大桟橋通り #2

横浜海岸教会のすぐ先の左側に広場があります。
ちょっとこじゃれた池のある広場で「横浜開港広場」というそうです。
開港広場 池

横浜開港広場

ちょうど広場の中央には噴水があり、石畳で敷き詰められたちょっとオシャレな広場です。
開港広場

横浜開港広場
大さん橋附近は日本の開港の地であり、横浜の都心地区として発展した現在も、外国船の入港など横浜の玄関として市民に親しまれております。
ここに「港町・ヨコハマ」の歴史や国際性のシンボルとして広場をつくり、横浜開港(1859年)にちなんで「開港広場」と名づけました。開港広場は、山下公園や大さん橋とともに訪れる人々の憩いの場となり、将来はみなとみらい21地区など新しい都心地区との接点となるものです。

1. 開港の泉(円形池と噴水) 
この広場の中心に海を表現した池と噴水が設置されています。このような池と噴水は、ヨーロッパの都市広場にも見られる浅床式の池と樹氷形の噴水です。
水面は、潮の干満を表わし、最大直径6メートルまで広がり、また噴水の高さは約2.0メートルまで噴き上がります。池の底には、ペリー来航当時のアメリカの軍艦に多く使用されていた羅針盤を型どった鋳鉄板が敷かれています。
2.石の舗装 
噴水囲りの路面は金峰石と白大理石の小鋪石を使い、波模様をデザインしたもので、海と横浜との関係を表現しています。
3.サークルミラー 
噴水の周囲に12基設置してあるステンレス柱で、表面が鏡面状にみがかれています。このため、周辺の風景や空が映り、独特の空間を形成しています。また夜間サークルミラーの足もとから放たれる光は、噴水を照らします。(サークルミラーの大きさは、高さ2.4メートル、巾1メートル、奥行0.4メートル)
4.友好・姉妹都市の市章と姉妹港のシンボルマークのプレート 
横浜市との姉妹都市・友好都市・横浜港との姉妹港の市章とシンボルマークを真鍮製の鋳物板に型どり、噴水の周囲に配置してあります。各プレートの位置は、噴水の中心を横浜として横浜からの方位と距離(約280万分の1)を表わしています。
5.街路灯 
ガス灯は、明治5年、横浜で点灯され、日本で最初といわれていますが、開港広場周辺の街路灯は、米国型のガス灯をモチーフにして製作したものです。灯具の笠は銅製、柱上部にはアームが取り付けられていて、催し物や祭典の際には、旗(バンナー)を取り付け、華やかさを演出するデザインとなっています。
6.レンガ造マンホール(人孔)と卵形管 
明治14年~20年(1881~1887)ごろ館内居留地(現在の中央山下町と日本大通の一部)の一帯に整備されたレンガ造の下水道マンホール(人孔)と卵形の断面をした下水管です。この広場公園の工事中に発掘されたもので、わが国の近代的下水道施設として歴史的価値が高く評価されており、現形のまま保存したものです。
7.「日米和親条約締結の地」碑 
日本の開国を告げる「日米和親条約」が調印されたのは安政元年(1854)3月3日のことです。その調印の地は、この開港広場から神奈川県庁にかけての一帯で、横浜開港資料館中庭の「玉楠の木」附近ともいわれています。昭和29年(1954)6月2日の開国百年際に、これを記念し横浜市と神奈川県と横浜商工会議所の三者によって「日米和親条約締結の地」碑が建てられました。

歴史的資産と広場 
広場周辺には横浜開港資料館(旧英国領事館)や海岸教会、税関、県庁旧館があり、広場のデザインは、こうした歴史的建設物との調和をはかり、照明やストリートファニチャーには、大さん橋からの軸線を配慮しています。また開港広場前交差点の改修と大さん橋入口プロムナード道路の整備を合わせて行なっています。
横浜市中土木事務所2005
(現地案内板説明文より)

ということで、ここでも何気ない広場が歴史満載の地のようです。
手前にある噴水と最初に見た池が合わさって「開港の泉」でです。
開港広場噴水

その周りに白色で描かれた波模様の「石の舗装」があり、その後に「サークルミラー」、そしてその両サイドに「街路灯」を見ることができます。
開港広場「石の舗装」「サークルミラー」「街路灯」

広場の向こうに見える教会が先ほどの横浜海岸教会です。

「石の舗装」の各所には「シンボルマークのプレート」がはめ込まれています。
シンボルマークのプレート

横浜市との姉妹都市は、サンディエゴ(アメリカ合衆国)、リヨン(フランス共和国)、ムンバイ(インド)、オデッサ(ウクライナ)、バンクーバー(カナダ)、マニラ(フィリピン共和国)、コンスタンツァ(ルーマニア)の7都市、友好都市は上海市(中華人民共和国)の1都市、そして姉妹港はオークランド港(アメリカ合衆国)、バンクーバー港(カナダ) 、ハンブルク港(ドイツ)の3港です。

噴水の横にあるのが「レンガ造マンホール(人孔)と卵形管」です。
レンガ造マンホール(人孔)と卵形管

これについては更に詳しい説明があります。

明治10年代に築造されたレンガ造りマンホールと下水管(国登録有形文化財)
明治14年から20年にかけて、旧関内外国人居留地(現在の山下町と日本大通りの一部)一帯で下水道改造工事が実施され、卵形レンガ管と陶管の下水道が整備されました。
その下水幹線7本とマンホール37ヶ所はレンガ造りで、材料のレンガは、東京府小菅の東京集監のレンガ工場に注文して築造されたものです。設計者は東京大学理学部第1回卒業生、当時神奈川県土木課御用掛の三田善太郎氏で、これは日本人が設計したわが国最初の近代下水道と言えるでしょう。
このマンホールは明治15年頃築造されたもので、昭和57年4月にこの公園の整備中に発見され、当時のままの状態で保存されています。平成10年9月に下水道施設ではわが国初めての国登録有形文化材に登録されました。
横浜市下水道局 平成10年9月
(現地案内板説明文より)

折角残されたものですが、殆ど中が良く見えません。
で、結局は案内板の写真を見ることになるわけです。
レンガ造マンホール(人孔)と卵形管 写真 《写真:(C)横浜市下水道局》

意味があるのか無いのか良く判らない遺構ですが、それはそれで常に綺麗な状態に保つのは難しいことですから、保存されているだけでも良しとしておくべきでしょうね。

そしてこの石碑があの有名な「日米和親条約締結の地」を示した石碑です。
日米和親条約締結の地 日米和親条約締結の地

この当時、本来のアメリカ側の本来の目的は、日本との貿易の自由化を求めることにあった訳ですが、日本側の強い拒絶にあったためこの時は通商は断念したわけで、それが実現するのは1858(安政5)年の日米修好通商条約締結により、開港するまで待たなければならなかったのです。
このような一連の流れの中で、当時の幕府は交渉場所として鎌倉や久里浜を上げていたのですが、ペリーが拒否したために日米交渉が安易に進まなかったという一因もあるようです。
ペリーが交渉場所として望んでいた条件とは、1.江戸から近いこと、2.沖合に艦隊を整列させてアメリカの軍事力を見せつける事ができること、3.交渉場所に艦隊から砲弾が届くこと、4.汽車の模型や伝信機などを展覧する広い場所があること、が挙げられ、その条件に見合う場所が横浜村だったことから、後世、横浜が日本の歴史に永くその名前を刻むこととなったのです。
そして江戸幕府は、現在の「横浜開港資料館」付近に応接所を設けて約1ヶ月間の協議を経て全12条からなる日米和親条約を締結したのです。
安政元年(1854)3月3日がある意味、日本の夜明けであったとともに、現在の横浜の原点でもあったのです。

更にこの広場にはほかにも歴史的なものが置かれています。
旧居留地90番地の大砲 これは旧居留地にあった大砲です。

旧居留地90番地の大砲  口径11.5cm、全長282.5cm、重量1480kg
外国人居留地90番地(現山下町90番地)に、生糸の輸出と時計の輸入に従事していたスイスの商社、シーベル・ブレンワルト商会(慶応元(1865)年創立)があり、明治維新の際の戊辰戦争中は武器の輸入も行っていました。昭和34年、同社跡地で建物の基礎工事中に大砲が見つかり、掘り出され、展示されておりましたが、平成15(2003)年、横浜市に寄贈されました。
この大砲は、鋳鉄製の11ポンドカノン砲で、オランダ東印度会社のエンクリイゼン商館所属船の備砲です。使わなくなった大砲を錨に作り変え、横浜に出入りする船に売買するために持っていたものが、大正12年(1923)の関東大震災の時に、地中に埋まってしまったものではないかと推察されます。
明治43年(1910)に出版された書籍に、同社の「倉庫の入り口に、明治初年に武器を扱っていた記念として大砲が備え付けられていた」という記載があります。
明治初期の外国人居留地の外国商館と、取扱商品並びに輸入先が判る遺品として、貴重な資料です。
平成15年12月 横浜市教育委員会
(現地案内板説明文より)

戊辰戦争中は武器を、そして平和時にはその武器を再利用して商売に結びつけるという、ビジネスモデルの先端とも言うべきところでしょうが、結局は死の商人ってことですから複雑です。

その隣には「時計塔」があります。
時計塔

時計塔について
この時計塔は、右図のポールをデザインしたものです。1891年(明治24年)頃、このポールは大桟橋付近に設置されており、暴風雨の際に旗を掲げて港近くの船に信号を送っていたものです。
1991年5月 寄贈:住みよい中区をつくる会
(現地案内板説明文より)

反射してその図は判りにくいのですが、こちらです
時計塔 《写真:(C)住みよい中区をつくる会》

そしてこれらの手前にある樹木が2004年に「日米交流150周年記念植樹」されたものだそうです。
日米交流150周年記念植樹

開港にまつわる数々の歴史が保存されている「開港広場」でした。

横浜開港資料館

開港広場の隣にあるのが「横浜開港資料館」です。
流石に立派な資料館で、開港に関するランドマークと言っても過言ではないかもしれません。
横浜開港資料館 横浜開港資料館

それは何よりも中庭にあるこの樹木がその証だからです。
玉楠の木

玉楠の木
中庭にある玉楠の木は、江戸時代から同地にあり、日米和親条約の締結(安政元年、1854)は、この玉楠の木の近くで行われたといわれている。この玉楠の木は、大正12年の関東大震災によって幹の部分を焼失したが、残った根から新たに芽が出て現在のものとなった。いわば横浜の歴史をみつめた生き証人ともいえる。
(現地案内板説明文より)

これが“ペリー提督横浜上陸”の絵です。
この右側の大木が玉楠の木で、ちょうど現在ですとこのようなアングルになるでしょう。
ペリー提督横浜上陸 玉楠の木

樹齢や大きさではこの木をはるかに凌ぐ古木・巨木は数々あるのですが、日本の歴史定光景を目の当たりにした樹木は、全国でもそれ程多くないでしょう。それだけ貴重な樹木といえるわけです。

早速「横浜開港資料館」に入館します。
チケット 入館料は200円です。

こちらもここからは写真撮影がNGですのでポイントだけです。
やはりペリーに関する史料は多く、様々な文献等に描かれたペリーの肖像画などは千差万別で非常に面白いものがあります。
また黒船と呼ばれた「サウケハナ号」や「ポーハタン号」の模型などもあり立体的な展示です。
更にもう一つの展示室では、横浜の文化などが紹介されており、横浜ものの始めなどを知ることができるようになっています。

常設展を終えるとその先の企画展では「横浜ノスタルジア」と題された広瀬始親写真展が開催されています。
横浜ノスタルジア

これについては横浜開港資料館の館報に概要が掲載されています。

広瀬始親写真展「横浜ノスタルジア」特別篇  昭和30年頃の街角
昭和30年頃の横浜は、戦後復興から高度経済成長へと移り行く過渡期にありました。今年95歳になる広瀬始親氏は、新時代への胎動の最中にある横浜を、モノクロのフィルムに記録しました。
昭和20年5月の大空襲で焼け野原となった市中心部は、戦後は日本占領の拠点となります。中区は区域の約35%が接収され、伊勢佐木町のデパートは占領軍の購買部などとなり、その裏側にはかまぼこ兵舎や飛行場が造られました。
昭和28年4月にサンフランシスコ講和条約が発効しますが、接収が続いた横浜の復興は遅れます。関内には空き地が広がって、「関内牧場」と椰捺され、山下公園の半分には米軍住宅が残るなど、昭和30年頃の横浜は、戦争の影をひきずっていました。一方、野毛や横浜橋の商店街は活気に満ち、開国百年祭や開港百年祭では復興へむけての市民のエネルギーが結集されていきます。また、本牧や根岸には海苔の養殖や潮干狩りができる豊かな海が広がっていました。光と影に満ちた時代の横浜。広瀬氏はその姿を見事に切り取りました。外国航路の船で賑わう大桟橋、それぞれ異なる表情を見せる、山手・元町・中華街・伊勢佐木町、生活感あふれる横浜橋や藤棚の商店街、広い土地を接収された本牧の新旧の姿、失われて行く海辺と川の姿などです。
2007年2月、横浜開港資料館は、横浜都市発展記念館との共催で「広瀬始親写真展 横浜ノスタルジア」を開きました。今は失われた風景と表情豊かに生きる人びとの姿をとらえた写真は、世代を越えてノスタルジーの念を呼びさまし、好評を博しました。今回は初公開写真を多数加えて「特別篇」として構成し、当時の関連資料をまじえながら、半世紀前の街と人びとを見つめます。
この時代を生きた方もそうでない方も、それぞれの昭和30年頃を感じ取っていただければ幸いです。
末尾となりましたが、貴重な資料を当館にご寄贈いただいた広瀬始親氏に、改めて感謝申し上げます。
(伊藤泉美)
(横浜開港資料館館報より)

展示されている写真は凡そ140点ほどだそうで、昭和30年ころのまだ戦争の影が消えかかる時代の写真です。
負と遺産の中での活力といった生活観を味わえる、文字通りノスタルジーの世界です。
特に映画「コクリコ坂から」の背景画の場所の写真などの貴重な写真も展示されていました。
神中坂の夏 《写真:「神中坂の夏」(C)広瀬始親》

先に訪れた「横浜都市発展記念館」の“クルマのある風景”との共催であり、「横浜都市発展記念館」で渡された引換券を思い出しました。
展示を見終わってから、その引換券で広瀬氏の写真の絵葉書をいただきました。
2館廻るといただけるのだそうです。
ベトナム号より市街を望む ベトナム号より市街を望む 《写真:「ベトナム号より市街を望む」(C)広瀬始親》

恐らく大桟橋に停泊していた“ベトナム号”という貨物船であろう船上から撮影したものでしょうが、桟橋に置かれている車は恐らくアメリカからの輸入車でしょう。
そして先には何と「キング」「クイーン」「ジャック」の三塔が見えています。
現在のように他に高層のビルはない頃ですが、それでもやっと三塔が一緒に見える程度ですから、現在、見えるビュースポットは確かに奇跡的なのかもしれません。
今回の散策に合った非常に貴重な絵葉書をいただきました。

旧英国総領事館

「横浜開港資料館」の展示を見てから、先の玉楠の木の奥にある「旧英国総領事館」の建物に向います。
現在、奥の建物は旧館と言われていて、かつてはイギリス領事館として使用されていました。
横浜開港資料館 旧英国総領事館 旧英国総領事館

関東大震災以前この地にはレンガ造りのイギリス領事館があり、被災して壊滅し震災で犠牲となった外国人の仮墓地となったこともあったそうです。
昭和6年に英国工務省の設計で再建されましたが、昭和47年東京の総領事館に統廃合され、建物は昭和54年に横浜市が買い取り、55年に「横浜開港資料館」として活用されているのです。
2000(平成12)年、横浜市指定文化財に指定され、2007(平成19)年、経済産業省の「近代化産業遺産」に指定されたそうです。

旧館の前には水道栓のようなものが残されています。
獅子頭共用栓とブラフ溝

獅子頭共用栓とブラフ溝
この共用栓は、日本最初の近代水道となった横浜水道(明治18~20年)創設時市内各所に配置されていたものである。当時家屋内に蛇口を引く例は少なく、路頭の共用栓から水の供給を受けるのが一般的で、創設期600基がイギリス・グレンフィールド社から輸入された。
また、水受石は、山手の坂道など居留地時代の道路側溝に使用されていた石材を再利用した。
昭和62年7月 横浜開港資料館
(現地案内板説明文より)

共同井戸の進化したものと考えればよさそうです。
まだまだ隣近所のコミュニケーションの場として活用されていたころの頃でしょう。

建物の中に入ると、正面が記念ホールだそうで、領事館の頃は待合室として使用されていたそうです。
旧英国総領事館 待合室

そしてホールの壁面にはこのようなプレートが掲げられています。
関東大震災の犠牲者銘板

関東大震災の犠牲者銘板
この銘板は、大正12年(1923)9月1日の関東大震災において、横浜のイギリス総領事館建物(地震で倒壊)で死亡したイギリス人犠牲者4名を記念して造られたものである(作者年代不明)
(現地キャプションより)

先に歴史にもあった外国人の仮墓地として葬られた人たちだったのかもしれません。

更に廊下には「薩英戦争記念銘板」が掲げられています。
薩英戦争記念銘板

薩英戦争記念銘板
この銘板は、1863年(文久3)8月16日に鹿児島で起きた薩英戦争で犠牲になったイギリス将兵を記念して、横浜在住のイギリス人が作り、この建物に備え付けられたものである(年代不明)。
薩英戦争は、1862年(文久2)8月21日に生麦村(現横浜市鶴見区)で起きた薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件(いわゆる生麦事件)の賠償金をめぐって、薩摩藩とイギリス人が戦った戦争であり、横浜と関係が深いため作られたものと思われる。
(現地キャプションより)

生麦事件とは、当時の武蔵国橘樹郡生麦村で、薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷した事件です。その賠償問題で起きた薩英戦争ですが戦争とは言いながらも、これを一つの機会として、この後薩摩とイギリスが急接近するのですから、ある意味歴史の面白さが窺える戦争だったのです。
ちょっと違った角度から横浜を眺められた資料館でした。

参考資料

広瀬始親写真集 横浜ノスタルジア 昭和30年頃の街角

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