いわき七福神 #1

「いわき七福神」は、先にも述べたように丁度いわきを南北に縦断するようなロケーションです。
どちらかと言えば海岸寄りではあるのですが、それでもいわき市の著名な場所に上手く点在しています。
北から順に並べてみます。

1.弁財天:いわき市久之浜町久之浜 福寿山 龍光寺
2.恵比寿:いわき市久之浜町田之網 医王山 波立寺
3.寿老人:いわき市好間町下好間  龍峯山 長興寺
4.大黒天:いわき市内郷御厩町   白桜山 聖樹院
5.福禄寿:いわき市常磐藤原町   瑞光山 建徳寺
6.毘沙門天:いわき市遠野町深山田 可玉山 妙光寺
7.布袋:いわき市瀬戸町滝ノ沢   尾玉山 龍春寺

北は「久ノ浜・四ツ倉」地区から、南は「勿来」地区までいわき市を満遍なく網羅しているようです。
今回の散策では一番北にある「龍光寺」から詣でます。

弁財天:龍光寺

出発はいわき市湯本で、早朝6:30頃出発しました。
昨日の土曜日から曇りがちで、いつ降りだしてもおかしくない天気でしたが、土曜日は天候は持ったので日曜日の23日も何とか、と思っていたのですが、生憎朝から雨降りです。
たまには雨の中も良いかということで、早速車で出かけます。
高速を使うと被災者証明があるので無料なのですが、距離も短いし何となく気も引けるので国道6号線をひた走ります。
40分ほどで久ノ浜に到着です。6号線沿いには先に「波立寺」があるのですが、ここは一旦素通りして「龍光寺」に向います。
久ノ浜界隈 「龍光寺」は少し高台にあるので、街を一望できるので眺めて見ればいつもと変らない光景なのでしょうが、ここからは窺えない労苦がたくさんあるのでしょう。

「龍光寺」の総門に到着しましたが、まるで江戸時代の陣屋をみるかのような広さと構えを持った寺院のようです。
龍光寺
総門から駐車場沿いに歩くと「楼門」でしょうか、比較的あたらしい門があります。
龍光寺 楼門
なかなか重みのある綺麗な門です。

龍光寺縁起
本寺は臨済宗妙心寺派に属し、山号を福寿山、寺号を龍光寺と称す。御本尊は釈迦牟尼仏、宗祖に達磨大師を祀る。大同元年(西暦806年)徳一大師により小久村堂ヶ崎に建立されたと伝えられる。詳細不明。 
建長7年(西暦1255年)開基
北条時頼公により堂ヶ崎よりこの地に移転される。塔頭として海前庵、常光院、龍喜庵の三ヶ院を有し寿山大和尚を開山として、建長寺派に属す。
慶安2年(西暦1649年)当山25世芳岩和尚代に妙心寺派(転派幕府より御朱印8石7斗を賜り、葵の御紋使用許可下る。
安永2年(西暦1773年)当山33世大振大和尚代に再度本堂を新築、昭和11年(西暦1936年)当山40世太嶺為雄和尚代に改修し現在に至る。
現存伽藍は方丈(本堂)庫裡、楼門、観音堂(御本尊のみ)、弁天堂、境外に不動堂を有する。
以上
臨済宗妙心寺派 福寿山龍光寺
(現地案内板説明文より)

徳一については、様々な機会で取り上げたので、概要だけは掴めました。
会津の恵日寺にその墓所があるとも言われている高僧なので、当然いわき市との縁も深く、いわき市の寺院の多くは徳一が開祖といわれるところが多いのです。
従って徳一の建立した寺院は概ね大同元年から2年の創建となっているようで、押並べて約1200年以上の歴史を持つことになるのです。
そして建長7年、北条時頼により中興開山とあるので、このあたりの縁起はある程度信憑性のあるものではないでしょうか。更に江戸時代では朱印もあることから名刹ともいえます。
龍光寺 本堂 本堂 「楼門」から見える本堂は荘厳さが漂っています。

楼門を抜けた左側に仏像と石碑が並んでいます。
五郎丸の地蔵仏

五郎丸の地蔵仏
千葉ノ介常胤の四男大須賀四郎胤信の系統である大須賀兵部小輔季胤は、大久村田中にあった小松館(通称御城)の初代城主。四世右近太夫の時、鳥居忠政により落城除封され久ノ浜へ下るが、六世五郎丸(次郎左衛門、法名:一如院通玄宗達居士)は、久ノ浜から船戸へ住居を移し、義兄である紀ノ三太夫(全法宗安居士)と共に海外通商に従事した人物である。
紀ノ三太夫は、紀州藩の舟人(紀氏は、和歌山県の古い名族)で、藩の密命により九州長崎沿海の通商貿易に従事していたが、航海途中、嵐に出会い黒潮に流され久ノ浜海岸まで漂流し、当時名主であった五世十蔵(後に勘解由)に救われ、滞留賓客となり、後に入婿となった。不幸にも晩年に海で溺死している。
五郎丸の子、次郎佐(次郎左衛門)が、父の冥福を永久に祈念するため、享保15年8月(1729年)に、この地蔵仏を建立しました。鋳工は、武江神田多川民部による。
隣に建つのは五郎丸の墓碑。南側の墓碑は、その孫元治郎(久ノ浜初代大一屋:富春院潤性宗徳居士)のもの。
〔大正14年8月発行 大須賀良之介著「御城と船戸」から抜粋〕
(現地案内板説明文より)

大須賀氏の発祥地は下総国香取郡大須賀保(現在の大栄町・下総町・成田市東北部周辺)で、2つの出自があるそうです。
平安時代末期、前九年の役・後三年の役に従事して功を立てたとされる下総平氏の当主・平常長の七男・常継が下総国香取郡大須賀保を拝領して大須賀と称しました。
当初の大須賀氏は上総氏に従い、頼朝の挙兵時には上総広常の軍勢に名を連ねたそうですが、後に上総氏が謀反の疑いで誅殺されたため、大須賀常継も同類として大須賀保は幕府に没収されたのです。
この没収された大須賀保は上総広常の又従兄弟にあたる千葉介常胤に恩賞として与えられました。常胤はその後、千葉庄多部田郷(千葉市若葉区多部田町)の在地領主として「多部田」を称していた四男の多部田四郎胤信に大須賀保の地頭職を譲り、この胤信が「大須賀」を称し大須賀氏初代惣領となったのです。
常胤は1190(文治5)年、奥州藤原氏討伐のための奥州合戦に従軍して東海道方面の大将に任じられ、父とともに胤信も東海道を攻め上り、その功績で頼朝から1200(正治2)年、常胤は陸奥国好島庄(福島県いわき市)を頼朝から賜り、その所領を胤信に譲ったのでした。
その8年後の1208(承元元)年、平等を重んじる胤信は「好島庄預所職」を東西に二分して「好島東庄」を嫡子・通信へ、「好島西庄」は4男・胤村に与えたのだそうです。
その後の歴史は不詳ながら、1321(元亨元)年には「大須賀四郎左衛門尉宗常」が好嶋庄の一方地頭であることが記録に残っているようです。
そして仙台大須賀家の伝承によれば、大須賀胤次が室町幕府の滅亡後に下総から岩城に移り住んだことが伝えられており、好嶋大須賀家の一族は、岩城家の家老となり江戸時代も代々老職を務めていたということのようです。
このように「大須賀」氏は由緒ある家柄ようで、その系統の一つがここに残されているということでしょう。

左から「地蔵仏」「五郎丸の墓碑」「元治郎の墓碑」です。
五郎丸の地蔵仏 五郎丸の墓碑 元治郎の墓碑
この「五郎丸の地蔵仏」の左前に弁天池があり、その中ノ島に弁財天が祀られている弁天堂が建立されています。
弁天池

福寿弁財天縁起之碑
当福寿弁財天は建長7年(西暦1255年)北条時頼公により龍光寺が建立された折、北條家の守護神である弁財天を山内及び万民の開運招福を願って建てたと伝えられている。その後数回荒廃を繰り返し享和元年(西暦1801年)、当山第34世虚舟中虚大和尚に再建され明治11年(西暦1878年)に修築されたが近年破損著しく修復するも崩壊寸前となり、昭和54年(西暦1979年)壇信徒各位の浄財により再び新築される。
福寿弁財天を信ずる者は限りなく弁才が備わり福智を増益し延寿並びに財宝を得、天災地災を除滅し且つ音楽芸能に長ずるとされ、昔より老若男女を問わずその信者は数多く厚い信仰を集め現代に至る。
茲に由来の一端を刻し之を後世に伝う。
昭和54年4月15日建立
福寿山龍光寺第41世海嶺代
(現地碑文より)

七福神については【「谷中七福神」彷徨】である程度理解しましたので特に紐解く必要はないでしょう。
この弁財天は北条時頼が勧請したとあるので、北条氏の祈願道場であった江ノ島弁財天より勧請したものと言われているそうです。
弁財天 弁財天
弁財天をお参りして龍光寺を後にしますが、境内にはこのような地蔵も祀られていますが、「稲村ジェーン」を思い出させるような光景に懐かしさを憶えました。
地蔵尊 地蔵尊

恵比寿:波立寺

「龍光寺」からは国道6号線を南下してホンの10分程度で次の七福神である「波立寺」に到着です。
「波立寺」については【いわき散策記 vol.5】で訪れましたので多くを語る必要はないでしょう。
しかしながら波立海岸の直ぐ前にあるといっても良い「波立寺」は、先の震災で一体どうなってしまっているのだろうかと心配していましたが、5ヶ月経過した現在では殆どその影響が無かったかのような佇まいを見せてくれています。
波立寺 波立寺 波立寺
「仁王門」「薬師堂」そして「本堂」とあくまで外観上は一昨年に訪れたままのようです。

ここでは2つ目の七福神である「恵比寿」尊をお参りして終わります。
恵比寿
ちょうど薬師堂の右手の小さな石祠が建立されていて、中には“トラボルタ”のような恵比寿尊が鎮座しています。
恵比寿
勿論、本尊は本堂に祀られているのでしょうが、それでも親しみ易い恵比寿尊を拝顔して、気持ちも和むというところです。特に「波立寺」での七福神建立についての由緒、縁起はわかりませんが、ある程度の歴史はあるのでしょう。

「波立寺」を後にして次の七福神に向うのですが、その前に「弁天島」に立ち寄ってみました。
弁天島への手前の有名な「波立食堂」は見る影もありません。ちょっと目を覆いたくなる光景ですので写真は止めておきますが、こちらの方はご無事だったのでしょうか。
そして一見したところ弁天島にそれ程変化は無いようですが、よくよく見れば島までの橋の鉄柵が一部崩壊していました。
今更ながら津波の破壊力を思い知らされました。
弁天島 弁天島

久ノ浜から四ツ倉海岸にかけては、やはり被害は甚大のようで、まだまだ復旧、復興されていない場所も多いようです。物理的なダメージも大きいのでしょうが、精神的なダメージはそれ以上かもしれません。一日も早い復旧・復興により多くの方のエネルギーが戻られることを祈念します。

寿老人:長興寺

「波立寺」からは3つ目の七福神・寿老人のある「長興寺」を訪れます。
「長興寺」は、いわき市の中心である平に程近い好間町にあります。
住宅地の中にこじんまりと佇んでいて、山号標の参道先に「山門」が建っています。
長興寺

長興寺は、大同元年(西暦806年)徳一大師の開いた寺と伝えられますが、史実は明らかでありません。
建治元年(西暦1275年)痴鈍空性大和尚が中興開山しています。当時は建長寺派でしたが、芳巌琢和尚(西暦1701年寂)の時代より妙心寺派となりました。
長興寺は末寺十四ヶ寺を持つ中本寺として、子弟を育成する専門道場でした。痴鈍空性大和尚(大織冠鎌足の子孫 北家藤原より伊賀家18代光宗の四男)は、飯野八幡宮の宮司 飯野盛男氏の祖先で、鎌倉建長寺開山 大覚禅師(大宗国西蜀の沙門道隆蘭渓)の弟子となり、今の中国に渡って勉強し、日本に帰って宗門を大いに広めました。後に、いわきの地に帰り長興寺 普門寺 霊山寺 禅福寺の四ヶ寺を開山、小名浜野田の禅福寺で正安三年(西暦1301年)に亡くなりました。
徳川三代将軍家光の時代 慶安元年(西暦1648年)から明治時代に至るまで、朱印十石、山林竹木・諸役の免除を受けました。
明治初年の失火によって、七堂伽藍・什宝・記録等のすべてを消失して特筆すべきものはありませんが、山門(慶長七年(西暦1602年)の記録に飛騨の甚五郎作とある)及び山号額 元禄二年(西暦1689年)だけが昔をしのぶ唯一の宝として残されています。
本尊は、もとは十一面観世音菩薩(現在黒焦げの姿で残る)でしたが、今は釈迦牟尼佛で、作者、年代とも不明です。
別に住職の秘宝として、大覚禅師が中国より持参したと伝えられる達磨大師の立像一体があります。
(「長興寺」オフィシャルサイトより)

やはりここも徳一大師が現れますが、流石に史実は不明となっていますが、この由緒を見る限りでは古刹といえるでしょう。
そして飛騨の甚五郎作の山門がこちらで、山号額がこちらです。
長興寺 山門 長興寺 山門扁額
播州明石に生まれ父親亡き後、叔父である飛騨高山金森家家臣河合忠左衛門宅に寄寓したとあるので、飛騨の甚五郎はやはり左甚五郎のことなのでしょうが、屋根はどう見ても新しいようなので、屋根だけは改修されたものなのでしょう。

山門を抜けて石段をあがると庫裏になっています。
ちょうど庫裏の前には「芙蓉」の花でしょうか、雨に打たれて実に優美な趣を醸し出しています。
芙蓉
そして庫裏の右側に更に石段があり、その石段を上がった先が本堂のようです。
長興寺 長興寺

七福神の「寿老人」は本堂に安置されているようで、特に七福神を祀っている社のようなものは無いようです。
長興寺
由緒にもあるとおり歴史を偲ぶものは無いようですが、石仏や墓碑にそれなりに歴史を感じさせるものが幾つかあるようです。
長興寺
古くて新しい「長興寺」といえそうです。

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks