芝大神宮 #1

日曜日の都内は意外と交通量は少なく、渋滞も余り無いので都心に近いほど車は便利なのですが、やはり駐車場を探すのが面倒なので今回は久しぶりに電車で散策です。
目指すはJR浜松町駅ですが、大宮からJR京浜東北線1本で行けるというコンビニエンスなのですが、時間がかかるのが玉に瑕。といっても急ぐ旅ではないのでのんびり京浜東北線で居眠りでもしていると約1時間弱で大宮から到着です。
学生時代、浜松町の一つ先である田町まで通っていたことと、ビジネスでも再三訪れている街なので、実になじみのある街なのですが、休日に散策のための下車とあっては、いつもと違って少し新鮮な街並みです。

世界貿易センター

浜松町駅を下車して改札口を出ると目の前に「世界貿易センター」ビルがそびえ立っています。
世界貿易センタービル 世界貿易センタービル
このビルは1970(昭和45)年3月、東京・霞ヶ関ビル、神戸・商工貿易センタービルに次いで日本で3番目に竣工した40階、152mの超高層ビルです。
日本経済が飛躍的に成長を遂げた高度経済成長の締めくくりでもあるかのように、世界貿易振興を目的として日本・東京商工会議所を母体として設立された株式会社世界貿易センタービルディングによって建設されたものです。
日本初の超高層ビルである霞ヶ関ビル(36階・147m)より2年遅れて竣工し、高さで5m上回り、71年6月、西新宿の京王プラザホテル(47階・169m)が竣工するまでの僅かな期間日本一の高さを誇ったのです。

「豚もおだてりゃ木に登る」というわけでもありませんが、折角ある40階はいつも下から眺めるだけでしたから、今回は40階にある展望台に上がって見ることにしました。
1階のホールには、このようなオブジェがあり、無機質になりがちのビルに多少なりの和みを与えています。
オブジェ
そしてその横が展望室への入口です。
シーサイド・トップ エントランス
ここで見学チケットを¥620で購入してエレベーターで40階に昇ります。
チケット エレベーター
現在ではそれ程珍しい光景ではないのですが、超高層ビルの竣工当時はこのような40個のボタンもさぞ珍しいものだったのでしょう。

40Fフロアに到着すると、先ず受付がありそこで先ほど購入したチケットを渡します。
シーサイド・トップ受け付
この40Fの展望台は「シーサイド・トップ」という名称で呼ばれているようです。
ちょうどこの位置はフロアの中央部分にあたり、ここからまず北方向に向って展望台にむかうのです。
シーサイド・トップ

受付の隣には早くもありました“江グッズ”です。
「江」グッズ 「江」グッズ
バッジ、キーホルダー、ストラップなどのお馴染みのものですが、「江姫グッズ」として港区限定で販売されているグッズです。まさしく大河ドラマタイアップMDです。
更に隣には「2011年宇宙旅行フェア」と題された、宇宙食をはじめとした宇宙関連グッズが販売されています。
2011年宇宙旅行フェア
「江姫グッズ」は数量限定で、「2011年宇宙旅行フェア」は期間限定でそれぞれ販売されています。
一つのPRプロモーションとして行われているのでしょう。

そして通路を突き当たると一面に眺望が広がります。まさに天空の眺めです。
シーサイド・トップ
ここからは北側である東京・銀座方面を眺めることができます。
銀座方面
右よりの電車がJR線で、その先の中央からやや右寄りにある高層ビル群が日テレや電通のある汐留地区で、左寄りにビルの陰に見え隠れしている緑のあるところが皇居です。
更に右側のビルの間に目を凝らすと「東京スカイツリー」を見ることができます。
スカイツリー スカイツリー
150mの眺望がこれですから、スカイツリーからの眺望はまさしく天に昇る心地でしょうね。
展望台はこのように非常に綺麗で、休憩用・展望用の椅子などもこのように整備されていて、非常に気持ちの良い空間です。
展望ラウンジ
最近リニューアルされたものだそうです。

次は西方向で六本木・渋谷方面です。
直ぐ目に飛び込んでくるのが「東京タワー」です。
東京タワー方面
先ほどの「東京スカイツリー」に主役の座は奪われてしまいましたが、333mのタワーは東京のランドマークとして現在でもその存在感は抜群です。
東京タワーの左隣にある高層ビルがITバブル王国の「六本木ヒルズ」で、右手前にある低層の建物が「東京プリンスホテル」です。
そして東京タワーの左手前、ちょうど写真の中央に移っているのが、今回の主役とも言うべき「増上寺」です。
増上寺
この左右に広がる緑の地帯が「芝公園」で、いかにこの一角が自然溢れる都会のオアシスであるかが見て取れます。
「芝公園」の左手前の茶色のビルが「ダヴィンチ芝パーク」というビルで、嘗ては“軍艦ビル”と呼んでいました。
その“軍艦ビル”からそのまま右に視線を移すと、ビルの中に埋もれた神社の屋根が見えます。
ここが「芝大神宮」で、今回の散策の最初の目的地です。
芝大神宮

更に目を凝らすと左側の稜線に「富士山」を望むことができます。
富士山方面 富士山
くっきりとまではいきませんが、私のデジカメでも何とか写せる位ですから、今日はかなり空気が澄んでいるようです。
西側の通路にはこのようなデコレーションされた窓もあります。
ビュースポット ビュースポット
カップルには受けるのでしょうが、やはりここは夜景が一番でしょう。

次は南側となりますが、それまでの通路と違いここには透明のイスが並べられています。
スカイチャペル「クルスタル」 スカイチャペル「クルスタル」
ここはスカイチャペル「クルスタル」というスペースで、この下の階の結婚式場の一部として、結婚式の演出に使用されているようです。ここだけは壁もミラー張りとなっているので、夜景などが映りこんだ華麗で幻想的な空間になるのではないでしょうか。
こういったところで祝福されるのも思い出になるのでしょう。
などと見てたために南側の眺望はすっかり見るのを忘れてしまい、最後の東側に移ってしまいました。

東南方面に広がるのが「ウォーターフロント」です。ここにはウォータフロントのジオラマも置かれていて、人気の高さも伺えます。
ウォーターフロント ウォーターフロント地図
ちょっと影になっていますが、右手にはお台場の「フジテレビ」や「レンボーブリッジ」が見られ、左手の遥か先にはうっすらと「ディズニーランド」も何とか見ることができます。
お台場方面 TDL方面

更に北東方面に見える緑の地帯が「浜離宮恩賜庭園」で、僅かに「隅田川」をビルの陰に見ることができます。
浜離宮恩賜庭園方面
そして眼下の庭園が「旧芝離宮恩賜庭園」で、水と緑の豊かな近代都市ウォータフロントでした。
旧芝離宮恩賜庭園
非常にオシャレで綺麗な展望台で、望遠鏡などが無いところも返って好感が持てるところです。
夜景も是非一度見たいと思いながら、これからの散策に期待を込めて「世界貿易センター」を後にします。

だらだら祭り-1

「世界貿易センター」ビル前を西に進み“大門”交差点を右折して20mほど進んだ左側が「芝大神宮」の参道です。
大門方面
参道入口には社号標と提灯がたくさん掲げられています。そして「芝大神宮例大祭」と染め抜かれた幟も立っています。
芝大神宮参道入口 芝大神宮例大祭
これは今回の散策の目的の一つでもある「芝大神宮」での例大祭なのです。

先ずは芝大神宮の由緒です。

由緒
芝大神宮は、伊勢神宮の御祭神、天照大御神(内宮)、豊受大神(外宮)の二柱を主祭神としてお祀りしています。御鎮座は遠く平安時代、寛弘2年(1005年)一条天皇の御代に創建された由緒あるお社です。
古くは、飯倉神明宮、芝神明宮と称され鎌倉時代においては、源頼朝公より篤い信仰の下、社地の寄贈を受け、江戸時代においては、徳川幕府の篤い保護の下に社頭はにぎわい大江戸の大産土神として関東一円の庶民信仰を集め、「関東のお伊勢さま」として数多くの人々の崇敬を戴きました。その当時の賑わいは、広重の錦絵に窺うことができます。
その後の当宮の社史をみますと、明治、大正、昭和初期の関東大震災、太平洋戦争の激動期においても、数多くの苦難にも耐えて氏子並びに崇敬者に支えられ現在の御社殿に至ります。
例祭 9月16日
(「芝大神宮」オフィシャルサイトより)

特に多くの支配者・権力者に尊崇されたようです。
源頼朝は、元暦元(1185)年と建久4(1193)年の2度に亘って神領を寄進し、特に後者においては自ら社参の上1300余貫の地を神田として寄進したといわれています。
中世においては東国武家から崇敬され、建武4(1337)年には、足利尊氏の実弟直義が戦捷祈願に対する報賽の書状を奉納し、戦国時代においては、太田道灌の崇敬を受け、天正16(1588)年には、北条氏直による柴村に対し芝大神宮への乱暴を許さない制札が発布されたそうです。また、豊臣秀吉も天正18(1590)年あたりに、奥羽平定のために江戸を進発するに際して戦捷を祈願し、徳川家康も同年、江戸入府に際して社参し、翌19(1592)年、武蔵国日比谷郷に社領15石を寄進したのだそうです。
このとき日比谷郷に鎮座していたことから「日比谷神明(日比谷神明宮)」と呼ばれ、更に飯倉御厨(後の武蔵国飯倉庄)に鎮座していたことから、「飯倉神明(飯倉神明宮)」とも呼ばれていたのですが、慶長3(1598)年、増上寺がこの神社の旧鎮座地(芝公園)へ移転することとなったため、現在地(港区芝大門)へ奉遷したのです。
そして翌々5(1600年)年、家康は関ヶ原出陣に際し、社参して戦捷祈願をし、同19年から20年にかけての大坂の役では、徳川方の戦捷祈願をするべく、将軍秀忠の正室お江与の方(崇源院)の代参として、家光の乳母である春日局が社参をしているそうです。
こんなところにも「江」の姿がちらついているのですが、それはともかくこれ以降も歴代将軍家・幕府の庇護を受け、社殿の造営・修復等は幕命により執行するとともに、幕府より種々の祈祷依頼があり、大名による参詣等諸侯からも崇敬を受けたのだそうです。
このように非常に由緒ある神社であることを知ることができます。

その頃の威容を誇った芝大神宮、当時の「飯倉神明宮」が江戸名所図会に描かれています。
江戸名所図会 芝大神宮 《「飯倉神明宮」(江戸名所図会)》
境内も広くその威容を充分窺い知ることをできますが、それにしても門前町の発展もその特色のひとつでしょう。
その理由は、「飯倉神明宮」を崇敬したのは時の支配者・権力者だけではなく、一般民衆にも信仰されていたことにあるようなのです。
それはロケーション的にも東海道沿線で江戸市中と市外の境界線上にあり、かつ増上寺も隣接していたことから、江戸時代に入ってから参詣者が増え、江戸から旅立つ人は道中無事を、江戸に入る人は道中無事の御礼をといった祈願が行われたようなのです。
また、当時はお蔭参りといわれる伊勢神宮への参拝がブームとなったのですが、高額な旅費や長期間の日程ではやはり容易に行うことは難しかったため、代わりに由緒にもあるように「関東のお伊勢さま」と呼ばれるこの芝大神宮への参詣客が増えていったのです。
当然ながら参詣客が増えれば、それを当て込んでビジネスをしようと考える輩はいつの時代も共通で、参道には多数の出店が見られるようになったのです。
茶屋、揚弓場、吹き矢、花の露屋(化粧品)、角力、手妻(手品)、軽業、剣術、富籤興行、岡場所・陰間などの風俗店や、芝居などの見世物小屋が賑わい、特に芝神明の太々餅は土産物として評判を呼び名物となったようです。更に江戸で出版された娯楽絵本の版元で、地本問屋として名を馳せた和泉屋が天明頃(1781~89年)にはこの近隣に店を構えていたといわれ、この界隈はマスコミの拠点にもなっていたそうです。
その賑わいを現した広重の錦絵がこちらです。
「芝神明宮」(安藤広重) 《「芝神明宮」(安藤広重)》
このように特権階級から一般庶民まで崇敬されたのがこの「飯倉神明宮」=「芝大明神」だということです。

そして当時の祭礼の賑わいを著したものに江戸名所図会の「飯倉神明宮祭礼」があります。
江戸名所図会 「飯倉神明宮祭礼」 《「飯倉神明宮祭礼」(江戸名所図会)》
このような賑わい振りが描かれているのですが、説明にはこのように記載されています。

当社の祭例は、九月十六日なり。同じ十一日より二十一日に至るの間、参詣群集す。商ひ物多きが中にも、藤の花を画きたる檜の割籠、および土生姜ことに夥し。ゆゑに、世俗、生姜市、また、生姜祭りとも唱へたり。『江戸名所ばなし』〔一六九四〕に、「臼杵・木鉢、鮮・菓物多し」とあれど、いまはこれを鬻がず。檜の割籠を、俗にちぎと名づく。また、生姜を売ることば、もつとも久しきよりのことにて、その拠をしらず。
(「江戸名所図会」より)

由緒にもあるように例祭は9月16日ですが、同じ月の11日から21日の11日間の長い期間を例祭期間としてるので、大変人々の参詣で賑わったようです。ちなみに現代ではこの11日間の祭りは日本一長い祭りだそうです。
そして当時、出店ではいろいろなものが販売されていたのですが、特に藤の花を描いた「ちぎ」と呼ばれるワリゴ(わっぱ)と生姜は勇名だったようで、一般的には「生姜祭り」と呼ばれていたようです。
現在では、日本一長い祭りから、“だらだら続く祭り”という意味で「だらだら祭り」と呼ばれているのだそうです。
では一体どうしてそのように祭りが長くなったのかというと、先の「伊勢参り」で当時農民の多くが忙しい秋の収穫期に代替「伊勢参り」を大神宮で行ったため、神社としても一人でも多くの参詣者を受けいえれようと1日、1日伸びていったのが真相のようです。
ということで例祭は一昨日の16日に終わりましたが、今日18日はまだ祭りも佳境といえるのです。

この様に江戸時代の賑わいや発展が今日あるのも、由緒にあるように多くの方の支えがあったことで理解できます。
明治元年、祭礼に際して天皇のより勅使(使者)が遣わされる神社として「氷川神社」を勅祭社としたのを始めに、明治3年に東京とその附近の10社を准勅祭社に定めた中の1社がこの「芝大神宮」でした。これが後の東京10社の起源となります。
しかし、これは一時的なもので、芝大神宮がこの准勅祭社の廃止を受けてからは、東京府の府社となり、その後、明治9年に火災のため焼失し、翌10年再建されるも、大正12年の関東大震災で倒壊延焼し、昭和2年に再建されるという少し厳しい歴史を繰り返しています。更に歴史は繰り返し、昭和20年の東京大空襲で焼失し終戦を迎えたのでした。
その災いから逃れたのは戦後で、昭和22年に再建され、昭和39年に再造営されて現在の景観となったのだそうです。
非常に奥深い歴史を背負っていることを理解できる由緒でしたが、今日はこの歴史を例大祭で楽しんでみたいと思います。

参道を進むと現代の露店が出店されています。
参道の露店
まだ時間が早いので人もまばらですが、これから徐々に賑わってくるのでしょう。
露店の先では、この神社の名物である生姜を配布していました。
高知県産の生姜のPR 高知県産の生姜のPR 高知県産の生姜のPR
これは高知県産の生姜のPRでもあるのでしょうが、「生姜祭り」での奉納品のようで実に嬉しいプレゼントです。
生姜ジュースの試飲とともにありがたく頂戴いたしました。
当然、生姜は家庭でありがたく有効に利用させていただいたのは言うまでもありません、打算的一家ですから。
お世辞ではありませんが、本当に美味しい生姜でした。

その隣には例祭での神輿が奉納されています。
本社神輿
この神輿は「本社神輿」というものだそうで、氏子である各町会では町会ごとに神輿を持っていて、これはこの神社がもっているものということでしょう。神輿オブ神輿、といった意味合いだと勝手に推測してみました。
本社神輿のある参道の反対側には「子供神輿」が奉納されています。2基あるようで小振りのかわいい神輿です。
子供神輿
その隣では芝神宮子供お囃子会の方たちが、お囃子を演奏されています。
芝神宮子供お囃子会
その脇にあるのがお囃子用の山車です。祭りの気分もどっと盛り上がります。

もう一度参道の反対側に戻ると、本社神輿の側で何やら作られている方がいらっしゃいます。
これが江戸名所図会でも記載されていた檜の割籠「ちぎ」のようですが、現在では「千木箱」というようです。
千木箱 千木箱
毎年16日の例大祭には、収穫の秋を喜び、その恵みを捧げて感謝の気持ちをあらわすために、神前に様々な供物が10台供えられるのだそうです。それはこの神宮の2柱の内の1柱である豊受大神が食物の神様であることからで、そのうちの2台には大きな千木箱が乗せられ、中にマツタケ・アワビなどの秋の産物が盛られるのです。
この独特な神器である大きな千木箱をかたどって、縁起物として「千木箱」は産みだされたようです。

このように藤の絵が描かれた檜材の曲げ物容器を3段に重ねて、藁で縛っているのですが、箱には左にある豆を入れているのです。
千木箱
これは勿論、供物を意味しているのですが、近世では飴を詰めて売られていたのですが、明治以降に煎り豆などに変わったようなので、嘗ては菓子箱として使用されていたらしいです。
古くは「千木筥」と書いており、この祭りには欠かせない縁起物となり、それを売る露店がずらりと並んだのだそうです。
その様子が『東都歳事記』の「芝明宮祭礼」に描かれていて、鳥居の隙間から見えるのが千木箱のようで、これを見る限り当時は3段ではなく1段で、サイズも何種類かあったようです。
『東都歳事記』「芝明宮祭礼」 《『東都歳事記』「芝明宮祭礼」》

そしてこの縁起物である「千木箱」を家の天井に吊るしておくと雷除け・地震除けになるのだそうです。更に箪笥の中にしまっておくと一生着る物に困らないといわれているお守りでもあるのです。
これは元々「千木」という言葉が神社の“千木鰹木”を由来としているので、それが“千着(千枚の着物)”との語呂合わせから、着物が増えるという願掛けとなったようです。現代における着物(洋服・和服を含めた服全般の意味)はあくまでファッションですが、江戸時代での着物は財産とみなしていたからなのでしょう。
ここではその「千木箱」の製作を実演していただいてますが、現在、これを作っている曲物細工職人家はこの方だけのようです。

さてその先では大勢の正装した人たちがおり、レッドカーペットがひかれています。
婚礼
どうやら挙式される方をまっているようで、祭礼の日に一層華やいだ雰囲気を醸し出しています。

奥のほうには御祭神が祀られています。
御羽車
これは「御羽車」といい、巡行の際、御神霊を返還する御料だそうで、右が「天照皇大神」で、左が「豊受大神」です。
中央にある「大榊」は、別名「あばれ榊」といわれていて、大門の通りを十数回往復し、最後に社前に納まると我先に枝をもぎ取り、自宅の神棚に供えて商売繁盛を祈願するのだそうです。
そしてその左右にあるのが、祭りの獅子頭で巡行の際に参道に入って雌雄絡み合い狂いながら神前に収まるのだそうです。
祭礼ならではの光景なのでしょう。

境内の玉垣の前には、この神社らしい「生姜塚」があります。
生姜塚
更に参道の反対側の玉垣前には文化財の説明がありました。

芝大神宮の文化財
社伝によれば平安時代の中頃(1005年)に伊勢の内外両宮の御分霊をまつり鎮座されたといわれる区内有数の古社である。
毎年9月中旬には「だらだら祭り」とよばれる祭礼がおこなわれ、江戸時代より現在まで生姜、千木箱、甘酒などが境内で売られることでも地元とのつながりが深い。
所蔵する文化財として、絵画では江戸末期の建部巣兆の箱根詣図(紙本墨画淡彩)などがある。古文書では建武4年(1337)正月7日の足利直義御教書(勝利の祈祷を依頼したもの)、天正16年7月24日の吉良氏朱印状がある。
昭和53年1月 東京都港区教育委員会
(現地案内板説明文より)

現在ではこの時点より文化財は増えています。
港区指定有形文化財(絵画):長沢芦雪筆人物図 昭和56年(1981)10月24日指定
港区指定有形文化財(彫刻):神楽面 付「神楽面目録」 平成3年(1991)10月9日指定
港区指定有形文化財(古文書):伊奈半十郎忠治書状 平成5年(1993)9月28日指定
港区指定有形民俗文化財:芝大神宮の力石 平成7年(1995)9月26日指定
港区登録有形文化財(彫刻):神楽面 平成4年(1992)3月30日登録
港区登録有形文化財(古文書):御定書 平成14年(2002)3月15日登録、別当・神主等申状 案 平成14年(2002)3月15日登録
港区登録有形文化財(歴史資料):銅燈籠 平成9年(1997)3月11日登録
港区登録有形民俗文化財:め組の半鐘 平成6年(1994)3月22日登録
以上が、説明には無かった文化財のようです。
関東、特に東京にある古社としては、良く残っていたものといえるでしょう。関東では関東大震災と東京大空襲があり、更に江戸時代に遡れば、度重なる江戸の大火など建造物や絵画・古文書など極めて現存されていることは非常に困難があったはずです。
そういう意味では、文化財となるものが残っていただけも非常に貴重なものといえるのでしょう。

そしてその隣にはなんとも珍しい「貯金塚」なるものがあります。
貯金塚

貯金と災厄(昭和丗二年正月不動会建之)
災厄は忘れた頃来るという。関東の大震災のまた然り。当時の惨状は言語に絶し東京は焼野原と化し政府は直ちに支払猶予令を布いた。然るにその中にあってひとり預金の金額払戻しを断行し大東京の復興に多大の貢献をした銀行がある。その名を不動貯金銀行という。即ち牧野元次郎翁が頭取であった、その不動貯金銀行本店の当時の焼跡から出た欄桿破片2個は(関東大震災記念石天沼雄吉寄贈)之である。
倉は焼けても貯金は焼けぬ
(現地石碑碑文より)

不動貯金銀行とは現在のりそな銀行につながるものだったそうです。貯金王と言われた元次郎翁の偉業を称えて建立されたもので、碑文は武者小路実篤の筆によるものだそうです。
碑文は「根気根 気 何事も 根気」と記されています。要するに「金、銀、プラチナ、コツコツ…」、ということでしょうが、どうしても私としては一攫千金狙ってしまいます。だから貯まらないのでしょうが…。
ちなみに毎年10月17日には貯金祭として加護祈祷がおこなわれているそうです。

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