2011

09

03

コメント

§Ⅱ 横浜三塔物語

横浜三塔伝説

横浜駅からみなとみらい線に乗り換えて凡そ10分程度で「日本大通り駅」に到着しました。
みなとみらい線は第3セクターである横浜高速鉄道株式会社により運営されている路線で、てっきり東急電鉄だとずっと思っていたのですが、東急電鉄が乗り入れしているのだそうです。
ここで初めて知りました。

日本大通り駅

最初の計画段階での仮称は「県庁前駅」でしたが、結果的に地名の“日本大通”に送り仮名をつけて現在の名称になったそうです。一方、神奈川県からは“県庁”の名を残すように要望され、横浜市港湾局からは“大さん橋”の名称を加えて欲しいとの要望があったため「県庁・大さん橋」の副名称がついたそうです。駅名1つでも結構面倒がおおいですね。

ホームに下りて駅のコンコースには、早速「三塔広場」なるスペースがあります。
特に何のことはないベンチのある広い空間なのですが、レンガで装飾されているところは「日本大通」の歴史的なイメージを醸し出しているようです。
日本大通り駅三塔広場

そしてその壁には大きな3枚の壁画が描かれています。
日本大通り駅三塔広場の壁画

右側の壁画は、「大桟橋」「赤レンガ倉庫」そして「みなとみらい」の風景を描いており、左側の壁画は、黒船からクイーンエリザベス号(で、あろう…)横浜の船の歴史とでもいったものを描いています。
日本大通り駅三塔広場の三塔壁画 日本大通り駅三塔広場のビュースポットマーク その中央にあるのが「横浜三塔」です。

ホンワリとしたタッチの壁画が、無機質な駅のコンコースに柔らかな彩を添えているようです。
更にビュースポットマークも付けられています。
そしてよくよく見ると三枚の壁画には、ある共通した人物が描かれています。
壁画の順にクローズアップしてみると、このような人物です。
アンクルトリス風 アンクルトリス アンクルトリス

恐らく50才代以上はわかる人や、見たことあると言う方が多いでしょう。意外と現在でも結構露出されていますが、あのサントリーの「アンクルトリス」です。
独特のスキャットのテーマソングが流れてくれば、直ぐ思い出すでしょう。
ということで、この壁画を描いたのは、「アンクルトリス」の生みの親である柳原良平氏なのだそうです。

簡単なプロフィールを見ると1931年生まれのイラストレーターです。
もともと無類の船好きで、1954年京都市立美術大学卒業後、海運会社専属の画家を目指したのですが、当時そのような職はなく、しかたなく当時の壽屋(現在のサントリー)に入社したそうです。
そして同社宣伝部でトリスウィスキーのCMを制作し、CMキャラクターの「アンクルトリス」が人気となり電通賞など各賞を受賞したそうです。そのとき同じ宣伝部でこのCMを一緒に制作したのが、開高健と山口瞳だったそうですから、錚々たる社員がいたものです。
その後、1959年のサントリー退社後は、船や港をテーマにした作品や文章を数多く発表し、このサントリー時代から交友のある山口瞳の著書のカバーや挿絵を描いていたそうです。
そして現在、商船三井、佐渡汽船、太平洋フェリー、東海汽船の海運各社から名誉船長の称号を受け、帆船日本丸の「帆船日本丸記念財団」理事等を務め、現在横浜市中区に在住しているそうです。
この壁画に相応しい方はこれ方以外にはいないかもしれません。
ちょっとなつかしい思いを感じながら駅を後にしました。

日本大通

「日本大通り駅」を地上に上がるとそこは“港郵便局前”の交差点です。
通りを渡った左側に神奈川県庁を見ることができます。
港郵便局前交差点 県庁舎

そして、交差点の角にある横浜港郵便局には、「外国郵便創業の局」と刻まれたプレートが掲げられています。
外国郵便創業の局

日本で郵便事業が始まったのが明治4(1871)年で、その5年後に初めて日本切手を貼った外国郵便を差し出すことができるようになったのです。
では、その5年間の間外国郵便はどのように扱われていたかというと、当時、横浜(全国の開港地も同じ)に駐在するアメリカ・イギリス・フランスの在日外国郵便局を通じて郵便を出していたのです。
つまり郵便物に貼られる切手は、原則、本国の切手を使用するのです。例えばアメリカ郵便局へは米切手、イギルス郵便局へは香港切手という具合で、アメリカに手紙を出すのであれば米切手を購入してアメリカ郵便局に出さなければならないということだったのです。これを日本の当時の郵便局が行っていたのです。
このような面倒から、前島密らの働きかけで明治6(1873)年、日米郵便交換条約の締結し、明治8(1875)年から日本切手による外国郵便制度が始まったのです。
そして、外国郵便の取り扱いは、当時国内の何処から出された郵便物であっても一度、横浜郵便局(現在の横浜港郵便局)に集められ、アジア宛を除いては横浜から船でサンフランシスコに渡り、そこから世界各地に配達されるというシステムとなったのです。
流石に横浜だけのことはあるようで、何気ないところに何気ないプレートが掲げられているのですが、珠玉の宝石のように歴史が輝いているようです。

さて、この港郵便局と神奈川県庁の間を通っている通りが「日本大通」です。
日本大通り

日本大通
慶応2年10月20日(1866.11.26)に運上所、改所、官舎など日本人街3分の2、英一番館など居留地4分の1を焼失した豚屋火事が契機となり、「横浜居留地改造及び競馬場・墓地等約書」(第3回地所規則)が同年11月23日に締結されました。約書には、居留地と日本人街に区画整理を行い、そのまん中に延焼を防ぐため、広さ120フィート(36メートル)の街路を海岸より公園(後の横浜公園)まで通すように規定しましたが、約束どおりにはできずに明治政府に引き継がれました。
明治4年(1872)英国人ブラントンの設計により、工事が進められ、中央車道60フィート、歩道・植樹地帯左右各30フィートの近代的な道路として誕生し、明治12年、町名にもなりました。
(社)横浜国際観光協会・横浜市教育委員会文化財課
平成3年3月
(現地案内板説明文より)

豚屋火事とは、豚肉屋鉄五郎宅(現・中区末広町)から出火したことから呼ばれた大火災で、午前8時に出火し周辺エリアを焼き尽くし、午後10時頃に鎮火したそうです。
ここではまずその火災の前のこの周辺を簡単に浚っておきます。
現在横浜スタジアムのある横浜公園一帯は、開港前は太田屋新田と呼ばれる沼地で、品川宿の旅籠屋佐吉と神奈川宿の旅籠屋善二郎など5人の共同事業として、遊郭街建設の申請が幕府になされたそうです。最終的に事業が膨れ上がり5人の共同事業から、佐吉1人の事業に変り、この新町は「港崎町」と名付けられ、開業後は大盛況となり最盛期には1400人もの遊女がいたそうです。
こうして繁栄した港崎町でしたが、先の豚屋火事で遊郭街も焼け落ち僅か7年でその歴史を閉じてしまったのです。

この大火により開港時の幕府の創設した横浜の都市計画の欠点が見直され、火災の1ヵ月後、ここ港崎町は第1号の洋式公園として活用することが決定したのです。
こうして明治3年から工事が進められ、海岸からこの第1号となる洋式公園をつなぐ日本初となる西洋式街路が誕生したのです。残念ながら第1号となるはずの公園(後の横浜公園)は、結局明治9年に完成したため、明治4年に完成した山手公園が日本初となったそうです。
一方その街路は当時の「マカダム舗装」という工法を用て造られたそうです。
「マカダム舗装」とは、スコットランドの技術者ジョン・ロウドン・マカダムが考案したことからこの名があり、砕石を敷き詰めローラーで圧し固めて施工する工法です。砕石は天然の砂利と異なり表面が荒く、圧し固めるだけでガッチリと噛み合うので耐久性にすぐれ、仕上がりも美しく、そして馬の足がかりもよかったことから自動車が普及していなかった戦前、戦中まで数多く用いられたそうです。しかしながらこれも神戸居留地で用いられていたこともあり、実際に日本初だったかどうかは不詳の様です。

そして最後にこれらの計画・設計を行ったブラントンについて紐解いてみます。
リチャード・ヘンリー・ブラントン リチャード・ヘンリー・ブラントン(1841年-1901年)は、スコットランド人でイギリスの工兵技監にして建築家です。

明治時代に来日した“お雇い外国人”の正真正銘の第1号だったようです。
元々は灯台技師として採用され日本に派遣されたようで、和歌山県串本町の樫野崎灯台を皮切りに26の灯台などを建設し、日本における灯台体系の基礎を築き上げたといわれています。また灯台技術者を育成するための「修技校」を設け、後継教育にも心血を注いだそうです。
そして、この灯台だけでなく西洋舗装技術や、日本初の電信架設(1869年、東京・築地 - 横浜間)も手掛けたのです。
その後、1876年3月明治政府から任を解かれ帰国し、論文「日本の灯台 」を発表し賞賛を受け、晩年「ある国家の目覚め―日本の国際社会加入についての叙述とその国民性についての個人的体験記」をまとめ終わって程なく亡くなったそうです。

このように一つの火災が発端となり、一人のお雇い外国人により、横浜を日本型の封建都市から欧風の近代都市へと大きく前進させ、様々な日本初がこの横浜から生まれることとなったのです。
改めてこの「日本大通」を見れば、遠く「横浜公園」と海岸とを一直線に結んでいるのが見て取れます。
日本大通 日本大通

まさに横浜の発祥と発展のシンボルと言っても過言ではない「日本大通」なのです。

横浜三塔物語

そしてこの「日本大通」に横浜三塔物語の一つである「神奈川県庁」がありますが、先ずは「横浜三塔伝説」について紐解きます。
この「横浜三塔物語」とは新たな都市伝説の一つである横浜三塔伝説を巧みに活用した新たな観光資源です。
そもそも横浜三塔伝説というのが、「キング・クイーン・ジャックと呼ばれる3つの塔が同時に見える場所を回ると願いが叶う」という伝説で、最もこれ自体伝説ではなく観光資源としてのキャッチコピーといえるかもしれませんが、そこまで言ってしまいますとロマンも色気も何もなくなってしまいますから、ここではあえて伝説としておきましょう。

この伝説の由来には2つあり、1つは「外国の船乗りが、横浜三塔に航海の安全を願掛けした」という言い伝えで、もう1つは「三塔が震災などの試練を乗り越えてきたことから、カップルが困難を乗り越えて結ばれる」というもので、どちらも最もらしく思える由来です。
「家内安全」か「良縁祈願」なのかどちらなのかは判りませんが、勝手な推測では元々「家内安全(或いは交通安全)」の由来が時代とともに「良縁祈願」に代わっていった(或いは代わらせてしまった)というと何となくシックリくるものを感じます。

そしてこの願いを叶えるためにしなければならないのが、三塔ビュースポット行脚なのです。
三塔自体は、グーグルアースで見られるとおり極近い位置にあり、一時期流行った三角形のピラミッドパワーをなしています。
三塔俯瞰

今流に言えばパワースポットです。
そしてこれらの三塔が同時に見えるスポットはやはり極限られた場所で、現在3ヶ所あるのです。

1.神奈川県庁・本庁正門前の日本大通を挟んだ向いにある歩道
2.大桟橋の愛称“くじらの背中”と呼ばれる屋上
3.赤レンガ倉庫1号棟側の新港埠頭南端の石畳

という絶妙な位置で見えるスポットに、スポットマークが設置されているのです。
恐らく明治時代の頃はどこからでも三塔を同時に見ることができたのでしょが、時代とともに高層ビルの出現などにより限られた場所だけとなり、それが返って希少価値となり、しいては観光資源となりえたのでしょう。

では一体このスポットマークは、いつつくられたのでしょうか。
このスポットマークの出現は「2002FIFAワールドカップ」が日韓共催と決定したことによります。
横浜国際総合競技場で決勝を行う権利を得た横浜市は、開催に向けた道路整備などの際に、県庁前で職員が三塔が見えることを発見したようです。そしてこれを街整備のアイテムとして使用することが考えられ、横浜市の「都市整備局都市デザイン室」がプレートをデザインして設置したのが最初のようです。
その後、三塔が見えるスポットが2ヶ所あることがわかり、これを街のPR材料として3つのビュースポットマークを設置したのです。設置されたのは2006年3月頃だったそうですが、これらのアイディアを仕掛けたのはワールドカップ時に都市整備局都市デザイン室に在籍していた永田隆氏という方で、現在は横浜港振興協会の専務理事だそうです。

その後、PR効果も表れ「横浜三塔物語」として全国的にも知られ始めたわけですが、そもそもこの三塔がトランプの「キング・クイーン・ジャック」と呼ばれ、どうして現在の建物に命名されたのでしょうか。
トランプの「キング・クイーン・ジャック」は一般には絵札と呼ばれ、その強さは数字の大きさから“キング>クイーン>ジャック”というイメージを思い浮かべる人が多いでしょう。或いはその名のイメージからキング=王、クイーン=妃、ジャック=皇太子、という年功序列というイメージをもたれる人もいるでしょう。

そこで、この三塔はこの序列に当てはまるのかを調べてみました。
まず考えられるのはその塔の高さでしょう。その高さはキング:49m、クイーン:51m、ジャック:36mで、高さによる順列はクイーン>キング>ジャックとなり、全く意味の無い序列となるようです。
高さでは無いとすると次に考えられるのは創建年で、いわゆる古い順というものです。
そこで創建年を確認すると、キング:1928年、クイーン:1934年、ジャック:1917年となり、創建年による順列はジャック>キング>クイーンとなり、これも意味の無い序列となってしまいます。

高さでも古さでも無いとすると、最後に考えられるのはその形状イメージによるものと考えられます。
キングはまさに王として君臨しているので、どっしりとした重厚感とカリスマ性のある威厳をもっているものです。そのイメージから言うと三塔の中では、神奈川県庁はどちらかといえばごつい安定感と、荘厳さを兼ね揃えたフォルムで“キング”に相応しいと考えられたのでしょう。
同様にその妃であるクイーンは、女性らしい華麗さと上品さをあらわしており、三塔の中では横浜税関のドーム型の優美なフォルムと優しい色合いがクイーンそのものであるといえるでしょう
そして、ジャックはかつて「切り裂きジャック」という名もあったとおり、ヤンチャで尖った若者を連想させ、三塔では横浜開港記念館の持つ細身の時計台と血の色を表すような血気盛んな赤レンガの色合いが、イメージ的に合うと考えられます。
このような事から、あくまで推測ですが、三塔の愛称は見た目の印象からトランプの絵札になぞられて付けられたものではないかと考えられそうなのです。

ここで余談ながら、このトランプの絵札にはモデルとなった人物がいるのだそうです。
現在のトランプの絵札は様々な絵柄(キャラなども多い)があるのですが、元となっているのは16世紀にフランスのパリで作られたものなのだそうで、そのモデルとなった当時の人物は以下の通りです。
<キング>スペード:ダビデ王、ハート:カール大帝、ダイヤ:カエサル、クラブ:アレキサンダー大王
<クイーン>スペード:パラス、ハート:ユディト、ダイヤ:ラケル、クラブ:アルジーヌ
<ジャック>スペード:オジェ・ル・ダノワ、ハート:ラ・イル、ダイヤ:ヘクトル、クラブ:ランスロット
という設定で、現在アメリカや日本で広まっているデザインは、このフランスのカードを発展させたイギリスのカードに由来し、特定のモデルはいないそうです。

そこでもう一つ素朴な疑問です。
キングとは、まさしく“王”、“王様”のことで意味も同じです。またクイーンも“王妃”“お妃”という意味です。するとジャックの位置づけは王と王妃との間に生まれた王子、或いは王と王妃を守る騎士といった役割になるはずです。となると“プリンス”とか“ナイト”といった言葉になるのが順当なのですが、何故に「ジャック」になったのでしょう。
確かに先のジャックのモデルとなった人々は、カール大帝の騎士であるスペードのダノワ、ジャンヌ・ダルクの戦友であるハートのラ・イル、ギリシア神話に登場するトロイの王子であるダイヤのヘクトル、そしてアーサー王に仕えた円卓の騎士の一人であるクラブのランスロットということで、王子や騎士(戦士)であることも事実です。
となると「ジャック」とはプリンスやナイトを総称するという意味合いがあるように考えられますが、こうなると「ジャック」の語源を調べてみなければならなくなります。
名前の「ジャック」はもともと聖書の「ヤコブ」から派生したもので、英語圏では一般的なようですが変化が多いのだそうです。そしてまたフランス語名(Jacques)も同じだそうです。
「ヤコブ」はギリシャ語では「ヤコーボス」、ラテン語では「ヤコブス」、英語では「ジェイコブ」、スコットランド・アイルランド・英語では「ジェームス」、そしてフランス語では「ジャック」又は「ジャムス」、ドイツ語では「ヤーコブ」、イタリア語では「ジャコモ」というように呼ばれているのです。
そしてその「ヤアコブ」の意味するところは「人を出し抜く者」の意味しているそうです。こう聞くとあまり良いイメージはありませんが、ヤコブが天使と格闘し神の勝者を意味する「イスラエル」の名を与えられたという故事に倣い、勝者=ヤコブ=ジャックという具合になったのかもしれません。
まあ、勝手な推測ですが。
余談が随分と長くなってしまったのは今に始まったわけではないのですが、流石に長すぎました。何の話をしていたのかがわからなくなってきましたから・・・。

それではトランプの絵札を捩った三塔は、最初にいつ、誰が命名したのでしょう。最後の疑問です。
当然、考えられるのは開国以降のイギリス、フランス人といったところが妥当なところでしょう。ただし、キング・クイーン・ジャックはそのまま英語ですから、イギリス人が付けたというのが最もなところだと考えられます。
しかしながら、『霧笛と共に-横浜市開港記念会館史』には日米開戦以前の昭和10年代ころに、三塔がそう呼ばれたと記載されているようなので、イギリスかアメリカといったところでしょう。
結局のところ判ったような判らないような内容となりましたが、それこそがまさに伝説と言われる由縁としておきましょう。
そして、このような伝説と呼ぶに相応しい「三塔」を伝説から観光資源へと昇華させたのが2006年の「横浜三塔物語」第1回キャンペーンで、2006年11月1日から翌年3月10日の期間で、マップの配布や記念品などの販売が行われ、三塔を捩って3月10日を三塔の日としたようです。
そして現在、「三塔を同時に見えるスポットを回ると願いがかなう」という新都市伝説は全国的にも定着しつつあるようで、観光誘致としても一つの成功をおさめているともいえるのでしょう。
次は実際にその三塔とビュースポットを巡ります。

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pansy

大好きな散歩道・横浜ですが、三搭見えるスポットがあるとは知りませんでした。ジャック(開港記念会館)は年4回程使用しますが、狭い中にも歴史の重みを感じます。度々出かけますので、3スポット巡りをしようと思います。

2012

06

17

21:06

薄荷脳70

pansyさん、コメントありがとうございます。
当初の設定では3ヶ所だったのですが、現在は「象の鼻」にプレートが埋め込まれて、4ヶ所です。言うまでも無いことですが横浜はさすがに何度訪れても、魅力的な街ですね。
是非4ヶ所廻ってみてください。
それにしても身近にジャックを使用されているとは、うらやましい限りです^^

2012

06

18

06:25

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薄荷脳70


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