増上寺 #1

ここからは次なる目的地の「増上寺」に向かいます。
「増上寺」は“江”の眠る地で、基本的には限られた日にしか公開されない、いわば「秘めた地」なのです。
今年は、大河ドラマが“江”のことから半年にわたって一般公開されているという、めったにない年なのです。ここを逃す手はないと今回の散策になった一つの理由でもあるのです。

大門

「尾崎紅葉生誕の地」から再び北上し、浜松町駅前の前の道路と交差する大門交差点に、文字通りの増上寺「大門」があります。
大門
意外と近くで見るのもかなり久しぶりかもしれません。

大門
当山の総門・表門にあたり、地名の由来になっている門です。現在のものは国道の通行整備のため、昭和12年(1937年)に原型より大きく、コンクリート製に作り直されたものですが、旧大門は慶長3年(1598年)に江戸城の拡張・造営にあたり、増上寺が芝に移転した際、それまで江戸城の大手門だった高麗門を、徳川家康公より寺の表門として譲られたものでありました。その旧大門は大正12年(1923年)の関東大震災により倒壊の恐れが生じたため、両国・回向院に移築されましたが昭和20年の空襲により焼失しています。
(「増上寺」オフィシャルサイトより)

江戸時代当時に関するものは現在では何も残ってはいないようですが、芝地区のシンボルとして現在も大門は存在しており、高校生時代、田町に通うようになってからずっと大門の存在を知ってはいましたが、改めてじっくりと見るとノスタルジーをおぼえます。

大門の左手前の歩道にレリーフが掲出されています。
大門前のレリーフ
右のレリーフは『江戸自慢三十六興』の「芝神明生姜市」で、左は『名所江戸百景』の「芝神明増上寺」です。
そしてレリーフでは判りにくいのですが、これがその原画です。
『名所江戸百景』の「芝神明増上寺」 『江戸自慢三十六興』の「芝神明生姜市」 《左:「芝神明増上寺」、右:「芝神明生姜市」》
どちらも二代目安藤広重ですが、江戸自慢三十六興の「芝神明生姜市」は、背景は広重ですが、人物は三代目歌川豊国だそうで、言われてみれば広重の作品でここまで人物が艶かしくクローズアップされているのは余り無いようですから、ある意味当代の人気浮世絵師合作の逸品ということでしょうか。
ちなみに広重の作品のタイトルには、「の」「より」「と」「を望む」などを補って読むと判りやすいのだそうです。
例えば「鉄砲洲稲荷橋湊神社」は“鉄砲洲より稲荷橋と湊神社を望む”ということで、「芝神明増上寺」もまた“芝神明より増上寺を望む”或いは単純に“芝神明と増上寺”かもしれません。
余談ながら広重の「芝神明生姜市」の画像を検索していたところ、同じタイトルで同じ人物の構図ながら、背景の違っているバージョンがありました。
『江戸自慢三十六興』の「芝神明生姜市」 《「芝神明生姜市」別バージョン》
先に書いた方が気に入らなくて書き直したものなのか、はたまた全く違い理由なのかわかりませんが、別バージョンが存在していたようです。

さてこの大門実に存在感のある門です。
大門
現在のコンクリート製に作り直した際にこの「大門」を寄付されたのが貯金碑の不動貯金銀行だったそうです。説明にもある通り江戸時代のものはもっと小さかったようです。
その様子が次の絵図に描かれています。
『東都名所全図』「芝神明増上寺全図」安藤広重 『東都名所全図』「芝神明増上寺全図」安藤広重 『東都名所全図』「芝神明増上寺全図」安藤広重 《『東都名所全図』「芝神明増上寺全図」》
3枚連作の作品ですが、中央にある小さい門が「大門」のようで、門というよりは木戸といった感じです。

そして大門の手前を見ると当時は川が流れていて、橋がかけられていたようです。
『東都名所全図』「芝神明増上寺全図」安藤広重 大門
広重の『東海道名所之内』の「芝増上寺」にもその姿が描かれています。
広重の『東海道名所之内』の「芝増上寺」
これは「桜川」という川で江戸名所図会にも紹介されていました。

桜川 
同所愛宕の麓を東南へ流るる溝川を、しか名く。『新著聞集』〔神谷養勇軒編、一七九四〕に、「昔、虎の門の辺より、愛宕の辺まで、ことごとく田畑にして、畔に桜の樹いく株ともなくありし、そのなかを流るるゆゑ、桜川といひし」とあり(下流は、宇田川橋の方へ流れ、また、三縁山に傍ふて、金杉の川へも落ち会へり)。
(「江戸名所図会」より)

川といっても当時は排水路でもあったようです。この水路は説明にもある通り愛宕附近の町屋から排出される「下水」の落とし口ととして使われたようで、ここから南にある将監橋に向かい、「金杉川」に流入していたそうです。
それでも当時は「下水」といってもし尿は別で、更に家庭からでる排水もそれほど汚れたものでもなかったので、直接川に流しても問題はなかったのでしょう。
そして当時は「七軒町」「浜松町」「神明町」「神明門前」の4町(現在の芝大門1丁目)で「下水組合」を設立し、この排水路を保全・管理していたようです。しかしその後都市化が進み、その機能が必要なくなったことから「桜川」は暗渠(地下水路)となり、現在の姿になったのです。
したがって現在、この大門の交差点の左右に「桜川」が流れていたとは想像もでできませんが、大門がある限りその伝承はずっと言い伝えられるでしょう。

三解脱門

「大門」を潜り抜けて増上寺へ向かいます。
この「大門」から先に見える三門まで約108間(約195m)あり、ここを歩いて三門をくぐると108の煩悩から解脱するのだそうです。
大門から三解脱門
108の煩悩とは言わずもがなの除夜の鐘と同じです。
108間の途中右手には、このように築地塀の残された一角もあり江戸情緒を味わえます。
築地塀
また、この通りの左右には「常夜燈」が設置されています。
常夜灯
勿論、当時のものではなく現代に復刻されたものですが、江戸をしのぶには格好の建造物です。
そして交差点の前に重厚でありながら朱の色が華やかさを垣間見せる三門が鎮座しています。
三解脱門

三解脱門
慶長16年(1611)徳川家康公の助成により、江戸幕府大工頭・中井大和守正清によって建立され、元和8年(1622)に再建されました。
この門は、増上寺で唯一の江戸時代初期の面影を残す建造物で、重要文化財に指定されています。
三解脱門は、別名「三門」と呼ばれ、三つの煩悩「貧欲(とんよく・むさぼり)、瞋恚(しんに・いかり)、愚痴(ぐち・おろかさ)」の三悪を解脱する悟りの境地を表しています。
建築様式は三戸楼門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、見事な美しさを見せています。
その大きさは、間口10間余(約19メートル)奥行5間(約9メートル)高さ7丈(約21メートル)の二重建て構造。更に左右には3間(約5.4メートル)の山廊を有しています。
上層部(楼上)内部には、中央に釈迦三尊像、脇檀に十六羅漢像が安置されています。
(現地案内板説明文より)

「三解脱門」は大正4年に国の重要文化財に指定された、いわば増上寺のシンボル的な存在ですから、多くの人にその姿はとどめられているでしょう。
三解脱門
ただし、今回はちょっと違い現在この「三解脱門」は一般公開されているのです。しかも戦後初の公開だそうです。
この機会は逃すことはできないでしょう。ということで三解脱門を潜り抜けて境内にはいりますが、何となく三悪を解脱する悟りは開けなかったような気がします。
三解脱門

一般公開の看板が立てられており、左手の山廊から入るようです。
三解脱門 一般公開 山廊
山廊にはいると中に券売機があり拝観料500円で拝観するのですが、内部は撮影禁止のため写真はここまでです。
入館受付時にパンフレットと記念品の「竹製のしおり」をいただきました。
竹製のしおり
そして外からも見える急な階段を登って楼上にあがります。
階段 三解脱門
中央の釈迦三尊像はまだしも、十六羅漢像はかなり年代を感じさせるもので、かなり塗料も落ちているので、その形相とあいまってかなりの迫力を感じさせてくれます。

釈迦三尊像・十六羅漢像
三解脱門楼上には、中に釈迦三尊像、その左右に八躯ずつ、計十六躯の羅漢像が安置されています。
釈迦三尊像のうち中尊・釈迦如来坐像は、寄木造りで像高115.5cm、七重蓮台に坐します。向かって左の象に乗る曹賢菩薩坐像、右の獅子こ乗る文殊菩藤坐像はともに像高約60cm。三尊とも玉眼で漆箔がしてあり、衣には蒔絵風の模様があります。三尊の脇壇上に腰かけ、あるいは坐っている十大羅漢像は、寄木造り、玉眼、円頭。像高は88~100cm、胡粉仕上げで衣は極彩色。
釈迦三尊像・十六羅漢像ともに、京仏師絵所法限穂悦が彩色を行っています。これまで仏像そのものの作者は不明でしたが、最新の研究によると、室町時代末から江戸時代初期にかけて南都を中心に活躍した下御門仏師・宗印一門の手によるもので、製作年代は天正末期から慶長前半あたりと推側されています。
(パンフレットより)

写真は増上寺のオフィシャルサイトで見ることができます。
とりあえずいただいたパンフレットを掲載してきます。
パンフレット
帰りは反対の階段からおり、右手の山廊から出る形になっています。
階段 右手の山廊
めったにない機会に非常に貴重な経験をさせてもらいました。

増上寺参道

「三解脱門」の先には立派な「大殿」が見えます。
三解脱門から大殿
この「三解脱門」から「大殿」までの参道にも意味があり、約48間(約86m)の参道は阿弥陀仏の48願に由来しているのだそうで、この48願とは、法蔵菩薩(阿弥陀仏が仏になる前に名乗っていた名前)が仏になるための修行に先立って立てた48の願いのことです。
とういうことでこの参道を歩けば貴方も仏に・・・、なれるわけはありません。
どちらにしても寄り道をしますのです。

参道の右正面に大きな樹木がありますが、「グラント松」というそうです。
グラント松

グラント松
米国第18代大統領グラント将軍は明治12年7月国賓として日本を訪れ、増上寺に参詣し記念としてこの樹を植えました
(現地案内板説明文より)

グラント将軍とは南北戦争の北軍の指揮官として勇名をはせ、戦後大統領を2期つとめたユリシーズ・シンプソン・グラント将軍のことです。
当時、国賓として来日した際は大統領を2期つとめ、3期目の大統領に就けなかった後の世界周遊のうちの1カ国だったそうです。
明治12年7月に来日して約2ヵ月半滞在し、その間明治天皇への謁見や日光での滞在で過ごしたようです。
グラントの日本滞在中は各地で熱烈な歓迎を受けたようで、訪問した先の記念の版画が作られたり、歌舞伎までもがつくられたようです。
その中で増上寺を訪れたときに植樹したのがこの松で、このほか上野公園にも将軍の植えた「ローソンヒノキ」、奥さんが植えた「タイサイボク」が残っているそうです。

そしてグラント松の参道をはさんだ反対側に「港区観光インフォメーション」という臨時観光案内所が設置されていました。
港区観光インフォメーション
これは「江」の眠る増上寺の協力の下、港区観光協会が来年3月末まで運営しているコーナーだそうです。
観光用のパンフレットなどと共に、世界貿易センターにもあったキーホルダーやストラップなどが販売されていたり、江、市、淀、初、千姫、一家そろい踏みの「江家族羊羹」があったりと、なかなか微笑ましいものです。
「江」グッズ 「江」羊羹
横のYOKANの説明が素敵です。
キャラもなかなか可愛くできているので、それなりに受けているかもしれませんね。

「インフォメーションコーナー」の裏手には仏像など多くのものが奉納されています。
一番左側にあるのが「聖観世音菩薩」像で、昭和57年のホテルニュージャパンの火災事故の罹災者慰霊像だそうです。
聖観世音菩薩
その横には、仏の足うらの形(千幅輪相)を石に彫りつけた「仏足石」があり、明治14年5月に建石されたものです。
仏足石
そして昭和60年に建立された「魚供養之碑」があり、その隣には「詠唱発祥の地」碑があります。
魚供養之碑 「詠唱発祥の地」碑
更にその隣には「ブッシュ槙」が植えられていました。
ブッシュ槙

ブッシュ槙(コウヤマキ)
米国第41代ブッシュ大統領が副大統領として昭和57年4月24日来日の際、増上寺に参詣し、記念としてこの樹をお手植えされました。
(現地案内板説明文より)

このブッシュ大統領は、現在のオバマ大統領の前のブッシュ大統領の父のほうです。当時はレーガン大統領の副大統領として来日した時のようです。親子そろって植樹したらさぞ名所になったかもしれませんね・・・。

「ブッシュ槙」の先には手水舎があります。
水盤舎
ここでは「水盤舎」と呼んでいるようです。

水盤舎
この水盤舎は清揚院殿(徳川家三代将軍家光公三男甲府宰相綱重公)の霊廟にありましたが、明治時代の解体・昭和の空襲を逃れ、現在地に移築されました。
徳川将軍家霊廟建築を伝える数少ない遺構のひとつです。
(現地案内板説明文より)

かなり草臥れた感じはぬぐえませんが、煌びやかだった面影は感じられます。
浅草寺の二王門のように修復されると、遺構の姿がよりわかりやすくなると思いますが、当事者でなければ勝手なこといえますよね。ハードルはいくつもあるのでしょうから。

「水盤舎」の先にはちょっと変った形の仏像があります。
聖鋏観音縁起
「聖鋏観音」というそうです。

聖鋏観音縁起
この聖鋏観音像は、昭和56年8月3日、国際美容協会会長・山野愛子が願主となって、大本山増上寺境内のこの地に建立、開眼された。
願主の一生がハサミに支えられ、お陰によって生かされたことへの深い感謝と、ハサミの中にみる己を滅して他を整え美しくする働きを、観音様と拝む心とによって聖鋏観音像造立を発願。併せて美容はもとより、ハサミにかかわりのあるすべての人々の心の拠りどころとなり、お守りとなるよう願われて奉造された。
聖鋏観音像は、彫刻界の長老北村西望氏の制作である。
毎年8月3日を「ハサミの日」と定め、この世におけるつとめを果たし終えたハサミをあつめてこの塚に納め、ハサミ供養法要が厳修される。
ハサミは観音菩薩の 御手そのものである。
徹誉大僧正
(現地案内板説明文より)

一般的には先ほどあった“ハサミ供養碑”とか“ハサミ塚”といったようなものが建立される場合が多いようですが、ハサミの仏を作ってしまうところがすごいところで、新しい仏の誕生を見ているようです。
ちなみに北村西望氏は北区の名誉市民第1号の方で、長崎市の「平和記念像」を制作したほか、北区に「天使」や「平和の女神像」といった彫刻を残されているのを以前訪れた【ミステリーウォーク2009】で知りました。

再び参道の反対側に目を移すとかなり大きな鐘楼があるので行ってみます。
鐘楼堂

鐘楼堂
寛永10年(1633)に建立されましたが焼失、戦後に再建されました。納められている大梵鐘は、延宝元年(1673)に品川御殿山で椎名伊予守吉寛により鋳造されました。
徳川4代将軍家綱公の意向で奥方の「かんざし」まで寄与され、7回の鋳造を経て完成したもので、江戸三大名鐘の一つに数えられ、東日本では最大級として知られています。
その大きさ、高さ1丈(約3メートル)重さ4,000貫(約15トン)の大鐘です。その鐘の音は、時を告げるだけではなく、煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと誘います。
江戸時代の川柳には「今鳴る鐘は芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」・「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」・「西国の果てまで響く芝の鐘」等と詠われ、江戸庶民に親しまれてきました。
(現地案内板説明文より)

これだけの大梵鐘が戦時中に供出されなかったことが不思議なくらいです。
大銅鐘
特に文化財に指定されていた訳でもありませんので、やはり増上寺という名刹ゆえでしょうか。
川柳にも詠われた大梵鐘はかなり遠くまで聞こえたそうですが、江戸時代当時のこの鐘楼のことが江戸名所図会に記載されています。

大銅鐘
本堂の右の方にあり。鐘の厚さ尺余、口の渡り五尺八寸ばかり、高さ一丈ほどあり。銘に日く、「新たに洪鐘を鋳て、三縁山増上寺の楼に掛く。
尚、延宝元葵丑年〔一六七三〕十一月十四日。神谷長五郎平直重、須田次郎太郎源砥寛、鋳工椎名伊予吉寛」云々。その声洪大にして、遠く百里に聞こゆ。一撞の間の響き、もつとも長くして、行人一里を歴るとて、諺に一里鐘と称す。風に従ひて、当国熊谷の辺に聞こゆることあり。かしこは江戸より十六里を隔つ。また、安房・上総へも聞こゆるといへり。
(江戸名所図会より)

埼玉県の熊谷や房総半島まで聞こえたという伝聞があるようですが、凡そは一里(約4km)だったようです。それでも結構遠いですよね。それにしても“西国の果て”はありえないことですが、ここでいう西国とは芝周辺にあった有馬家や島津家等の西国の大名屋敷のことだそうで、逆に上手くま詠んだものだと感心してしまいます。

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