増上寺 #2

参道の寄り道もそろそろ終了で、ここから増上寺の参拝に「大殿」に向かいます。
天気も良く、既に夏の空から秋の空に変りつつあるようです。

大殿

眺めれば増上寺の「大殿」とバックの「東京タワー」はまさに、芝地区の新旧揃ったランドマークといえるでしょう。
大殿と東京タワー
「大殿」に進む幅広いこの石段にも当然意味があるようです。
18段の石段
この石段は18段あり、先に知った48願の内の第18願を示しているものだそうです。特に48願の内のまさに根本とするところがこの第18願であるということからのようです。
更にその先にはやはり階段があります。
25段の階段
この階段は25段あって、阿弥陀仏を念じて往生を願う者を浄土に迎える25体の菩薩に由来しているそうです。
「大門」から「大殿」までまさに息をも抜けない仏の世界といっても過言ではないかもしれません。

三縁山 広度院 増上寺
浄土宗の七大本山の一つ。
三縁山広度院増上寺が正式の呼称です。
開山は明徳4年(1393)、浄土宗第8祖、西誉聖聡上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に浄土宗正統根本念仏道場として創建され、文明2年(1470)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に大きく寄与してきました。
江戸時代初期、増上寺法主第12世源誉存応上人、後の「観智国師」が徳川家康公から深く帰依を受け、手厚い保護を受けました。
慶長3年(1598)に現在の地に移転し、徳川将軍家の菩提寺として、また関東十八檀林の筆頭として興隆し、浄土宗の統制機関となりました。
その規模は、寺領一万石余、二十数万坪の境内地、山内寺院四十八宇、学寮百数十軒、常時三千名の僧侶が修学する大寺院でした。
現代でも浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活動のほか文化活動も幅広く行われ、建造物、古文書、経典など多数の重要文化財を所蔵しています。
(現地案内板説明文より)

先ずはこの広大な寺院を江戸名所図会でも描写されています。
「江戸名所図会」三縁山増上寺(連作)-1 「江戸名所図会」三縁山増上寺(連作)-2 「江戸名所図会」三縁山増上寺(連作)-3 「江戸名所図会」三縁山増上寺(連作)-4 《「江戸名所図会」三縁山増上寺》
実際には見開き3ページで書かれていて、見開き1ページで書ききれないところにその広大さと当時の名刹ぶりがうかがえます。

その大寺院たる理由の一つの証が「関東十八檀林」でしょう。
以前、【第12回コスモスフェスティバル】で埼玉県鴻巣市の勝願寺を訪れた時に、この勝願寺が関東十八檀林の一つであるとして、この組織の名を初めて知ったのです。
この関東十八檀林とは、江戸時代に定められた関東における浄土宗における僧侶の養成機関であり学問所でもあった18ヶ寺を言い、当時の浄土宗の僧侶養成はこの18ヶ寺に限られ、更に門跡を知恩院、浄土宗の宗務を統括する総録所を増上寺とする体制が確立し、18ヶ寺の檀林が認定され、宗派の重要事項は檀林の会議で決定することが決められたのです。
その関東十八檀林とは以下の通りです。
武蔵国:増上寺(東京都港区)、伝通院(東京都文京区)、霊巌寺(東京都江東区)、霊山寺(東京都墨田区)、幡随院(東京都小金井市)、蓮馨寺(埼玉県川越市)、勝願寺(埼玉県鴻巣市)、大善寺(東京都八王子市)、浄国寺(埼玉県さいたま市岩槻区)
相模国:光明寺(神奈川県鎌倉市)
下総国:弘経寺(茨城県結城市)、東漸寺(千葉県松戸市)、大巌寺(千葉県千葉市)、弘経寺(茨城県常総市)
上野国:大光院(群馬県太田市)、善導寺(群馬県館林市)
常陸国:常福寺(茨城県那珂市)、大念寺(茨城県稲敷市)
特に紐解く必要もないような名刹であることを改めてしらしめられました。

早速、本堂である「大殿」を参拝します。
大殿 扁額 大殿
近くによるとやはりかなり大きい本堂であることがわかります。
そして、凛とした空気が張り詰めているような本堂内です。
木造阿弥陀如来坐像 木造阿弥陀如来坐像
本尊は「木造阿弥陀如来坐像」で東京都指定文化財すが、詳細な由来などは判りません。
江戸名所図会に僅かながら記載されていました。

本堂本尊、阿弥陀如来
恵心僧都〔源信、九四二-一〇一七〕の作にして、座像御長四尺ばかりあり。あるいはいふ、仏工運慶〔?-一二二三〕が作なりと
(江戸名所図会より)

この由来でいけば平安時代の作となるわけで、かなり貴重なものなのではないのでしょうかね。
また、両脇壇の左には宗祖法然上人が、右には高祖善導大師が祀られています。
宗祖法然上人 高祖善導大師
この「大殿」は昭和49年に戦災で焼失した大本堂を再建したもので、なんとこの大殿に使用されている柱の数が48本だそうで、そう48願に通じているそうです。
48願の柱
なかなか気が抜けませんが、参拝を済ませて三解脱門の光景を眺めながら大殿を後にしました。
三解脱門方向

安国殿

「大殿」の左手にも大きな堂宇があるので、そちらを参詣します。
安国殿
この堂宇は「安国殿」というそうです。

安国殿と黒本尊
この建物は徳川家康公の法号「安国院殿」からその名をとっています。「安国殿」とは元来家康公の尊像を祀る御霊屋を意味していましたが、戦後の復興に伴う境内堂宇整備の一環として、昭和49年(1974)当時の仮本堂をこの地に移転し、家康公の念持仏として有名な「黒本尊阿弥陀如来」を安置し「安国殿」と命名しました。
建物の老朽化に伴い、平成23年(2011)法然上人800年御忌を記念し、念仏信仰の拠点として家康公が成し遂げた天下泰平の世(安らかな国づくり)を願い、新たに「安国殿」を建立しました。
「黒本尊」は当山の秘仏で、正月、5月、9月の各15日、年3回行われる祈願会のときだけ御開帳されます。また両脇陣には、家康公肖像画、徳川家位牌、和宮像、聖徳太子像、仏舎利などが祀られており、庶民の信仰の中心として親しまれています。
(現地案内板説明文より)

元々は金色の仏像だったようですが、長い間の香煙によって黒ずんだことから黒本尊というようになったそうですが、本尊「阿弥陀如来坐像」に対する裏本尊「阿弥陀如来像」といったような構図に思えて何とも不可思議な世界です。
そもそもこの仏は清和源氏の守り本尊だったそうで、源義朝まで伝えられ、その後、平重盛を経て平清盛の屋敷に移されました。清盛はこれが源氏のものであることを知り、常盤御前に与え、常盤御膳は鞍馬にいた牛若丸の守り本尊としたのだそうです。しかし、牛若丸が義経と名乗り陸奥に下ることになり道中が長いことから、三河の矢作の長者にこの本尊を預けたのです。そして預けられた三河の長者は明眼寺を建立し本尊としたそうです。
時代が下がり、家康が一向一揆に苦しんだ際に、この御本尊に祈願し一揆を収めることができた事から、家康はこの本尊を譲り受け岡崎城で念持仏として身辺に安置したのだそうです。
そして江戸入府の際、この念持仏を増上寺に祀る一方、この黒本尊と寸分違わぬ御代仏を造立させ、戦陣へ赴く際には必ず黒本尊御代仏を長持型の厨子で運ばせて戦勝の加護を受けたといわれています。
そして現在この御代仏は箱根の阿弥陀寺に祀られ、本尊は増上寺の安国殿に祀られているというわけなのです。

黒本尊の縁起については理解しましたが、ここでは以前から何度も耳にしている“秘仏”について少し紐解きたいと思います。
“秘仏”とは文字通り秘密の仏像で、信仰上の理由により非公開とされ、厨子などの扉がとじられたまま祀られる仏像のことです。この秘仏は東アジアの仏教圏では特に日本に顕著な例が多いのだそうです。
秘仏には全く公開されない「絶対の秘仏」も一部あるのですが、一般的には特定の日に限って公開(御開帳)される場合が多いそうです。例えば長野・善光寺の阿弥陀三尊像のように、本尊像は絶対の秘仏で、「御開帳」の際に姿を見せるのが「お前立ち」と称する代わりの像になっており、まさしく御代仏が一緒に祀られていることになるのです。
このような秘仏の発生時期や要因については確かなことは判っていないようですが、平安時代以降、神社の御神体の影響からという説があるようです。
そして、この秘仏は宗派によって違うようで、秘仏を所有する寺院は真言宗系、天台宗系に比較的多く、浄土教系、禅宗には比較的少ないようです。これはあくまで推測ですが、貴族のために平安時代に成立した密教系の真言宗系、天台宗系と、庶民のために鎌倉時代に成立した浄土教系、禅宗という、背景・要因の違いによるところが関係しているのかもしれません。
これは尊像別でも言えることで、薬師如来や観音菩薩、そして不動明王といった密教寺院で本尊とされることが多い尊像が秘仏とされていることからも窺えます。したがって浄土宗の増上寺の黒本尊が秘仏であることはかなり珍しいケースではあるようです。
余談ながら「歓喜天」のように誤解を受けやすいので秘仏としているケースもあります。【「東京多摩地区」彷徨】で訪れた高幡不動の歓喜天は秘仏ではありませんでしたが・・・。

以下に代表的な秘仏を列挙します。
最初は日本文化史上重要と思われる三大秘仏です。
■法隆寺夢殿本尊 観音菩薩立像(救世観音)
法隆寺の夢殿内の堂内中央の厨子に安置されている飛鳥時代の木彫の救世観音像で、平安時代後期には秘仏となっていたようです。通説では1884年、岡倉天心とフェロノサが無理やり厨子の扉を開けて数百年ぶりに姿を現したといわれているようです。但し、現在では毎年一定期間公開されているようです。
■信州善光寺本尊 阿弥陀三尊像
6世紀に百済の聖明王から当時の日本へ献上された日本仏法最初の仏像が、様々な経緯で長野に運ばれたものが善光寺の本尊であるといわれ、鎌倉時代には既に秘仏だったそうです。現在でも「絶対の秘仏」として写真すらないようですが、元禄10年頃、本尊は無いのではないかという風聞が広まったため、幕府の役人が派遣され、この際に寸法などは記録されたといわれているようです。
■東大寺二月堂本尊 十一面観音立像
諸々の罪や過ちを懺悔し、国家の安泰と人々の幸福を祈る行事「お水取り」で有名な二月堂内に大観音、小観音と呼ばれる2体の十一面観音立像が安置されています。秘仏とされた年代は不詳ですが、「お水取り」の行事を執り行う寺僧もこれらの像を見たことはないそうです。
しかし、寛文7(1667)年の二月堂火災の際に損傷した大観音の光背のみ別途保管され、奈良国立博物館で公開されているそうです。 これ以外の開扉時期を定めていない秘仏をあげてみます。
中尊寺(岩手)一字金輪坐像、成田山新勝寺(千葉)本尊不動明王及び二童子像、浅草寺(東京)本尊 聖観音像<絶対の秘仏。写真なし>、寛永寺(東京)本尊 薬師三尊立像、園城寺(滋賀)本尊 弥勒菩薩像<絶対の秘仏。写真なし>、東寺(京都)御影堂 不動明王坐像、仁和寺(京都)霊明殿本尊 薬師如来坐像、法輪寺(京都)本尊 虚空蔵菩薩像、金峯山寺(奈良)本尊 蔵王権現立像などがあるようです。
秘仏だから見られない、だから見たい・・・。チャンスがあるときは逃さないというのが鉄則でしょう。

早速なかにはいると中央にその黒本尊の安置された厨子があります。
黒本尊
当然開帳していませんが、実は3日前の9月15日に黒本尊祈願会として、開帳されていたのだそうです。ちょっと残念ですが、信仰心も薄いですから返って失礼かもしれませんね。
そして厨子の前に祀られているのが黒本尊御代仏でしょう。
黒本尊御代仏
左側には徳川家康肖像画、徳川家位牌、和宮像などが祀られています。
徳川家康肖像画 徳川家位牌 和宮像

堂内の左手ではお守り授与所が設えられています。そこにはやはりありました「御江守」です。
御江守 御江守
こういったときにしか受けられないでしょうからある意味貴重なお守りといえそうです。
ちなみに9月15日は「江」の命日でもあり、法要が営まれたそうです。
徳川家縁の増上寺ですが、特に家康縁の深い安国殿は貴重な堂宇でしょう。

西向観音

「安国殿」の左手には小さな堂宇があります。
西向観音像
これもまた文化財で「西向観音像」です。

港区の文化財 西向観音像
西向観音は、現在三康図書館のある場所にあった観音山に西に向けて安置されていたもので、現在の正則中学校あたりにあった地蔵山に東向きに安置された四菩薩像とともに、その間を通る街道を見下ろす形をとっていました。
将軍家の菩提所である増上寺は格式が高く、庶民には近寄り難いところもありましたが、この像は安国殿に安置されている黒本尊とともに多くの庶民の信仰の対象として今に続いています。
平成4年3月30日 港区教育委員会
(現地標柱説明文より)

現在の三康図書館は丁度増上寺の裏手(東京タワー方面、西方向)にあり、正則中学校は増上寺の北方向にあります。
明治時代の大日本芝三縁山増上寺境内全図に拠ればその位置が確認できます。
大日本芝三縁山増上寺境内全図 《大日本芝三縁山増上寺境内全図》
そして両地点で西と東にはさまれた街道はというと、現在の都道301号線にあたり、北方向は愛宕神社に向かい、赤羽橋を経由して現在の国道1号線を経て旧東海道である現在の国道15号線に合流するのです。したがって旅人や住民の往来も多く、庶民に信仰されてたのでしょう。
それを格式の高い増上寺に移したことから、自然に増上寺への庶民の参詣も増えたということでしょう。
小さな堂宇ですが、造作はしっかりしていそうです。
西向観音像
仏像は意外と大きい像でした。

そしてこの堂宇の辺りから西方面に向かって「千躰子育地蔵尊」が並んでいます。
千躰子育地蔵尊
子育て安産に霊験あらたかとされる西向観音にちなんで、子供の成長・健康を願って昭和50(1975)年から順次奉安されているのだそうです。現在では千躰を超え、約1300体以上あるそうで、まだまだ増え続けるのでしょう。
千躰子育地蔵尊
単純に光景としては見事な色彩に溢れた美しい風景といえます。

そして、この千躰地蔵沿いに進んだ丁度「安国殿」の裏手には先ほど説明のあった「四菩薩像」がありました。

港区登録有形民俗文化財  四菩薩像
向って左から、文殊菩薩<卯年守本尊>、虚空蔵菩薩<丑寅守本尊>、地蔵菩薩<子育地蔵>、普賢菩薩<辰年守本尊>の四体の菩薩像は、この場所の北西、現在の正則中学校あたりにあった地蔵山に東に向けて安置されていたもので、道を隔てて東側にあった観音山に西向きに安置された西向観音像(港区文化財)とともに向き合って街道を見下ろす形をとっていました。足利成氏が建てたとも、北条時頼が建てたとも、正嘉2年(1258)に土地の人が真言僧に建てさせたともいわれています。
(現地案内板説明文より)

「四菩薩」というのは初めて聞きました。
これは仏教の信仰や造像の対象である菩薩の組み合わせの一つだそうです。
四菩薩像
一般的に「四菩薩」というと密教における普賢菩薩、文殊菩薩、観音菩薩、弥勒菩薩の四菩薩を言うようです。そのほかでは、天台宗系では金剛法、金剛利、金剛因、金剛語、華厳経では法慧、功徳林、金剛幢、金剛蔵、そして日蓮宗・法華宗では、上行、無辺行、浄行、安立行をいうそうです。
しかしながら、こちらにある組み合わせはどれにも合致しないパターンなので、やはり庶民信仰として建立されたものなのかもしれません。

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