芝公園 #1

「増上寺」の参詣の後は、もと増上寺の境内域だった芝公園を散策します。
地番としての“芝公園”は増上寺や東京プリンスホテルを含む旧増上寺境内域ですが、公園としての“芝公園”は、その旧境内域から現在の増上寺と東京プリンスホテル、そして同じプリンス系のプリンスパークタワーを除いた、ドーナツ型の公園なのです。

増上寺松原

増上寺の三解脱門を出て一旦日比谷通りを渡ると、芝公園の一画となります。
増上寺松原 増上寺松原
先ずは芝公園の全体配置を確認しておきます。
増上寺松原
現在は一番左(この地図は下が北なので、芝公園の一番東側の中央にいることになります。

松原の復元
芝公園のうち、増上寺三門前に位置するあたりは古くから松原と呼ばれています。
それは、寛永17年(1640年)増上寺二十世大僧正南誉上人のとき、幕命によって三門の左右に松を植付けたことに始まるとも、青山家藩士の植樹で百年松原と称したことによるとも伝えられています。
松はその後の災変によって焼失、あるいは枯死し主たる景観はくすのきに変わりました。
都は園地改修にあたり原形を残すとともにペルリ提督像と、遣米使節団記念碑を配置し直し、新たにモニュメントを設置しました。 昭和63年3月 東京都
(現地案内板説明文より)

この松原は前出した大日本芝三縁山増上寺境内全図でもはっきりとわかります。
増上寺松原 《大日本芝三縁山増上寺境内全図》
松原は増上寺の東側と南北の辺を囲むようになっていたようです。

そしてこれが「ペルリ提督像」と「遣米使節団記念碑」です。
ペルリ提督像 遣米使節団記念碑

西暦1860年2月9日(万延元年正月18日)新見豊前守正興一行は日米修好通商条約批准書交換の使命をおびて江戸竹芝より米艦ポーハタンに搭乗、初の使節として米国に赴いた。副使村垣淡路守範正の詠にいう、
竹芝の 浦波遠く こぎ出でて 世に珍しき 舟出なりけり
遣米使節渡航より百周年にあたり、日米両国民の友好親善の基礎を築いたその壮途をここに記念するものである。
1960年6月 日米修好通商百年記念行事運営会
(現地案内板説明文より)

この日米修好通商条約は不平等条約として有名ですが、【横浜三塔物語】で訪れた横浜税関の展示室にこの条約が展示されていました。
江戸時代の象徴である徳川家菩提寺と、その終焉の要因となったペリーが同じところに鎮座しているのもまた、歴史の必然なのかもしれません。
まさにダイナミックな時代の生き証人とも言えるでしょう。
モニュメント
モニュメントの意味は不明ですが…。

旧台徳院霊廟惣門

しばらく松原を歩くと日比谷通りを挟んだ右手に門が見えるので、再び増上寺側に戻ります。
この門は「旧台徳院霊廟惣門」です。
旧台徳院霊廟惣門
この惣門のあるところから南側一帯の芝公園は旧増上寺の南廟にあたるエリアです。そしてこちらの南廟は台徳院(秀忠)と崇源院(江)の霊廟だったところです。
したがってこの惣門は台徳院と崇源院霊廟の入口といったところです。
大日本芝三縁山増上寺境内全図でも、惣門の先に台徳院霊廟のあるのを見て取ることができます。
旧台徳院霊廟惣門 《大日本芝三縁山増上寺境内全図》
霊廟の多くが戦災で焼失した中で、残存している数少ない遺構ということで、江戸時代の粋を集めた惣門といえるでしょう。
旧台徳院霊廟惣門
そしてこの惣門には2体の仁王像が安置されています。
木造仁王像 二躯 木造仁王像 二躯

港区指定有形文化財 彫刻 木造仁王像 二躯
重要文化財「旧台徳院霊廟惣門」の左右に安置している寄木造り、砥粉地彩色の仁王像で、方形の台座に乗った岩坐の上に立っています。
平成16年から17年に行われた修理の際に、胎内から修理銘札が発見され、元は埼玉県北足立郡戸塚村(現在の川口市西立野)の西福寺(真言宗)仁王門に安置されていたもので、寛政元年(1789)、弘化3年(1847)の2度にわたり修理が行われていることがわかりました。更に安政2年(1855)の暴風で破損したまま同寺の観音堂の片隅に置かれていたものを、昭和23年(1948)、同寺三重塔の修理と同時期に3度目の修理が行われた後で、東京浅草寺に移されたことも記載されています。その後の経緯は詳かではありませんが、昭和33年ごろまでにはこの惣門に安置されたと考えられます。
本像は18世紀前半までには江戸の仏師によって制作されたと推測され、江戸時代の仁王像として破綻のない作行を示す貴重な作品です。
像高 阿型:243.5cm、吽型:247.0cm
平成18年10月24日 港区教育委員会
(現地案内板説明文より)

西福寺へは【安行の植木】で訪れましたが、仁王門は既に無く、参道の両側に石像の仁王像が鎮座されていました。
ここにあった仁王像が紆余曲折を経て惣門に移されたのは偶然でしょうか。
都合3回の修理が行われたとの事ですから、流石にまだ結構綺麗な仁王像です。

惣門の先は一直線に伸びた通路が延びており、途中から階段状になっています。その先辺りから霊廟があったのかもしれません。
旧台徳院霊廟惣門
その階段の上まで上がって見ます。
そしてこの階段の上には「水路跡」が残されています。
水路跡

水路跡
ここに並べられた石垣石は、増上寺山内丸山に造営された台徳院-2代将軍秀忠-霊廟の惣門前に構築された水路に用いられていたものです。
台徳院霊廟は寛永9年(1633)、台徳院の死後まもなく造営が始められ、およそ1年後に竣工したことが記録にあります。
水路は砂地の上に組み上げられた石垣を壁としており、これらの石垣石はその建材の一部です。石垣は平成14年(2002)に行われた発掘調査によって、この石列の真下、地下およそ8mの位置で発見されました。
石垣は、最も良好な箇所で4段検出されました。石材として、相模から伊豆にかけての地域で切り出された安山岩が用いられていますが、形や大きさはまちまちです。最下段の石垣には、宝永の火山灰の付着が確認され、刻印や墨書を認めるものもあります。
かつて、旧御成道-現在の日比谷通り-から御霊屋への通路は、惣門手前でこの水路を渡りました。往時、水路には清らかな水が流れ、発掘調査では惣門手前に架けられていた橋台の一部も検出されました。
(現地案内板説明文より)

先の境内全図をクローズアップすると、惣門の前に僅かながら水路とそれに掛る橋を見ることができます。
水路跡 《大日本芝三縁山増上寺境内全図》
絢爛豪華な霊廟とそれを映し出す水面とのコントラストは、まさに天国なのかもしれません。
現在、東京タワーとプリンスホテルに挟まれた地が、かつての台徳院霊廟だったのです。
旧台徳院霊廟
当時とは違いながらも、癒される空間です。

芝公園

惣門から南に20mほど進むんだ辺りからが正式な芝公園となります。
芝公園 芝公園
芝公園は増上寺を中心とした都立公園で、1873(明治6)年の太政官布達によって、上野、浅草、深川、飛鳥山と共に芝の5カ所が、、日本の最初の公園として指定され、以降、公園造営の先駆けとなったのです。元々は増上寺境内の敷地を公園としていたのですが、戦後の政教分離政策により、増上寺の敷地とは独立して宗教色のない都立公園として整備されたことから、現在の公園の敷地は増上寺を取り囲むようなドーナツ形状となったのです。

東京タワーを背景としたオシャレな公園です。
芝公園

紅葉館と能楽堂
後方に聳え立つ東京タワー。かつてその場所には紅葉館と能楽堂がありました。紅葉館は明治14年(1881)に建設され、以降当時の政財界の要人や文化人が会合する高級料亭として賑わいました。
一方、能楽を西欧のオペラに比すべき日本の芸術として位置付けようと振興した岩倉具視ほか有志の華族で設立した能楽社により、同じ明治14年(1881)紅葉館の隣に能楽堂が建てられました。
江戸時代までは屋外に置かれてきたという能舞台ですが、これ以降は室内に置かれたことからこの能楽堂は国内初の室内能楽堂といわれています。その後、能楽堂は明治36年(1903)靖国神社に奉納、移築され、現在でもこの能楽堂で能や芸能が行われています。
(現地案内板説明文より)

この様な歴史を持っているとは、露ほども知りませんでした。
先の大日本芝三縁山増上寺境内全図ではこのあたりにあったようです。
紅葉館と能楽堂 《大日本芝三縁山増上寺境内全図》

まずは「紅葉館」について紐解いてみます。
芝地区の情報誌に詳しく説明されているので、そちらを引用させてもらいます。

明治初めの風景である。東京市芝区増上寺の裏山は古木うっそうとして深山のようで、紅葉坂を上ると金地院(江戸初期創建)、久松邸(後に海軍水交社、戦後はメソニックビルとなる)がある。この付近は江戸時代、徳川二代将軍秀忠が城内の楓山から金地院内に多数の楓を根分けして移し植えたことから、後に紅葉山と呼ばれた。明治14年(1881)ここ芝公園20号地2000坪に、純日本風の会員制料亭東京芝・紅葉館が開業した。
紅葉館設立にあたって、野辺地尚義を幹事として、明治13年(1880)「芝公園地内字楓山地所拝借願」を東京府知事に提出し、翌年「貴顕紳士の集会共遊を旨とし、会員300名年会費10円」として開業した。その年早くも洋学者柳河春三の追遠会が福沢諭吉、新聞記者福地源一郎、農学者津田仙等で催され、翌年にはE・S・モース(東京大学招聘教授、大森貝塚発見者)が同僚教授の送別晩餐会に出席している。明治18年(1885)には当時農商務省の官僚であった高橋是清の「特許に関する欧米視察」送別会に西郷従道農商務卿らが出席している。

青山ミツ子(後のクーデンホーフ光子)が、明治19年(1886)から明治23年(1890)、17歳になるまで女中として勤め、日本伝統文化の行儀作法、お茶、お花、琴、三味線、和歌、絵画などの訓練を受け、これが一生を通じて大変役に立ったと後に述懐している。
国語学者大槻文彦が17年の歳月をかけて著した日本初の国語辞典「言海」の編纂刊行完成祝賀宴が明治24年(1891)に行われ、勝海舟、榎本武揚、陸羯南、高田早苗等が参会し、伊藤博文が「一昨年2月、念願の憲法を発布、去年秋には国会開設され新国家の残る仕事は条約改正である。鹿鳴館を建て舞踏会を開いて欧化の宣伝につとめたこともあった。だが、まだなにもうまくいっていない。あれから数年、日本にもやっと欧米に誇れる国語辞書ができたが、こういうものの積み重ねこそ国の力であろう。もう鹿鳴館の時代ではない。諸君、余はもとより浅学寡聞、あえて諸君の清聴を汚すの当らざるを知るといえども、余が衷心に大槻君の『言海』の大成を欣喜するの余り、みだりに朝野文学の大家に対し、ここに一言せんとするに至れり。余はつつしんで著者の勤勉、この大業成したることを謝し会衆諸君と共に一大光明を我文学に得たるを賀するために、いささかここに蕪辞を述べたる次第なり」と祝詞を述べた。

そのほか、
◎明治30年(1897)自由党、自由倶楽部の懇親会。新自由党結党式(出席1500名来会2700名)
◎明治31年(1898)日本美術院創立の宴(岡倉天心、横山大観)
◎明治33年(1900)立憲政友会結党委員会(伊藤博文、西園寺公望、星享)
◎明治40年(1907)西園寺首相・文士交流会(雨声会)
◎明治45年(1912)読売新聞主催文芸家新年会(69名出席)
など、紅葉館はこのような公式の行事が開かれる会場で、祝賀会・挙式・晩餐会・招待会・歓送迎会・懇親会・懇談会・政党大会後の大懇親会・結党式・慰労宴・披露宴・迎飲会・追悼会・創立記念会・時局座談会など大きな会は300人を超えることもしばしばであった。

ここに50人ほどいた「給仕」とは、会席で飲食をもてなしたり、踊りを提供し座に興を添える従業員のことで、女学校の宿舎よりももっと真面目だといわれていた。当初は盛岡の人が多かったが後に京都の人が多くなった。また、紅葉館は外国人の間ではメープル・クラブの名で知られ、帝国ホテルも東京會舘も洋食だったが、ここは関西風料理で日本情緒ある料亭として人気があった。

このように天下の料亭東京芝・「紅葉館」は明治、大正、昭和と三代にわたり、近代史とともに歩んだ重要なスポットとして、政・財・官など各界人士が集った日本を代表するサロンであった。明治14年(1881)より昭和20年(1945)空襲で全焼するまで、65年間全国に文化を発信し続け、昭和35年(1960)日本電波塔㈱と合併解散した。
(「芝地区地域情報誌第14号」より)

ということで、同じようなコンセプトの料亭に北大路魯山人の「星が岡茶寮」がありますが、それよりも企業的であり安定した経営をしていたようで、空襲が無ければ現在でも存続していたかも知れないと思えるような料亭に感じます。

当時の「紅葉館」の写真がこちらです。
紅葉館
趣のある佇まいの料亭です。芝大神宮での際に「尾崎紅葉生誕地の地」で、尾崎紅葉の名は増上寺境内の紅葉山から取ったペンネームであると記載されていましたが、まさにこの「紅葉館」のあったところです。
そしてあの名作「金色夜叉」のモチーフは、この「紅葉館」で起こったことだったそうで、尾崎紅葉にとっても非常に縁のある場所のようです。

さて、一方の能楽堂ですが、元々は「皆楽社」として計画されていたところ、加賀藩の12代藩主である前田斉泰らの発案で「能楽社」となり、これが“能楽”という言葉の起源となったそうです。
そして華族48人が「能楽社」の社員として加わり、舞台建設から検討されたのです。
候補地としては上野公園などが挙げられたそうですが、「紅葉館」の建設計画があったので、これと併設する形で芝公園に建設されることになったそうです。
そして当時の金額で18,000円の建設費用で進められ、途中、嵐窓の付け方、切戸の取っ手の彫り方といった細部に至るまで岩倉具視が現場に訪れ注文をつけていたそうです。
そして落成された舞台は、屋根付きの能舞台と観客席を一つの建物に収めた現在の能楽堂の先駆けとして歴史に名を刻んだものなのだそうです。

当初、この舞台は単に「能舞台」などと称されていましたが、1881(明治14)年には「芝公園内楓山能楽堂」とあり、更に翌年の1882年ころから「芝能楽堂」の呼称が一般的になり、「芝公園の能楽堂」、「紅葉館の能楽堂」と呼ばれ、その後「能楽堂」という呼称が能舞台全般に用いられるようになったそうです。
しかし、創設当初は良かったものの、次第に経営が悪化し、皮肉なことに“能楽再興”が進展したため、宝生流や観世流などが独自で能舞台を持つようになったため、余計この「能楽堂」が使用される機会が少なくなってきたようです。
そして当時の「能楽社」の後継会社である「能楽会」は、芝能楽堂の維持を断念して上野博物館、華族会館、日比谷神宮などと舞台引取りを交渉し、1902(明治35)年、靖国神社に奉納して移設し、以降「九段能楽堂」「靖国神社能楽堂」と称されることになったのです。

案内板にその写真が掲載されています。
能楽堂 能楽堂 《左:「能楽堂の図」、右:靖国神社能楽堂》
これが「紅葉館」と「能楽堂」の興味深い歴史なのです。

この案内板の近くには「平和の灯」というものがあります。
平和の灯 平和の灯

平和の灯
この「平和の灯」は、港区が昭和60年8月15日「平和都市宣言」を行ってから20周年を記念して設置したものです。
ここに灯された「火」は、広島市の「平和の灯」、福岡県星野村の「平和の火」、長崎市の「誓いの火」を合わせました。
この灯を通じて、戦争の惨禍と平和の導きを後世に伝えてまいります。
平成17年8月15日 港区
(現地碑文より)

広島と長崎に関しては判りますが、福岡県星野村の「平和の火」というのは初めて知りました。
ここで2001年1月30日の西日本新聞の記事を引用させてもらいます。

~原爆への悲憤の思いどう伝えるのか~
「アメリカを焼き払う火が、ここにあるとぞ」。終戦から二十数年後、福岡県星野村のわが家を訪れた新聞記者に向かって、山本達雄さんはこう叫んでいた。
敗戦の記憶の風化。その憤りからほとばしり出た言葉だった。他人には明かさず、自宅で灯(とも)し続けてきた、叔父を焼き殺し、広島を地獄図と化した原爆の、それは恨みの火であった。
一九四五年八月六日、召集で広島県内の駐屯地にいた山本さんは広島原爆を目撃。書店を営んでいた叔父の消息を求めて、広島市街地に入り、駆け回る。
黒焦げの死体、うめき、助けを求める声。目の前に「いまだに心の整理がつかない」と語る惨状があった。
九月、帰郷に際して山本さんは、一片の形見を求めて叔父宅跡に立つ。避難壕のあった辺りを掘るとぬくもりがあった。壕には本や豆炭が置かれていた。火種を見つけ、息を何度も吹きかけると火が起きた。その火を携帯していたカイロに移して、列車に乗った。「この火で殺されたと、ばあちゃんを納得させる」
原爆の残り火は、六八年に村に引き継がれ、現在は村内の高台にあるモニュメントの「平和の塔」で静かに燃え続けている。
「恨みの火」は、被爆者の供養の火へ、さらには平和を祈る火へと、山本さんの心のなかで昇華した。
       ◆  ◆
田口ランディーさんのエッセー「さよなら20世紀」(昨年十二月二十九日掲載)について、「事実誤認ではないのか」と、読者から指摘を受けた。
エッセーは、NPOの「神戸元気村」(神戸市)の山田和尚代表が「原爆の残り火」を全国に分火しようと携え、昨年三月から各地を行脚している姿を紹介。新世紀へ伝える平和への祈りについて書かれた。その中で、火の由来について「呉市に住む男性が原爆投下後の燃えている火をカイロに移して、九州の寺に預けた」などとしていた。
別の残り火が存在したのか、関係者に確認した。結果は以下の通りだった。
一九八八年、国連軍縮総会に対するアピールとして、反核団体の手で星野村で採火された火が全国を縦断リレー。この時の火が参加者の手から長野県松本市の寺に分けられ、この寺を経て山田代表へ渡った―。
ただ、正確な由来は伝わらず、田口さんの誤解のもとになったようだ。
田口さんは先日、謝罪の手紙を星野村に送り、「時代をつなぐ大切な『火』を継いでいる星野村の皆様にあらためて感謝し、二十一世紀にこそ平和を現実のものとするために共に歩ませていただきたいと切望します」と述べている。
       ◆  ◆
星野村は一九九〇年、「平和の塔の設置及び管理に関する条例」を制定。火の使用は村長の許可を受けることや、分火した施設には必ず由来を明記することなどの規則を定めている。
営利目的などに使われることを懸念した措置だったと説明した樋口渓男助役は、「当時、心配したことが起きている」と語る。
条例制定後は八カ所に分火されたが、それ以前に採火された火が、再分火を重ね、由来すらあいまいなまま全国を一人歩きしているという。山田代表は既に五十五カ所で分火している。しかし、星野村は条例前の採火にさかのぼるこの活動を把握できていない。そこに困惑と反発があった。
村は近く、分火された火の追跡調査を開始し、条例に沿った使用の協力を求めていく方針だという。
       ◆  ◆
被爆手帳を持つ山本さんは現在、八十五歳。重い病にあるが、平和の火への思いを三時間も語り続けた。山本さんにも、抑えがたい思いがあったのだろう。
火を全国に広げることには確かに意義があるが、それが結局はイベントに終わるのではないかという懸念もぬぐえないからだ。
話し終えて「胸のつかえがとれました」と、山本さんはほほ笑んだ。
忘れてならないことは、この平和の火が、被爆死した叔父の「遺骨」として、山本さんが必死の思いで焼土から吹き起こした火であった“原点”である。その個人の歴史をなおざりにしては、平和は語れないということだろう。
(文化部・横尾和彦)
(2001年1月30日西日本新聞朝刊より)

こちらがその星野村の「平和の火」です。
星野村の「平和の火」 《写真:(C)みさかりあん》
「平和の火」と芝公園、そして東京タワーと、まさに平和そのものの風景であり、平和であるからこそ、こういった散策もしていられるのでしょう。
健康は病気になって初めてそのありがたさが判るといいますが、現代の日本はまさに平和ボケかもしれません。
そんな意味でも、こういったものに触れることで、少し襟を正して見る気にもなるものです。

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