自然と歴史の白岡 #2

「一里塚」「川の立体交差」などを散策して、次に向うのは「柴山地区」です。
柴山地区は「柴山沼」や「柴山伏越」などで有名な水の町です。
「高台橋」の隼人堀川を遡って管理起点である柴山方面に向います。最後にどんな白岡を見ることができるのでしょうか。

大山民俗資料館

隼人堀川沿いを遡上すると町立大山小学校があり、校内に「大山民俗資料館」があります。
学校の敷地内にあるためか、学校内の安全等を考慮して開館しているのは毎週木曜日と日曜日だけだそうです。
逆に日曜日は生徒がいないことから、不審者が入ってきてもとりあえずの安全は確保できるという考え方でしょう。
町立大山小学校
したがって校門は半分ほど開いていて車で乗り込んで来客用の駐車場に停められるというコンビニエンスなのですが、何となく日曜日の人気のない学校は入りにくいものです。
校門から真っ直ぐ進んで校舎に突き当たったら右手に曲がり、渡り廊下を抜けて校内の一番東側に資料館がありました。
町立大山小学校
若干判りにくい場所ではあります。

白岡町立大山民俗資料館 所在地:南埼玉郡白岡町大字荒井新田
大山民俗資料館は、昭和56年7月に町立大山小学校旧校舎の校長室、職員室を移築し、町内の篤志家から寄贈された民俗資料を展示公開している資料館である。
館内には、馬耕、水車、稲や麦作用具等のほか、この地域の特産物である梨の生産用具などが主として展示されているが、そのほかにも大山地区の皿沼遺跡から出土した縄文土器などを展示する考古資料展示コーナーとか生活用具展示室、古文書展示コーナー、板石塔婆展示コーナーなどがあり、約200点の資料が展示されている。
開館は、毎週木・日曜日と、子供の日、文化の日の午前9時から午後4時までとなっている。入場は無料である。
昭和58年3月 埼玉県
(現地案内板説明文より)

こじんまりとした資料館ですが、古きよき時代の学校が味わえそうな校舎です。
大山民俗資料館
嘗て私の通った小・中学校もこのような木造の校舎でしたね。早速、入館します。

説明にあったとおり様々な生活・生産用具が展示されています。
生活・生産用具 生活・生産用具
その中でちょっと変わった展示がありました。
堀上げ田
「堀上げ田」です。

堀上げ田
堀上げ田とは、湿地に幾つもの堀を作り、その堀を掘るときに生じた土を嵩上げして作られた田んぼのことです。堀上げ田はホッツケ、ヌマッタ(沼田)などとも呼ばれています。堀上げ田の特徴として、たくさんの堀が生じ、柴山沼や皿沼の写真のように魚の骨のような堀が巡らされているのがよく分かります。
堀上げ田の稲作で大切な作業にノロアゲがあります。これは田植え前に堀の泥をジョレン、ノロアゲジョレンなどど呼ばれる道具で田んぼに揚げていく作業です。
町内の堀上げ田の分布は、皿沼、柴山沼の外にも、下大崎の野窪耕地、爪田ヶ谷の諏訪地区、笠原地区、亥開地区、高岩の内腰巻地区、南真泥地区、寺ノ下地区、上野田の外大町地区、小久喜の小沼地区、野牛の北谷地区、南谷地区がありました。
(館内説明文より)

このネーミングも面白い「堀上げ田」は、全国的に見てもかなりこの地方独特のものらしく、白岡町以外では久喜市、菖蒲町、幸手市、杉戸町、鴻巣市、行田市、宮代町に分布していて、県外では館林市(群馬県)、古河市(栃木県)、輪中(岐阜県)程度にしかないようです。
展示されている用具が「ジョレン」でしょう。
こういった農耕方法があるのも、水の町故なのでしょう。

用具の展示の次の展示には梨栽培に関するコーナーです。
梨栽培コーナー
梨の写真の手前にあるのが梨の生産用具です。
ここには、梨棚の下ではいた「高下駄」や梨の木の樹皮を剥ぐために使った「カッパギ」、「剪定鋏」などのほか、段ボール箱が登場する以前に使用されていた出荷用の梨籠や梨の実の袋掛けに使用した柿渋塗りの紙袋などが展示されています。
梨栽培コーナー
そしてここでは、梨についてのパネル展示があります。

梨づくりの歴史と産地
白岡町の梨栽培の歴史は、明治36年に新井新田の加藤喜助家(屋号は大梨屋)に230本の木を植えたことから始まりました。この時には、長十郎などの五種類が三反の畑に植えられました。また、同43年には上野田の小島好太郎家にも伝授されました。
大正13年には大山梨出荷組合が設立され、竹製の籠に入れられた梨は鴻巣、桶川、大宮、岩槻などの市場へ出荷されていました。昭和になり下大崎に共同出荷場ができ、また日勝村果物出荷組合が設立されてからは、トラックによる東京市場への出荷も行われるようになりました。
白岡町を中心とする南埼玉郡が産地を形成するようになったのは大正年間からです。
(館内説明文より)

新井新田はこの資料館のある周辺ですから、このあたりで最初梨の栽培が始まり、それを伝えたのが冒頭にあった本書の説明の「五十嵐八五郎」だったということになるわけです。
ちなみにこの「五十嵐八五郎」の功績を讃えた記念碑が久喜市にあると教えていただきました。

品種の変遷
梨は、「日本梨」「西洋梨」「中国梨」の3種類に分けることができます。日本梨には、幸水・豊水・二十世紀などがあり、ニホンヤマナシという野生種を基に改良されたものだといわれています。ニホンヤマナシは、今も日本や中国大陸、朝鮮半島にありますが、これからさまざまな品種をつくったのは日本だけです。
また、皮の色によって「赤梨」「青梨」と分けることもできます。赤梨には、幸水・豊水・新高・長十郎、青梨には、二十世紀・八雲・菊水などがあります。
(館内説明文より)

昭和初期での品種は、半数以上の60%が「長十郎」であったようですが、現在では「幸水」が60%(データ年度不詳)を占めているそうです。以前に“いちご”についても知りましたが、梨もまた時代ごとに品種改良も行われ、より美味しい品種が産み出されているわけです。

白岡の梨栽培
白岡町の特産品に梨があります。白岡町周辺は埼玉梨の主産地です。春、桜の花が散った梨園は白一色に染まります。
梨が日本に伝わったのは古く、古来から多くの人々に愛されてきました。かつては、平安貴族に高価な「水菓子(果物」として重宝され、“ありの実”と呼ばれていました。「延喜式」には、青梨が東国から菓子として朝廷に献上されたことが記されています。江戸時代には、滋養強壮の食物として親しまれていました。
白岡町に梨栽培が伝わったのは、明治36年です。本格的に梨栽培が広まるようになったのは、大正年間以降です。その後、農家の方々の努力と研究により、今日あるような埼玉一の産地を形成するようになりました。
市場関係者への売り込み、出荷の方法、消費者の嗜好に合うような品種の改良とさまざまな取り組みが行われました。
また、今日では、“梨リキュール”や“梨ケーキ”などの特産品が開発されています。
(館内説明文より)

日本で梨が食べ始められたのは弥生時代頃とされていて、登呂遺跡などから食用にされた根拠の種子などが見つかっているそうです。しかし、それ以前の遺跡からは見つかっていないことと、野生の梨(ヤマナシ)の自生地が人里周辺のみであることから、梨は大陸から人の手によって持ち込まれたと考えられているようです。
文献で初めて登場するのは「日本書紀」で、持統天皇の693年の詔において五穀とともに「桑、苧、梨、栗、蕪菁」の栽培を奨励する記述があるのだそうです。
そして江戸時代においては栽培技術も発達し、100を越す品種が栽培され、江戸近郊では特に現在の市川から船橋にかけて盛んだったようです。
この説明文の中に「ありの実」という記述があるのですが、無いのに有りの…、とはいかにと首を捻るところですが、次の解説を読むと納得です。

梨の民俗
梨は語源が「無し」に通じるため、縁起言葉として「有りの実」と言い換えることもあります。また、家の建材に梨を使えば「何も無し」で盗難にあわない、鬼門に植えて「鬼門無し」と喜ぶこともあります。
梨は、白い果肉とサクサクという歯ごたえから歯痛の時に初梨を神に供えたり、川に流したりする所もあります。このほか、発疹よけのまじないや咳き止め、解熱の薬としても使われます。
西洋では女の子が生まれると梨の木を植えるといいます。
梨は年中行事の供え物としても用いられます。十五夜の月見には、縁側に箕を出して御神酒、梨、栗、すすきなどが供えられます。また、杉戸町永福寺の「高野の施餓鬼」では、梨が土産物としてもとめられます。
(館内説明文より)

当初は、食用というよりは薬用や呪術的なものとして見られていたのではないでしょうか。
こうなると「梨」の語源を知りたくなりますが、語源の由来には諸説あるそうです。
新井白石は中心部ほど酸味が強いことから「中酸(なす)」から転じたものではないかと述べているようで、そのほかには、果肉が白いことから「中白(なかしろ」、或いは「色なし」。また、風があると実がならないため「風なし」、更に「甘し」「性白実(ねしろみ)」などがあるようですが、いずれにしても「有り」「無し」の何かしらの意味合いが強い気がします。

梨のコーナーの次には生活用具展示室があります。
生活用具展示室
行灯や石油ランプ、アイロンなどなど少し懐かしさを感じるものもありますが、一応私の時代よりももっと昔の時代のものと言っておきましょう。

その先は「新井白石」のコーナーです。
新井白石は6代将軍家宣に仕えて「正徳の治」を進めた人物として、歴史の授業で必ず現れ憶えさせられる人物ではあるのですが、それ以上の事は全く知らない歴史の授業だけの人物でした。
しかしながら、そんな人物がこの白岡に縁があるとは驚愕です。折角なのでしっかり学んで見たいものです。
先ずは、新井白石の一般的なプロフィールから。

30歳のころ木下順庵に朱子学を学び、35歳で堀田家を致仕し、その後順庵の推挙で1693(元禄6)年甲府藩主徳川綱豊に仕えます。
1709(宝永6)年綱豊が六代将軍家宣になり、側用人間部詮房とともに幕政を補佐し、武蔵国埼玉郡に500石を賜り、のち相摸国に500石を加贈されました。
生類憐の令など将軍綱吉の時の弊政の廃止、朝鮮使節の簡略化、幣制の改革、外国貿易の制限、閑院宮家の創立など多方面の制度改革を執行し、家宣の死後、詮房とともに七代将軍家継を補佐したそうです。
家継の死後、1716(享保元)年吉宗が将軍となるとともに失脚したそうで、日本史的に見ればこうゆうことになるわけです。
これを白岡町でのプロフィールとなると以下のようになるようです。

新井白石と白岡
新井白石は明暦3(1657)年、上総国久留里城主土屋利直の家臣新井正済の子として、江戸柳原の土屋氏仮邸で生まれた。この年は正月に江戸で大火があり、江戸城も本丸、二の丸等を焼失している。世にいう「振袖火事」である。
長じた白石は、13歳ですでに土屋利直の代筆を務めていうる。しかし、延宝5(1677)年2月土屋氏の内紛に連座し、追放・禁固に処されてしまう。白石21歳の春である。
その後、大老堀田正俊に仕えるが正俊は暗殺されてしまう。嫡子正仲に使えるが正仲は出羽山形転封となり、随行するが貧窮に苦しみ、元禄4(1691)年には堀田家を退任する。
元禄6(1693)年、木下順庵の推挙により甲府藩主徳川綱豊の侍講として出仕、この時白石37歳、40人扶持となる。徳川綱豊は、その後5代将軍綱吉の養嗣子となり、家宣と改名し江戸城西の丸に入る。
宝永6(1709)年、5代将軍綱吉の死去に伴い幕府に登用され、「急務三条」の進言や幕府財政の打開策、長崎貿易、朝鮮使節の待遇などについて進言するなど、急速に発言力を増してゆく。5月には家宣の将軍宣下の式に参列、7月には扶持を知行に切り替えられ、500石の領地を拝領することとなる。白石53歳である。
この500石の領地は「折たく柴の記」には、「武蔵国埼玉、野牛村、比企奈良梨村、越畑村等二郡において500石の地を賜りたり」と見え、宝永6年に新井白石53歳で初めて拝領した領地の中に野牛村の名前が見える。
しかし、奈良梨(小川町)、越畑(嵐山町)の地は丘陵部にあり、水田耕作には不向きな地であったようである。
この頃の白石は、まさに日の出の勢いという言葉がふさわしい。正徳元(1711)年8月には、朝鮮使節の接待役を命ぜられ、その2ヵ月後の10月には叙爵(従五位下、筑紫守)を果たしている。同年11月、朝鮮通信使の接待の宴席で使節と論争し退職を願い出たが家宣に慰留され、使節帰国に伴って11月22日には、朝鮮通信使接待役の労に対して500石加増され1000石となっている。
(館内説明文より)

子供のころから学芸に非凡な才能を現し、僅か3歳で父の読む儒学の書物を写本したという伝説もあるようです。このように聡明なのですが気性が激しく、しかも怒ると眉間に「火」の字に似た皺ができることから土屋利直は白石のことを「火の子」と呼んで可愛がったそうです。
幕府に登用された際には、無役の旗本なので、御用部屋に入るわけにはいかない為、家宣からの諮問を側用人間部が白石に回送し、それに答えるという形を取ったそうです。
現在で言えば政治顧問といった意味合いかもしれませんが、幕閣でも側用人でもない一介の旗本が、将軍侍講として幕政の運営にこれほどまでに関与したのは、この白石をおいて他に例を見ないと言われているそうです。
そして極端な理想主義者であったとも言われていて、自分の信念を曲げず貫き通す性格だったようで、他人にも厳しかったことから「鬼」と呼ばれることもあったようです。
漠然とイメージしていたキャラクターとはちょっと違うようです、あくまで個人的ですが。

何れにせよ、こうして発言力を増した白石は「正徳の治」を推進するのですが、先にあったように吉宗が将軍となって失脚した後は、享保2(1717)年に幕府より与えられた千駄ヶ谷の土地に隠棲し、不遇の中で著作活動に励み、その中の一つの回想録が「折たく柴の記」なのです。

折たく柴の記
野牛のある家に「折たく柴の記」の写本が伝わっている。「折たく柴の記」は、白石自身を含め新井家代々の事跡を子孫に書き残しておこうとの意思で執筆されたものと思われ、もともと新井家以外の人々の目に触れることは想定されていない。このことは、序文に「外ざまの人に見るべきもにもあらねば」云々とあることからもわかる。
白石の意向どおり新井家でもなかなか外部へは出そうとしなかったようである。今日、新井家に白石自筆の清書本が伝わるのもそのためであろう。しかし、どのような経緯をたどったのか、次第に筆写され広く読まれるようになっていったようである。領地である野牛の地に写本が残されているのは、何より領主としての白石が敷いた善政と、これを慕った領民との良好な関係を示すものといえよう。
(館内説明文より)

ということで大層貴重な原本なのでしょう。その原本の写真が掲載されています。
折たく柴の記 《写真:(C)大山民俗資料館》
しかしながら、現在この「折たく柴の記」は、岩波文庫や中央公論社などから刊行されているようです。
折たく柴の記 折たく柴の記
個人的に読んだことは無いので、ここは「松岡正剛の千夜千冊」の一説を引用させてもらいます。

…。 それゆえ白石を読むということは、歴史の只中にもぐりこみ、将軍家の側近にいた眼によって日本(和学)と中国(儒学)の相対的な歴史の現在化に立ち会うということを意味するわけなのである。 あまりいい例ではないけれど、昭和平成の読者が司馬遼太郎を通して“この国のかたち”に立ち会ったようなものである。おそらく白石を読んだ近世・近代の読者は、司馬遼を借りて日本を読んだように、白石の日本を読んだのであったろう。  『折りたく柴の記』については、白石ほどの男が二度の浪人の身を体験して、そうとうの苦労辛酸をなめていたというあたりにも、それなりの滋味がある。他人の苦労を読んでおもしろがるというのはいただけないが、これが白石のような自信屋の告白となると、やはり味わいがある。…
(「松岡正剛の千夜千冊」より)

司馬遼の「この国のかたち」を読んだことのある私にとっては実に概要がイメージできる書評です。流石、政治家のみならず、朱子学、歴史学、地理学、言語学など博識の白石の面目躍如といったところでしょう。
そしてその領地を賜った経緯も説明されています。

野牛領拝領
正徳元(1711)年11月22日、白石は朝鮮使節接待役としての功が認められ、500石加増されている。この時加増されたのは、相模国(現神奈川県)鎌倉郡植木村、城廻村、高座郡上大谷村などであるが、同時に前々年領地となった比企郡の地を返しその代わりを野牛村に当てて欲しいと望んで許されている。「ここにおいて、野牛一村の地ことごとく我領となりたり」との言葉からも白石の野牛村への強い思いや喜びがうかがえる。丘陵部の谷間の田と比べ、野牛は日川の運んだ肥沃な土壌があることに加え、開発の余地のある後背湿地が広がっているのを見逃さなかったのであろう。白石が新田開発のために掘らせた溝渠は「白石堀」あるいは「殿様堀」と呼ばれ、姿は変わったものの今も水をたたえている。
(館内説明文より)

余りメリットのない比企郡を返上し、メリットの大きな野牛を獲得するという政治家特有の駆け引きにも抜かりがないといったところです。
そしてここに記述のある朝鮮使節接待役に関連するエピソードも掲出されています。

朝鮮通信使奉納扁額
野牛久伊豆神社のの扁額「久伊豆神社」の4文字は、野牛に2度目の知行地が宛がわれた際に朝鮮通信使製述官李?(東郭)が揮亳したもので、正徳元(1711)年1月22日に白石に行われた500石加増を祝し、白石の所望により贈られたものと推定される。
この扁額は久伊豆神社拝殿正面の向拝下に掲げられており、庇はあるが材質・塗りに風雨や自然光による退色や劣化が見られる。
なお、この扁額の下書きは軸装で、全体に劣化がみられるものの、桐箱に保管され、代々名主や神社総代長宅で大切に保管されてきたものである。
寸法は、扁額が縦86.5cm、横56.3cmである。下書きが、縦60.0cm、横25.0cmである。
この扁額は、近世野牛村の領主であった新井白石に関する資料として、また朝鮮通信使との交流を伝える資料として極めて貴重であり、白岡町の文化財として指定されている。
(館内説明文より)

ある意味政治家とは財産が充分得られると、次に欲しくなるのは名声です(と、勝手に思っています)。白石にとってもやはり名声を誇らしく思っていたのでしょうね。明治以降なら銅像でも造るかもしれません。
このように政治家から権力者としての一面も覗けるのですが、一般的な権力者とは違い白石の場合は領地に単に胡坐をかいていただけではないようで、積極的に領地の細かい内政にも関与したようです。こういったところはなかなか真似のできないところでしょう。

白石の村政
野牛村の名主を務めた大久保家に伝わる「大久保家文書」の中に「道隣沙汰申渡状」「幸手宿増助郷役免除願」という古文書が伝わっている。前者は土地の境界争いに荷担した「道隣」(人名か)に対して今後行動を慎むように申し渡した書状であり、研究者によれば、白石自身か白石に近い祐筆の筆になるものといわれるものである。
後者は日光東照宮で行われる家康等の法要に際し、日光御成道沿道の村々に課せられた助郷役について二重の負担となるので免除願いたいという道中奉行への願状であり、「新井筑後守知行所野牛村」との文字がうかがえる資料である。特に前者は、白石が実際に野牛の村政に関与した可能性を示す資料として貴重なものといえる。
(館内説明文より)

一里塚で知った日光御成道の助郷役がここで現れました。やはり土地の人々にとっては、助郷役は大変な重荷だったことが良く判る事例です。
その「道隣沙汰申渡状」「幸手宿増助郷役免除願」の写真がこちらです。
「道隣沙汰申渡状」「幸手宿増助郷役免除願」 《写真:(C)大山民俗資料館》
これらのことから善政を敷き、領民にも親しまれたことがうかがえる資料であることがわかります。
その一つの流れが「記念碑」に結びついていったのでしょう。

郷倉と白石公顕彰会
郷倉とは、天災に備えて穀物を貯蔵する施設のことで、この郷倉は村民の生活の安定を図るために、白石によってた建てれたものである。そこで、野牛地区では終戦まで新井白石を偲んで白石の命日に当たる5月19日には、毎年報恩供養を行ってきた。報恩供養では、白石の肖像画を掲げて白石の遺徳を讃え語り合ったという。
写真の「新井白石公御領所屋敷跡」の記念碑は、昭和3年4月に報恩会が建立したもので、同年この倉屋敷跡は埼玉遺跡保存会の指定となった。
(館内説明文より)

こちらがパネルに掲出された写真で、中央にあるのがその記念碑でしょう。
郷倉と白石公顕彰会 《写真:(C)大山民俗資料館》
このように全く気にも留めなかった「新井白石」がこのような身近な形で知ることができるとは貴重な経験でした。
時間が有れば白石縁の場所を訪ねてみたいものです。

最後は「皿沼遺跡の土器」および「板石塔婆」が展示されています。
皿沼遺跡の土器 板石塔婆
皿沼遺跡の出土品は縄文時代中期から後期(約4,500~3,000年前)と古墳時代前期(1,700年前)のもので、板石塔婆は鎌倉時代から室町時代のものだそうです。
それ程大きくは無い資料館ですが、結構充実された展示内容で、掘り起こせばまだまだ興味深い事実も見つかるのでしょうが、時間もそれ程無いことから資料館を後にします。

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks