増上寺 #4

「徳川家将軍墓所」参拝を終わらせてからは、また再び境内を散策します。
増上寺境内の一番西側になります。

圓光大師堂

一旦「大殿」の裏を通って南下すると小さいながら歴史をもったような門があります。
景光殿表門
「景光殿表門」です。

港区指定有形文化財(建造物) 増上寺景光殿(旧広書院)表門
桟瓦葺の屋根を持つ一間一戸の四脚門(平唐門形式)です。一時期、明治42年(1909)の火災により移転した護国殿の中雀門として、三解脱門を入った左手に立地していましたが、建築当初の位置は明らかではありません。現在地には昭和53年(1978)に移築されました。
正面の蟇股には表裏両面に三葉葵紋が刻まれ、側面の蟇股は内側のみに葵紋が彫られ、外側は板状となっています。また、鬼瓦と留蓋瓦にも葵紋が付されます。
虹梁絵様の形は17世紀末から18世紀前期の特徴を示し、増上寺水盤舎(清揚院霊廟から移築)のものに類似しています。徳川家光次男、甲府宰相綱重(1644~1678、法名清揚院殿)は、宝永2年(1705)に伝通院から増上寺に改葬されており、この門も近い時期に建てられたと考えられます。
本建築は、徳川家菩提寺として隆盛を誇った増上寺の往時の華麗さを伝える数少ない遺構の一つとして貴重です。
平成17年10月25日 港区教育委員会
(現地案内版説明文より)

随所に葵紋が見てとれるのは、増上寺ならではでしょう。
景光殿表門
細かいところに彫刻が施され、確かに水盤舎同様霊廟の流れを汲んでいるかのようです。
表門を抜けると正面に綺麗で新しい堂宇「園光大師堂」があります。
圓光大師堂

圓光大師堂
この御堂は平成23年(2011)宗祖法然上人800年御忌を記念し、総本山知恩院門跡第八十六世中村康隆猊下と当山法主第八十七世成田有恒台下との尊い結縁が実を結び、時の執筆長江口定信上人が実務を担当、続いて楠美執事長が後を襲ぎ、平成18年11月25日知恩院より法然上人の御廟の御浄砂を拝領しました。成田台下は直ちに「御身柄(おみがら)」と命名、この縁を承け奉安する御堂の建立を発願し、平成21年9月に竣工しました。
圓光大師堂の概要は木造平屋建、妻入入母屋造本瓦葺、向拝軒唐破風付、間口四間(約8m)、奥行は裏堂を含み八間(約13.5m)、高さ9.5mの御堂です。
(現地案内版説明文より)

知恩院の現在の霊廟は慶長18(1613)年に改築されたもので、さすがに浄土宗の門跡です。
圓光大師堂
正面に鎮座しているのが法然上人像なのでしょう。また、新たな歴史を刻んでいく圓光大師堂なのでしょう。

貞恭庵

「園光大師堂」の右手奥に風情ある佇まいの小さな建物があります。
貞恭庵 貞恭庵
和宮の「貞恭庵」だそうです。

貞恭庵
幕末の劇的な時代を生き抜いた徳川家14代将軍家茂公正室、皇女和宮さまゆかりの茶室。
昭和55年(1980)に移築・改修されました。
その際に和宮さまの戒名『静寛院宮贈一品内親王好譽和順貞恭大姉』から『貞恭庵』とつけられました。
四畳半の二間の茶室からなる建物です。
増上寺では和宮さまの遺品と伝えられている袈裟、琴、手紙、漢詩の書掛軸などを所蔵しています。
(現地案内版説明文より)

政略結婚以来、家茂の無事を祈りながら、大奥での確執に向い、江戸城明け渡しの際の徳川家存続嘆願など、表舞台ではないけれども心休まる日は少なかったのかもしれません。茶室で癒される時があったのでしょうか、「江」と同様、まさしく時代に翻弄された女性の一人といえるでしょう。
遺品の袈裟というのはは例の西陣織の袈裟のことでしょう。

「貞恭庵」の裏手には「大納骨堂」があります。
大納骨堂

大納骨堂
大納骨堂は昭和8年(1933)に建立されました。御本尊は高村光雲氏作をもとにした地蔵尊像です。
戦災の難を逃れた数少ない建造物で、昭和55年(1980)に現在地に遷座、開眼供養が厳修されました。
堂内には有縁無縁のご本骨、ご分骨が納められ、狛犬に守られてお祀りされています。
(現地案内版説明文より)

青銅部分と石造部分のコントラストが美しい納骨堂です。

経堂

ここからは東に向い三解脱門方へ戻ることになります。
「大殿」の安国殿とは反対側の隣には「光摂殿」があります。
光摂殿 光摂殿
ここは増上寺の講堂・道場で、大広間の格天井には日本画壇を代表する画家120名の四季の草花が描かれているそうです。
ある意味では贅を極めたともいえるものでしょう。

そのまま東方向に進むと右手に「経堂」があります。
経堂 経堂

東京都指定有形文化財(建造物) 増上寺経蔵
所在地:港区芝公園4-7-35 指定:大正10年4月
増上寺は明徳4年(1393)酉誉聖聡により武蔵野国豊島郡貝塚(現千代田区)に浄土宗の正統念仏伝法道場として創建され、慶長3年(1598)現在地に移転しました。慶長10年(1605)から増上寺は幕府により浄土宗教義に基づく本堂・三門・経蔵・表門・方丈・学寮・諸堂などを配置した大伽藍が造営され、やがて徳川将軍家の菩提寺、浄土宗の関東十八壇林の筆頭に就き、浄土宗宗教を総括する総録所となりました。
経蔵は慶長10年(1605)に創建され、天和元年(1681)12月に改造移築し、さらに享和2年(1802)6月現地に移しました。構造は土蔵造、白壁仕上げ、一重、屋根宝形瓦葺き、四方に銅板裳階付き、建坪42.24坪(139.66㎡)、軒下高さ21尺(6.36m)。経蔵内部には、中央に軸を立て八面の経巻棚を設け、これに経巻を納め、事由に回転できる八角形の木造輪蔵を安置しています。これには徳川家康が寄進した宋版、元版、高麗版の大蔵経(重要文化財)が格納されています(現在は別に保管されています)。
平成22年3月建設 東京都教育委員会
(現地案内版説明文より)

土蔵つくり故に他の堂宇とは趣が違いますが、それにしても経堂でありながらかなり大きいつくりなのは、流石に増上寺ならではでしょう。確か木造輪蔵を1回転すると功徳が得られるとどこかで聞いた覚えがあります。
大蔵経とは、仏教の全ての経典を集成したもので、3組あるものは世界でも珍しいようです。宋版5927巻、元版6014巻、高麗6590巻 があるそうで、現在は後方の収蔵庫に納められているそうです。
葵の紋がその建立を誇っているかのように輝いています。
経堂
年に何回か公開があるそうなので、機会があれば見ておきたいものです。

増上寺のカヤ

「経堂」の前を通り抜けて更に東に向うとやはり右手に葬祭場である「慈雲閣」があります。
慈雲閣 慈雲閣
ここからの眺めもなかなかのものです。
そしてその裏手に大きな「カヤ」の木があります。
増上寺のカヤ

東京都港区指定文化財 天然記念物 増上寺のカヤ (イチイ科カヤ属)
目通り(地上1.5メートルの高さ)直径1.3メートル、周囲約4メートル、樹高25メートルを超える独立樹。推定樹齢600年。
増上寺の建立時の記録をはじめ、現在までに記載された文書はないが、このことはこのカヤが移植されたものではなく、古くからこの地に自生していたことを示すと思われる。
区内に自生する自然木として貴重であるばかりでなく、巨樹としても全国的に有数なものと思われる。
本来カヤは、暖帯の植物で、関東地方を自生の北限として分布する針葉樹であり、分布の北限に近い港区内にこの大きさで残存していることは、貴重である。
昭和55年11月15日 東京都港区教育委員会
(現地案内版説明文より)

何気ない裏手にあるので、気が付きにくい場所ですが、後に境内外から見ると流石に1本だけ抜きんでているようで、良く目立ちます。
本来はもっと多くあっても良さそうなものですが、流石に生木といえども戦災では殆ど焼失してしまうでしょう。

旧方丈門

そして日比谷通り沿いに三解脱門とは違い、もう少し小さな門があります。
旧方丈門

東京都港区指定文化財 有形文化財 増上寺旧方丈門(黒門)
増上寺の方丈(庫裡)の表門であったので方丈門とよばれ、また全体が黒漆塗であたために黒門ともよばれた。
四脚門で、建造年代を明らかにする棟札などの記録は見出せないが、江戸時代初期の特徴を示す様式から17世紀後半のものと推測される。
蟇股には唐獅子や牡丹が浮彫されていて、精巧で写実的な図柄は、近世の建築彫刻の特色を示している。長年の風蝕のため、古色をおびているが、桃山建築の豪華さのおもかげがうかがえる。
昭和55年11月15日 東京都港区教育委員会
(現地案内版説明文より)

かなり彩色は剥げてしまっていますが、絢爛豪華な桃山建築の豪華さを理解することができます。徳川家以前の歴史を感じさせる貴重な遺構といえるのでしょう。
旧方丈門 旧方丈門

ここからは、日比谷通り沿いに境内内を北上して、三解脱門を通過して境内の北端に向います。
その間には多くの石碑などが建立されています。
左から「土木建築殉職者慰霊塔」、「阿波丸の碑」、そして「筆塚」です。
土木建築殉職者慰霊塔 阿波丸の碑 筆塚
その先には「め組供養碑」があります。
め組供養碑 め組供養碑
これは芝大神宮で知った“め組の喧嘩”のあの「め組」が、消防活動の最中に命を落とした組員の供養のために享保元(1718)年に建立されたものだそうです。

そして増上寺の一番北側には「熊野神社」がありました。
熊野神社

熊野三所大権現宮 由来記
増上寺鎮守中最大なものとして、本殿拝殿あり、大きさ不明なれど東照宮に次ぐものなりと云う緑山志によれば、火災ありしも、明暦以来焼けたる事なし。
御神体は、
熊野本宮大社・家津御子大神、熊野那智大社・大己貴命、熊野速玉神社・伊弉諾尊
以上の三御神体を祀り、故錦貫次郎翁のご指導により「大本山増上寺熊野みこし講」を起こし、護持・奉賛しております。
祭礼は毎年3月3日に古式にのっとり行われていましたが、近年は4月第3日曜日に定まる。
大本山増上寺熊野みこし講
(現地案内版説明文より)

元和10(1624)年、増上寺第13世正誉廓山上人が、御寺の鎮守として東北の鬼門に勧請した事に始まるそうです。
江戸名所図会にも簡単ながら「熊野三所権現両 同所にあり。すなはち当寺の鎮守にして、護法の神と称す」と記載されています。
現在でも、その信仰が続けられているのは、増上寺にとっては由緒ある鎮守である証なのでしょう。

境内の玉垣には「八咫烏」が描かれており、参道左手の手水舎にも大きな「八咫烏」が描かれています。
八咫烏 八咫烏 八咫烏

三本足の烏〔八咫烏〕
『神々のお使い』
日本書紀によると神武天皇が天下統治のため紀の国(和歌山県)の熊野に上陸した際に、東征中の荒れすさぶる中で道に迷った時、日輪の中の天照大神より「天から八咫烏を使わそう。その八咫烏が道案内をするであろう。八咫烏の飛びゆく後ろに付いて行きなさい。」というおさとしがありました。
そうして無事山越えを出来たという、まさに神のお導きという言い伝えが残されています。

『日輪の中に三本足の烏』
ルーツは中国で、太陽の中に三本足の烏が住む(おそらく黒点であろう)と考えられ、太陽は烏によって空を運ばれるとも考えられました。
烏の足を三本とするのは、二本足は陰数の為、陽の数である『三』こそが太陽にふさわしいと考えられます。
日本に於いても、三本足の烏が太陽の象徴であると伝わったと推測されます。
また時代によっては、『地・仁・勇』或いは『天・地・人』を表すとも言われています。
日の神、天照大神の子孫である天皇が三本足の烏と八咫烏が習合し、熊野の烏も三本になったものと考えられます。

『シンボルマーク』
天皇の即位の礼に立てられるのぼりの紋様には八咫烏が使われたそうですし、また天皇の礼服の紋章には、日輪の中に八咫烏の刺繍が施されているそうです。
近日身近なところでは、サッカー日本代表が着ているユニフォームの胸に付いておりますマークも八咫烏です。すなわち日本サッカー協会のシンボルマークとして用いられております。
日本サッカーの成長と勝利への導きを願っております。
私共大本山増上寺みこし講も、昭和49年に発足当より八咫烏を代紋とさせて頂いております。お祭りの御神輿を通じて、結集した四百余名が大本山増上寺より護国豊穣、天下泰平を導いて頂きたいと祈願しております。このたび、みこし講発足30年を記念して、熊野神社(境内)修復改修工事をさせて頂きました。今回の工事の際にみこし講の大柱の前に、この水舎に向って三箇所の烏の足跡(保存有)が付いていたという縁起のよい事がありました。当熊野神社にも本物の八咫烏がいると信じてみこし講一同も八咫烏のお導きを頂いてより高い志をもって、一層の努力を心掛けてまいります。
皆様のご多幸とご発展をお祈りいたします。
大本山増上寺熊野みこし講 世話人 益子良道
(現地案内版説明文より)

昔からカラスは忌み嫌われる存在といわれていたのですが、神の使いであった八咫烏がどうしてこのように変わってしまったのでしょう。あくまで3本足と2本足の違いからなのでしょうか。
神話や伝説上では、現在の生物学的に知られているカラスとは色違いや特徴違いのカラスが存在していて、それらは八咫烏、赤烏、青烏、蒼烏と白烏という順で吉祥と霊格の高い順となっているそうです。したがって、忌み嫌うのは、あくまで人のカラスに対するイメージのによるもののようです。
先の説明にもあったとおり、「神の使い」として崇められた理由は、カラスの帰巣本能といわれている朝日や夕日など太陽に向っているようにカラスが飛んでいる姿が、太陽と結び付けられた事によって神聖視されたといわれているのです。
しかし、その一方で、知識が高いことが狡猾に思えたり、食性の一つである腐った肉を食べることや、その黒い羽毛が死を連想させることから、様々な物語などで悪魔や魔女の化身(使い)のように不吉の象徴と見られてきたのです。
このようにあくまで人間の勝手な見方で、カラスの性質を決めてしまっているということになるわけです。要するに見方によって益鳥ともなり害鳥にもなるということです。 人間の勝手な思い込みで決め付けられてしまうカラスにとっては、たまったものではないでしょう。

しかし、そんなカラスも元々は白い色だったという民話もあるようです。
それはカラスは元々白色で、フクロウの染物屋に綺麗な色に塗り替えを頼んだところ、フクロウは黒字に金や銀の模様を描く構図を考え、カラスの全身を真っ黒に塗ったのでした。懐かしの“JPS”カラーです。
しかし、それに怒ったカラスはフクロウを追い掛け回し、現在ではカラスが飛ばない夜しかフクロウは表に出られなくなり、カラスはいまだに「ガアガア」と抗議の声をあげているのだそうです。
そんなカラスの色も、一方では「烏の濡羽色」といって女性の美しい黒髪の形容に使われることもあり、これもまた人の勝手なイメージによるものですから、カラスというのも実に上手く活用され易い鳥なのでしょう。
それだけ身近な鳥だといえるわけです。
ちなみに、日本サッカー協会のシンボルマークは、日本に初めて近代サッカーを紹介した中村覚之助氏に敬意を表して、出身地である那智勝浦町にある熊野那智大社の八咫烏をデザインした物で、1931年に採用されたそうです。
なお、サッカー協会以外にも、陸上自衛隊中央情報隊シンボルマークとしても使われているそうです。
陸上自衛隊中央情報隊シンボルマーク

そして社殿で参拝して増上寺の参詣も終了です。
熊野三所大権現宮
最後に境内にある食事処「しえん」で昼食の蕎麦を一杯たぐってみました。
食事処「しえん」 食事処「しえん」 食事処「しえん」
最も江戸時代の香を残している場所の一つ増上寺で、江戸の食文化の一つを楽しんでみました。
食事処「しえん」
意外といっては失礼ですが、結構コシもあり美味でした
浄土宗の名刹として、徳川家の菩提寺として、増上寺は江戸時代の歴史が輝いているかのような寺院でした。

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