赤レンガパーク

「クイーンの塔」を出て再び象の鼻パークに戻ります。
象の鼻パークの最後は「開港の丘」です。

「開港の丘」とは、芝生が広がる緑の広場で、段々畑のようになっていて横浜港を一望できるようになっています。
開港の丘 開港の丘

一列に並んでいる石は、かつての護岸で使用されていた歴史的な石だそうで、ベンチ代わりに座ってもいいようです。
また丘の左手には「象の鼻テラス」という多目的レストハウスがあり、現代アートなどが展示される多目的スペースと象の鼻カフェ、トイレなどがあるそうです。

丘の一番上には、「横浜開港150周年記念碑」が設置されています。
横浜開港150周年記念碑

この記念碑は、2009年の横浜開港150周年の記念の年に「開国博Y150」を実施した証として企画され、市民、企業、団体から寄せられた協賛金4,111,000円を基に設置され、公募した508通のタイムカプセルが収納されているそうです。
開港200周年時に開封されるそうですが、横浜もどのような変貌を遂げているのでしょうか。

赤レンガ倉庫

ここからは最後の三塔ビューポイントがある「赤レンガ倉庫」に向かいます。
「象の鼻」を抜けて歩道を歩くと「新港橋梁」を通り抜けますが、ここからも象の鼻、大さん橋、更にベイブリッジまでも見ることができます。
新港橋梁 新港橋梁

この橋梁は1912(大正元)年、国産トラス橋として、イギリス式トラス橋を模して大蔵省臨時建築部が設計し浦賀船渠で施工されたものだそうです。
橋梁に残されたレールが物語っているように、ここは元々「山下埠頭線」の線路だったのです。
昭和30年代、山下埠頭が造成されるに伴い、既に新港埠頭の横浜港駅まで敷かれていた高島線(横浜臨港線)の線路を山下埠頭まで伸ばして貨物駅を設置し貨物輸送を行う計画が持ちあり、山下公園の景観確保のために高架建設となり、1965年に完成しました。
しかし、開通後の本牧埠頭および大黒埠頭の造成で山下埠頭の重要度が低下と共に、自動車輸送へのシフトにより1986年に廃止されました。
その後、紆余曲折を経て山下公園内の高架は撤去され、山下公園より西側に残された高架は遊歩道となり、大さん橋への途中や、象の鼻パークを通過している「山下臨港線プロムナード」となったのです。
従って鉄ちゃんにとっては比較的新しい時期の廃線が見られる貴重なエリアでもあるわけです。

新港橋梁を抜けると赤レンガ倉庫が見えます。このあたり一帯は「赤レンガパーク」と呼ばれています。
赤レンガパーク

赤レンガ倉庫
赤レンガ倉庫は、東洋で初めて築造された近代ふ頭である「新港ふ頭」に、輸出入される貨物を税関が管理する倉庫として、国(大蔵省)によって建設されたもので、耐震・耐火構造を採用した当時最新鋭の倉庫でした。
創建時から戦前までは横浜税関が管理し、葉煙草、羊毛、光学機器などの輸入品を取扱っていましたが、戦時中は陸海軍の輸送司令部が管理し、戦後は米軍の港湾司令部として使用されました。米軍の接収解除後は、1号倉庫を横浜税関が、2号倉庫を横浜市が、それぞれ管理していました。
しかし、海上貨物のコンテナ化とともに次第に取扱量が減少し、平成元年に倉庫としての用途が廃止されました。
横浜市では、この赤レンガ倉庫を、貴重な歴史的建造物として保存し、「港の賑わいと文化を創造する空間」として活用するため、平成4年に国から取得し、保存・活用工事を進め、平成14年4月に商業・文化施設としてオープンしました。
(現地案内板説明文より)

今や横浜のランドマークの1つとして全国的に有名な赤レンガ倉庫なので、特に説明の必要もないでしょうが、簡単に概要だけ記しておきます。
近代的な港湾の整備が急務となっていた横浜市は、明治22年頃より大さん橋や東西波止場などの整備を進めました。そして明治32年頃からは第2期築港工事が行われ、係船岸壁を有する埠頭の建設や陸上施設の整備などが行われました。
赤レンガ倉庫はこの工事の際、国営保税倉庫として建設されたもので、馬車道にある横浜正金銀行本店(現 神奈川県立横浜歴史博物館)を建設した大蔵省臨時建築部の設計により、明治44年に2号倉庫が竣工し、続いて大正2年に1号倉庫が竣工されたのです。
長約150メートル、背面に鉄骨造ベランダを持ち、日本初のエレベーターや避雷針、消火栓を備える赤レンガ倉庫は、国営保税倉庫建築の模範となるとともに、組積造技術の最高段階を示す建築とされました。レンガとレンガの間に鉄を入れる「碇聯鉄構法」が施されていたことで、1923年(大正12年)に発生した関東大震災でも、被害は1号倉庫の約30%損壊にとどまったそうです。
ちなみにこの構法は、横浜市開港記念会館でも使われていたものです。

こうして赤レンガ倉庫は、建設当初から昭和18年までは税関施設として横浜税関が管理し、戦後は米軍に接収され、昭和31年まで港湾司令部として使用されていたようです。

接収解除後は、貿易の急増によって入港船舶トン数、取扱貨物量など、すべての数値が戦前の記録を更新したのですが、貨物のコンテナ化が進展して他の埠頭に主役が移り、1975(昭和50)年頃には取扱貨物量が激減、それ以降は、アクションドラマや映画のロケ地として頻繁に利用されるようになり、特に1986(昭和61)年から翌年にかけて放送されたテレビドラマ「あぶない刑事」のエンディングで、赤レンガ倉庫がロケ地とされた事により注目を浴び倉庫への落書きなども横行したそうです。そして1989(平成元)年には、倉庫としての役割も終え、その後しばらく放置されたのでした。
その後、1992(平成4)年、横浜みなとみらい21の整備に伴ってウォーターフロントの再開発計画が進められ、横浜市は赤レンガ倉庫を国から取得し周辺地域と一体的に整備を始めました。横浜市は、5年以上かけて倉庫を修復し、保存活用するための工事を進める一方、関東大震災で倒壊したため埋められていた横浜税関事務所の遺構や旧・横浜港駅のプラットホームなども発掘・復元し、山下公園まで続く山下臨港線プロムナードも整備しました。
こうして、2002(平成14)年4月12日、赤レンガ倉庫を中心とした付近一帯は、展示スペース、ホール、広場、店舗からなる商業施設「赤レンガパーク」としてオープンしたのです。
赤レンガ倉庫1号館は主に文化施設として、公益財団法人横浜市芸術文化振興財団が運営し、赤レンガ倉庫2号館は商業施設で、株式会社横浜赤レンガが運営しているのだそうです。

この横浜赤レンガ倉庫に代表される煉瓦造りの建物は、明治時代以降新たに興った産業や鉄道、そして軍などの施設として造られたことから、それ自身が歴史の証人であり、耐震性の問題等から現在では造られないため、独特のノスタルジーをかもし出し、地域のシンボル的存在になっているものも多いようです。
そこでここでは、全国の煉瓦倉庫を追ってみました。

●北海道小樽市:石造倉庫群
大正12年に完成した港湾施設である小樽運河には、港内に停泊した本船からの荷物のための石造倉庫群が軒を連ねていました。戦後その使命は終了し、昭和61年以降、一部の埋め立てなどにより散策路や街園が整備され、石造倉庫群は博物館、レストランなどに再利用されています。
●北海道函館市:金森赤レンガ倉庫
1869(明治2)年、大分県出身の実業家、渡邉熊四郎が初代となり明治時代に創設した「金森洋物店」が赤レンガ倉庫の起源で、1887年頃から営業倉庫業を始めたのが、営業赤レンガ倉庫の最初だったそうです。
その後、事業も拡大したのですが、昭和の後期になると倉庫業も縮小傾向となる一方、歴史的建造物として注目を浴びるようになったことから「函館ヒストリープラザ」等の様々な業態の店舗に生まれ変わったのです。
●石川県金沢市:金澤陸軍兵器支廠・兵器庫3棟
1913(大正2)年、建設された旧金澤陸軍兵器支廠の兵器庫三棟は、いずれも煉瓦造り、二階建て、シンメトリーを基本とした意匠の建造物で、90メートルの長さは壮観の一言だそうです。1990年に重要文化財に指定され、現在は石川県立博物館として使用されています。
●京都府舞鶴市:旧海軍倉庫
1901(明治34)年から大正期にかけて、旧日本海軍によって建てられた赤煉瓦造りの建築物で、現存するする倉庫群は12棟あり、「舞鶴赤レンガ倉庫群」として国の重要文化財および近代化産業遺産に指定されています。
現在、1903(明治36)年に建てられた旧舞鶴海軍兵器廠魚形水雷庫が「赤れんが博物館」として活用され、旧予備艦兵器庫も「舞鶴市政記念館」として活用されています。それ以外の3棟は舞鶴倉庫株式会社が、7棟は海上自衛隊・舞鶴総監部などがそれぞれ倉庫として使用しているそうです。
●兵庫県神戸市:日本貿易倉庫
3棟のレンガ倉庫は1898(明治31)年に日本貿易倉庫が建設したものといわれているもので、 ハーバーランド事業でこれらは商業利用され、ハーバーランド完成(1992年)に合わせてレストラン街となり、「煉瓦倉庫レストラン街」として港の雰囲気を盛り上げているそうです。
●兵庫県姫路市:旧陸軍第10師団、兵器庫・被服庫
1905年頃から1913年にかけて大日本帝国陸軍姫路第十師団の兵器庫・被服庫として建設された倉庫で、後に姫路市役所として利用されていた部分を再生利用し、現在は「姫路市立美術館」として活用されており、2003年には国の登録有形文化財に登録されました。
●香川県高松市:北浜JA倉庫
高松港を経由する貨物の一時保管場所として昭和初期に建設され、本四架橋の開通によりその役割を終えた古い倉庫群を再生開発された施設で、現在は「北浜alley」という200年にオープンした高松港ウォーターフロントの複合商業施設です。

以上が、倉庫以外の再利用として比較的著名な例です。
小さいものまで含めれば再利用されている赤レンガ倉庫はもっと多いでしょう。
いずれにしても希少価値のある西欧様式の遺産だからこそ、現在の若い人たちに受けるのかもしれません。ある意味においては“温故知新”を実践したといえるのかもしれません。

先ずは三塔ビュースポットに向います。
ビュースポットは海を挟んで「象の鼻防波堤」の目と鼻の先で、このようなプレートがはめ込まれています。
ビュースポットマーク

横浜三塔 横浜三塔 これが最後のスポットですが、ここからの三塔が一番はっきりと見える場所かもしれません。

最後のビュースポットからの三塔を見終わってからは「赤レンガパーク」を散策します。
赤レンガ倉庫を左側に眺めならがパークを北に進むと、駅のホームがあります。
赤レンガ倉庫 旧横浜港駅プラットホーム(旅客昇降場)

旧横浜港駅プラットホーム(旅客昇降場)
「横浜港駅」は、明治44(1911)年、横浜税関構内の荷扱所としてつくられ、大正9(1920)年7月23日、「横浜港駅」となり、東京駅から初の汽船連絡列車が乗りいれました。列車はその後、「岸壁列車」などと呼ばれて親しまれました。
関東大震災の復興期、昭和3(1928)年当時の花形外航ターミナルにそって旧「横浜港駅」の「プラットホーム」が設けられ、華やかな海外航路時代の最盛期をむかえました。
「赤れんがパーク」の休憩所として保存再利用にあたり、傷んでいた上屋は新素材で復元しています。
(現地案内板説明文より)

明治時代から第二次世界大戦前までは、日本から海外へ行くには主に船舶が使われていましたが、そもそも当時は現在のように気軽に海外旅行が出来る時代ではなく、手間、日数、運賃と非常にかかるものであったので、逆に海外に旅行しようという人がいれば、それはそれで一大事とばかりに盛大な見送りも含めて行われていた時代だったのです。
その様な海外への旅行者や見送り客の都市から港までの移動の便を図ったのが汽船連絡列車で、「ポート・トレイン」と言われていました。
その始まりは1912(明治45)年に福井県の敦賀からロシアのウラジオストクまでの航路に接続する形で、航路の運航日に限る東京駅 - 金ヶ崎駅(現・敦賀港駅)間の運行が開始であると言われています。それにしても随分と長い直通運転です。
そしてその次に運行されたのが大正9年の東京-横浜港間だったようで、そのルートは、東京駅から東海道本線を進んで鶴見駅から分岐する貨物線(通称・高島線)を経由し、高島駅からは横浜臨港線で東横浜駅を通過し横浜港駅に到着するというものです。
引き続き案内板には当時のエピソードが掲載されています。

連絡列車のエピソード
●大正9年7月23日 日本郵船「香取丸」の出港に向け、2等115人3等116人を乗せた連絡列車が東京からの乗り入れ第1号。
●戦後、昭和32年8月28日「氷川丸」出港時に再開
●昭和45年10月10,11,18日SL-D51が東京駅・横浜港駅間を走る。また、これが同区間を走る最後のSLとなった。
プラットホームから見た4号岸壁のイベント(昭和3年~)
●昭和3年日本郵船「これあ丸」の出港がプラットホーム利用の第1号
●昭和4年英王室よりグロスター公が「サフォーク号」で来日
●昭和5年高松宮御夫妻「鹿島丸」でヨーロッパに出港
●昭和5年「秩父丸」がサンフランシスコへ処女航海
●昭和34年宝塚歌劇団一行「氷川丸」にてカナダ、アメリカ公演に出港、5000人の見送りで賑わう。
●昭和35年、氷川丸最後の航海に出港(この後氷川丸は横浜港のシンボルとして現在に至る)
東京→横浜港駅の時刻表より
●東京駅発午後1時5分→新橋→品川→午後1時56分横浜港駅プラットホーム着所要時間51分、帰りは3時25分横浜港駅発であった。(昭和3年)
●この列車は外航船出帆日の臨時便で「御乗車ノ際ハ予メ御問合セ下サイ」と追記してあった。
●運賃は東京・横浜港駅間、2等1円60銭 3等53銭  当時はカレーライスが15銭ぐらいである。
(現地案内板説明文より)

プラットホームができる1年前の昭和2(1927)年には、旅客ホームの向かいの上屋には設備の整った船客待合所も竣工し、ますますポート・トレインは活躍し海外との外航時代の最盛期を迎えたのでした。
その図が案内板に掲出されています。
旧横浜港駅プラットホーム(旅客昇降場) 《写真:案内板より》

ここで1つ明確にしておかないと混同してしまうのが「上屋」です。
この図にある「4号上屋」の“上屋”は、「貨物上屋」のことで、鉄道駅や空港、港などに設置され、貨物の荷捌き、積み降ろし、保管などに使用される建物のことなのです。それに対して案内板の説明文にある「上屋」は“荷物上屋”または“旅客上屋”のことです。これはどちらもホーム上にあり、荷物の一時的な積み卸しと保管に使用されるものが“荷物上屋”で、乗降客が雨雪に濡れることを防ぐためのものが“旅客上屋”なのです。
従って現在の再現されたプラットホームはあくまでポート・トレインのためのものですから、“旅客上屋”ということになるでしょう。

しかし、第二次世界大戦が開戦されると欧米への航路はほとんどが運航できなくなり、ボート・トレインも時刻表には時刻が掲載されていたものの、実際には全く運行されなくなったのでした。
戦後は航空機が海外への主流となったためポート・トレインは時刻表には設定されなくなったのですが、例外的に1957(昭和32)年のシアトル航路の氷川丸への連絡で運行されたのですが、1960(昭和35)年の最後の氷川丸連絡を以って運転終了となったのです。
横浜港駅はその後も貨物駅として存続していたのですが、1986(昭和61)年廃止されました。そして現在ではこのようにプラットホームと上屋、およびレールが再現されているのです。

参考:
廃探倶楽部】 -高島貨物線(横浜臨港線・山下埠頭線)- http://haitan.web.fc2.com/haitan008/haitan008-1.htm
むーさん の 鉄道風景】 -横浜港ゆきの列車- http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link163.html

ちなみに横浜港駅と敦賀港駅以外のポート・トレイン駅は、当時の満州国航路の東京-新潟間の新潟港駅、欧州航路に接続する京都-神戸間の神戸港駅、そして中国航路への接続の門司-長崎間の長崎港駅の3駅がありました。

その再現レールに沿って赤レンガ倉庫方面に戻ると、右側に変わった花壇があります。
旧横浜港駅プラットホーム(旅客昇降場) 旧税関事務所遺構(右突堤中央事務所) 旧税関事務所遺構(右突堤中央事務所)

旧税関事務所遺構(右突堤中央事務所)
これは大正3年(1914)5月に建設された税関の事務所遺構です。レンガ造りスレートぶき、3階建のゴシック様式の建物でしたが、大正12年(1923)9月1日、関東大震災により床や屋根が焼失したため、復旧されないまま埋めもどされて荷さばき用地となっていました。「赤れんがパーク整備」のための工事のさいに発見され、現在、花壇として利用しています。
しゅん工時、1階には「硝子張天井」のホールと受付カウンター、2・3階には事務室や応接室、外航船や荷役のための貸事務所がありました。ガス暖房や電気照明も完備されていました。
(現地案内板説明文より)

赤レンガ倉庫の関連の事務処理を行うための事務所ということですが、それにしては随分立派な建物です。
旧税関事務所遺構(右突堤中央事務所) 《写真:案内板より》

当時の横浜税関本庁舎と比べても遜色ないのではないでしょうか。
それにしても花壇といわれれば花壇ですし、遺構と言われれば確かに遺構です。実に上手に利用するものです。

そして最後に「赤レンガ倉庫」を散策して終了です。
赤レンガ倉庫前までも再現レールが埋められています。
赤レンガパーク

左側が2号館で、右側が1号館です。1号館の方が短いのは震災のときに崩れてしまったためで、元々は同じ大きさだったそうです。
赤レンガパーク

そしてその1号館と2号館の間にも線路跡が残されています。このようなところもレトロ感を更にアップさせる演出と同時に、貴重な遺構となるのです。
館内に入ると様々な煌びやかな店舗がギッシリ入店していて、思わず歴史ある赤レンガ倉庫の中ということを忘れてしまいそうです。
そのような中で、建設当時の倉庫内部の防災用鉄扉と、それに付属している水平調整可能鉄扉の吊り下げ滑車等を見つけると、やはり赤レンガ倉庫であることを実感します。
赤レンガ倉庫 赤レンガ倉庫

しばらくは過去と現在が融合する赤レンガ倉庫をもう少し散策してみます。

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