白岡発祥の地 #1

最初に訪れるのはJR白岡駅の西側にあたる「白岡・篠津地区」周辺です。 ある意味では白岡町の中心地といっても良いでしょう。
白岡町は自宅の上尾市からは隣接の蓮田市の更に隣接町ですから、車で20分程度でいける場所です。しかしながら電車となると一旦大宮に出なければなりませんので、かなりの迂回となるのです。
AM8:30頃に自宅を出るとAM9:00頃には早くも白岡に到着です。まず、最初に訪れたところは白岡町の鎮守である「白岡八幡宮」です。

白岡八幡宮-1

境内の前の道路が一方通行なので、一時迷ってしまいましたが、何とか一の鳥居から入って二の鳥居の前に到着しました。
白岡八幡宮 白岡八幡宮

白岡八幡宮 所在地 南埼玉郡白岡町大字白岡
白岡八幡宮は、嘉祥2年(849)に建てられたものと伝えられ、祭神は応神天皇(正八幡)、仲哀天皇(若宮八幡)、神功皇后(姫宮八幡)である。
当社に伝えられている略縁起には、康平5年(1062)源八幡太郎義家が奥州征討の途中、戦勝祈願のため立寄ったと記されており、また、建久6年(1195)征夷大将軍源頼朝は、当社に佐々木四郎高網を代参させ、土着武士の鬼窪某に命じて社殿を造立させるとともに、百余貫の所領を寄進し、源家の守護神としてあがめたと伝えられている。戦国時代には一時衰えたが、氏子等の力により江戸、明治期にかけて徐々に復し、昭和45年に現在の社殿に改築した。当社には、享徳5年(1456)銘の鰐口が現存し、古い歴史を物語っている。
境内には、樹齢600年といわれる榧の木があり、また、参道脇に保存されている杉の枯木は、義家が馬をつないだ木と伝えられ、当社の御神木となっている。
昭和58年3月 白岡町
(現地案内板説明文より)

佐々木四郎高網といえば、「平家物語」で、1184(寿永3)年宇治川の合戦における梶原源太景季との先陣争いが有名です。合戦に先立って、頼朝は景季に名馬“磨墨”を、高綱には名馬“生月”を与え、宇治川に乗り入れた時、高綱は一歩先んじた景季に、鞍の腹帯が緩んでいると言って“磨墨”の足を止めさせ、その間に先陣をものにしたのでした。これを戦功と言って誇り、恩賞を催促するという、今で言うところのセコイ性格の持ち主に描かれているのですが、実際はどうだったのでしょう。
いずれにしても頼朝からの信頼は厚く、幕府での何本かの指には入る要人ではあったようです。その佐々木高網が来社したのですから、幕府からも尊崇されていたといえる位の名刹ということになります。

そして境内に入る前の通り(実際には東側に鳥居があるので)は、もとは参道だったのでしょう、道路沿いには文化財の樹木と、義家縁の杉の枯木があります。
この巨木が「イヌザクラ」です。
イヌザクラ
現在は白岡町指定天然記念物となっており、そのほかの巨木・古木と共に森を形成しています。

白岡町八幡神社社叢ふるさとの森 昭和56年4月4日指定
身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私たちの手で守り、次代に伝えようと、この社叢が「ふるさとの森」に指定されました。
八幡神社は、平安時代に創建された由緒ある神社で、古くから町の人々に親しまれてきました。
境内には、町天然記念物のカヤノキ・ウワミズザクラも生育しています。
林相としては、主に、ケヤキ・スギ・モウソウチクなどから構成されています。
昭和58年3月 埼玉県
(現地案内板説明文より)

このように由緒ある神社は古くからこの地に存在しているので、樹木も巨木や古木が多いのは至極当然なことですが、この辺りには隣接する細井家や大久保家といった名家の竹林や杉林とともに大きな森を形成しているのが特徴のようです。

そして通り沿いにはもう一つ枯れ木ながら「駒繋ぎのスギ」があります。
駒繋ぎのスギ
説明にもあったとおり源義家が奥州征討の折、この地を通り休息した際の駒つなぎ伝説のある杉で、枯死しているのですが基部が昔のまま保存されており、幹まわりは10m近くあるそうです。
よりによって2本もありますが…。

境内を入ると左手に朱の手水舎がありますが、何故か社殿のちぎり絵が飾られています。
手水舎手水舎のちぎり絵
実にカラフルな手水舎です。

右手には2つの文化財碑が立っています。
「白岡町指定文化財第40号 白岡八幡宮棟札」と「白岡町指定文化財第14号 鬼窪八幡宮鰐口」と刻まれています。
棟札は3札あるそうで、元禄7(1694)年、寛延2(1749)年、明治16(1883)年が現存しているそうです。
「鬼窪八幡宮鰐口」は、江戸時代に土中から掘り起こされたものだそうで、銘文から享徳5(1456)年、聖秀尊から奉納されたものでで、若宮八幡宮を勧請した武州寄(崎)西群鬼窪八幡宮の鰐口だったのだそうです。
聖秀尊とは「尊秀王」といい、永享12(1440)年頃生まれで、南朝の再建を図った後南朝の最後の指導者だった人だそうです。しかしその出身や生涯はほとんど不詳だそうで、皇室の一族とも言われているそうです。

奉納された経緯はわかったのですが、この「鬼窪」とい名の由来はいったいどんなことなのでしょうか。

鬼窪
埼玉郡小久喜村(白岡町)は鬼窪郷を唱える。風土記稿小久喜村条に「高麗郡新堀村聖天院にある応仁二年の鰐口に、久伊豆御宝前鰐口・願主衛門五郎・武州騎西郡鬼窪郷佐那賀谷村とあり。則ち今南隣実ヶ谷村のことにて、其の村に久伊豆社もあり、又白岡村八幡社宝、享徳五年の鰐口に鬼窪八幡宮とある類、此の辺古は鬼窪と唱へしことしらる。されば鬼窪は当所の在名をもて名乗しことならには旧き家なること知るべし」と見ゆ。また、秩父郡皆谷村字鬼窪あり。長野県北安曇郡池田町七戸あり。
平姓野与党鬼窪氏 埼玉郡鬼窪郷より起る。
武蔵七党系図に「野与六郎基永―小六郎行基―鬼窪六郎定綱―弘綱―左衛門尉弘家―太郎光□(弟に行弘、弘重)―又太郎某。弘家の弟四郎左衛門尉弘親―常光―高常(弟に景弘、範弘)。弘親の弟六郎兵衛尉民部丞弘信(弟七郎忠弘)―弘雅(弟に光弘、経弘)」と。また、南鬼窪氏あり、「野与小六郎行基の弟九郎大夫経長―新大夫行長―南鬼窪小四郎行親(源平之戦、頼朝の命を奉じ西海に使す)―四郎太郎親頼―太郎兵衛尉親家―為親、其弟六郎二郎親定―二郎太郎頼親(弟下野房道喜)、親定の弟兵三郎経家、其弟白岡禅師澄意。親家の弟二郎左衛門尉景頼、其弟五郎兵衛親頼―行経」と見ゆ。是は在名にて苗字にあらず。
(埼玉苗字辞典より)

詳細は良く理解できませんが、どうやら武蔵七党の一つである野与党の鬼窪氏が支配していたことから、この辺りが「鬼窪」と呼ばれていたようです。
また、一方ではこのような由来もあるようです。

鬼久保
埼玉郡小久喜村(白岡町) 当村に此氏多く存す。古族にて、野与党鬼窪氏発祥以前からの鬼窪郷居住者であろうか。風土記稿小久喜村条に「旧家者文平・氏を鬼窪と称す。先祖を鬼窪尾張繁政と呼び、天正十九年正月八日没し、寿光院秋月斎孤居士と号し、代々当村に住し名主の役を奉り、かれが家より分れし民五軒ありと云のみにて、家系を伝へざれば、其の家の事実詳ならず。
されど当国七党の内、野与党の譜に鬼窪六郎定綱と云ふ人を載す。東鑑正嘉二年三月一日の条に鬼窪又太郎と云ふ人を載せ、又笠原村に載せたる康暦三年の文書にも鬼窪氏見えたり。文平はこれ等の子孫なりや」と見ゆ。寿楽院に「寿光院秋月斎孤居士・鬼久保尾張繁政・元亀元年正月八日、二代楽応道安居士・鬼久保尾張政家・慶長十五年七月二十七日、三代楽永常心居士・同名小左衛門秀光・寛永二十年八月二十日。禅崇徹参居士・七代鬼久保小左衛門光広」と銘あり。
小久喜村当所始之事(安永五年鬼久保小左衛門書記)に「往古此里を鬼久保の里と云。正八幡、姫宮八幡、若宮八幡三社勧請し、其郷白岡村と名付る。其頃当所古久鬼村と云、当村に於て鎮守久伊豆大明神等祠有り、其地高き故に大高山と名付る。且白岡に相続故に白岡古久鬼と云。寛永五年検地以来小久喜村書也。
当家に於て白岡三社八幡之内、若宮八幡勧請し、当家並親類氏神奉祭。然も当家苗字鬼久保氏・夫より以来相続也。且文禄慶長元和寛永年中迄歳久しく鬼久保尾張と号し野武士也。然る所に寛永五年御検地御案内に依て改名し小左衛門と也」と見ゆ。久伊豆社元禄二年庚申塔に鬼久保長□、宝暦十一年庚申塔に鬼久保源六・鬼久保森右衛門・鬼久保玄三。私塾師匠鬼久保玄三・明和四年没。文政七年戸賀崎門人碑に小久喜村鬼久保丹次郎。久伊豆社文化九年筆子碑に鬼久保幸蔵、文政三年庚申塔に鬼久保与右衛門、明治二年幟碑に鬼久保文輔・鬼久保春吉。
明治九年副戸長鬼久保文助・天保七年生。笹山村稲荷社明治二十二年浅間碑に小久喜村鬼久保幾右衛門。明治三十年人名録に売薬業鬼久保文助・天保七年生・地租八十円あり。
(埼玉苗字辞典より)

どうやら武蔵七党の鬼窪氏以前から、この地には「鬼窪」という名主がいたようです。
いづれにしても嘗ては「鬼窪」あるいは「鬼久保」呼ばれた頃に奉納されたということで、現在の白岡八幡宮もまた「鬼窪は八幡宮」と呼ばれていた時代があったと勝手に読み解いておきましょう。

文化財碑の裏側には「力石」が置かれています。
力石 力石

力石
かつての祭事や娯楽として、村の若者の力自慢による力比べが行われました。どれだけ重たいものを持ち上げられるか、どのくらい運べるかを競いました。これらの力自慢が持ち上げた石を社寺に奉納したものが力石です。
八幡宮には8基の力石があり、うち5基は「明治37年2月15日」の銘があり、八幡宮の祭礼に奉納したものと思われます。最も重いものは、60貫(約225キログラム)あります。
白岡八幡宮
(現地案内板説明文より)

【桶川べに花まつり】http://members2.jcom.home.ne.jp/70little_rascals0201/flower/flower/others/others_benibana02.htmlで訪れた稲荷神社の「大盤石」という力石は700kgあるのですから、それに比べるとかわいいものかもしれません。
だからといって225kgですから持ち上げられる人はそうそういないでしょう。

力石の隣には記念碑が建立されています。
新修八幡廟前殿記

新修八幡廟前殿記
この記念碑には、八幡宮の故事来歴や明治28年の拝殿再建の様子が記されています。
これによると八幡宮の社は鬱蒼と茂り、霊験あらたかで古くから村民に厚く崇敬されていました。八幡宮は鎌倉幕府を開いた(建久3年・1192)源頼朝から神田の寄進を賜るが、後に武人に奪われたことなどが記されています。
この拝殿再建には、幹事、氏子総代、社掌(現在の宮司職)白岡瑞枝など22人が携わり、寄付者は100人を越え、建築費は700円でした。
なお、撰者の中島竦とは、久喜市の「幸魂教舎」を創設した中島撫山(慶太郎)の次男で、同市の「明倫館」教員などを務めた中島竦之助のことです。
白岡八幡宮
(現地案内板説明文より)

中島竦之助とは作家であり、「書契淵源」という文字学を表した民間学者で、優れた業績がありながら学会からは無視された孤高の研究者だそうです。

ここから正面にある社殿を参詣します。
白岡八幡宮社殿
流石に歴史のありそうなどっしりとした社殿ですが、全体が白亜の壁と朱の欄干によってコントラストが醸し出されており、非常にオシャレな感じが漂います。
先ほどの棟札にもあった様に元禄7(1694)年、寛延2(1749)年、明治16(1883)年に改修され、現在の社殿は昭和45(1970)年に改築されたものだそうです。

先ほどの縁起を少し補足すると、勅命により慈覚大師円仁がこの地に下り嘉祥2(849)年草創されたそうで、杉の木のもとで三社(正八幡宮・若宮・姫宮)のご神体を彫り八幡宮を建立したと伝えられているのです。ついで本地弥陀薬師の像を彫刻し、それを池の辺で清めると西から光とともに三神が現れ、ともに三羽の白鳩が舞い降りてきたそうです。
このことから「白い鳩が舞う丘」という意味でこの地が“白岡”という地名発祥の場所とも言われているそうで、「いけ水に月のかげさす白岡は、八幡ごえなる神の御社」と慈覚大師が詠んだそうです。

実に綺麗な発祥の謂れですが、角度を変えてみてみます。

白岡
埼玉郡白岡村あり、八幡社享徳五年鰐口銘に鬼窪八幡宮と見え、天文十七年武州文書に白岡薬師堂(八幡社別当正福院)と見ゆ。足立郡白岡村(大宮市)あり、御蔵村となる。
一 野与党白岡氏 埼玉郡鬼窪郷白岡村より起る。武蔵七党系図に「南鬼窪小四郎行親(源平之戦、奉頼朝)―親頼―親家―白岡禅師澄意」あり。下高野村永福寺伝(旧阿弥陀寺)に「寿永二年、阿弥陀寺帰依檀那、野与一党、多名・鬼窪、白岡・渋江等面々、阿弥陀寺本来檀那出戸左衛門尉為隆等と謀議し、一用上人を阿弥陀寺に請ひ止める」と見ゆ。鬼窪氏は、澄意以前に白岡氏を称す。
二 埼玉郡白岡村 白川家門人帳に「明治二年白岡村八幡宮神主白岡祝」。明治三十二年八幡社神主白岡瑞枝あり。八幡社附近に七戸現存す。
(埼玉苗字辞典より)

1456(享徳5)年には鬼窪八幡宮だったのが、その別当寺の正福院が、1548(天文17)年以前には白岡薬師堂と呼ばれていたようですから、この頃に鬼窪から白岡に変わってきたのではないかと推測されるのです。
その由来が、「白い鳩が舞う丘」の意味なのか、野与党白岡氏から起こったものなのかは定かではありませんが、「白い鳩が舞う丘」の方がロマンを感じますね。
いづれにしても、その様な地名由来もあることから社殿も白亜の社殿となったのでしょう。

拝殿の前にある「石灯籠」もまた古く、寛文12(1672)年に奉納されたもので、銘文には「川副重頼」奉納とあるようです。
白岡八幡宮社殿 寛文12(1672)年の燈籠
この川副氏とは宇多源氏佐々木庶流で、2代目正俊が豊臣秀吉・秀忠に仕え、その子重次が大阪城没落後に徳川秀忠に仕官して旗本となり、3代目重勝が寛永10(1633)年にこの周辺の350石を知行し、この地にあった「鬼窪氏館」の跡を継承して「川副陣屋」として使用したのです。そしてこの陣屋を引き払うにあたり白岡八幡宮を修復し、その際、陣屋山の地を白岡八幡宮に寄進にしたといわれているのだそうです。
その後、川副氏は幕末までこの地を知行し、この石灯籠は3代目重勝の子である「金右衛門重頼」が寄進したということになるのです。
流石に歴史ある古社だけに一つ一つに興味深い歴史を持っているようで、実に散策のし甲斐のある神社といえそうです。

社殿の右手には「神楽殿」がありますが、こちらは結構新しそうな神楽殿です。
神楽殿
奉納舞などのほかにイベント等でも使用されているそうですから、幅広く活用されている多目的神楽殿とでもいえるでしょう。

社殿と神楽殿の間に大きな樹木があります。
白岡八幡宮のご神木であり、白岡町指定天然記念物でもある「カヤの木」です。
カヤの木 カヤの木
目通り4.7m、樹高31mの堂々たる大樹で、まさにご神木にふさわしい威容を誇っています。

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