大桟橋通り #1

「キング」と「ジャック」の塔を散策した後は、一旦三塔から離れて散策します。
横浜市開港記念会館と県庁との間の本町通りを東南に進み、まずは港郵便局前交差点を過ぎた右側の「横浜都市発展記念館」へ向かいます。

横浜都市発展記念館

入口は丁度「日本大通り駅」に隣接、というか駅から上がったところがこのビルであるというロケーションです。
横浜都市発展記念館

そのビルに壁に「横浜市都市発展記念館・横浜ユーラシア文化館」と看板が掲げられており、そしてその看板の下にプレートが取り付けられていました。

旧横浜市外電話局(横浜市認定歴史的建造物)
旧横浜市外電話局の建物は、昭和4(1929)年に横浜中央電話局として建設されました。設計者をおこなったのは横浜出身の逓信省技師中山広吉で、外壁には濃茶色のタイルを全面に貼り、装飾を控えた堅実なデザインでありながら、2階から4階をまとめる柱型や頂部の石のコーニスに古典主義様式の細部を残すなど、昭和戦前期の逓信省建築特有の意匠が認められます。
各階の高さは異なっており、1階と3階は高く、それぞれ営業室、交換室として使用されました。また2階には局長室、技師官室などの業務スペースが、4階には女子職員のための休憩室や食堂、宿直室が設けられていました。
その後、横浜市外電話局、NTT横浜情報案内センターを経た後、NTTの移転を機会に、横浜市の施設として保存活用されることになり、本町通り側および大桟橋通り側の外壁を創建当時のまま残して、平成15(2003)年、新しく生まれ変わりました。
(現地案内板説明文より)

やはり横浜はどこもかしこも歴史的な匂いが充満していそうです。
とりあえず横浜市都市発展記念館には入らずに、この建物の周りを半周してみました。
横浜都市発展記念館 横浜都市発展記念館

90度曲がったところがかつてのエントランスだったのでしょうか、現在は開かないようです。
そして更に進んで90度曲がると中庭になっています。
横浜都市発展記念館

丁度、先ほどのプレートのあった壁の反対側になるのですが、1階、3階と2,4階の高さが違うことが見て取れます。
窓の大きさを見るとそれが判りますね。

その中庭には展示物があります。
煉瓦造下水道管

煉瓦造下水道管
2001(平成13)年10月に、県庁前の日本大通りから出土した煉瓦造りの卵型下水道管です。明治10年代に、日本大通りと海岸通りが交差する位置に築造された煉瓦造下水道マンホールに接続していたもので(マンホールの原寸大の再現模型は、横浜都市発展記念館の4階常設展示室でご覧になれます)、大中小3種類ある下水道管の、いわゆる「中下水」に相当します。一定の流速を確保するために断面を卵形とし、断面図にあるように、枕木を敷き並べた上にコンクリートを巻いて敷設されていました。
(現地案内板説明文より)

その隣には黒光りした水道管のようなものが展示されています。
国内最古のガス管

国内最古のガス管
この鋳鉄管は、2002(平成14)年1月に、市立本町小学校(中区花咲町)の校庭から出土したものです。出土場所は、1872(明治5)年に日本最初のガス事業を興した横浜瓦斯会社(後に横浜瓦斯局)の施設が建っていたところでこの管を通って横浜の町にガスが供給されていました。管の接合部分にある文字は、瓦斯会社の創業時に資材を購入した、イギリスの製造会社(中庭に展示されているガス灯の台座にその名前が残されています)のイニシャルで、この管が国内最古のガス管であることを裏付けるものです。
(現地案内板説明文より)

ガス管の反対側にそのガス灯があります。
明治期のガス灯

明治期のガス灯
このガス灯は、横浜都市発展記念館所蔵のガス灯柱(4階常設展示室内に展示されています)から型を取って復元したものです。頭部は、明治期の彩色写真に写っている同じ意匠のガス灯をもとに新規に製作しました。台座部分には、製造元を記した“R.LAIDLAW & SON GLASGOW”の陽刻があり、この灯柱がイギリスのグラスゴーで製造・輸入されたものであることがわかります。
(現地案内板説明文より)

いずれにしても「横浜都市発展記念館」でそれらの詳細がわかるようなので、ここで調べるのも無意味でしょうが、とにかく事始の多い横浜に脱帽です。

その先に「横浜都市発展記念館」のエントランスがあるので入館します。
横浜都市発展記念館 チケット 入館料200円は200円です。

エレベーターホールには、常設展の中のコーナー展のパネルが並べられています。
横浜都市発展記念館

コーナー展は「クルマのある風景」と題され、広瀬始親氏が撮影した昭和30年代の写真から、クルマに関連したものにスポットをあてた写真展示のようです。
また床には横浜のマップが敷かれています。
横浜都市発展記念館マップ

まずは、この「横浜都市発展記念館」の概要だけ押さえておきます。

横浜都市発展記念館とは
横浜は1859(安政6)年の開港により、国際貿易都市としての歩みを始め、その後、1923(大正12)年の関東大震災や1945(昭和20)年の横浜大空襲により、大きな被害を受けながらも、それらを乗り越えて発展してきました。
明治時代の終わり頃には工業地帯の形成が始まり、人口が増えるとともに、市街の周辺部には住宅地域が広がりました。また、近郊農村との結びつきも強くなりました。こうして1901(明治34)年から1939年にかけて、6回にわたる市域の拡張が行われ、これらの地域を含む複合的都市としての横浜市が生まれました。
横浜都市発展記念館では、現在の横浜市をよりよく理解するために、その原型が形成された昭和戦前期を中心にして、「都市形成」「市民のくらし」「ヨコハマ文化」の三つの側面から、都市横浜の発展のあゆみをたどります。
(「横浜都市発展記念館」オフィシャルサイトより)

ということで、先ほどの下水道などの模型も見られるのでしょう。
早速、展示室にはいりますが撮影は禁止なのでここまでです。
横浜都市発展記念館 横浜都市発展記念館

じっくり横浜の街の歴史を堪能してきます。

基本的に街の発展に欠かせないものは、いつの時代でもライフラインでしょう。
いわゆる電気・水道・ガスといったところです。
この横浜はそのライフラインがいち早く西洋化によって出来上がった街といえるのでしょう。中庭の展示もほぼそれに近いことを語っています。
そこで横浜のライフラインの発祥を調べてみます。

先ずは水道です。
そもそも横浜は土地柄、殆どのエリアが沼や海の埋め立てによって成り立っている土地のため、水質は決してよくなかったようです。井戸を掘っても塩辛く飲料水には不向きであったため、住民は水売りから水を買うのが当たり前だったようです。
しかし、都市の発展とともに人口も増加する一方で、水売りだけの供給では事足りず、質の悪い井戸水や川の水を利用し始めたことから、当時の木製の水道設備では衛生面などで十分な機能は果たせなかったことにより、横浜の水問題は深刻化してきたのです。
明治4年、幾人かの商人が共同で水道会社を創設したのですが、原始的なものゆえ会社は軌道に乗らず会社は解散し、その事業は県に引き継がれたのでした。
しかし時既にその当時の横浜の人口はすでに7万人を越えていたことから、抜本的な水供給が早急に必要となったのです。
そこで神奈川県では1883(明治16)年に“お雇い外国人”を雇い水道工事を任せました。それがイギリス人のヘンリー・スペンサー・パーマー工兵少将という人だったのです。
パーマーは日本に来る前には中国の広東で水道工事を成功させたことから白羽の矢が立ったようで、依頼を受けたパーマーはまず調査を開始し、水源を相模川支流の道志川と決定しました。そしてこの水源地から横浜市内の鶴ケ峰を通り、野毛山配水池に至る30マイルに及ぶ水道工事を1885年に開始し、1887(明治20)年に洋式水道は完成し横浜は水の悩みから解放されたのです。
これが近代水道の発祥といわれ、パーマーの功績を称えて現在の野毛山公園敷地内にパーマー像が立っているのだそうです。

次がガスです。
横浜市では1869(明治2)年頃から、ドイツ人が経営する商社がガス灯の建設を神奈川県に出願され、その利権が外国人に独占されないようにとの配慮から、神奈川県と外務省は1870(明治3)年、横浜の実業家、高島嘉右衛門にガス灯建設の協力を仰いだのでした。
この高島嘉右衛門なる人物は、 1832年、江戸の三十堀間町(現・東京都中央区銀座)に生まれました。かなり記憶力が良く、14歳の頃から父の営む材木関係の事業に従事していたようです。
その後、紆余曲折を経て横浜で材木商を始め、イギリス公使のハリー・パークスから公使館建築を請け負ったことをきっかけとして、多くの外国人から建築依頼を受けるようになりました。
また、1867(慶応3)年、当時横浜には政府高官や外国人を受け入れる旅館が無かったことから、尾上町に大旅館「高島屋」(百貨店とは何の関係もない)を建設し、政府高官などとの人脈つくりに活かしたようです。
そして、1870(明治3)年、伊藤博文と大隈重信に京浜間鉄道敷設の必要性を説明したところ、後に大隈より事業参加の打診があり、線路短縮のために横浜港埋め立て(現在の西区野毛町~神奈川区青木町)を実施したのでした。ちなみに現在の横浜市西区高島町の町名は、この高島嘉右衛門の偉業を記念して名づけられたものです。

その後、1871(明治4)年には語学中心の藍謝堂(通称「高島学校」)を創設したりして横浜の発展に寄与したようです。
そのような時にガス灯建設の要請が舞い込んだのでした。
そこで高島嘉右衛門は、1870(明治3)年、横浜の花咲町に「日本ガス社中」を設立し、上海でガス灯建設を行っていたフランス人技師アンリ・プレグランを招聘して横浜でのガス事業を始めたのでした。
先にもあったとおりガス灯の柱部はイギリスのグラスゴーから輸入されたのですが、灯具は日本人職人によって製造され、このための工場が伊勢山下石炭蔵前に建設されたのです。
そして、1872(明治5)年9月、神奈川県庁付近および大江橋から馬車道・本町通りまでの間にガス灯十数基が点灯されたのです。これが日本でのガス事業の発祥となったのです。
その後、このガス工場は1875(明治8)年に町内会に譲渡され「横浜市瓦斯局」となり、現在は「東京ガス」になっているのです。

そして最後が電気です。
電気に関しては日本での発祥の地ではありませんが、1882(明治15)年に東京・銀座に灯された日本初の電灯(アーク灯)に遅れること8年後の1890年には横浜でも横浜共同電灯が営業を開始していたそうです。
当時は現在の中区常磐町に火力発電所が建設されたそうで、現在この地に変電所の建物が残っており、その一角に神奈川県電気発祥の地碑がたてられているそうです。

このようにライフラインを中心とした展示により、横浜の発展が手に取るように理解できる展示館なのです。
ちなみに街の発展に欠かせない道路についても、先の日本大通で知った「マカダム舗装」の輪切りならぬ、断面なども展示されており非常に興味深く見ることができました。
最後のコーナー展の「クルマのある風景」は流石に港、横浜らしい風景を垣間見ることができますが、基本的には現在上映中の昭和30年代の横浜を舞台としたジブリ作品の「コクリコ坂」とのジョイント企画ともいえるものでしょう。

最後に館内を一回りしたところ、旧横浜市外電話局の「旧第一玄関」がありました。
旧第一玄関

最初に外側からにたあの開かずのエントランスの内側になります。

旧第一玄関
この建物は、1929(昭和4)年に横浜中央電話局の局舎として建てられた歴史的建造物です。局舎の設計を担当したのは、横浜出身の若手建築家中山広吉で、外壁全面にタイルを貼ったモダンなデザインは、昭和戦前期の逓信建築(郵便局・電信電話局など)の大きな特徴でした。
竣工当時は、大桟橋通りに面したこの場所がメインの玄関でした。大桟橋通りから入って右手に加入課事務室(現・事務室)があり、ここで電話加入者の受付けを行っていました。
建物は展示施設として大幅に手を加えられましたが、この旧第一玄関だけは、改修前の雰囲気をそのまま残しています。
(現地案内板説明文より)

当時の建物の写真が掲出されていますが、外面は確かに当時のままのようです。当時としては電話そのものの効用が理解されていなかった時代だったはずなので、昭和30年代前半くらいまでは加入者はそれ程多くなかったのではないかと推測します。
子供のころの30年代後半でも電話のない家庭は多かった記憶がありますから。

煌びやかな横浜では返って地味な印象の「横浜都市発展記念館」ですが、横浜の歴史を知るには充分な展示があり、特に横浜始めて物語的なトリビアを知ることができました。

大桟橋通り

「横浜都市発展記念館」をでて大桟橋通りを大桟橋に向って進むと、大桟橋入口交差点の角に「電話交換創始之地」碑があります。
大さん橋通り 「電話交換創始之地」碑

電話交換創始の地
明治23年(1890年)12月16日、この地にあった横浜電話交換局において、横浜と東京間及び市内にわが国で始めて電話交換業務が開始されました。
平成4年4月1日 日本電信電話株式会社
(現地案内板説明文より)

私たちオッサンでも、電話交換のあったことは知りながらも、実際の業務やその当時に電話を使用したことがない(電話を使う頃には自動になっていた)ので、実態を良く知りません。従って更に若い人たちは電話交換があったことすら知らない人が多いのではないでしょうか。
電話交換手 ここで当時の電話の掛け方を再現します。

1.受話器を手に取る(この頃の電話は受話器と送話器は一体化していなかった)
2.呼び出しハンドルを回す(これを行なうと局舎のベルが鳴る)
3.電話交換手が応答したら通話先を伝える
4.電話交換手は、通話先が同一局の場合はそのまま配線を繋ぎ変え、通話先が別の局の場合は、まず通話元の配線を隣の局の配線に繋ぎ、電話交換手は繋いだ局に電話をし、その先の作業を依頼する
5.相手と話す

こういった儀式を行わなければならなかったようです。したがって遠距離通話の場合は繋ぎ変えに時間が掛るため長時間待たされることもあったそうです。
現在のスマートフォン時代とは、比べようも無いくらいのシステムです。
この碑の前の建物の壁には何やらのモニュメントがあります。
「電話交換創始之地」碑モニュメント?

この碑と関係があるのか無いのかは不明ですが、電信をあらわしているような気もしないこともないのですが・・・。

更に先に進むと左手に教会があります。
横浜海岸教会

神社仏閣も良いのですが、こういった白いチャペルがある街だから横浜は女性に人気があるのだろうな、などと考えながら通り過ぎたのですが、後で調べるとここも歴史的な教会だったそうで「横浜海岸教会」というそうです。

開港する以前の横浜村は当然ながらキリスト教禁教令が出されていたため教会は一つもありませんでした。
しかし、開港してからは各国の宣教師達がたくさん布教にやって来ました。横浜の最初の教会堂は、パリの外国宣教会だったジラール神父により1862(文久2)年に建てられたカトリックの天主堂だったようです。
一方、プロテスタント教会では、その1年前の1861年にJ.H.バラ夫妻が神奈川に渡来し、まず横浜で英語私塾を開き、同時にキリスト教の開拓的伝道のための準備を始め、1868(明治元)年5月には現在の横浜海岸教会が所在する場所に、石造りの小会堂が建設されたそうです。この時の英語私塾に通っていたのが「ジャックの塔」で知った岡倉天心です。
そして、1872(明治5)年にはこの会堂で日本人初の現プロテスタント教会である日本基督公会が設立されたのです。実にこの時期はキリスト教禁教令が解ける1年前の出来事だったのですが、既に幕末から明治維新の激動の時代ですから禁教令などは殆ど形骸化されていたのでしょう。
その3年後に大教会堂が建設され、横浜海岸教会と改称されたのだそうです。
現在、この教会内に「発祥の地」碑をはじめとした歴史的遺産が残されていて、更に関東大震災で壊滅した教会堂は1933(昭和8)年に再建されたもので、横浜市の歴史的建造物の認定を受けているそうです。

参考:【横浜海岸教会オフィシャルサイト】http://www.kaiganchurch.or.jp/index.html

こちらでその歴史的遺産などの写真を見ることができます。
何気ないオシャレな建物としか思わなかった教会も、トンでもな歴史を持っていたのですね。
更に侮れなくなりました、横浜。

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