自然と歴史の白岡 #3

「大山民俗資料館」を出てからは、大山地区周辺を散策します。
まず、最初に訪れたのは「柴山沼」です。

柴山沼

資料館から10分もかからないところに、比較的大きな沼、「柴山沼」に到着です。
柴山沼
「柴山沼」は元荒川による下浸作用によって作られた河川の痕跡なのだそうです。下浸作用というものが、どのような作用なのか調べても判りませんでしたが、要するに川の一部分が深く侵食され、その他の浅い川の部分が無くなってしまったものということでしょうか。勝手な推測ですが…。
全くの余談ながら、“池”とは地表上の淡水で覆われた領域のことをいうそうで、通常“湖”ほど大きくないものを言うそうです。慣例的には水深が浅いもの(概ね5m未満)を“池”、それ以上のものを“湖”というそうです。
それでは“池”と“沼”の違いはというと、やはり水深が5m未満で、最深部まで植物が繁茂しているものを“沼”と呼んでいるようです。

1728(享保13)年に井沢弥惣兵衛によって沼の一部が干拓され、先の資料館にあった「堀上げ田」として開墾されたようですが、中央部は未開拓だったそうです。井沢弥惣兵衛とは言わずもがなの見沼代用水路を開削した人です。
その後、1977(昭和52)年からの埼玉県営圃場整備事業で面積12.5ha、水深約8mの規模の沼になったそうです。そして1992(平成4)年より始った埼玉県営水環境保全事業によりビオトープなどが整備され、更に釣の名所としても親しまれているようです。
ただ昭和52年時には水深8mになったことから本来は湖というべきところなのでしょうが、まあ、名前を変えるのも大変な労力がかかりますから、あえて事を荒立てる必要もないでしょう。
また、案内図を見れば判るとおり、沼の左上の端がビオトープとなっており、中央から右側は釣ゾーンとなっているわけです。
柴山沼
果たしてビオトープと釣り場が共存するということが有り得るのかどうか素朴な疑問も無いわけでは無いのですが、町民が楽しめればこれもまた事を荒立てることも無いのでしょう。
このような風景を眺めていれば、気持ちも癒されてくるわけですから。
柴山沼 柴山沼
まさに、町民の憩いの場なのでしょう。

柴山沼から西に向った右手には「白岡町梨選果センター」がありました。これが本書の説明にあった共同選果場でしょう。
白岡町梨選果センター
平成7年度、地域農業基盤確立農業構造改善事業(経営基盤確立農業構造改善事業)という大変長い名前のプロジェクトにより造られたようですが、要する「梨」を基盤とした産業をより強固なものにするための施設といったところでしょう。
中には入りませんでしたが、設備としてカラーセンサーが設置されていて、自動的に出荷選別が行われるといったもので、白岡町らしい施設といえるでしょう。

また、ここから少し先の左手にはJA南彩白岡農産物直売所である「ふれあいハウス」があります。
ふれあいハウス
まさに、現在梨のシーズンで、ここ「ふれあいハウス」でもたくさんの梨が販売されていました。
ふれあいハウスの梨 ふれあいハウスの梨 ふれあいハウスの梨
1袋500円のものから、1ケ400円のものまで多種多彩のようです。同じ豊水でも大きさや味が随分と違うのでしょうね。
ここからは南下して先ほどの井沢弥惣兵衛の墓所のある「常福寺」と弥惣兵衛の開削した「柴山伏越」に向います。

常福寺・柴山伏越

やはり10分ほどで「常福寺」に到着です。
道路の右側に山門があり、余り広くは無い境内のためか、道路のすぐ近くに本堂があります。
常福寺 常福寺本堂
常福寺 境内にはこんな大釜もありましたが…。
そして境内の左手のやはり道路の直ぐ前に「井沢弥惣兵衛の墓所」がありました。
井澤弥惣兵衛為永の墓 井澤弥惣兵衛為永の墓

見沼代用水路開削者 井澤弥惣兵衛為永の墓
見沼代用水路普請奉行 幕府勘定吟味役 紀州流土木技術者
紀州溝口(和歌山県海南市)に生まれました。はじめ紀州徳川家に仕えましたが、藩主吉宗が8代将軍となった時、招かれて旗本となる。全国各地の河川改修や新田開発に著しい活躍をし、勘定吟味役に昇進しました。
為永の行った最大かつ代表的な紀州流土木事業が、見沼の開発であり、享保12~3年(西暦1727~8年)奉行として自ら測量設計監督にあたり見沼の干拓、代用水路の開削、沿線の新田開発を行った。重要な施設の中でも、この地の柴山伏越は用水と河川の立体交差で、瓦葺掛渡井(現在伏越)と共に為永のすぐれた技術を知ることができます。
元文3年(西暦1738年)3月1日逝去、享年76歳、江戸麹町(東京都千代田区)心法寺に葬られました。
法名 崇岳院殿隆誉賢厳英翁居士
明和4年(西暦1767年)水路沿線村民は為永の遺徳をしのび、ここ常福寺に分骨して墓石を建てました。
平成11年 見沼土地改良区
(現地案内板説明文より)

このサイトではもう井澤弥惣兵衛為永については、様々なところでふれられていますので、特に説明の必要もないでしょう。
まさに江戸時代の武蔵国に井澤弥惣兵衛為永という偉人ありとしか言いようがありません。

そしてこの為永が開削した見沼代用水路が、常福寺の前の道路を挟んだ向こう側に並行して流れています。
【瓦葺伏越】http://tabireki70.blog114.fc2.com/blog-entry-34.htmlと同じようにとうとうと水路は続いています。
水路脇には風情のあるトイレも用意されていました。上流方向の代用水路です。
柴山伏越
下流方向には水門があります。「柴山調節堰」と記載されています。
柴山伏越
ここからサイフォンに流れこむのですが、増水などの時に水量を調節する水門のようで、左側の水路が余水吐でこちらは元荒川に直接流れ込んでおり、増水に場合水門を閉めて元荒川に放水するためのものです。
柴山伏越
そして下流方向に歩くと水路の周辺がポケットパークのようになっています。
柴山伏越ポケットパーク

柴山伏越 所在地 南埼玉郡白岡町大字柴山
見沼代用水路は、享保12年(1727)徳川吉宗が勘定吟味役格井澤弥層兵衛に命じ、県南東部(大宮台地の東南端)にあった見沼溜井を干拓させたとき、代わりに水源を利根川に求めて掘った用水路であり、もとの見沼に代わる用水路ということで見沼代用水路と命名された。水路延長は約60キロメートルで、受益面積約17,000ヘクタールにも及ぶ大用水路である。
井澤弥惣兵衛は紀州(現和歌山県地方)の人で、土木技術にすぐれ、この用水路の工事は、着工から完成まで約6ヶ月で完工している。当初の設計にはほとんど狂いがなかったといわれるほどで、いかにすぐれた土木技術を駆使して進められた工事であったかがわかる。
同用水路が元荒川と交差するこの場所では、元荒川の川床を木製の樋管を使用してサイフォンで通すという大工事を行った。これが柴山伏越である。
現在は河川の改修が行われ、以前より川幅も三分の一と狭くなったが、これまで、修繕や伏替工事などが20数回行われ、現在見られるような構造になった。
昭和59年3月 埼玉県
(現地案内板説明文より)

隣の案内板には当時と現在の「柴山伏越」の写真が掲載されています。
柴山伏越 柴山伏越 《写真:(C)見沼土地改良区》
右下に流れているのが元荒川で、左下に流れているのが見沼代用水路でしょう。
当時の絵図を見ると確かに大工事であった様子がうかがえます。

そして、このポケットパークの場所が見沼代用水路上流のサイフォン入口となり、ここからサイフォンにより元荒川の下をくぐるのです。
柴山伏越 柴山伏越
そのサイフォンが通過している辺りがこのあたりで、右に見える橋が「常福寺橋」です。
柴山伏越と常福寺橋 常福寺橋 常福寺橋
そして先ほどの写真の対岸に小さく見えるのが、下流の出口側の緊急用水門です。
元荒川を常福寺橋で渡って対岸に向いうと、先ほどの緊急用水門があります。ここがサイフォンの出口となるのです。
柴山伏越柴山伏越
下流方向からみたサイフォンが通過している周辺です。右側には増水時に元荒川に放水する水門が見られます。
柴山伏越 元荒川
常福寺橋が左側にあります。
そして見沼代用水路は南に流れていくのです。
柴山伏越
井澤弥惣兵衛門墓所と柴山伏越が、一対のように配置されたロケーションはまさに江戸時代の輝ける偉業の残された地といわざるを得ないでしょう。

柴山観音堂・諏訪八幡神社

折角の機会なので、柴山周辺の神社仏閣を散策してみます。
伏越から歩いても5分とかからないところに「柴山観音堂」があります。
柴山観音堂
小さなお堂ですが由緒はあるようです。

柴山観音堂 白岡町大字柴山字宮野
柴山観音堂の由緒については明らかではないが、江戸時代末期の「新編武蔵国風土記稿」の柴山村の項には「観音堂玉蔵院持」という記載がある。またその「玉蔵院」の山号が「瑠璃山観音寺」とも述べられているので、柴山観音堂は元来この「玉蔵院」に属するものであったと思われる。
なお、玉蔵院とは菖蒲町の吉祥院の末寺であったが、明治4年に廃された。伝承では、同院は尼寺で、ここより南東の畑の中にあったという。また、現観音堂の境内にある薬師堂は、玉蔵院跡から移したものであるという。
現在は焼失してしまったが、旧本堂の正面には、戦国時代の菖蒲城主だった佐々木氏が、当地に移り住み墓所を守るために観音堂を建てたと記された額が掲げられていた。また、町内では二番目に古い、享保11年(1726)銘の半鐘も伝わっている。その他、筆子塔など江戸時代前期の奉納物が数多く残されており、町の貴重な歴史を伝えている。
平成11年1月 白岡町教育委員会
(現地案内板説明文より)

ここでちょっと注目したいのが菖蒲城主の佐々木氏で、嘗ての菖蒲城址は、以前訪れた現在菖蒲園になっているところです。
さてこの佐々木氏ですが、宇多天皇の後裔で、源成頼が近江国蒲生郡佐々木庄に居住し、佐々木氏を称したのがはじまりといわれるそうです。頼朝の旗揚げとともに佐々木一族は活躍し、幕府成立後、各地の守護職に任じられて一大勢力を築き上げたのです。
こうして全国各地に広がった佐々木氏ですが、宗家は近江を本拠として六角氏と京極氏に別れたのでした。この京極氏の子孫が婆沙羅大名で名高い佐々木高氏(道誉)です。
そして戦国時代、古河公方の奉公衆の一人で武蔵国菖蒲城に拠った佐々木氏がいたのでした。

応永2(1395)年の末、佐々木六角氏頼の四人の息子たちが武者修行のために関東に下り、武功をもって運を開いたものを主人として他の兄弟はその家臣となることを約束しあい、満高・満経・宣綱・昭綱、4人の兄弟はそれぞれ金田・大塚・千代・坂巻に住んで、その土地の名を名字にしました。そして金田満高の家系が主家となり、その子友綱は応永26(1419)年に太田荘須賀郷へ移り、更に除堀村波寄に住んだそうです。友綱の子、則綱は康正2(1456)年菖蒲新堀に城を築き、付近の十二郷を支配するようになり、この則綱が、後に古河公方に仕えて活躍する菖蒲佐々木家の祖となったと言われているのです。
則綱以降、氏綱、顕綱、定綱、頼綱と続き、6代秀綱の時に忍城主成田氏長に属し、豊臣秀吉の関東侵攻により廃城されたのです。
このような系図があるようですが、初代則綱以降の文献などはかなり残っているのだそうですが、それ以前については伝承でしかないようなので、実際に佐々木六角家の子孫であったかどうかは不詳と言わざるを得ないようです。
それでも菖蒲佐々木家自体はそれなりの勢力をもった戦国武将であったことは間違いないようです。

境内の参道両脇には六地蔵を始めとして、古い石仏や石塔がその歴史を物語っているかのようです。
柴山観音堂 柴山観音堂
参道の左側に小さな堂宇がありますが、これが「薬師堂」です。
薬師堂
そして正面にあるまるで民家の様な建物が「観音堂」でしょう。
柴山観音堂 柴山観音堂
建物の前に半鐘(享保11年のではないでしょう)が無ければ、観音堂とは思えない趣ですが、それなりの歴史を抱えた「観音堂」もまた貴重な文化財といえるのでしょう。

「観音堂」から徒歩1分、というより「観音堂」の裏手にあるのが「諏訪八幡神社」です。
諏訪八幡神社
住宅街の中にありながらも、まるで静寂が支配しているようにひっそりとしています。

諏訪八幡神社  所在地:南埼玉郡白岡町大字柴山
諏訪八幡神社は、大字柴山のほぼ中央に位置し、古来、地域住民の信仰の対象として、中心的な役割をなしてきた神社である。当神社は、昭和19年に「大山神社」と改名されているが、現在でも「諏訪八幡神社」として親しまれている。祭神は、応神天皇と建御名方命である。
寛文12年(1672)に藤原氏天野康寛が書いた諏訪八幡神社之神記によれば「霊験の記は紛失して証拠となるものはないが、伝説によると宇多源氏の後胤佐々木四郎秀綱がこの地を領していたとき、霊験があり、諏訪社と八幡社の両社を合祀した」とある。
当社には、地域の信仰を物語る各種の絵馬が多く奉納され、よく保存されている。また、祭礼時には大太鼓、小太鼓、鉦による囃子が奉納される。
昭和58年3月 白岡町
(現地案内板説明文より)

やはりこちらも佐々木家にまつわる由来があるようです。埼玉苗字辞典にはこのように記しされています。

同郡柴山村(白岡町) 字稲荷崎万延元年庚申塔に下分・佐々木庄平・佐々木紋次郎。明治二十年柴山伏越改造碑に柴山村佐々木倉蔵(安政二年生)。諏訪八幡社明治三十九年碑に佐々木寛次あり。四戸現存す。
(「埼玉苗字辞典」より)

恐らく佐々木氏の末裔のかたなのでしょう。現在でも佐々木氏と柴山との深い結びつきがうかがえます。

参道の左手には歴史のありそうな神楽殿が鎮座しています。
神楽殿
ここでは神楽とともに囃子が演奏されるようです。
調べたところでは、ここで囃子を奉納しているのは「柴山祭囃子保存会」のようで、江戸囃子系柴山流の保存会で、諏訪八幡神社の祭り(天王様)には山車に乗って囃子を演奏するのだそうです。神楽殿は関係なかったのでしょうか…。
この諏訪八幡神社の祭り(天王様)は、毎年7月に行われオシッサマ(お獅子様)一行が天狗、獅子、太鼓などで耕地内を駆け巡るそうです。
獅子の一行は獅子頭と獅子の布を持つ人、カラス天狗、天狗によって構成されて、それに山車に乗った囃子連が付いているそうです。
白岡町にはこの「天王様」の祭りが非常に多く、この柴山の天王様のほか、岡泉、新田、野田、篠津があり、殆どが7月の中旬に行われるようですから、毎日が祭り、といったところでしょう。

正面が社殿です。
諏訪八幡神社
意外といっては失礼ながら綺麗な社殿なので、比較的新しい時期に再建されたものでしょう。
残念ながら絵馬を見ることはできませんが、「白岡町指定文化財第34号 柴山諏訪八幡神社の奉納絵馬」と書かれた標柱だけが文化財のあることを示しています。
主な絵馬には「塩竃金華山」「白蛇」「大阪の陣」「お産の図」「拝み絵馬」等があるそうです。
柴山地区の鎮守として現在でも親しまれているようです。

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks