼玉県教育委員会・狭山市教育委員会》

観音堂と不老川、そして七曲井と長閑そうな中にも、何となく井戸堀の苦労のあとが読み取れるような作品です。
このような井戸があったことから鎌倉街道が作られた遠因になったのかもしれません。

堀兼の井

「七曲井」から鎌倉街道を更に南下すると所沢の小手指古戦場に行き付くのですが、ここからは狭山市を通るもう1つの鎌倉街道である「堀兼道」へ向かい、もうひとつの「まいまいず井戸」である「堀兼の井」へ向かいます。
車で15分程度でしょうか。 県道126号線から堀兼神社(北)交差点を右折して南下したところに「堀兼神社」があります。
堀兼神社

この神社の前が旧鎌倉街道「堀兼道」だったそうです。

幟の後には木製の一の鳥居があります。
堀兼神社

これは平成21年に再建されたものだそうで、境内の欅を使って造られたものだそうです。
そして参道の直ぐ先に今度は石製の二の鳥居があります。これも綺麗で美しい鳥居です。
堀兼神社

参道の右手には神楽殿も見て取れます。
堀兼神社神楽殿

二の鳥居の先にある朱色の建造物が「随身門」です。
随身門

随身門及び二神像 市指定文化財 建造物
所在地:狭山市大字堀兼2221 堀兼神社 指定年月日:昭和61年
この随身門は市内唯一のもので、万延元年(1860)の神像塗替え仕様書により、創建は江戸時代後期と推定される。建物は桁行6.8メートル、梁行4.12メートルで、単層入母屋造りの八脚門である。屋根は当初草葺だったが、大正14年銅版葺きに改造された。その際に斗組及び屋根化粧材は新材に替わったが、柱及び地覆、腰貫、頭貫、台輪、丸桁は当初材を伝えている。
随身とは、中古上皇や貴族が外出するとき、武装して護衛にあたった人のことで、二神像は、豊磐門戸命と奇磐門戸命で、俗に矢大神、左大伸と呼ばれている。
昭和62年3月 狭山市教育委員会・狭山市文化財保護委員会
(現地案内板説明文より)

大正時代に改修されたようなので、かなり綺麗な状態なのですね。
寺院でいえば仁王門なのでしょうが、神社なので随身門となるのですね。そしてに二神も阿・吽像ではなく、矢大神・左大伸となるのです。
矢大神 左大神

矢大神は、神社の随身門の左右に安置されている、随身の装束をした2神像のうち、向かって左方の弓矢をもっている神像で、左大伸は文字通り向って右側(って、文字通りではない!)になるわけです。
どちらもかなり塗料がはげており、埃もたまり放題ですが、これを下手に清掃すればあっという間に色が剥げるのでしょう。ここまでくると痛し痒しと言ったところです。

随身門を抜けると急な石段があり、石段を上った先に社殿が鎮座しています。
参道 社殿

堀兼神社
所在地:狭山市大字堀兼2221
堀兼神社の祭神は木花咲耶姫命で、合祀神として大山昨命ほか五神を祀る。
社殿によると、景行天皇の40年に日本武尊が東北のえぞ征伐の帰途この地に立ち寄ったところ、土地の人々が早害に苦しんでいるのを見て、富士山に祈願したら、たちまち清水が湧き出した。そこで土地の人がこのゆかりの地に浅間神社を創建したのが始まりという。
その後、江戸時代に至って慶安3年(1650)、川越城主松平伊豆守信綱が深くこの神社を崇敬し、家臣の長谷川源衛門に命じて社殿を再建させた。
明治維新後は「堀兼井浅間社」と称していたが、明治5年に村社となり同40年から同42年にかけて村内の神社12社を合祀し、社名を現在のものに改称した。
境内にある「堀兼の井」は武蔵野の高層台地の飲料水井戸として古くから有名であり、県指定旧跡。また、バラモミは県の天然記念物に指定されている。
なお、堀兼神社の社叢は、昭和58年にふるさと埼玉の緑を守る条例に基ずく「ふるさとの森」の指定を受けている。
昭和60年3月 埼玉県・狭山市
(現地案内板説明文より)

日本武尊は同じですが、その内容は「七曲井」とは若干違う伝説です。やや「七曲井」のほうが真実味がありそうですが、まあ、どちらも伝説ですから楽しんでおけばよいでしょう。

社殿の左手には随身門からの石段とは違う階段があり、下にはいくつもの境内社があります。
境内社下浅間神社

一番左側にある社が「下浅間神社」でここが1合目なのだそうです。そうです、この社殿自体が富士塚になっているのです。
そしてその手前にある石祠が5合目なのだそうです。
境内社

石祠といえども脇障子のように彫刻が施されていますので侮れません。

社殿から降りて境内の左手奥に向いますと「堀兼の井」があります。

堀兼の井 県指定文化財 旧跡
所在地 埼玉県狭山市堀兼2220番地 堀兼神社  指定年月日 昭和36年9月1日
「武蔵野の 堀兼の井も あるものを うれしく水の 近づきにけり」千載集、藤原俊成(1114~1204)という歌にもあるように、堀兼の井は、古くから書物に現われ非常に有名なものです。しかし、武蔵野には、数多くの「堀兼井」と称するものがあったと推定され、この堀兼神社境内にある「堀兼の井」が古くから言われている「堀兼の井」かどうかはわかりません。しかし、江戸時代から史跡として知られた場所であったことは間違いなく、宝永戌子年(1708)の「堀兼井碑」や、天保13年(1842)の碑も現存しています。
この井の形態や使用法は入曽の七曲井と同様とに考えられ、昔は重要な役割を持っていたと思われます。
藤原俊成の歌のほかにつぎのような歌もみられます。
「あさからす思へはこそはほのめかせ 堀金の井のつつましき身を」俊頼集、源俊頼(1055~1129)
「くみてしる人もありなん自づから 堀兼の井のそこのこころを」山家集、西行法師(1118~1190)
「いまやわれ浅き心をわすれみす いつ堀兼の井筒なるらん」拾玉集、慈円(1155~1125)
平成2年3月 埼玉県教育委員会・狭山市教育委員会
(現地案内板説明文より)

現在はこの案内板がありますが、以前はこの高札のような凝ったものに井戸の由来が書かれていたようです。
案内板

そしてその先に石柵に囲われた「堀兼の井」があります。
堀兼の井 堀兼の井

「七曲井」ほど深くも無く、また“まいまいず”の形とはちょっと違っています。まあ、年月とともに変形したのでしょう。 それでも“まいまいず井戸”であることは充分認識できます。
井戸の傍らには説明にあった“宝永戌子年の「堀兼井碑」”(左)と“天保13年の碑”(右)があります。
宝永戌子年の「堀兼井碑」 天保13年の碑

これだけでも充分文化財かもしれません。

さてこの説明では今ひとつ判りにくいところがあるので、狭山市のオフィシャルサイトでの説明を見てみます。

堀兼之井
堀兼之井は、堀兼神社の境内にあります。直径7.2m、深さ1.9mの井戸の中央には石組の井桁(いげた)がありますが、現在は大部分が埋まっており、その姿がかつてどのようであったかは不明です。この井戸は北入曽にある七曲井と同様に、いわゆる「ほりかねの井」の一つと考えられていますが、これを事実とすると、掘られた年代は平安時代までさかのぼることができます。
井戸のかたわらに2基の石碑がありますが、左奥にあるのは宝永5年(1708)3月に川越藩主の秋元喬知が、家臣の岩田彦助に命じて建てさせたものです。そこには、長らく不明であった「ほりかねの井」の所在をこの凹形の地としたこと、堀兼は掘り難(がた)かったという意味であることなどが刻まれています。しかし、その最後の部分を見ると、これらは俗耳にしたがったまでで、確信に基づくものではないともあります。手前にある石碑は、天保13年(1842)に堀金(兼)村名主の宮沢氏が建てたもので、清原宣明の漢詩が刻まれています。
それでは、都の貴人や高僧に詠まれた「ほりかねの井」は、ここにある井戸を指すのでしょうか。神社の前を通る道が鎌倉街道の枝道であったことを考えると、旅人の便を図るために掘られたと思われますが、このことはすでに江戸時代から盛んに議論が交わされていたようで、江戸後期に編さんされた『新編武蔵風土記稿』を見ても「ほりかねの井」と称する井戸跡は各地に残っており、どれを実跡とするかは定めがたいとあります。堀兼之井が後世の文人にもてはやされるようになったのは、秋元喬知が宝永5年に石碑を建ててから以後のことと考えられます。
埼玉県指定文化財〔有形文化財・旧跡〕 指定日 昭和36年(1961)年9月1日
(狭山市オフィシャルサイトより)

全くの勝手な解釈でいけば、平安時代から言われていた「ほりかね」はやはり“掘り難(がた)かった”の意味で、それを平安人が歌に詠んだわけで、それが後世(江戸時代あたりなのでしょうか)、その「ほりかね」を地名にしてしまったということでしょう。
したがって地名としての「堀兼」はあくまで後付ということになるわけです。
ということから「堀兼の井」がどこの井戸かは永遠の謎ということになるわけです。

最後にバラモミはどこにあるのか判りませんでしたが、ご神木なのでしょうかケヤキの巨木がありました。
ケヤキの巨木

そして境内の片隅に、このような深井戸があるのも技術の進歩を表しているのかも知れません。
深井戸

「まいまいず井戸」と「深井戸」とは実に良いコントラストです。

「お茶」の街としかイメージできなかった狭山市ですが、鎌倉街道をコアとしてかなりディープな歴史を有している街で、鎌倉街道と基地によって発展した街と言ってもよいかもしれません。平安時代から時代を下り、多面的な色合いを持った街ともいえるでしょう。
まさに歴史の醍醐味を味わえる狭山市の「入間川」七夕まつり」でした。

2011.08.19記

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