白岡発祥の地 #2

拝殿での参拝を終えて、ここからは社殿の周りを廻ってみます。
まだまだ、奥深い歴史を見ることができるでしょう。

白岡八幡宮-2

本殿にはあまり華美な彫刻などは無いようですが、歴史に違わぬ荘厳さを醸し出しています。
白岡八幡宮本殿 白岡八幡宮本殿
本殿の右手には馬の石像のある朱の社があります。
神馬社 神馬社
珍しいのでしょうか「神馬社」という境内社です。

神馬社
御神像 白馬三像 例祭 3月15日(駒寄祭)
馬は人間と切り離せない貴重な労働の担い手でした。家族の一員として飼われていた近郷の農耕馬が、駒寄祭に飼い主に曳かれて境内の「神馬社」に安全祈願の参拝をし、その後、隣の公園で草競馬などを行い、祭りの一日を楽しみました。
第二次大戦中には軍用馬として召集され、中国方面に派遣される農耕馬がおりましたが、この「神馬社」に「武運長久」を祈り出征して行きました。昭和20年代後半になって農業は耕運機などの機械化が進み、農耕馬は全く不要になってしまい、「駒寄祭」も衰退し、名ばかりになってしまいました。現在は崇敬者によって大切な守護神として参拝されております。

神馬の由来
昔々、白岡の八幡様近くの森に真白なたくましい野生の馬が住んでいました。その馬がしだいに田畑に来て作物を食い荒らすようになりました。村人達は、ほとほと困りはてました。しかし、日ごろからこの白馬は普通の馬ではなく、八幡様に仕える馬だと言っていましたので、これを放って置けなくなりました。村人達は話し合って、本殿裏手の一角を牧場のように柵を作って飼うことにしました。
更に柵内に茅葺の厩も建ててやりました。やがて、幾年月が過ぎ、馬の寿命も終わりになりました。そこで、厩の跡に小さな祠を建ててその御霊を祀りました。
これが「神馬社」のおこりであると言われています。
(現地案内板説明文より)

荒川のそば】で秩父を訪れた際に「石龍山橋立堂」に馬を祀ったお堂がありました。そこには白黒1頭ずつの馬が祀られていましたが、こちらは白馬3頭だそうです。
本尊を拝することはできませんが、社の手前に石造りの駒が2頭建立されています。
神馬社
農耕神として、また供養として馬頭観音とは又違った形の崇拝の仕方なのでしょう。

更にその右手には鐘楼があります。

特に謂れはないようですが、何気に延宝3(1672)年の梵鐘だそうです。

本殿沿いを奥へ進むと「白岡天満神社」が鎮座しています。
白岡天満神社 白岡天満神社
木の香も漂ってきそうなかなり新しい境内社です。

白岡天満神社ご遷座について
八幡神社では、氏子のご要望により、湯島天満宮より御分霊をいただき新宮を造立し、「白岡天満神社」と命名いたしました。
天満神社のご祭神「菅原道真公」は、当八幡神社が創建される4年前の承知12年(845年)奈良でお生まれになり、貧しい貴族の出身でしたが学問に優れ、右大臣まで出世されました。しかし、平安初期、左大臣の諫言で大宰府に左遷され58歳で悲運の生涯を終えられました。この怨霊を鎮めるためにつくられたのが「天神様」で「天神」として祀られました。江戸時代に入って、寺子屋が盛んになり、道真公があまりにも学問に優れていたことにより「学問の神様」として崇められるようになりました。

「臥牛」
牛は、天満神社においては神使い(祭神の使者)とされるがその理由については、道真公は「出生が丑年である」「亡くなったのが丑の月、丑の日である」「牛に乗り大宰府へ下った」「牛が刺客から守った」「墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など多くの伝承があります。白岡天満神社でも故事にならい「臥牛」を奉納いたしました。牛の頭を撫でて祈願いたしましょう。

「梅花」
道真公の肖像には、梅花が添えられています。また、天満神社の境内には数多くの梅の樹が植えられています。それは、梅と詩歌が道真公の孤高な魂の慰めであり、梅花は何にもましたお供物であったからであります。
道真公5歳の時の歌
「うつくしや紅の色なる梅の花 あこが顔にもつけたくぞある」
また、京の都から大宰府へお発ちの際、庭の梅花に別れを惜しんでお詠みになられた。
「東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
という御歌は、人のよく知るところであります。

「筆塚」
道真公は、書道の神様として信仰篤く、そのご威徳を尊崇し、「筆塚」を設置いたしました。
「筆塚」には、役目を終えた筆や使い切った筆記用具などを、自由に訪れ、感謝の心を持ってお納めください。
次世代を担う子供達が活発で勉学に励み、また、氏子の皆様の様々な試練に対して、天満神社のご神徳が授かりますよう建立いたしました。
(現地案内板説明文より)

天満神社=菅原道真の三大話でもある「牛」「梅」「学問」が一気に理解できる解説です。
平成21年12月6日に遷座式が行われたそうですから、僅かに2年前のことです。湯島天満宮から分霊されたのは、長野県に1社あるだけで、この白岡天満神社が全国でも2例目という非常に貴重なことのようです。
この分霊は勧請ともいわれ、本社の祭神を他所でも祀る際、その神の神霊を分けたもののことです。
例えば、白岡八幡宮の八幡神社の本社は「宇佐神宮」で、全国の八幡神社はこの「宇佐神宮」、または「宇佐神宮」から勧請を受けた「石清水八幡宮」、あるいはさらに「石清水八幡宮」から勧請を受けた「鶴岡八幡宮」のどれかから祭神の勧請を受けることになっているそうです。
それでは天満神社はというと、総本社は太宰府天満宮で、北野天満宮とともに天神信仰の中心となっているようですが、全国への勧請は北野天満宮が行っているそうです。したがって湯島天神は、この北野天満宮から分霊して祀られたといえそうです。そしてその湯島天神から分霊されたのですから、孫受けということになるのですが・・・。
白岡天満神社 その標柱が社殿前にありました。

そして神社の前には「臥牛」が奉納されており、更に神社の右側には「筆塚」がありました。
白岡天満神社 白岡天満神社
神社の横には大きめの絵馬があり、合格祈願に多くの方の祈願が書かれていました。氏子の方々の要望が高かったことの証でしょう。
白岡天満神社

天満神社の横には境内社が並んでいます。
境内社

三峯神社
通称:三峯大権現、祭神:伊弉諾尊・伊弉冉尊、御眷属:神の使い(オオカミ)・大口真神、祭日:4月15日
盗賊除けの神・火防の神
秩父山地の妙法ヶ岳・白岩山・雲取山を三峯と称し、日本武尊が東征の折りこの地に至りその美しさにうたれ、二柱の神を祀ったのが始まりという。役行者も修行し、山岳修験の聖地として多くの修行者を集めた。

日枝神社
通称:山王権現、祭神:大山咋神・大己貴神、祭日:4月25日
疫病除けの神
日枝神社の本社は大津市坂本にある日吉大社とされている。社伝によると東本宮は崇神天皇7年に創建され、西本宮の大己貴神は天智天皇7年に大神神社より勧請されたものである。比叡山の地主神は、大山咋神であることから「日吉」は、もとは「日枝」と書きともに比叡山を意味している。平安期頃より「日吉」と呼ばれている。

稲荷神社
祭神:宇迦之御魂大神、祭日:2月初午
農業の神・五穀豊穣・商売繁盛の神
稲荷神社の総本社は京都市伏見区にある伏見稲荷大社とされている。
社伝によると和銅4年2月初午の日に伊奈利山の三ヶ峰に顕現した三柱の神を深草の長者伊呂具泰公が勅命によって祀ったのが始まりという。
「山城国風土記」には泰公が餅を的に矢を射ったところ、餅が白鳥になって飛び去り、留まったところに稲が生じたことから稲荷の名がつけられたという伝説が載せられている。

猿田彦神社
祭神:猿田彦神、祭日:3月25日(庚申祭)
道案内の神
猿田彦神は、天照大神より葦原中国の平定を命じられた瓊瓊杵尊の一行とその途中で合流して、葦原中国へ案内した神として伝えられている。
伊勢市宇治にある猿田彦神社に鎮座している。
(現地案内板説明文より)

きしくも境内社の本社や由来を知ることができましたが、他の著名な神社の総本社としては、京都の八坂神社、埼玉県さいたま市の氷川神社、富士山本宮浅間大社の浅間神社、京都府の愛宕神社などがあります。
また、三峯神社のオオカミように、他の社の御眷属としては、「鹿」の 春日大社・鹿島神宮・厳島神社、先ほどの天満神社の「牛」、「狐」の稲荷神、「兎」の住吉大社、「蛇」の弁才天・大神神社等は有名ですが、変わったところでは、三嶋大社の「鰻」、二荒山神社の「蜂」、出雲大社の「海蛇」などがあります。そして意外と身近でありながら知らなかったのが八幡宮の「鳩」といったところです。

ちょうど社殿を一周することになりましたが、社殿に向って左側の玉垣には大きな絵馬が掲出されています。
絵馬 絵馬
社殿の正面にもあったものですが、白岡高校美術部の方たちが描いた絵馬なのだそうです。
2008年から毎年、干支をはじめとした絵馬を奉納しているのだそうで、図案は部員のコンテストで選ばれているのだそうです。手水舎にあったちぎり絵も、この美術部でつくられたものなのでしょう。
とても素敵な取り組みだと思います。

反対側には社務所があり、社務所もまた白壁と杢という、大変シックな装いでした。
社務所

概ねその土地の名前、或いは由来の付いた神社は歴史と由緒をもっているのですが、ここ白岡八幡宮もまた町の鎮守として歴史溢れる神社でした。
氏子以外の地元民からも崇敬されテいるようで、これからも白岡の鎮守として親しまれ続けるのでしょう。

正福院

「白岡八幡宮」からは車で5分ほどの「正福院」に向いました。
正福院
檀家の方たちでしょうか、大勢の方たちが境内の清掃をされていました。

正福院 所在地:南埼玉郡白岡町大字白岡
正福院は、白岡山西光寺杉元坊と号し、嘉祥2年(849)慈覚大師円仁により草創されたと伝えられる。本尊は、慈覚大師の作といわれる薬師如来像である。創建当初より八幡宮の別当寺で天台宗であったが、建久6年(1195)に改宗され、新義真言宗となった。
境内には、正徳3年(1713)建立の宝篋印塔や樹齢約400年といわれる彼岸桜がある。また、当寺の梵鐘には宮沢賢治の詩が刻まれており、山門を入った右手には「ひぐらしの丘」と称する塚があって、室生犀星の詩碑が建てられている。
この付近は、古くから開けたところで、当寺の墓地一帯が貝塚となっている。貝の種類はアサリ、オキシジミ、サルボウ、カキ、ハマグリなどで、出土する土器類は、縄文から弥生、古墳時代のものまである。
昭和58年3月 白岡町
(現地案内板説明文より)

境内に入った参道の直ぐ左手にその「宝篋印塔」があります。
宝篋印塔
1713年のものだそうですから、「宝篋印塔」としては比較的新しい部類のもので、白岡町指定文化財第13号として指定されています。
その先には山門があり、山門を抜けた先の両側には古い石仏、石塔、板石塔婆などが安置されているのも歴史の一端でしょう。
山門 石仏 石仏
その更に右手にあるのが「ひぐらしの丘」で、丘の上の左側にあるのが室生犀星の詩碑のようです。
ひぐらしの丘 室生犀星の詩碑
室生犀星といえば「ふるさとは遠きにありて思ふもの…」で有名な詩人であり小説家ですが、正福院とどのような理由で詩碑が建立されたのかは不詳です。
参道の先の右側には鐘楼があり、この梵鐘には宮沢賢治の詩が刻まれているのです。
鐘楼 宮沢賢治讃仏歌

宮沢賢治讃仏歌
塵点の劫をし過ぎて いましこの 妙のみ法にあひまつりしを 病の故にもくちん 命なり み法に棄てばうれしからまし
(現地案内板説明文より)

良く意味は判りませんが、ありがたい内容なのでしょう。
川端康成文学碑 さらのその隣には、「川端康成文学碑」があります。

川端康成文学碑
仏は常にいませ どもうつつなら ぬぞあはれなる ひとの音せぬ暁に ほのかにゆめに見 えたまふ 康成書
「梁塵秘抄」より
(現地案内板説明文より)

これ自体も同じように判りませんが、室生犀星、宮沢賢治、川端康成と、どうやら由来といった意味ではなく文学寺といった意味合いの為のものなのでしょう。

正面が本堂です。かなり立派な本堂で比較的新しく建てられたもののようです。
本堂
貝塚はどこにあるのかがわかりませんでしたので写真はありませんが、このあたりも嘗ては海に近かったということでしょう。
縄文時代から脈々とした歴史を織り成してきたといったら言い過ぎでしょうか。
それでも5年、10年後には「文学の寺」といった称号が付いているかもしれません。

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