自然と歴史の白岡 #1

白岡町の歴史に触れられた、白岡町発祥の地とも言うべき白岡地区を後にして、一旦JR白岡駅に向かいます。
ここには、白岡町の特産品を販売している「白岡特産館」があるとのことなので向かってみたのです。
「白岡特産館」は白岡町商工会が推奨している梨以外の特産品が販売されているそうなので、特産品を知るには手っ取り早いところなのです。

しらおか味彩センター

JR白岡駅に到着すると西口の端に赤い屋根の印象的な「白岡特産館」があります。
JR白岡駅 白岡特産館
しかしながら本日は開いていないようです。確かに台風の来ている時にのんびり店を開けておくところもそう無いでしょう。
今回は外から眺めるだけで終了ということになりました。
白岡町観光協会のサイトで、特産品が掲示されていますので御参考に。

参考:【白岡町観光協会】-白岡特産館-http://www13.ocn.ne.jp/~shiraoka/machitokusanntop.htm

白岡駅からは町の東側にある「しらおか味彩センター」に向かいます。
しらおか味彩センター
白岡駅からは車で20分程度です。
丁度到着したときには台風の影響で土砂降りとなってしまいましたが、15分も待っていると雨も上がりました。
この「しらおか味彩センター」は、地元の農家の方たちが出品している農産物直売所である“おおばん市場”が主で、他に手打ちそばが食べられる“いっとこ茶屋”などがある施設です。

敷地の中央が芝生広場のようになっていて、その中心に「古代蓮の池」があります。
古代蓮
かろうじて1輪、2輪咲いているようで結構遅咲きです。
そしてこの広場を囲むようにして正面に建っているのが“おおばん市場”で、右側が“いっとこ茶屋”です。
しらおか味彩センター
“おおばん市場”には白岡町の農産物が沢山販売されています。
しらおか味彩センター
価格的に安いのか、高いのかは私にはよくわかりませんが、きっとリーズナブルなのでしょう。
一画には梨の販売コーナーもあり、ここで「幸水」梨を3個ほど買いました。
しらおか味彩センターの梨
かなりジューシーで甘く美味しい梨でした。流石にスーパーで買うのとは違うようです。
店舗の前では梨の直売も行われていて、地方配送や自宅配送など箱単位で購入できる販売所でした。
しらおか味彩センター 梨直売所 白岡美人
白岡の梨「白岡美人」は看板どおりに期待に違わない逸品のようです。

一里塚

次に向かったのが県道65号線沿いにある「一里塚」です。
一里塚
「しらおか味彩センター」からは15分程度でしょうか、意外と直ぐわかる位ですから十分一里塚の機能を果していたのでしょう。

埼玉県指定史跡「一里塚」 南埼玉郡白岡町下野田
一里塚は中国で榎樹を植え銅表を立てて里数を記した?塊の制に起源をもつ。日本では一般に徳川氏が制度化したといわれている。
慶長9年(1604)徳川家康は秀忠に命じて、江戸日本橋を起点にして榎を植えた一里塚を築かせ、全国に普及させた。一里塚の造築は、大久保長安が総督として司り、幕領は代官に、私領は領主に命じて行わせた。
榎を一里塚に採用したのは、榎の根が広く張って塚を固め、塚が崩れにくするためであった。しかし、榎の代わりに松などを植えた地方もあった。
この一里塚は日光御成道に設けられたもので日本橋から11番目にあたる。日光御成道は将軍が日光東照宮に参詣するために専用の道で、鎌倉街道と称される古道を整備して利用したものと思われる。
埼玉県教育委員会・白岡町教育委員会
(現地案内板説明文より)

一里塚の起源である中国では榎ではなく、中国原産の「槐(エンジュ)」の木が使用されたとも言われているようです。また、当時の中国での1里は約500mだったそうです。
ここで少し日光御成道と一里塚について調べて見ます。

この説明にもあるとおり、日光御成道は将軍が日光東照宮に参詣するために専用の道であったのですが、なぜこのような専用の道が使われるようになったのでしょうか。
江戸幕府は、慶長9(1604)年から日本橋を起点に主要五街道(東海道・中山道・甲州街道・奥州街道・日光街道)の整備をはじめました。
その主要街道のひとつの「中山道」は日本橋を発し本郷追分の一里塚先で左に折れますが、そこからほぼ直進方向に進む脇街道があり、古くは鎌倉街道と呼ばれていたのですが、岩槻藩の参勤交代に使われたことから「岩槻街道」と呼ばれるようになったようです。そしてこの「岩槻街道」は埼玉県の幸手市で千住から延びる奥州街道と合流するのです。つまり、この本郷追分から幸手追分までの「岩槻街道」は元々岩槻藩の参勤交代のために使われた街道だったということです。
当時、五街道が整備されていて日光に向かうための「日光街道」がありながら、どうしてこの「日光街道」を使用是せず、「岩槻街道」を使用したのでしょうか。

江戸時代初期の元和2(1616)年、駿河で没した家康の霊柩は久能山に収められましたが、遺命により翌元和三年4月8日に日光奥院の岩窟に安置されました。
翌年の元和3(1617)年の一周忌に徳川2代将軍秀忠は、数名の供回りを従えただけで雨中馬で日光に向かったのだそうです。このときに進んだルートが江戸城から本郷追分、そして王子・岩淵・川口・鳩ヶ谷・大門を経た「岩槻街道」ルートで岩槻に到着し、その岩槻で一泊したのだそうです。丁度現在の中山道~本郷通り~国道122号線のルートにあたるところです。
何故このルートを選んだかといえば、かつて関が原の戦いの前の「上杉征伐」の際に家康本隊が利用したことから、吉例として秀忠が利用したというのがその理由だったそうです。
岩槻で一泊した一行は幸手から日光街道に入り栗橋で利根川を渡り、古河、宇都宮にて宿泊し日光廟を参拝したのだそうです。
そしてこの時から、このルートが将軍の社参道となり、本郷追分から幸手までの「岩槻街道」は「御成道」と改称されたのです。

こうして始まった「日光御成道」の歴史ですが、最初の秀忠の参拝は数名の家臣を連れただけの私的なものでしたが、三代将軍家光が東照宮を造営してからは、旗本や譜代大名を連れた大々的な日光社参となったのです。このことから「日光御成道」は格式の高い将軍専用街道となり、他の大名行列は禁止となったそうです。(但し岩槻城主だけは他にルートが無いため特例で許されたそうです)
しかしその後は財政難により日光社参も中断していたようですが、八代将軍吉宗は享保13(1728)年に将軍家の威信復活もかねて、譜代・旗本133,000人、人足228,000人、馬にいたっては326,000頭という途轍もない日光社参を敢行したのでした。現在の貨幣価値で換算すると凡そ200億円に相当するとも言われているようです。
このように将軍専用となった「日光御成道」ですから、警備も厳重で、見通しが利くように樹木が切り払われ、沿道は掃き清められたそうです。これらはすべて近在の人々が助郷役として借り出されたのですから、沿道の住民の苦労も多かったようです。
そして、警備の都合上、供回りの諸大名は千住から続く日光街道を使ったのだそうです。
こうして日光社参のための「日光御成道」が最後に社参として使用されたのが、第12代将軍家慶で天保14(1843)年でした。本体は4月13日に江戸城を立ち、「日光御成道」を通って16日に日光に到着したそうです。総勢は14万人だったそうです。
こうして江戸幕府将軍と縁の深かった「日光御成道」は、ある意味では五街道より由緒正しき街道だったといえるのかもしれません。

説明では下野田の一里塚は11番目とありますが、「日光御成道」には全部で13の一里塚があったようです。
1.本郷追分一里塚(文京区向丘)、2.西ケ原一里塚(北区西ケ原)、3.稲付一里塚(北区赤羽西)、4.元郷一里塚(川口市末広)、5.鳩ヶ谷一里塚(鳩ヶ谷市)、6.戸塚一里塚(川口市戸塚)、7.大門一里塚(さいたま市緑区大崎)、8.膝子一里塚(さいたま市見沼区膝子)、9.岩槻一里塚(さいたま市岩槻区本町)、10.相野原一里塚(さいたま市岩槻区相野原)、11.下野田一里塚(南埼玉郡白岡町下野田)、12.下高野一里塚(北葛飾郡杉戸町下高野)、13.幸手追分(幸手市南)

そしてこの13の一里塚のうち現存するのは4つで、1.西ヶ原一里塚(東京都北区・国指定史跡)、2.膝子一里塚(さいたま市見沼区・市指定史跡)、3.下野田一里塚(南埼玉郡白岡町・埼玉県指定史跡)4.下高野一里塚(北葛飾郡杉戸町・埼玉県指定史跡)で、更に左右が残っているのは西ヶ原一里塚と、ここの下野田一里塚だけで埼玉県では唯一だそうです。
一里塚 一里塚 一里塚
西ヶ原一里塚については、以前【ミステリーウォーク2009】で訪れていますが、ある意味下野田一里塚の方が、往時に近く左右がはっきりしていると思えます。
最も都内で往時を維持するのはもっと大変でしょうが・・・。それにしても大変貴重な文化財を見ることができました。

伏越橋

「下野田の一里塚」の街道の要所から、次は水上の要所である「伏越橋」へ向かいます。
ここ白岡町は山地は無く殆ど平坦な地形であるのですが、西の境を元荒川が流れており、町内を中川水系の小河川が複数縦断するという特徴を持っています。
河川としては元荒川、星川、備前堀川、姫宮落川、隼人堀川、庄兵衛堀川、野通川が流れていて、用水としては見沼代用水、黒沼用水、笠原用水、高岩落用水、三ヶ村落堀という数多くの流れがあるのです。
従ってこれだけ多くの流れがあるのですから当然、これらの河川・用水が交差することがままあるわけです。そして何と白岡町にはこの川の立体交差が9箇所もあるのです。
そのうちの代表的な立体交差の1つが「伏越橋」なのです。場所は先に訪れた篠津久伊豆神社の北方向で10分くらいの位置です。

立体交差地点に到着するとポケットパークに案内板が立っており、何故か車が一台置ける駐車スペースがありました。
ポケットパーク

黒沼用水の伏越橋と掛樋
黒沼用水は享保13年(1728)に井澤弥惣兵衛為永によって、黒沼(岩槻市)の干拓に際して沼水の代わりの用水を供給するために掘られた水路です。
この用水は見沼代用水の支線で、利根川の水を取り入れ、県東部の菖蒲町・久喜市・白岡町の水田に水を供給する用水路の一つです。
黒沼用水は、この伏越橋で高台橋から台地を開削して流れる隼人堀川と立体交差をしております。現在は黒沼用水が隼人堀川の川底をサイフォン方式でくぐり抜けておりますが、平成6年の改修以前は黒沼用水が掛樋方式で流れておりました。
白岡町教育委員会
(現地案内板説明文より)

改修以前の掛樋方式の図が案内板に掲載されています。
伏越橋 《図:(C)白岡町教育委員会》
今までこのような川の立体交差は幾つか見てきましたが、すべてが伏越方式です。やはり安全面や維持管理等にはこちらの方が優れているのでしょうかね。

そして、この橋が「伏越橋」で、この下を東西に流れているのが“隼人堀川”です。
伏越橋 伏越橋 隼人堀川
この“隼人堀川”は白岡町柴山を管理起点として、宮代町を通過し春日部市で古利根川に合流する1級河川です。元々は見沼代用水路の完成と共に、溜水の排水のために掘られた川だったそうで、交差する黒沼用水路は延長12kmの用水だそうで、こちらは南北に流れているのです。
こちらが黒沼用水の上流からのサイフォン地点です。
黒沼用水 黒沼用水サイフォン
そしてこちらが下流から見たサイフォン地点です。
黒沼用水 黒沼用水サイフォン
丁度、下流から見ると「伏越橋」の左側を並行して通過しているのです。
そして下流にその改修の記念碑が建てられており、「黒沼笠原用水路竣工記念碑」と刻まれています。
黒沼笠原用水路竣工記念碑
黒沼笠原用水路とは、見沼代用水路から菖蒲町分水された用水路で、かつての菖蒲町(現在は久喜市)エリアでは「中島用水」と呼ばれ、久喜市エリアでは「黒沼笠原用水」とよばれるのです。
そして、この「黒沼笠原用水」は久喜市の江面地区で黒沼用水と笠原沼用水に分水され、黒沼用水が白岡市を流れているのです。更にこの黒沼用水は白岡町の太田新井で「内牧用水」と「豊春用水」に分水し、黒沼用水は終点となるのです。
両方の河川規模が小さいので、サイフォンのイメージが判りやすい川の立体交差です。

この伏越橋のかかっている隼人堀川の上流に趣のある橋「高台橋」があります。
高台橋
この高台橋は見た目同様歴史のある橋のようで、明治9年の調査では「岩槻道に属する長さ6間(10.8m)、幅3間(5.4m)の土橋」と記載されているようです。当時の土橋は木造の橋の路面に土を持った形式の橋です。
現在は当然アスファルト舗装されていますが、現在でも片側1車線の2車線道路となっているのですから、当時としては長さが短い割りに幅の広い立派な橋だったと思われます。
高台橋 高台橋
現在、この橋もそうですが高台橋と隼人堀川周辺は、ソメイヨシノを始めとして、菜の花や花桃、水仙など百花総攬の美しい景観を作り出していうるそうです。
白岡町では花見の名所として親しまれているそうですが、やはり夏は蒸し暑そうで、更に川がそれほど綺麗でもないので風情がないですね。
やはり花は春に限るのでしょう。

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