芝公園 #3

「丸山古墳」を降りてからは芝公園を一旦西に向い、そこから北上して東京タワー方面に向います。
ちょうど増上寺周辺の半周を廻ったあたりとなります。

宝珠院

公園の散策路を北上すると池に到着します。
ここには「弁天池」と書かれた立て札があり、嘗ては「弁財天」が祀られていたのであろう事が推測できます。
弁天池 弁天池
それ程大きくはありませんが、まさに都会のオアシスというのはこのとこを言うのでしょうか。
そして「弁天池」の先に「宝珠院」という寺院があり、弁財天についての説明がありました。
宝珠院

当院安置「開運出世辨才天」
三井寺の開山智証大師が858年竹生島で奇縁に依り彫られその後、源家に伝わり再興に当り源頼朝公深く信仰し天下を平定される。
又、徳川家康公も厚く信仰され天下の平和を築かれ除波辨才天を改め開運出世辨才天と改称されました。古来より一心に崇敬拝する者に開運出世・巳成金・福寿円満・厄難消滅・縁結びの利益を授けられ現在港区七福神の一つに制定されている。
浄土宗 宝珠院
(現地案内板説明文より)

この由緒をもう少し詳細に江戸名所図会では説明されています。

弁財天の嗣
赤羽門の内、蓮池の中島にあり。本尊は智証大師の作なり。右大将頼朝卿〔源頼朝、一一四七-九九〕、鎌倉の法花堂に安置ありしが、星霜を経て後、観智国師感得ありて、当寺宝庫に納めありしを、貞享二年〔一六八五〕、生誉霊玄上人、このところに一宇を建てて、一山の鎮守とあがめられ、宝珠院別当たり。中島を芙蓉洲と号く。このところ、門より外は赤羽にして、品川への街道なり。
(江戸名所図会より)

一時、鎌倉に本尊があったようです。その後、一旦増上寺に安置され、貞享2(1685)年に弁天堂が建立され、別当寺として宝珠院が開創されたようです。
弁財天の嗣 宝珠院 《左:江戸名所図会 右:増上寺境内全図》
現在はどこが中島なのかは良く判りませんが、増上寺境内全図に描かれていて、宝珠院も含めてその全体像を理解することができます。
この図を見る限り人との大きさを考えると、現在の上野公園の弁天池くらいの大きさはあるのではないでしょうか。
現在の宝珠院はかなり西にあったようで、この弁天池がいつ無くなった(小さくなった)のかは、前出の芝地区情報誌にこの辺りの歴史が語られています。

都立芝公園の一角に紅葉谷があります。昔、その谷から水が滝のように流れ、注ぎ込んだ先に大きな池がありました。それが弁天池でした。弁天池の中央には橋の架かった島があり、そこには弁天様が祀られていました。
弁天池は大正、昭和と子どもたちの遊びの場でもありました。春から夏にかけては、暗くなるのも、お腹が減るのも忘れ、木の枝で池を突き「ザリガニ捕り」に夢中になりました。冬は池に氷が張る様子を観察し、「早く氷が厚くなるように」とお願いしながら学校を行き来していました。氷が厚くなると弁天池は「スケート場」になり、子どもたちはマフラーと手袋に運動靴をスケート靴代わりにし、寒さにも負けず顔を真っ赤にして滑りまわっていました。

増上寺の暮れの鐘が鳴る夕暮れどきは、芝神明の芸妓さんがカラコロと下駄の音を鳴らしながら橋を渡って、粋にお参りしていたものです。また、花見や紅葉の時期には、家族づれで賑わっていました。
その弁天池の橋のたもとに団子とお茶を売っている平屋づくりの茶店がありました。この茶店、始めは屋号がありませんでした。5 代目店主の昭和の時代になってから当時俳句の会でこの茶店を毎月利用していた「ホトトギス」の高浜虚子やその仲間が「店の名がないのなら」と言って、店主の苗字をとって「田川亭」と命名しました。茶店の離れの縁側で四季折々の景色を彩る美しい弁天池に臨みながら、ここからたくさんの名句が生み出されました。
その茶店の前には縁台が並べられ、増上寺の参詣や弁天様にお参りに来た人たちが腰を下ろして一休みしたり、増上寺の所化さんたちの憩いの場となったり、毎日大活躍していました。

人々に愛され続けた「田川亭」は、時代の移り変わりとともに昭和33年(1958)に店を閉じました。現在、弁天池は赤羽橋近くに形を変えて残り、弁天様も宝珠院に祀られています。今でも都会の喧騒から離れ、芝公園の木々の中、弁天池の畔に行くと、人々で賑わっている茶店があったころの姿を呼び起こしてくれます。これからも“心の風景”として茶店と弁天池が人々の記憶に残されていくことを願っています。
(「芝地区地域情報誌第9号」より)

意外なことに昭和30年代前半まで残っていたようで、まさに「ALLWAYS」の世界観かもしれません。恐らく高度経済成長と共に消えてしまったのでしょう。当時は国中がイケイケドンドンの時代ですから、郷愁に浸るよりは、よりよい生活を求めた所得倍増を優先したのも仕方ないことでしょう。「田川亭」の代わりに東京タワーが生まれたということで、まさに時代の岐路といえるのでしょう。

さてここで余談ではあるのですが「竹生島」という記述があったので、少し調べてみたところ無理やり「江」に繋がっていることがわかりました。あくまで無理やりのこじつけですが・・・。
「竹生島」とは滋賀県長浜市の湖岸から約6kmにある、周囲2キロメートル、面積0.14平方キロメートルの琵琶湖上にある島で、沖の島に次ぐ2番目に大きな島です。
古来から信仰の対象となった島だそうで、神の棲む島といわれ、“神の斎く(いつく)住居(すまい)”という意味から「つくすまい」が「つくぶすま」に変じて「竹生島」になったという説もあるそうです。
このようにかつては神仏一体の思想で発展していたようですが、明治時代の神仏分離令によって、弁財天を本尊とする「宝厳寺」と浅井姫命を祀る「都久夫須麻神社」に分かれたのだそうです。

この竹生島弁才天は相模の江島神社、安芸の厳島神社と並んで日本三大弁天のひとつに数えられているようです。
そして古くは平安末期の平家物語では平経正が、都久夫須麻神社の拝殿で琵琶を奏でるシーンが描かれているほど、有名なのですが、「江」とのつながりは、戦国時代、近江国小谷城主であった浅井久政が、長政(久政の子)への家督委譲を目論む家臣によって一時的に幽閉された場所であり、かつ長政が崇敬したところでもあったようです。
「江」の祖父も、父もこの「竹生島」との縁をもっていて、若き日の「江」もまた、この「竹生島」を眺めていたかも知れないという、強引なこじつけでした。

宝珠院の参道に入ると正面右手に本堂があります。
宝珠院 本堂
そして参道の左側に朱の色も鮮やかな「弁天堂」があります。
宝珠院 弁天堂 弁財天
本尊の弁財天は後ろの厨子に安置されていて、年1回ご開帳されるそうです。したがって厨子の前の弁財天は御代仏の弁財天でしょう。
弁天堂の隣は庫裏かと思えば、ここは閻魔堂のようです。
閻魔堂

港区指定有形文化財(彫刻) 宝珠院 閻魔大王坐像及び司録・司命半跏像
この閻魔像は、寄木造、高さ2mの大王で、貞享2年(1685)作といわれ、右に司録、左に司命の二像を従えているのは都内では珍しい。
平成11年10月12日 港区教育委員会
(現地案内柱説明文より)

元々この閻魔大王は宝珠院の本尊だったようです。
「地獄の沙汰も金次第」というような地獄の番人のような閻魔大王が信仰されるのは、地蔵菩薩の化身とされていることからなので、鎌倉時代頃から庶民信仰の対象として一般に広まったようです。
江戸時代には、正月とお盆の日に「地獄の蓋があく」といって参詣が溢れ、門前には露店や見世物小屋が掛って大変賑わっていたそうです。

しっかり閻魔大王を参拝いたしましたが、右の司録、左の司命とは一体どのような意味を持っていたのでしょうか。
閻魔大王坐像及び司録・司命半跏像
前述した閻魔大王信仰が庶民に広まったのは、一つに死に対する思いがあったからなのです。
庶民の考える死のイメージは、死んだ後どうなるか判らない無限の暗黒の世界と思われていたからなのです。したがって死は怖いものだと考えられていたのです。それに対して宗教における仏教では、“輪廻”という言葉で死後もまた別の世界でいき続けるという思想により、人々の死に対する恐怖を少なくさせているのです。
そして死者は閻魔大王の前に引き出され、生前の行いの善悪を裁判され、それにより次はどの世界に生きるかが決まるという解釈なのです。その中でも最も苦しみの多いのが地獄となるのです。

この思想が中国にわたると、この裁判が閻魔大王を含めた10人の王により、10回の裁判がおこなわれる「十王信仰」となり、特に閻魔大王に対する信仰が強かったため、閻魔大王を中央に置き、その左右に太山府君と五道転輪王という王を従えた3王によって裁判の場面をあらわすようになったそうなのです。そしてそのとき3人の前には、罪状を読み上げる「司命」と、判決文を記録する「司録」という、いわば現代の書記官が配されたことによるようです。
このように5躯が揃ってフルセットのようで、京都の宝積寺の閻魔堂には、すべて重要文化財として閻魔王、司命、司録、倶生神、闇黒童子が祀られているそうです。したがって5躯、あるいは3躯が揃っているのは非常に貴重だといえるのです。
江戸時代の人々も地獄に落ちないように、そして先祖の霊が苦しまないようで祈願したことから、ここ宝珠院も多くの人が集まったのでしょう。
本堂も弁天堂も閻魔堂も参拝して、多くのご利益を得ようと目論んでしまいました。

紅葉谷

「宝珠院」を出ると目の前に東京タワーが聳えています。徐々に近くなるタワーに今更ながらその大きさに感嘆してしまいます。
そしてその下にある樹木の茂っている辺りが「紅葉谷」です。
東京タワーと紅葉谷
「紅葉谷」に向う途中の右側に大きなビルがあり、「三康文化研究所・三康図書館」と書かれています。
三康文化研究所・三康図書館 三康文化研究所・三康図書館
どこかで聞いた名前だと思えば、増上寺の西向観音があった観音山跡地の三康図書館で、ちょうど増上寺の真裏にあたります。
ネーミングからして自治体の図書館では無い様なので、オフィシャルサイトから沿革を調べて見ました。

三康図書館は大橋図書館の蔵書を継承して発足した図書館です。大橋図書館は、明治34年2月博文館主大橋佐平氏が設立を出願して、嗣子大橋新太郎氏により明治35年6月麹町上六番町(当時)に開館しました。当時まだ数少ない財団法人の図書館でした。大正12年9月関東大震災により建物は8万8千余冊の蔵書と共に消失しましたが、同15年6月麹町九段一丁目に880余坪の本館を建設、蔵書約4万冊をもって再開しました。昭和17年頃には、蔵書18万冊を有する日本有数の私立図書館にまで発展しました。戦時中は統制会社等に建物の一部を使用されましたが、幸い戦災は免れました。

昭和24年9月図書館の建物が他に譲渡されたため、同年12月事務所を新宿区若宮町の大橋進一氏邸に移転し、翌年3月より同地で開館しました。しかし、昭和28年2月大橋図書館は解散となり、その蔵書一切を西武鉄道の創設者である堤康次郎氏が引き継ぎました。当初は豊島園に図書館を設立する予定でありましたが、昭和32年11月港区芝公園に建設することになり、名称を財団法人三康図書館と改め、三康文化会館を建設してそれまで分散管理されていた蔵書を全部ここに集めました。昭和35年4月、30万冊収容を目標に、40余坪・5階建1万棚の書庫を建設しました。昭和39年6月西武鉄道株式会社と大本山増上寺との協力で、仏教文化の研究を主目的とする財団法人三康文化研究所が設立され、同研究所附属三康図書館と改称することとなりました。昭和41年9月研究所・一般閲覧室・講堂を増築し、同年10月12日蔵書18万余冊をもって一般公開されました。昭和54年増上寺整備計画により、隣接地に4階建の明照会館を建設、その1階を図書館に当てることとなり、4月移転完了して現在に至っています。
(三康図書館オフィシャルサイトより)

謂わば西武系列の図書館ということになりますね。
こうなるとやはり先ほどの弁天池などと同様に、西武グループの開発について触れないわけにはいかないでしょう。
まずはその発展の歴史から紐解いてみたいと思います。

2004年起きた“総会屋利益供与事件”や“証券取引法違反事件”で世の中を驚かせた旧西武グループの創業者である堤康次郎氏は、いち早く土地開発に目をつけ巨大グループを出現させたのですが、そのやり方にはダーティーなイメージが付きまとっているといわれていました。
康次郎氏が事業に乗り出したのは早稲田大学在学中のことで、株式の取得や渋谷の鉄工所などを手に入れたのが始まりのようです。
その後、様々な事業を行うのですが、どれも上手くいかず何度も倒産の危機に直面したそうです。そしてその危機から脱出するきっかけが不動産の開発事業への進出でした。
最初に着手したのが軽井沢のリゾート開発で、1920年に“箱根土地”(後のコクド)を設立し、終生のライバルである東急グループの五島慶太氏と闘うのもこの頃からでした。
こうした不動産開発事業が成功し始めたのが戦後のことです。
その方法は、それまでの地方の不毛地を一から整備して開発するのではなく、ブランド力のある都心の土地を開発する事業にシフトしていったのです。そのきっかけが戦後GHQによる皇族の特権廃止だったのです。
要するにGHQは秩父、高松、三笠の直宮家以外の11宮家に臣籍降下と財産税の納付を言渡したのです。しかし、宮家が自力で財産税を支払いことは難しいため、康次郎氏をビジネスパートナーとして邸宅地を手放して税金を収めることを考え付いたわけです。
そして康次郎氏は、1950年に朝香宮邸、翌51年には竹田宮邸を買収し、さらに、53年に北白川宮邸、54年には李王邸を買収したのでした。

この買収の取得費用の支払いには一つの工夫があったようで、手付金のみを支払い、残金は残したまま利息を支払うという方法だったそうです。たとえば北白川宮邸は1万2000坪、総額9600万円の価値があったそうですが、これについては手付金と中間金合わせて1500万円は直ぐ支払い、残金は猶予金として支払わず、年間1割の利息だけを支払いことにより、康次郎氏には、小さな資金で大量の土地を取得できるメリットができ、宮家にとっても、長期間にわたって生活の保障が確保できるというメリットがあることで、双方にとって都合の良い契約でよく考えられた方法だったようです。
そして取得した土地は転売することはせず、その施設を活かすことを考え、庭園を利用したホテルを開業したのです。
旧朝香宮邸には芝白金迎賓館、旧竹田宮邸には高輪プリンスホテル、北白川宮邸には新高輪プリンスホテル、そして朝鮮李王家邸には赤坂プリンスホテルを建設したのでした。
因みに「プリンス」の名は、これらの土地のブランド力を表す意味で付けられたようです。
これらの成功をきっかけとして、その後の西武グループの発展があるわけです。

このような歴史のなかで、増上寺の霊廟跡も康次郎氏に売却され現在に至るのですが、この辺りは年表で確認しておきます。
1945年:芝増上寺徳川家霊廟、東京大空襲により北廟六十八棟、南廟二十八棟被災
1947年:芝区、麻布区、赤坂区が合併、港区となる
1949年:台徳院霊廟惣門、有章院霊廟二天門が重要文化財に指定(所有者徳川家正)
1950年:増上寺の南北両側にあった徳川家の墓地のほとんどを次々に買収(都市計画公園で風致地区)1954年まで6回に分け購入
1952年:芝公園の国有地無償譲与許可で増上寺と徳川家から買収した西武鉄道の土地が重なり合って、訴訟問題となる。
1954年:西武鉄道が増上寺寺有地を無断占拠
1956年:関東財務局が1952年に増上寺に無償譲与した国有地のうち瑞蓮院分を取り消す
1957年:西武鉄道㈱と増上寺間で土地紛争和解成立し芝公園で観光ホテル建設のため工事着工。増上寺は㈱産業経済新聞東京本社と㈱紅葉館に芝公園土地を売却
1958年:増上寺徳川将軍墓学術調査開始(1960年1月終了)。東京タワー開業(二代将軍秀忠が江戸城内紅葉山から楓樹を移し植え、紅葉山と呼ばれた場所) 。徳川将軍家の霊廟発掘調査の後、現墓所に改葬(安国殿裏手の一角)
1959年:三康図書館、豊島園から港区芝公園に移転。芝ゴルフ練習場開業(入口に旧台徳院霊廟惣門がある、二代秀忠の霊廟を中心とした南廟部分)
1960年:台徳院霊廟勅額門(1632年築)丁子門(1632年築)御成門(1632年築)をユネスコ村に移築。増上寺の灯篭などが1000基を西武球場付近に移転、その後周辺寺院に移築。
1961年:芝ゴルフ練習場アイアンコース開業(現東京プリンス敷地、六代家宣・七代家継の霊廟を中心とした北廟部分)
1963年:東京プリンスホテル着工。増上寺と西武鉄道との間で協議された三康文化研究所の財団法人認可について申請書が都庁を経て文部省に提出される
1964年:西武鉄道㈱と大本山増上寺の協力で財団法人三康文化研究所が設立、三康文化研究所附属三康図書館と改称。東京プリンスホテル開業(510室、徳川家霊廟6人の将軍の墓を改葬、開業直前に西武百貨店から西武鉄道に移管)
1969年:芝東照宮完成(徳川家康公)
1974年4月1日:増上寺、大殿完成
1979年4月:三康図書館、明照会館1階に移転現在に至る

このような歴史を振り返ると、増上寺や芝公園が西武グループとあるときは対立し、ある時は手を組むといった形で現在の西武グループの陰が色濃く残っていることが理解できるのです。
因みに徳川家霊廟跡地は、戦後、徳川宗家に返還されたそうなので、西武としては徳川家から取得したようです。
戦後という比較的新しい時代の歴史ではあるのですが、増上寺境内全図にもあるような光景が、現在の光景に急激に変化した要因ですから、ある意味歴史的なビジネスといっても過言ではないのかもしれません。

すっかり長くなってしまいましたが、ここから道路を横断して「紅葉谷」に向かいます。
ここは昭和59年に復活した人口の渓谷で、岩場と樹林を取り合わせた景観は深山幽谷を想わせるようです。
紅葉谷 紅葉谷
その名前の通り、この谷の一帯にはモミジが植えられていて、秋には一層風情があるそうです。
このような川や渓谷が再現されているようで、かつての能楽堂や紅葉館のあった東京タワー辺りが、このような風光明媚な渓谷を形成していたのでしょう。
紅葉谷
「紅葉谷」を上がった頂上には、小さな堂宇があり如意輪観音が安置されているそうです。
如意輪観音 如意輪観音
都会の中の自然もまた一興ですが、この渓谷の目の前には東京タワーが聳えています。

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