白岡発祥の地 #3

次は「正福院」から10分ほど北上した「篠津久伊豆神社」に向います。
白岡八幡宮一帯はやはり古くから人々が集っていたこともあり、歴史ある社寺が多いようで、散策には事欠かないエリアです。

篠津久伊豆神社

それ程広くはありませんが、白岡八幡宮とは違った枯れた雰囲気の歴史を感じさせてくれます。
篠津久伊豆神社 篠津久伊豆神社

篠津の久伊豆神社と山車 所在地:南埼玉郡白岡町大字篠津
久伊豆神社は、康治元年(1142)に建てられたと伝えられ、祭神として天穂日命、大己貴命、大山祗神が祀られている。
現在の本殿・拝殿は、江戸時代末期に建造されたものと思われ、特に本殿四方に巡らされた「神功皇后三韓出兵」「天の岩戸」「飛龍に波」「鷲」などの彫物は、江戸伽藍彫刻の力作である。
篠津地区は、平安時代末期に全国に勇名を馳せた武蔵武士団のひとつ野与党発祥の地とされ、当社は、その守護神として崇敬されていた。また、この地区は江戸時代の日光街道(春日部宿)と中山道(鴻巣宿)を結ぶ街道の宿場として栄えたところであった。
また、地区内の上宿、横宿、下宿、宿神山の各耕地には、それぞれ特徴ある山車が保存されており、この山車は江戸時代末期に製作されたもので、唐破風欅白木彫などその彫刻はすぐれている。これらの山車は、7月15日の天王様(須賀神社の祭礼)に飾り付けられ、今でも祭りを盛りあげる大きな役割を果たしている。
昭和58年8月 白岡町
(現地案内板説明文より)

篠津久伊豆神社も白岡八幡宮と負けず劣らずの由緒があるようです。
白岡八幡宮でも武蔵七党のひとつである野与党との関わりを知りましたが、発祥の地とは初めて知りました。
野与党は、桓武平氏の平忠常の弟・胤宗の子元宗を祖とする説と、武蔵国造の系統を引く武蔵武芝の末裔と言う説があるそうです。またその折衷説もあり、武蔵武芝の子・武宗の娘が、胤宗の子元宗に嫁ぎ、野与基永・村山頼任兄弟を設けたとするものですが、まさに玉虫色の説といえるでしょう。
そしてこの一族は23家に分かれていて、その中に南鬼窪氏、白岡氏があったのは、先に知ったとおりです。

早速、白岡町指定文化財第7号の「篠津久伊豆神社本社殿」に向います。
篠津久伊豆神社本殿
それ程大きな拝殿ではありませんが、風格を感じさせる社殿です。歴史のなせる業でしょう。
本殿もまた然りですが、本殿障子の彫刻がどれなのかが良く判りません。
彫刻 彫刻 彫刻
一応、社殿に向って左側、奥、右側の順の彫刻です。
多くの本殿障子彫刻と同じように見事な透かし彫りで、文化財に指定されるほどの美しさを持ち合わせているようです。
全体的には重量感溢れる荘厳な本殿でした。
ここでも境内社は多く、一つ一つの由緒などはわかりませんが、稲荷神社、九ヶ所神社、榛名神社、疱瘡神社、諏訪神社、雷電神社、八幡神社などが祀られているようです。
境内社

そして一際大きな境内社が「浅間神社」です。
浅間神社 浅間神社
ちょうど富士塚のように小高い丘の上に社殿があります。
手前に「皇太子殿下御降誕 浅間神社築山記念」と刻まれていますので、現在の今上天皇が生まれた昭和8(1933)年に勧請された神社なのでしょう。
皇太子殿下御降誕 浅間神社築山記念
境内社の中でもかなり大きいので、富士信仰がことさら篤い地域なのでしょうかね。

到着したときには気が付きませんでしたが、境内の前に大きな山車庫がありました。
篠津天王様の山車
そこには「白岡町指定文化財第4号 篠津天王様の山車・宿耕地」と「白岡町指定文化財第5号 篠津天王様の山車・下宿耕地」と記された標柱があります。
この山車庫に2台の山車が奉納されているのでしょう。

「篠津久伊豆神社」にはもうひとつ見るべきものがありました。
梨畑
境内の左隣には「梨」と書かれた幟が立っている梨畑があります。
まあ、本来なら特にどうという光景ではないでしょうが、今回の主目的ですから、一応梨畑を見ておきましょう。

現在は梨の旬ですから、梨畑では当然梨はたわわに実っています。
梨畑 梨畑
しかしながら梨泥棒とかが多いのでしょうか、中には入れない様にネットが一面に張り巡らされています。美味しそうな梨が沢山ありますが、これも時代なのでしょう。
それでも流石に梨の産地だけあって、神社の隣でも梨畑が広がっているのですが、更に神社の右隣には巨峰のブドウ畑もあります。
巨峰直売
やはりまだ一次産業も多いのでしょうかね。

興善寺

「篠津久伊豆神社」からは一旦白岡駅に向うつもりでしたが、通り際に立派な楼門があったので立ち寄ってみました。
興善寺
「興善寺」という寺院です。
近くで見ると更に豪壮な楼門であることがわかります。
後に知ったことですが、この楼門で毎年節分の豆まきが行われていて大変賑わっているそうです。
今日のような日も、それはそれで風情があって落ち着いた雰囲気に浸れます。

傍らには文化財の標柱があり、「白岡町指定文化財第39号 木造達磨大師像」と「白岡町指定文化財第26号 興善寺朱印状」の2つの文化財があるようです。
そして、このような八脚門には定番の四天王が鎮座しています。
四天王 四天王
木目のままの綺麗な四天王ですので、比較的新しいもののようです。

楼門を抜けると右手に直ぐ墓地があります。
門前墓地
特に「門前墓地」というそうです。

門前墓地
寺伝によれば興善寺は天正19年(西暦1591年)徳川家康公江戸入府の砌、御朱印領15石を賜り明治維新に至るまで続いてきた。
当時より一般の葬儀・埋葬は境外仏堂で行われ、山内に持ち込まれることは無かった。
然しながら門前衆に限って御開山開闢以来門前家来として寺と命運を共にしてきた因縁により特にこの地が墓所として分ち与えられたものである。
青木・塩見・高橋・山本の各本家筋においては、いつの頃からか家屋敷及び八段づつ寺より分地されたと言う。今日、本家・分家共々子孫繁栄し広く世に貢献している。
本年門前代表である塩見章一氏を中心に各家それぞれ意を合わせ門前墓地の大改修を行い、以って年来の宿願であった祖先への報恩の一端を成就したものである。
維持 昭和55年9月17日 興善寺29世 淳明誌す
(現地案内板説明文より)

この4家が檀家中の檀家ということなのでしょう。恐らく古くから興善寺には様々な形で寄与してきたのだと考えられます。このような寄与するのに一番の方法は、その土地の名主が土地を寄進するのが一番のようですが、ここはもともと朱印領ですから違った形での貢献なのでしょう。
いずれにしても興善寺にとっては、この4家は大事な檀家であることは間違いないことで、その感謝の現れがこの門前墓地ということでしょう。

参道を進むと右側にやはりありました定番中の定番である幼稚園です。
興善寺幼稚園
正式名称は「学校法人白岡学園興善寺幼稚園」というそうです。
その幼稚園の先に山門があります。
山門
楼門に比べれば質素です。

興善寺 所在地:南埼玉郡白岡町大字白岡
興善寺は、寺伝によれば慈覚大師円仁により、平安初期に天台宗の寺院として開かれたと伝えられている。
その後、室町時代中頃の文亀元年(1501)になって季雲永岳大和尚により現在の曹洞宗興善寺が興された。
代々の住職のうち、当寺5世智翁永珠大和尚は、後陽成天皇の信任厚く、心通徳江禅師の称号を賜っている。
更に下がって、徳川家康入府の翌年の天正19年(1591)には、家康から寺領15石を寄進され、この朱印状が寺宝として残されており、また、代々の将軍の朱印状11通も保存されている。
その他、寺の境内には、鎌倉、南北朝時代の特徴をもつ五輪塔や板石塔婆などがあり、また、本堂横には古い開山塔(年代不詳)もある。
昭和58年3月 埼玉県
(現地案内板説明文より)

「白岡八幡宮」「正福院」「篠津久伊豆神社」と同じ地域にあるので、凡そ同じような時を刻んでいるようです。
位置的には南から北に向って「白岡八幡宮」「正福院」「興善寺」「篠津久伊豆神社」という並びで、「正福院」「興善寺」は、恐らく歩いても10分程度の近距離にあり、由緒も「正福院」と同じようなものです。
特に興味深いのは、「正福院」は天台宗から真言宗に改宗されましたが、「興善寺」は同じ天台宗から曹洞宗に改宗されています。
改宗した歴史的背景、理由などは良く判りませんし、教義について深く掘り下げるつもりもありませんが、良い機会なので日本の仏教の分類だけでもこの際知っておくのも悪くないでしょう。

日本の仏教には、勿論数多くの宗派が存在するのですが、ある程度の伝統を持っている宗教を分類すると、概ね「13宗56派」といわれる13宗に分類できるようで、これ以外の宗、宗派は新興宗教と呼ぶのだそうです。

Ⅰ.奈良仏教系(南都六宗系):1.華厳宗、2.法相宗、3.律宗 
南都六宗とは、奈良時代、平城京を中心に栄えた仏教の6つの宗派の総称で奈良仏教とも言われているものです。多くの宗教が民衆の救済活動であるのに対して、東大寺を中心として各地の国分寺などで教義を学び合う学派です。したがって宗教上の実践は鎮護国家といった呪術的な祈祷を行うことが主だったようです。
六宗とは、法相宗・倶舎宗・三論宗・成実宗・華厳宗・律宗のことです。

Ⅱ.平安仏教(平安二宗)系・密教系:4.真言宗、5.天台宗
奈良仏教(南都六宗)が発展すると道鏡を代表とする専横の問題が起こり、それに対抗するために桓武天皇は平安京に遷都し、同時に奈良仏教に対抗できる新しい仏教として、最澄が唐から持ち帰った天台宗や空海が持ち帰った真言宗を保護したのです。これが平安仏教です。
特徴の一つは山岳仏教であることで、東大寺や国分寺を中心とした奈良仏教の都市仏教に対し、比叡山に延暦寺、高野山に金剛峰寺を開いたことです。更に、もう一つの特徴は加持祈祷を行う密教をもっていたことで、特に平安仏教は皇室や貴族の現世利益を叶える宗教という貴族仏教の色合いが強かった仏教なのです。

Ⅲ.法華系(鎌倉仏教法華系):6.日蓮宗
Ⅳ.浄土系(鎌倉仏教浄土系):7.浄土宗、8.浄土真宗(一向宗)、9.融通念仏宗、10.時宗
Ⅴ.禅系(鎌倉仏教禅系)・禅宗系:11.曹洞宗、12.臨済宗、13.黄檗宗
貴族仏教としての色合いの強かった平安仏教に対して、平安時代末期から鎌倉時代に台頭してきた武士階級や一般庶民に対して広まった仏教を鎌倉仏教と呼び、特に浄土思想の普及や禅宗の伝来の影響によって新しく成立した仏教宗派(浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、時宗、法華宗)のことを鎌倉新仏教と呼ぶ場合もあるようです。
これらの鎌倉仏教の特徴は、貴族仏教といわれた平安仏教が阿弥陀堂建立などのある程度の経済力の裏付けが必要であったのに対し、念仏、題目、座禅という比較的簡単な救済と悟りであったことから、新興武士階級や庶民に受け入れやすい仏教であったことです。

以上が、伝統宗教の13宗で、当然ながら時代の移り変わりとともに仏教も変化していったということになるわけで、寺院の改宗(宗旨替え)もまた、様々な時代的背景によって行われたものなのでしょう。

山門についても案内があります。

山門
山門または三門とも書き七堂伽藍の一つである。
当興善寺建物の中では最古のものである。もとは茅葺であったが、その後トタン張りとなっていた。
門前世話人塩見章一氏崇佛敬祖の念篤く、たまたま当山開創480年祭の勝縁に因み銅葺きに改め、山号額を掲げたものである。
維持 昭和55年9月17日 興善寺29世 興淳明誌
(現地案内板説明文より)

こうゆう強力な檀家のおかげで寺院が支えられているわけで、現在では檀家あっての寺院といえる時代であることを改めて感じさせられます。しかし最近では初詣や厄除けなどのCMは当たり前になって来た時代ですから、檀家だけでは支えられない時代なのかもしれません。

山門を抜けて参道を進むと、なんとも摩訶不思議な光景が現れます。
参道鐘楼
シックな参道の隣には夢の国…。
更に風雅な鐘楼にワンダーランド、といった印象的な光景が参詣者の気持ちを和ませるかのようです。
この梵鐘は元禄年間に、下大崎在住の岡安三左衛門居士を中心とする一門によって寄進されたものだそうですが、第二次世界大戦で供出となりその後梵鐘のない時代が続いたようです。そして平成4年に現在の梵鐘が寄進されたものだそうです。

鐘楼の先は参道がロータリーとなっていて、その向こう側に大きなダルマの石像が置かれています。
境内 達磨大師
見たままの「達磨大師」です。

達磨大師
お釈迦様(仏様)の教はいろいろな国へ様々な形で伝わりました。仏教の教えを正しく中国へ伝えたのがインドから中国に渡来した達磨大師です。
今日「禅」も教、禅宗として中国、日本はもとより世界中に広まっています。
ダルマさんは禅宗の初祖としてよりも七転び八起きのおきあがり小法師であったり、目無しダルマの縁起もの、車社会の最近では招福除災で交通安全祈願など広く人々に親しまれ私達の日常生活の中にとけ込んでいます。
興善寺29世 淳明誌す
(現地案内板説明文より)

ものすごい迫力を感じる達磨大師像ですが、「おきあがりこぼし」の“こぼし”は「小法師」という漢字だったとは初めて知りました。確かにダルマを見て偉い僧侶とは思えませんからね。
境内の庭園も非常に整備されていて美しい風景です。
境内 本堂
そしてその中に重厚感がありながら、それでいてスッキリしたような、何か大正ロマン的な本堂が鎮座しています。

本堂の横には「供養塔」や「観音堂」があります。
また、「白岡音頭」碑などもありなかなか興味深い寺院です。
供養塔 観音堂 「白岡音頭」碑
説明にあった「五輪塔」「板石塔婆」「開山塔」などは見当たりませんでしたが、単なる歴史を刻んだだけでない、趣のありそうな「興善寺」でした。

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