増上寺 #3

いよいよこれからが今回の散策の一つの主目的である徳川家霊廟です。
例年では1月15日を皮切りに、祈願会などの特別な日(年間のべ約15日程度)だけ無料で特別公開されているのですが、今年はやはり「江」のおかげか、平成23年4月から平成24年1月末まで、個人拝観が出来るそうなのです。ここもまた拝観できるチャンスは逃さないことでしょう。

徳川将軍家墓所

霊廟の前には重そうな門があります。
鋳抜門
物理的にも概念的にも重そうな門で、ここが徳川将軍家墓所なのです。

徳川将軍家墓所
戦前、旧徳川将軍家霊廟は御霊屋とも呼ばれ、増上寺大殿の南北(左右)に建ち並んでいました。
墓所・本殿・拝殿を中心とした多くの施設からなり、当時の最高の技術が駆使された厳粛かつ壮麗な霊廟は、いずれも国宝に指定され格調ある佇まいでした。
その後昭和20年(1945)の空襲直撃で大半が焼失し、残った建物もその指定を解除されました。
正面の門は旧国宝で「鋳抜門」といわれ、文昭院殿霊廟(徳川家6代将軍家宣公)の宝塔前「中門」であったものを移築しました。
左右の扉は共に青銅製で5個ずつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれ、その荘厳さは日光東照宮と並び評された往時の姿を今に伝える数少ない遺構です。
墓所には、2代秀忠公・6代家宣公・7代家継公・9代家重公・12代家慶公・14代家茂公の6人の将軍のほか、崇源院(2代秀忠公正室、家光公の実母、お江)、静寛院宮(14代家茂公正室和宮)ら5人の正室、桂昌院(3代家光公側室、5代綱吉公実母)はじめ5人の側室、及び3代家光公第三子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されています。
(現地案内板説明文より)

確かに両扉に5個ずつ計10個の葵の紋がこれでもかとばかりに輝いています。
その両脇には緑青をふいていますが、見事な龍が描かれています。
下り龍 昇り龍
左側が下り龍で、右側が昇り竜です。青銅製というのは木造と違った壮麗さを感じるものです。

その左側に拝観券受付があり、500円の拝観料で霊廟の絵葉書をいただきました。
拝観券受付 チケット 絵葉書

早速、墓所にはいります。
墓所内はちょうど“コ”の字のように墓石が建てられています。
徳川将軍家墓所
先ずは一番奥の右側の「2代秀忠公、崇源院夫妻」の石塔です。
「2代秀忠公、崇源院夫妻」の石塔 「2代秀忠公、崇源院夫妻」の石塔 「2代秀忠公、崇源院夫妻」の燈籠

二代秀忠公(台徳院殿/宝塔:正面右側)
家康公第3子として天正7年(1579)に出生。幼名長松・竹千代、のち豊臣秀吉より一字をもらい秀忠と名乗る。慶長10年(1605)第2代将軍に就任も、家康公生存中、実権は父に。元和9年(1623)家光に将軍職をゆずり大御所となった後も実権を有す。寛永9年(1632)1月24日薨去。54歳。同27日大葬の式は行われず霊柩を増上寺に迎え、2月10日より霊廟造営が始まり、当時の最高の技術者が動員され順次建立されていった。
台徳院殿廟奥院に祀られた宝塔は、装飾華麗で当時の芸術の粋をつくしたものだったが、惜しくも木造のため戦災で焼失。
(増上寺御霊屋パンフレットより)

二代目将軍秀忠は、家康と家光の間に挟まれているため影が薄いのですが、実際には家康の路線を忠実に踏襲したのみならず、独自性の強い施政も行っているのです。貿易統制などもその施策の一つで、歴代将軍の中でも偉大な政治家であったと見る向きもいるようです。
徳川秀忠 《二代将軍 徳川秀忠》
そして現在その秀忠はこの宝塔に眠っているのですが、元々は霊廟があったのですが、戦災で焼失したためこのような形になっているそうです。
「2代秀忠公、崇源院夫妻」の石塔
この宝塔は「江(崇源院)」の宝塔だったものだそうです。

そして当時最高の技術によって建立された「台徳院殿(2代秀忠公)」の霊廟がこちらです。
台徳院殿霊廟 惣門 ①「台徳院殿霊廟 惣門」《写真:徳川将軍家旧御霊屋絵葉書》

台徳院殿霊廟 惣門
寛永9(1632)年造営。旧国宝、現国指定重要文化財。
台徳院殿霊廟の表門にあたり、奥に見える勅額門から本殿、奥院に続く。戦災による焼失を逃れた数少ない建造物。
(徳川将軍家旧御霊屋絵葉書より)

現在、この表門は東京プリンスホテルパークタワー前に移築・残存しており、勅額門、御成門、丁子門、灯篭もまた戦災の焼失を免れ、現在は狭山湖畔ユネスコ村、狭山山不動寺に移築保存されています。

台徳院殿霊廟 奥院宝塔 ②「台徳院殿霊廟 奥院宝塔」《写真:徳川将軍家旧御霊屋絵葉書》

台徳院殿霊廟 奥院宝塔
旧国宝。寛永9(1632)年に造営、昭和20(1945)年戦災にて焼失た。
奥院、八角の覆堂内部に祀られた宝塔(墓塔)。装飾華麗であり、当時の工芸美術の粋を尽くすものであった。
(徳川将軍家旧御霊屋絵葉書より)

これに色彩があれば更に息をも呑むような光景に遭遇しそうな予感です。
そして残念なことにこれだけ見事な霊廟が戦災で焼失したわけですが、昭和330(1958)年、この台徳院霊廟が増上寺本堂近くに移転改築された際に、土葬されていた秀忠の遺骸も桐ヶ谷斎場で荼毘に付されて改葬されたのだそうです。
そのときの秀忠の遺体調査によると、その遺体は棺の蓋や地中の小石などの重みによって座ったままの姿勢で衣服ともに縦に圧縮され、畳んだ提灯のようにつぶれていたようです。調査の結果、血液型はO型で、凡そ身長157.6cmであったと推測されるそうです。 ずっと苦しかったのが、やっと安らかに寝ることができたのかもしれませんね、夫妻一緒ですから…。

そしてここに一緒に祀られているのが、今回の主役である「江(崇源院)」です。
江(崇源院) 《江(崇源院)》
ここで「江」の生涯を簡単に振り返ってみます。

スーパーセレブ、江
江は、天正元年(1573)に、武将浅井長政と妻で織田信長の妹の市の三女として近江国小谷(現在の滋賀県長浜市)で生まれた。その年に父・長政は、義兄である信長と対立し、城を攻められて自刃、浅井家は滅亡した。江は、母・市と茶々、初の2人の姉と共に、織田に身を寄せるが、信長は本能寺の変で命を落とす。その後は市が再婚した柴田勝家の、勝家と市が亡き後は豊臣秀吉の庇護を受けて育った。両親を亡くし、実家と呼べる場所もなくし、言い換えるなら、江は落ち着かない環境のなかで成長した。
江のエピソードとしてよく知られているのが3度の結婚をしたことだ。最初の結婚相手は、尾張の国衆・佐治一成。しかし、秀吉によって強制的に離縁され、今度は秀吉の甥・豊臣秀勝の妻に。秀勝との間には一子をもうけた。そして、秀勝が朝鮮出兵(文禄の役)で病死すると、徳川家康の跡を継いで後に二代将軍となる秀忠の正室となった。秀忠との間には、二男五女をもうけ、長男・家光はのちに三代将軍に、五女の和子(まさこ)は後水尾天皇女御として入内し、明正天皇の母となっている。
織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康という、誰もがその名を知る戦国時代のスーパースターたちとはみんな親戚という江は、現在でいうセレブ。さらに、将軍の生母、さらには姫を皇族に嫁がせていることも考えると、その上を行くスーパーセレプリティーといっても過言ではない。それにも関わらず、彼女の資料があまり残されていないのが残念だ。

近江の“江”は江戸の“江”に、
秀忠に嫁ぐと、江の人生は一転する。幼少期の流転の人生とは正反対で、江戸城という居場所を得たことで落ち着いた生活を送り、寛永3年(1626)に江戸城西の丸で54年の人生を閉じるまで、実に人生の半分以上を江戸城、そして江戸の町で過ごした。
徳川家安泰の必須事項である次期将軍を生んだことに加えて、江のした仕事に大奥を作ったことがある。政治や策略などが絡み合い、自身もそうした動きに流されるままに不安定な人生を送ってきた彼女は、徳川家の血筋を守っていくため、さらに当時、弱い立場にあった女性たちを守るために理想郷として、大奥作りに取り組んだ。その実現のために、家康に直談判している。
流転の人生を送りながらもその場で自分の役割を見つけ、社会のため、国のために尽くした江。そんな彼女の人生が、現在放送中のNHK大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』で描き出されている。
(「江」展パンフレットより)

当然ながら大河ドラマとなったことで、ここまでクローズアップされるようになったわけですが、ロケ地が観光資源となり経済効果が波及されることは今や当たり前のことですが、今まであまり知られていなかった人物が、現代にヒーロー、ヒロインとして脚光を浴びることはやはり本人達も喜んでいるのでしょうね、きっと。

さてこの「江(崇源院)」の当時の霊廟がこちらです。
江(崇源院)霊廟 江(崇源院)霊廟 江(崇源院)霊廟 《写真:現地掲示板掲載写真》
説明はありませんが、「台徳院殿(秀忠公)」と同じように華麗なる霊廟だったようです。
この霊廟には、寛永3(1626)年に、崇源院の御霊屋別当職として創建された「最勝院」という増上寺塔頭があり、この「最勝院」には「江」の念持仏であった「持蓮華蕾中阿弥陀如来立像」が残されているそうです。
その写真がパンフレットに掲載されています。
これは持蓮華の様式といわれるものだそうで、蕾の中に高さ約5センチの阿弥陀如来立像が収められているものだそうです。
持蓮華蕾中阿弥陀如来立像 《写真:増上寺御霊屋パンフレット》

ここで確認しておきたいことは、この霊廟の位置です。
いただいた資料の中に当時の俯瞰図があります。
霊廟 《大日本芝三縁山増上寺境内全図》
丁度中央にあるのが現在の「大殿」である本堂です。そして本堂の先に「台徳院殿(秀忠公)」などの南御霊屋があり、手前に北御霊屋があります。
先の「台徳院殿霊廟 惣門」は①で、「台徳院殿霊廟 奥院宝塔」は②の位置にありました。
これを更に簡略化して上部を北とした場合の平面図です。
霊廟地図 《写真:増上寺御霊屋パンフレット》
こうすると判りやすいですが、中央の本堂ある周辺が現在の「増上寺」で、南御霊屋が現在の芝公園・芝東照宮周辺で、北御霊屋が現在の東京プリンスホテルとなっているのです。
したがって元々の増上寺は現在の芝公園全域だったことがわかるわけです。
当時の増上寺が広大だったことが良く理解できるとともに、まさしく徳川将軍家の菩提寺として権勢を誇っていただけあって、確かに庶民には縁遠い寺院といえるのも事実のようです。

「台徳院殿と崇源院」の石塔の左隣が「文昭院殿(6代家宣公)」の石塔です。
「文昭院殿(6代家宣公)」の石塔 「文昭院殿(6代家宣公)」の石塔

六代家宣公(文昭院殿/宝塔:正面左側)
家光公の三男綱重を父とし寛文2年(1662)に出生。宝永6年(1709)将軍職を継ぎ、新井白石等を重用し政治の刷新をはかり、生類憐れみの令を廃止するなど正徳の治をなしとげたが、在職わずか3年にして病に倒れ、正徳2年(1712)51歳の生涯を閉じた。
増上寺の北霊域に造営された文昭院殿廟だが、参詣した永井荷風は、荘重美麗な外観への驚きと神壇・壁画・天井画・欄間彫刻を配した内部の「秩序の世界」に感嘆し、その著『霊廟』の中で、「広大なる此の別天地の幽遽なる光線と暗然たる色彩と冷静なる空気とに何かしら心の奥深く、騒々しい他の場所には決して味われぬ或る感情を誘い出される」と告白している。
(増上寺御霊屋パンフレットより)

ちょっと前に【白岡の梨】で訪れた埼玉県白岡町が新井白石の縁の町でしたが、白石は随分と家宣に重用された証が残っていました。
あの「生類憐みの令」を発布した綱吉の後継なるが故に、歴史的には秀忠と同じように影が薄いイメージです。しかしながらこの悪令である「生類憐みの令」や酒税の廃止など、一般庶民の人気も高く、歴代将軍の中でも名君の一人に数えられるといわれているのですが、惜しむらくは在位期間がたった3年だったことでした。

そして永井荷風が感嘆した霊廟がこちらです。

文昭院殿 霊廟 拝殿内部 ③「文昭院殿 霊廟 拝殿内部」《写真:徳川将軍家旧御霊屋絵葉書》

文昭院殿 霊廟 拝殿内部
旧国宝。正徳3年(1713)造営、昭和20年(1945)戦災にて焼失。
本霊廟は増上寺北廟の南半を占めていた。二天文から勅願門、中門を抜け、渡廊を進むと、霊廟主要部であるた拝殿、相之間、本殿に至る。
(徳川将軍家旧御霊屋絵葉書より)

文昭院殿 霊廟 左右廊内部 ④「文昭院殿 霊廟 左右廊内部」《写真:徳川将軍家旧御霊屋絵葉書》

文昭院殿 霊廟 左右廊内部
旧国宝。正徳3年(1713)造営、昭和20年(1945)戦災にて焼失。
第3の門である中門の左右に続く廊内部。中門の内に、拝殿・相之間、本殿より成る権現造の御霊屋(霊廟主要部)があった。
(徳川将軍家旧御霊屋絵葉書より)

文昭院殿 霊廟 奥院中門 ⑤「文昭院殿 霊廟 奥院中門」《写真:徳川将軍家旧御霊屋絵葉書》

文昭院殿 霊廟 奥院中門
旧国宝。正徳3年(1713)造営。左奥から文昭院殿中門(現存、現増上寺御霊屋入口)、右手前が慎徳院殿(12代家慶公)中門。これより手前に昭徳院殿(14代家茂公)・静寛院宮(家茂公御正室和宮様)中門に続く。
(徳川将軍家旧御霊屋絵葉書より)

文昭院殿 霊廟 鐘楼 ⑥「文昭院殿 霊廟 鐘楼」《写真:徳川将軍家旧御霊屋絵葉書》

文昭院殿 霊廟 鐘楼
旧国宝。正徳3年(1713)造営、昭和20年(1945)戦災にて焼失。 勅願門から中門にいたる参道の右に鐘楼、左に水盤舎が相対して配置されていた。桁行3間(約5.5m)、梁間2間(約3.6m)、入母屋造、銅瓦葺。
(徳川将軍家旧御霊屋絵葉書より)

文昭院殿 霊廟 奥院唐門 ⑦「文昭院殿 霊廟 奥院唐門」《写真:徳川将軍家旧御霊屋絵葉書》

文昭院殿 霊廟 奥院唐門
旧国宝。正徳3年(1713)造営、昭和20年(1945)戦災にて焼失。
本殿横の仕切り門を出て西進すると、奥院前の石段に至る。奥院は唐門・拝殿、一段上がって中門(現存)・宝塔(現存)が一直線に配されていた。
(徳川将軍家旧御霊屋絵葉書より)

特に家宣の霊廟の写真が多くあるようですが、寺院の中にもう一つの寺院があるようなものです。確かにこれだけのものを一瞬の内に失うというのも、返す返すも残念なことです。
同じように霊廟が戦災で焼失後の調査では、家宣は細面で鼻筋が通っていて穏やかな顔立ちをした美男であったといい、父・綱重とは猫背であったこと以外に似ている部分は非常に少なかったと言われています。
徳川家宣 《六代将軍 徳川家宣》
そして血液型はO型で、身長は160cmと当時の平均よりやや高かったようです。

次は右の列の一番奥で、「有幸院殿(7代家継公)」の宝塔です。
「有幸院殿(7代家継公)」の宝塔 「有幸院殿(7代家継公)」の宝塔

七代家継公(有幸院殿/宝塔:右列奥)
家宣公の第3子として宝永6年出生。父の薨去、兄二人の早世でわずか3歳にして7代将軍職を継ぐ。正徳5年皇女八十宮と婚約するも、元来が病弱で実現を見ぬまま翌正徳6年薨去。廟は文昭院殿廟に並んで造営された。
(増上寺御霊屋パンフレットより)

3歳で将軍となり、8歳で亡くなったのですから何もしていないと同じことです。元々父である6代将軍の家宣は尾張家の徳川吉通を時期将軍と押していたのですが、白石の考えにより家継となったようで、白石にもそれなりの理由と対応があってもことだったようですが、若干きな臭いものも感じます。
それでも聡明だったようで、聞き分けも良く仁慈の心も持っていたといわれているようです。
父の横で眠っていた霊廟がこちらです。

有章院殿 霊廟 中門・左右廊内部 ⑧「有章院殿 霊廟 中門・左右廊内部」《写真:徳川将軍家旧御霊屋絵葉書》

有章院殿 霊廟 中門・左右廊内部
旧国宝。享保2年(1717)造営、昭和20年(1945)戦災にて焼失。
有章院殿霊廟主要部(拝殿・相之間・本殿)の入口である、中門・左右廊内部より勅額門を望んだ写真。
(徳川将軍家旧御霊屋絵葉書より)

有章院殿 霊廟 勅額門 ⑨「有章院殿 霊廟 勅額門」《写真:徳川将軍家旧御霊屋絵葉書》

有章院殿 霊廟 勅額門
旧国宝。享保2年(1717)造営、昭和20年(1945)戦災にて焼失。
勅額門左右の外透塀は、霊廟主要部の左右廊に至るまで107間(約195m)に及ぶ。外透塀奥には門内右手にある鐘楼が見える。
(徳川将軍家旧御霊屋絵葉書より)

有章院殿 霊廟 水盤舎及び井戸屋形 ⑩「有章院殿 霊廟 水盤舎及び井戸屋形」《写真:徳川将軍家旧御霊屋絵葉書》

有章院殿 霊廟 水盤舎及び井戸屋形
旧国宝。享保2年(1717)造営、昭和20年(1945)戦災にて焼失。
本霊廟は増上寺北廟に、文昭院殿廟と並んで造営された。勅額門を入りと右に鐘楼、相対して左に水盤舎(写真左)、井戸屋形(写真右)があった。
(徳川将軍家旧御霊屋絵葉書より)

家継の遺骨調査では、長年の雨水の影響で、骨を分解し流し去ったため遺骨は無く、家継のものと思われる遺髪と爪、そして刀などの遺品があっただけだったそうです。子供の発育過程中ですから、骨ももろかったのでしょうか…。
徳川家継 《七代将軍 徳川家継》
なお、有章院殿霊廟の「二天門」は現在、東京プリンスホテル前に残されています。

その手前が「惇信院殿(9代家重公)」の宝塔です。
「惇信院殿(9代家重公)」の宝塔 「惇信院殿(9代家重公)」の宝塔

九代家重公(惇信院殿/宝塔:右列中)
正徳元年8代吉宗公の長子として出生。生まれつき多病で将軍になっても政務は重臣にまかせた。調査によれば、重度の歯ぎしりにより言語も不明瞭であったようだ。しかし復元される容貌は歴代将軍の中で最も美男子であったようで、遠くから拝謁するだけの大名にとっては気高く見えたという。宝暦10年(1760)49歳で将軍職を譲り隠退するも、翌宝暦11年51歳で薨去。
(増上寺御霊屋パンフレットより)

父は享保の改革などで名君の一人としてうたわれた“暴れん坊将軍”こと徳川吉宗で、家重はその長男としてまさにサラブレッドだったのです。しかしながら生まれてこの方、虚弱体質の上、脳性麻痺とも推測されている障害により言語が不明瞭であったため、幼少から大奥に籠りがちで酒色にふけって健康を害したそうです。
徳川家重 《九代将軍 徳川家重》
このように無能な将軍と言われていたようですが、父の遺産と田沼意次などの人事才能により何とか無事に平穏を保った将軍との評価のようです。

さてこの9代家重の霊廟の写真がありませんが、霊廟のあったのは7代家継までで、8代吉宗以後は廟を廃止し既存の将軍霊廟に相殿として祀られる事になったため、各将軍ごとの霊廟はなくなったのです。
遺骨調査では血液型はA型で、身長は156.3cmだったようです。また、歯の磨耗があり、四六時中歯軋りをしていた形跡があるようで、これが脳性麻痺の典型的症例のようで、このことから言語不明瞭はここから起因しているものと推測されているそうです。

そして右の列の一番手前が「慎徳院殿(12代家慶公)」の宝塔です。
「慎徳院殿(12代家慶公)」の宝塔 「慎徳院殿(12代家慶公)」の宝塔

十二代家慶公(慎徳院殿/宝塔:右列手前)
家斉公第2子として寛政5年(1793)に生まれる。天保8年(1837)12代将軍となり、天保の改革に着手するも成果なく、幕府は没落の道を歩むこととなる。嘉永6年(1853)、あわただしい世情の中の薨去。
(増上寺御霊屋パンフレットより)

将軍となった年齢が45歳で、しかもその時点では11代将軍で父である家斉が大御所として発言権を持っていたため、家臣の意見を聞いても「そうせい」しか言うことしかないことから「そうせい様」と呼ばれて暗愚といわれていたようですが、天保の改革など失敗となったが、それなりの指導力は発揮したようです。
徳川家慶 《十二代将軍 徳川家慶》
そして嘉永6年(1853)6月3日にアメリカのペリーが来航した後の6月22日に61歳で亡くなったのです。まさしくあわただしい世情、この上も無いころです。
遺骨調査では推定身長154.4cmで、頭が大きく、6頭身で顎が長かったと推定され、現存する肖像画は生前の特徴を良く捉えているといわれています。血液型はB型です。

この次は左の列で、一番奥にあるのが「昭徳院殿(14代家茂公)」の宝塔です。
「昭徳院殿(14代家茂公)」の宝塔 「昭徳院殿(14代家茂公)」の宝塔

十四代家茂公(昭徳院殿しょうとくいんでん/宝塔:左列奥)
11代家斉公の養子、斉順の長子として弘化3年(1846)に生まれる。安政5年将軍の養子となり14代将軍となった。しかし、世継問題と日米通商問題で幕府は大きく揺れ、井伊直弼によって安政の大獄がはじまったが、事態収拾のために公武合体策をとり、和宮親子内親王(静寛院)を正室に迎えた。尊王壊夷派と幕府の対立が激化するなかで、家茂は長州征伐を指揮し、出征途中で大阪城で病のため薨去。慶応2年(1866)、享年21歳であった。
(増上寺御霊屋パンフレットより)

激動の時代に突入した中での将軍でしたが、13歳という若さだったため、田安慶頼や一橋慶喜が将軍後見職に就いていたため、その権力は抑制されていたようです。しかしながら英明な風格を持ち、勝海舟をはじめとした幕臣からは信望が厚く、長命であれば名君として名を残したかもしれないと海舟は言っていたそうです。
徳川家茂 《十四代将軍 徳川家茂》
特筆すべきは文久3(1863)年に、将軍としては229年振りとなる上洛を果たし、義兄の孝明天皇に攘夷を誓ったのです。そして第2次長州征伐の途上、大阪城で病に倒れ21歳でなくなりました。
政略結婚とはいえ和宮との関係は良好だったそうで、徳川家歴代の将軍と正室の中で最も夫婦仲が良かったのは家茂・和宮といわれているようです。
遺骨調査では、残存する31本の歯の内30本が虫歯に掛っていて、もともとの体質と羊羹、氷砂糖、金平糖、カステラなどの甘い物好きの結果と考えられています。そしてこの虫歯が家茂の体力を弱め、短命の一因となったと推測されています。
身長は156.6cm、血液型はA型で、家茂の肖像画もまた良く特徴を表しているようです。

そしてその隣が家茂の正室である「静寛院和宮」の宝塔です。
「静寛院和宮」の宝塔 「静寛院和宮」の宝塔

静寛院和宮(宝塔:左列中)
14代家茂公正室、静寛院和宮さまは兄孝明天皇即位の年、仁孝天皇第8皇女として弘化3年(1846)出生。嘉永4年6歳の折、有栖川宮と婚約。しかし婚儀間近になって公武合体策によって徳川家に降嫁。時に15歳。家茂公没後、落飾して静寛院と称し、波乱万丈変転厳しい時代のなか、江戸城無血開城、徳川家存続、夫君追善に力尽くすも、明治10年(1877)31歳という短い生涯を閉じた。
没後遺体は京都へ戻すよう沙汰があったが、本人の遺言にしたがい増上寺はこれを拒絶。家茂公と同列に並んで祀られた。宝塔の形は夫婦同様だが、家茂公石塔に対し青銅製である。
(増上寺御霊屋パンフレットより)

和宮についてはある意味、今までに紹介された歴代の将軍よりメジャーかもしれませんので、幾つかのエピソードをかいつまんで見ます。
◆江戸時代のみならず日本史を通じて皇女が武家に降嫁し関東に下向した唯一の事例です。
◆文久3年(1863年)2月13日、家茂は江戸を出立した際、和宮は家茂の無事を祈り、24日から増上寺の黒本尊の御札を勧請し、御百度を踏んでいます。
◆家茂が長州征伐のために上洛の際、凱旋の土産は何がよいかと問われた和宮は、西陣織を所望したのですが、家茂は征長の最中に大坂城にて病没、西陣織は形見として和宮の元に届けられたそうです。そして西陣織は増上寺に奉納され、後に追善供養の際、袈裟として仕立てられ、「空蝉の袈裟」として現在まで伝わっているそうです。
◆天璋院は和宮と対面した際、上座にあって会釈も礼もせず、和宮の座には敷物も用意されていなかったそうで、対立も激しかったようです。しかし、維新後は氷解し、明治7年(1874年)の東京移住後は天璋院を始めとする徳川家の人々とも親しく交流してたようです。天璋院とともに勝海舟の屋敷を訪れ昼食をとった際、お櫃のご飯をどちらがよそうかとなった時は、勝がもう一つしゃもじを用意して、互いの茶碗にご飯をよそわせたといわれています。
静寛院和宮 《静寛院和宮》
和宮とは、家茂との折り合いも良く、最後まで武家の人間として貫いたようで、1本筋の通った親しまれる人物だったようです。

さてこの和宮の遺骨調査では、まず和宮の墓から家茂と思われる男性の肖像写真が発見されたそうです。これまで家茂の写真は存在しないと考えられていたのですが、死の直前の大阪で撮影され、江戸の和宮に贈られたと推測されています。
但し、一説には婚約者だった有栖川宮熾仁親王では無いかという説もあるようですが、写真自体が日光のため発見の翌日に画像が消失し、タダのガラス板になってしまっているので真偽のほどは定かではありません。
血液型はAまたはAB型で、身長143.4cm、体重34kgで、反っ歯と内股が特徴の小柄な女性だと推定されているようです。また、不思議なことは、左手の手首から先の骨が見つからないことで、増上寺の和宮像や日本女子会館の像もまた左手が不自然に隠されていて、肖像画にも描かれている様子が無いことから、何らかの理由で生前左手首から先を欠損していたのではないかとも相即されているようです。
安国殿にその像がありましたので、再度写真をクローズアップしてみます。
静寛院和宮
確かにこの像も、肖像画にも写ってはいないようです。
ただ、最近、和宮が降嫁に際し中山道を通って江戸へ向う途中、信州小坂家で休息した折に小坂家の写真師が撮影した和宮の写真が発見されたそうで、この写真からは袖から僅かに両手の先を出している姿が確認できるのです。
静寛院和宮 《写真:財団法人徳川記念財団》
しかしながら、この写真が和宮かどうかの真偽もつかないことから、左手首消失の真偽も定かではないようです。
いずれにしても話題多き女性です。

そして最後の宝塔が「合祀塔」です。
合祀塔 合祀塔

合祀塔(宝塔:左列手前)
現在の合祀塔には、家光公第3子で家宣公の実父である徳川綱重をはじめ、家光公側室で五代綱吉公の生母桂昌院、11代家斉公正室廣大院、家宣公側室月光院ら南北の御霊屋に祀られていた歴代将軍の婦人や子女の多数が埋葬されている。なお宝塔は月光院輝子の墳墓に祀られた宝塔である。
(増上寺御霊屋パンフレットより)

徳川綱重廟の水盤舎が、現在の参道にあったあの水盤舎です。
そして当時この霊廟に祀られていて、他に移された宝塔は、現在以下のところに現存しているそうです。
清瀬・長命寺:6代家宣正室・天英院(近衛熙子)、11代家斉正室・廣大院(近衛寔子)、5代綱吉側室・瑞春院(お伝の方)、11代家斉側室・契真院(お満の方)
狭山・不動寺:13代家定正室・天親院(鷹司任子)、3代家光側室・桂昌院(お玉の方)
※なお、桂昌院はここ増上寺に合祀されているのですが、何故か宝塔だけ不動寺に残されているそうです。

こうして増上寺の徳川将軍墓所を参詣したわけですが、豪華絢爛な霊廟のカラー写真が残されていました。
当然、カラーも鮮明ではありませんが、当時の佇まいを知る貴重な画像です。霊廟のみならず増上寺全域の画像も残されています。

参考:【長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真コレクション」】http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/univj/list.php?req=2b

最後に「鋳抜門」の裏側を見てから墓所を後にしました。
鋳抜門
裏側には葵紋はありませんが、昇り龍と下り龍はこちらにもありました。
宝塔だけとはいえ貴重な墓所ですが、霊廟の存在を知ることで増上寺の格式を充分理解できるものでした。

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