新井白石ゆかりの白岡

今回の散策はこれで終了の予定でしたが、時間も多少あり天気も持ちそうな気配なので、先ほど「資料館」で知った「新井白石」の縁の地である“野牛”を訪ねてみることにしました。
ちょうど資料館でいただいた“歴史ハイキングマップ”があったので、野牛地区に直行です。
野牛地区はJR新白岡駅の周辺ですから、白岡町の北に位置すると考えて良いようです。

野牛久伊豆神社

柴山地区からは結構離れているのですが、30分ほどで目指す「野牛久伊豆神社」に到着です。
野牛久伊豆神社
比較的新しい鳥居で綺麗なのが印象的です。

野牛久伊豆神社と新井白石 白岡町大字野牛字内舞台
野牛久伊豆神社の創建は不詳であるが、近世以前、野牛村は篠津村や柴山村などとともに「騎西領」に属していたため、その総鎮守である騎西町の玉敷神社(=久伊豆大明神)を勧請(神を分霊してくること)し、村の鎮守として祀ったものと思われる。祭神は大己貴命である。また本殿右側には稲荷社など数社が合祀されている。
本殿正面の扁額は、江戸時代の儒学者新井白石(1657~1725)が奉納したもので、朝鮮通信使の李ヒョン(号は東郭)が、6代将軍徳川家宣の将軍宣下の式典(1711)に来日した際、白石のために書したものと伝えられる。
野牛村は宝永6年(1709)に、新井白石の領地となった。白石は領民の訴えに応じ、低湿だった当地に排水路を掘らせ、一帯を良田にしたという。この排水路は「白石堀」、「殿様堀」などと呼ばれ、現在は神社左側の道路歩道下を流れている。またこの付近に、飢饉に供えて郷倉(貯蔵庫)を建てさせたという。そのほか当地には、白石の堅実で誠意ある領民支配ぶりを伝える話が残っている。
平成12年 白石町教育委員会
(現地案内板説明文より)

騎西の玉敷神社といえば【新市誕生記念・加須市騎西あじさい祭り】で訪れた非常に由緒のある神社でした。現在は加須市ですからいかに「騎西領」が広かったかがうかがえます。
ここでは白石と朝鮮通信使との関わりをもう少し掘り下げてみたいと思います。
先ずは基本的な朝鮮通信使の概略について。

朝鮮通信使とは、永和元(1375)年足利義満によって派遣された日本国王に対して「信(よしみ)を通わす使者」として派遣されたのが始まりだそうです。いわゆる使節団といってよいでしょう。
明暦度(1655年)の朝鮮通信使 《写真:明暦度(1655年)の朝鮮通信使/大英博物館所蔵》
15世紀半ばからしばらく途絶えた後、安土桃山時代に秀吉が朝鮮出兵をするか否かを確認するため派遣されたこともあったようです。しかしながら、その後の文禄・慶長の役(朝鮮出兵)により日朝間が国交断絶となったことから中断されたのでした。

室町時代から安土桃山時代にかけて派遣された通信使は5回あります。
第1回-1428年(正長元年):通信使(足利義持死去に対する弔意と足利義教の襲職を慶賀)
第2回-1439年(永享11年):通信使
第3回-1443年(嘉吉3年):通信使(足利義教死去に対する弔意と足利義勝の襲職を慶賀)
第4回-1590年(天正18年):通信使(朝鮮侵攻の噂の真偽の確認)
第5回-1596年(慶長元年):通信使(秀吉に対する休戦交渉)

そして江戸時代になると日朝交流は、断絶した国交を回復するため日本側から朝鮮側に通信使の派遣を打診したことからはじまります。
これは室町時代末期、日朝・日明貿易の実権が大名に移ったことから、各大名が力を蓄えるとともに、幕府支配に正当性が薄れる結果となったことから、同じ轍を踏まないためにも江戸幕府は地理的に有利な西日本の大名に先駆けて朝鮮と国交を結ぶ必要があったためといわれています。また、一方朝鮮でも文禄・慶長の役の際の捕虜返還と、明の朝鮮半島撤退による軍事力の低下、そして貿易の観点から日本との友好関係を築く必要に迫られていたのです。

こうした背景の中で1607(慶長12)年、江戸時代に始めての通信使が幕府に派遣されたのです。6月29日(現在の5月6日)、江戸で将軍職を継いだ2代秀忠に国書を奉呈し、帰路駿府で家康に謁見したそうです。
ただしこの時から3回目までの派遣の名称は「回答兼刷還使」といわれ、日本側からの国書による謝罪を求め、日本に連れ去られた儒家・陶工などの捕虜を連れ帰るのを目的としていたためだったそうです。
これに対して幕府が国書を送った形跡は無いのですが、対馬藩は国書の偽造を行ってまで関係を回復しようとし、幕府もこれを黙認したことから、日本国内の朝鮮人捕虜のうち儒家はほとんどが帰国した一方、陶工の多くが日本に留まったといわれています。これは陶工に対する日本と朝鮮との身分制の違いに拠るためのもののようです。様は日本の方が住みやすいというところです。
そして、この後両国が友好関係のあった室町時代の前例に則って、幕府からの通信使派遣の要望により国使は「回答兼刷還使」から「通信使」と戻ったのです。
江戸城の前で陶器や虎の皮等の貢物の準備する朝鮮通信使 《写真:江戸城の前で陶器や虎の皮等の貢物の準備する朝鮮通信使(江戸図屏風より)》
そして、その後前3回を含めて全12回の通信使が派遣されたのでした。

第1回-1607年(慶長12年)徳川秀忠:回答兼刷還使 日朝国交回復、捕虜返還
第2回-1617年(元和3年) 徳川秀忠:回答兼刷還使 大坂の役による国内平定祝賀、捕虜返還
第3回-1624年(寛永元年)徳川家光:回答兼刷還使 家光襲封祝賀、捕虜返還
第4回-1636年(寛永13年)徳川家光:朝鮮通信使
第5回-1643年(寛永20年)徳川家光:朝鮮通信使 家綱誕生祝賀、日光東照宮落成祝賀
第6回-1655年(明暦元年)徳川家綱:朝鮮通信使 家綱襲封祝賀
第7回-1682年(天和2年) 徳川綱吉:朝鮮通信使 綱吉襲封祝賀
第8回-1711年(正徳元年)徳川家宣:朝鮮通信使 家宣襲封祝賀
第9回-1719年(享保4年) 徳川吉宗:朝鮮通信使 吉宗襲封祝賀
第10回-1748年(寛延元年)徳川家重:朝鮮通信使 家重襲封祝賀
第11回-1764年(明和元年)徳川家治:朝鮮通信使 家治襲封祝賀
第12回-1811年(文化8年) 徳川家斉:朝鮮通信使 家斉襲封祝賀(対馬に差し止め)

こうした中で白石と朝鮮通信使との関わりは2度あり、この2度の通信使来日を全く違った立場で関わることになったのです。
1度目は天和2(1682)年の第7回の来日時で、この時は一文人としての関わりでした。当時、浪人時代の26歳であった白石は中国や朝鮮の書物・文献を読み漁っていた頃で、特に朝鮮の文事に強い関心を持っていたそうです。
そしてそのときに著した自著の「陶情詩集」が来日した一行の目に止まり、白石は面会を許されその序文を贈られるという名誉を受けたのだそうです。

2度目の時は1711(正徳元)年の第8回の来日時で、この時は使節迎接の最高責任者としての関わりでした。
もともと白石は使節来日反対派だったのですが、時の老中との軋轢もあり来日には反対せずも、「対等」「簡素」「和親」を骨子に使節への待遇を簡素化したのです。
当時、通信使接遇には一度に約100万両(1両=1石換算で幕府の直轄領約400万石の1/4に相当する)かかるものでしたが、宴席の縮小、接待の簡略化、そして高価な用具の使用禁止などにより、接待費用を60万両まで抑えたそうです。
また、「対等」という観点からは、それまでの「日本大君」の将軍呼称を再び「日本国王」に変更したことです。
これは江戸幕府も安定期に入り将軍の国内的地位が覇者的性格から君主的性格に移行し始めた現実を踏まえて「国王」として、君主としての位置づけを鮮明にするとともに、「大君」は朝鮮では王子のことをさすので、対等ではないという考え方によるものだったようです。
しかしながら呼称の是非は別として、この変更は朝鮮通信使来日直前に一方的に通告されたことから、深刻な外交問題に発展したのだそうです。

この結果、白石は辞任を申し出たのですが時の将軍家宣に慰留されたのは、先に知った通りです。
そうした一方で、白石の博識と優れた詩文の才能は使節一行を圧倒させたといわれ、使節との私的な交流にまで発展したようです。特に李?との交流は野牛久伊豆神社の扁額の下書きが贈られたことに顕著に表れています。
また、次回の享保4(1719)年の第9回使節は、第8回使節が持ち帰った「白石詩草」に強く関心を抱き、来日時に白石の消息を尋ねていたようです。
更に、白石と並んで通信使迎接にあたった対馬藩の儒学者・雨森芳州は「幾多の信使に日本の詩文が贈られたが、先方から(作品の贈呈を)求められたのは唯一白石だけであった」と記しているそうです。
このように国内外で物議をかもした「正徳の治」における朝鮮通信使との対応でしたが、初志貫徹で「対等」「簡素」「和親」を果たしたのは、そのまっすぐな性格の白石ならではなのでしょう。

実際に社殿に向かって参拝をすませます。
野牛久伊豆神社
扁額 この扁額がその通信使下書きによるものでしょう。
歴史を感じさせながらも、瓦葺の本殿も比較的珍しい社殿です。
本殿

境内には多くの境内社が確かにあります。
特に社殿の裏手には「御岳神社」があり富士塚となっているようです。
境内社 御岳神社
白石ゆかりの神社として興味深い歴史の残っている久伊豆神社でした。

観福寺

「野牛久伊豆神社」の北側に「観福寺」があります。
観福寺
特に何という寺院ではありませんが、少しくたびれたような鐘楼が味を出しています。
観福寺
「新編武蔵国風土記稿」によれば“戸ケ崎村(現菖蒲町)吉祥院の末寺、大悲山与楽院と号す”とあり、第5世良栄が寛永18年(1641)に亡くなったという記録が残されているようですが、それ以前の由緒は不詳のようです。それにしても400年以上の歴史は持っていることになるわけですから、「何という…」という言い方も失礼な言い方でした。
この寺院の見どころ(実際には見られませんが)は、行基作の本尊・十一面観音と、「白岡町指定文化財第16号 紙本着色新井白石画像」と記された標柱です。

そして正面が本堂です。
観福寺

確かにすぐ目の前の野牛久伊豆神社は白石とは深いつながりを持っているのですが、何故観福寺にこの画像があるのかが判りませんでしたが、「新編武蔵国風土記稿」の久伊豆神社に関する「村の鎮守なり、観福寺の持」という記載があることから、この観福寺は久伊豆神社の別当寺であったということと考えられるわけです。
新井白石画像 《写真:(C)白岡町観光協会》
そのようなことから白石の画像が残されていると考えれば、まあ納得です。
お参りをすませて、今度は野牛久伊豆神社の西側の道路沿いにある「白石堀」に向かいます。

白石堀・記念碑

「野牛久伊豆神社」の前の通りにでると、そこにはブロック塀に囲まれた民家があるのですが、その入り口には「梨 産地直売所」の看板がたっています。
梨直売
おそらく何もなければ単なる民家としか思えませんが、ブロック塀の中と、敷地の先(かなり広そうな敷地です)に梨園がみえるので、梨栽培の農家なのでしょう。
やはり梨の白岡、らしい光景であるといえるでしょう。

その神社と梨園の間の道を西へ進むと、左手に用水路のようなものがあります。
この用水路の左手は民家が建ち並んでいますが、もう少し先に行くと田んぼが広がっており、その田んぼと道路の間に更に細くなった用水路が見てとれます。
白石堀 白石堀
これが「白石堀」なのでしょう。細い細い用水路ですが、あるとないとでは大違いという事は誰でも理解できることです。
現在見えている左手の黄金の田が白石によって開墾されたと考えると、感慨もひとしおかも知れませんね。

この田んぼの手前を左手に曲がって10mほど進むとブロック塀の凹んだ一角に小さな「石橋供養塔」がポツンと置かれています。
石橋供養塔
供養塔には「文政4(1821)年3月建立」「武州埼玉郡野牛村、世話人 観音経講中」と刻まれています。
おそらく白石堀に架けられた石橋に関するものだろうと考えられます。
そして、この供養塔の後ろの木の陰に「記念碑」があります。
石橋供養塔と「新井白石公御領所屋敷跡」の記念碑 「新井白石公御領所屋敷跡」の記念碑
よく見ないと見過ごしそうな場所です。更にこちら側からみると記念碑の裏側になるのです。
いずれにしてもこれが大山民俗資料館で知った「新井白石公御領所屋敷跡」の記念碑です。
現在では人知れずといった雰囲気の場所にありますが、それでも白石を尊崇する気持ちには変わらないのでしょう。
白石ゆかりの地、野牛をめぐってより新井白石が身近に思えてきました。

ナシの記念碑

これで本当に白岡町の散策は終了ですが、最後の最後にやはり白岡町に梨を伝えた「五十嵐八五郎」を訪ねなければならないでしょう。
幸いにも野牛は白岡町の北側ですし、久喜市はその隣接市ですから、最後に久喜市まで足を延ばすことにしました。
近いといっても30分ほどかかったでしょうか。住宅地の真っただ中にあるのですが、そこはさすがにネットとナビがあるとある程度迷わず行けるものです。
そしてその住宅地の中に埋もれたようにあるのが「ナシの記念碑」です。
ナシの記念碑

久喜市指定有形文化財 ナシの記念碑 
指定年月日:平成8年4月1日 所在地:久喜市本町4丁目3番5号
この記念碑は、埼玉梨の主産地である南埼玉郡北部地方に梨栽培を伝え広めた、五十嵐八五郎の功績をたたえた記念碑で、梨栽培の歴史を知る上で貴重な資料です。
碑文によれば、八五郎は、安政元年(1854)に南埼玉郡三箇村(現菖蒲町)の大久保嘉左衛門の二男として生まれました。明治4年(1871)家を出て群馬県大島村(現前橋市)、千葉県でそれぞれ1年間梨栽培の修業をし、その後大里郡三ヶ尻村(現熊谷市)で8年、計10年間梨の栽培実地研修を行いました。同13年11月大里郡武川村(現川本町)で梨栽培に専念し、技術も進み、販売を行い収益も多く得ました。この有利な業を一人占めするに忍びず、同17年からは三箇村、栢間村(現菖蒲町)、江面村(現久喜市)その他各村を回り、梨栽培の有利性と技術を伝えました。梨栽培を教わったものはいずれも結果良好で家産を増やしたものは数えきれません。ここにその子弟が五十嵐翁の徳を感謝するために石に文字を刻み永遠に残そうとしたものです。
この碑は、明倫館3代館長の宮内純が大正11年(1922)に書いたものです。
高さ180cm・最大幅80cm・最大厚13cm
平成10年3月30日 久喜市教育委員会
(現地案内板説明文より)

当時の梨栽培では「長十郎」「真鍮」と呼ばれる品種の栽培を普及させたそうです。そして梨栽培が有用な事業であることが認識されたのは明治43(1910)年8月の台風による水害時のことで、米や麦、野菜などの作物が被害を受けた中、梨はほぼ被害を受ける事がなかったそうです。そして梨は当時高値で取引されたため、換金作物として急速に普及したのです。
そして五十嵐八五郎は1927(昭和2)年に没し、その後「埼玉梨の元祖」と称されるようになったのです。

「ナシの記念碑」を後にして、帰宅の途につきましたが、白岡町の途中今までにはなかった梨園を見つけました。
そう、見ればわかるように侵入防止のネットが無い梨園なのです。
梨畑
勿論、黙って取っていけば取っていけるのでしょうが、盗む必要も無いのでしょう。売るほどあるわけですから・・・。
当然、喉から手が出るほどに美味しそうな梨ですが、ここはたわわに実った梨の“写真”だけ取らせてもらいました。
実にこれだけの梨が実っている光景はある意味アートかもしれません。
梨畑
甘酸っぱい香りを楽しんで白岡町を後にしました。

2011.09.19記

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