横浜三塔 #2

県庁からものの1,2分も歩いたところが「ジャック」の塔のある開港記念館です。
現代となってはそのレンガ造りが街の景観から突出していますが、それだけ個性的であるという証でしょう。

ジャックの塔

「県庁前」交差点の角にあるのが“ジャックの塔”こと横浜市開港記念会館です。
ジャックの塔 ジャックの塔

交差点の角に細身の引き締まった印象的な塔が「ジャックの塔」で、早速通りを渡って建物の近くに寄って見ます。

横浜市開港記念会館(国指定重要文化財)指定年月日:平成元年9月2日
横浜市開港記念会館は、開港50周年を記念して、大正3年(1914)9月に着工され、大正6年7月1日の開港記念日に「開港記念横浜会館」として開館しました。
建物は、大正12年の関東大震災によって一部が焼失したため、昭和2年と平成元年に復旧工事が行われ、創建時の姿に復元されました。
建物の外壁は、腰石まで花崗岩積で、1・2階は赤い化粧煉瓦と白い花崗岩を積み上げた辰野式フリークラシックスタイルで、古典主義を自由にアレンジしています。東南隅には高塔(時計塔)、南西隅に八角ドーム、東北隅に角ドーム、さらに高塔を挟む位置にも角ドームを作り、屋根は寄棟造り・天然スレート葺きで、越屋根は銅板葺きとしています。また、建物内部の広間、中庭に面する窓にはステンドグラスが用いられるなど、大正期の建物として華やかで優れた意匠が施されています。
横浜市教育委員会文化財課・社団法人横浜国際観光協会
平成6年3月
(現地案内板説明文より)

この横浜市開港記念会館は、横浜開港50周年を記念し、横浜市民からの寄付を募り建設された記念建造物だそうです。
もともとこの場所には“時計台”として親しまれた「町会所」があり、その「町会所」が焼失したため、旧町会所の時計台をイメージした建造物になっているそうです。
そして設計に当たっては、こちらも県庁舎同様コンペ形式となり、その時計台を継承した案が採用されたという経緯のようです。
このコンペに当選された方は福田重義という人で、大正期には東京市の技師として、また、建築行政家としても活躍されたそうです。
このジャックの塔以外に、旧日比谷公園事務所、東京市営住宅、東京の呉服橋と鍛冶橋のデザイン、そして現在多摩に移築された四谷見附橋の意匠設計などがあるそうです。

そしてこの説明にある辰野式フリークラシックスタイルとは、東京駅に代表される赤煉瓦に花崗岩をとりまぜた建築様式を創り出した辰野金吾のデザインを踏襲しているということです。
東京駅

元々英国のビクトリアン・ゴシックが、クラシックへと移行する過程で生まれた折衷主義をフリー・クラシックと呼び、そのフリー・クラシックを更に壮麗にしたとされたと言われる様式が「辰野式」なのです。
その後、関東大震災を経て復旧工事が行われたのですが、昭和2年の復旧では創建時と同じスタッフが計画にあたり、構造補強と共にステンドグラスなど震災復興期のデザイン(つまり創建時のデザインではないということ)で統一されたそうです。しかし、その際屋根ドームは復元されなかったようです。
そして1985(昭和60)年に創建時の設計図が発見され、横浜市に寄贈されたのを契機に1988(昭和63)年にドームの復元工事が着手され、1989(平成元)年、大正時代の姿そのままに復元されたものなのだそうです。
こちらもまた興味深い歴史を背負っているようです。

この案内板の先には「史跡 横浜町会所跡」の石碑があります。
「史跡 横浜町会所跡」石碑

町会所跡
この地に、明治7年(1874年)4月に竣工した石造2階建て屋上に高塔のある建物は、横浜市制施行の明治22年まで横浜の町政を執った町会所でした。「時計台」の愛称で親しまれ、横浜の名所となっていました。明治23年横浜貿易商組合会館と改称し、その後横浜会館と改めましたが、明治39年12月類焼により消失いたしました。跡地に開港50年を記念して現在の建物が大正6年竣工いたしました。
また、この地は開港期より明治初年まで、岡倉天心の父勘右衛門が支配人をしていた石川屋(越後藩(福井県)の生糸売込店)があったところです。
横浜市教育委員会文化財課・社団法人横浜国際観光協会
(現地案内板説明文より)

横浜市開港記念会館の説明にもあった「時計台」ですね。町会所というので、町会(1丁目町会とか…)の建物かと思いましたが、基本的には横浜市役所的なものだったのではないかと思われます。
案内板には当時のその「時計台」の写真が掲出されています。
時計台 《写真:(C)横浜市教育委員会文化財課・社団法人横浜国際観光協会》

ちょっとズングリムックリした確かに親しまれそうな時計台で、現在のジャックとは随分趣が違いますね。

「町会所跡」碑の先には、その説明にもあった「岡倉天心生誕之地」碑があります。
「岡倉天心生誕之地」碑

横浜市開港記念会館の案内板を読むと、次々と先に進むようにできているのでしょうか。それにしても様々な史跡が一つに集まっているのも横浜ならではなのでしょうか。

さてその岡倉天心ですが、ついイメージ的に福井県の出身だとばかり思っていました。そこで少しばかりその歴史を追ってみます。
幕末、越前福井藩32万石の藩主松平慶永(春嶽)は、天保9(1838)年11歳で第16代藩主を継ぎ藩政を立て直すため、家臣橋本左内側近等の補佐を受けました。当初、藩主松平慶永はペリー来航により国防の必要性を説き攘夷を主張するのですが、老中阿部正弘らと交流し開国派に転じ西洋式兵制を採用、銃砲火の製造、造船事業に着手普及させたのです。また、一方補佐役の橋本左内は藩経済の立て直しのため早くから海外との貿易に着目し、当時海外との取引の中心地となりつつあった横浜に横浜商館主をおき、そこに士魂商才あるものを送り込みことを考えていたようです。

そこに抜擢されたのが、下級武士の出でありながら算盤の才と実直な人柄が買われ、御納戸役として才覚をあらわし始めていた岡倉覚右衛門だったのです。
岡倉覚右衛門は早速横浜で福井藩の特産品である生糸絹袖などを扱う貿易商「石川屋」を営んだのでした。そして1862(文久2)年、次男としてこの地に天心が誕生しました。
この頃両親は「石川屋」の商売が忙しかったことと、長男である港一郎が病弱であったことなどから、天心には世話をするために福井から呼ばれた「つね」という乳母がいたそうで、この「つね」は橋本左内の遠縁のものだったようです。

天心は幼いころからその才能を発揮し、南画(文人画)、漢詩、琴曲、茶道なども習ったそうですが、一番最初に才能を発揮したのが英会話で、「石川屋」に訪れる外国人の買い物の様子を見て育った天心は、ある日買い物に来た外国人の言うことが分からなくて困っていた父親に外国人が何と言ったか通訳したのだそうです。これに驚いた父は、天心をジェイムズ・バラの英語塾に預け英語を習わせたのです。
これにより一段と英語力を身に付けた天心は、1873(明治6)年、官立東京外国語学校(現東京外国語大学)に入学し、1880(明治13)年に東京大学文学部卒業後、文部省に勤務し、1881(明治14)年、英語が話せることから同校講師のアーネスト・フェノロサの助手となり、フェノロサの美術品収集を手伝いことで、一生を運命付けられたのでした。
これも横浜生まれということが全ての原点と言っても過言ではない天心の出発点なのです。
一方、「石川屋」は明治維新の廃藩置県により閉じることになり、当時の金で3万円とも30万円ともいえる大金を福井藩に返上したそうですから、覚右衛門の商才も確かなものだったといるようです。その後、覚右衛門は江戸福井藩松平邸の一角を拝領し旅館業を営んだそうです。

更に更にその先にはもう一つ石碑があります。「横浜商工会議所発祥の地」碑です。
「横浜商工会議所発祥の地」碑

これは1880(明治13)年に町会所内に横浜商法会議所が設立され、1980(昭和55)年に横浜商工会議所創立100周年を記念して建立されたものだそうです。
当時、初代会頭となった原善三郎は、現在の埼玉県児玉郡神川町で生まれ、横浜で生糸売込問屋の「亀屋」を開業し財を成しました。その後、横浜市市議会初代議長、衆議院議員(埼玉県選出)を歴任し、昭和初期まで続く原財閥を形成したそうです。当時の原家の屋敷跡は横浜の野毛山公園、三渓園となっているそうです。
このような先人の力があったことから横浜の発展もあったのでしょう。 この後は、いよいよ会館内に入ります。

横浜市開港記念会館

元は公会堂の位置づけだったことから、意外に簡素なエントランスです。
横浜市開港記念会館エントランス 横浜市開港記念会館エントランス ギリシャ風彫刻

1階のエントランスホールはそれ程広くありませんが、簡素でシックでありながら、そこはかとない荘厳さも醸し出しています。
柱などはギリシャ風とでも言うのでしょうか、かなり凝ったつくりで、まさに時代のなせる業とでも言えるでしょう。
正面には、この会館のメインホールである講堂があります。
講堂エントランス 講堂

それ程大きなステージではありませんが、時代を偲ばせる美しいフォルムです。 意外と椅子は簡素ですが両サイドに張り出したバルコニーが年代を感じさせます。

エントランスホールの右手が2回に上がる階段です。
踊り場の窓は“バラ窓”というそうで、何となくそんなイメージを感じさせます。
そして、ちょうど窓の中央の両サイドには横浜市のマークである浜菱が組み込まれています。
バラ窓 バラ窓

横浜市の市章は1909(明治42)年の開港50周年の際に制定されたもので、その後のこの会館の建設に早速使われたということでしょう。

2階に上がったホールはアーチ型の柱の美しいホールです。
2階ホール

右側には1階で見た講堂があり、バルコニー席への入口があります。
講堂入口 講堂

当時(大正期)の写真が展示されています。
講堂エントランス 講堂 《写真:(C)横浜市開港記念会館》

現在の講堂は幾分現代的ですが、それでも当時の香は充分堪能することができます。
また、講堂へのエントランスは嘗ては1階と同じエントランスがあったようですが、現在はその講堂への入口は無くなっているようです。

ホールには幾つかの絵画が飾られています。
中央には帆船の絵画が架けられており、その下にキャプションがあります。
咸臨丸

由来書
1860年(万延元年)わが国最初の遣米使節新見豊前守一行の乗艦米国軍艦ポーハタン号随行の任務を帯びた幕府軍艦咸臨丸は、艦長勝安芳以下悉く日本人の海技によって運用され大洋航海を行い開国の扉を開いた最初の船である。殊に日の丸を初めて国家の旗章として同艦に掲げ、外国より日本国旗の礼を受けたことに意義がある。本画は、1960年日米修好通商百年祭における国際行事の一環として識者相集り、その艦形を究めその制作を海洋画家飯塚羚児氏に依嘱し、東京駅広場に掲げて百年祭の意義を詳にした。ついで同艦戦没の地清水市主催日米百年祭式場に掲げられ内外人に感銘を与えた。
以降、東京交通博物館に展示され、1962年(昭和36年)イタリートリノ市主催世界海上労働博覧会に日本政府より出品され、翌年3月帰還するとともに同艦に係り深き横浜市有に帰し、開港記念会館は長く保存され往事を記念することとなった。
ここに画歴の由来を記し後世に伝える。
1962年6月2日 横浜市
(現地案内プレートより)

船尾に小さいながら誇らしげに日の丸が掲げられているのを見て取ることができます。
これが国際的に初めて認められた国旗と考えれば確かに考い深いものがあります。今までにも咸臨丸の絵を何度も見ましたが、その様な意味が隠されていたことは知りませんでした。
なお、作者の飯塚羚児氏は平成16年99歳でお亡くなりになったそうです。

その先の左右の壁には一対の絵画が掲出されています。

相対する2枚の壁画は昭和18年に文化勲章を受章した和田英作画伯が昭和2年、現東京芸大教授として最も充実した年代の力作である。過去の風光明媚な農、漁村、横浜村の風景と明治後期の横浜の隆盛ぶりが生き生きと活写されている。
和田画伯(1874~1959年)は黒田清輝門下で明治、大正、昭和期にまたがる日本洋画界の雄であった。
(現地キャプションより)

ガラスに照明が反射して見難いですが、左が横浜村の風景で、右が明治後期の横浜を描いたものでしょう。
横浜村 横浜

そしてホールの左手には美しいステンドグラスが配置されています。現在あるのは昭和2年に復旧されたものだそうです。
ステンドグラス

ステンドグラスは数多くありますが、和風の絵柄というのも珍しいのかもしれません。

ステンドグラスの先には、この会館の資料が展示されています。
左手に、大正2年時のステンドグラスのオリジナルのガラスが展示されています。
オリジナルステンドグラス

左側の船頭の部分と、右側の駕籠かきの部分が残されているようです。
右手の奥には、写真等と共に創建時の様々な建造部材、部品などが展示されています。
展示室

ホールの天井飾りや、「US ARMY」の電球などです。
彫刻 電球

左手の奥には洒落た小さな螺旋階段が残されています。
塔への階段

現在クローズドになっていますが、この螺旋階段がジャックの塔に昇る階段なのだそうで、 階段自体も実に凝ったもので、当時のデザイン性の高さに目を見張ります。
このジャックの塔は特別に公開されることがあるそうです。 特別公開時に内部を撮影したサイトがありました。

参考:【カナココ】https://www.kanaloco.jp/kanacoco/community/c201101042/topic/4511/

塔の内部は実に貴重な散策でしょう。

2階のホールを抜けてシックな廊下を通って会議室のほうへ進みます。
廊下の手前にエレベーターがあるのですが、当然、大正期には無かったものですから後の時代に造られたものです。
廊下 錠聯鉄構法

従ってエレベーターを設置するために一部壁を取り壊す必要があり、それによって壁の断面を見ることができるようになった貴重な場所のようです。

錠聯鉄構法
横浜市開港記念会館は、明治時代における最高の耐震構造である「錠聯鉄構法」が採用されています。約1.8m間隔に計40mmの鋼鉄棒を入れ、水平方向には各階ごとに幅100mmの帯鉄で連結しています。エレベータ設置工事の際に壁面を切り取ったため、内部の構造が見られるようになりました。
(現地キャプションより)

歴史的建造物といえども、現在も使用されている建造物であることからバリアフリー化は避けられないところでしょう。その結果が副次的な産物を生み出したという事です。
構法についてはよく判りませんが、それでも当時としての最高の耐震構造という技術の粋を凝らした建造物であることを改めて感じました。

更にこの廊下にはもう1つの見所があるようです。
現在のこの廊下の床は、もともとタイル張りだったそうですが、やはりバリアフリー対策から床面を底上げしているそうです。
オリジナルタイル オリジナルタイル

廊下の脇に露出しているのが本来のタイル張りの廊下だそうです。
この柄の廊下であったらまた雰囲気も随分違ったものになるのでしょう。

この廊下を抜けると小さなホールになり、そこには階下への階段がありますが、その踊り場にも綺麗なステンドグラスがはめこまれています。
ステンドグラス ステンドグラス

ステンドグラス
ペリー乗船のポーハタン号が入港する様子を題材としています。製作は、宇野沢組ステンドグラス製作所です。大正12年(1923)、関東大震災により焼失しましたが、昭和2年、当初のものを尊重して復旧いたしました。
(現地キャプションより)

こちらは洋風画ですが、宗教画とも違い美しさの中にも迫力を感じます。

そしてこのステンドグラスのある階段の反対方向にあるのが当時の特別室です。
特別室 特別室

当時の様子が写真展示されています。
天井にはかつて鳳凰のような飾りがあったようです。
現在は随分とスッキリしたかんじですが、それでも上品な佇まいは残っているようです。
特別室天井 特別室天井 《写真(右):(C)横浜市開港記念会館》

特別室を見学して横浜市開港記念会館も最後です。
「辰野式」フロークラシックスタイルの外観で始まった横浜市開港記念会館で、流石に重要文化財らしい貴重な財産を堪能させてもらいました。
文化財認定書

ある意味では贅を尽くしたともいえる建造物ですが、明治、大正期の日本の威容を誇るための建造物であったのかもしれません。

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks