芝公園 #4

「紅葉谷」で丁度芝公園の半周を回ってきたことになります。
ここからは、徳川家北霊廟の跡地である芝公園を散策します。このまま北上し、東京プリンスホテル沿いに東に進みます。

安蓮社

東に進んでくると芝公園3丁目交差点があり、交差点の歩道橋に上がると、右手に増上寺と東京プリンスホテルの建物が見えます。更に直進する道路の右側が東プリの駐車場で、左側が芝公園となります。
芝公園3丁目交差点 芝公園3丁目交差点
そして左方向の道路を見ると、ビル群の中に大きな宝塔がニョキニョキと生え出したような一画があります。
芝公園3丁目交差点
妙に気になったので寄り道をしてみることにしました。

通り沿いにあるのですが、その気で歩かなければ寺院とは気がつかないでしょう。
こちらが寺号標で「安蓮社」です。
安蓮社
そして堂宇はまさにビルとなっていますが、窓の形状がそれとなく“花頭窓”風なところがその面影を残しているように思えます。
安蓮社 安蓮社
頂いたパンフレットでの由来です。

安蓮社の由来
(名称)安蓮社(宗旨)浄土宗(本尊)阿弥陀如来
安蓮社は、もと聖衆庵といい、明和五年二七六八)、浄土宗の大本山増上寺の大僧正に仕える田中文周が、その信仰から、増上寺境内の空地に小さな堂を建て、江戸期の高僧、歓誉弁秀大僧正(増上寺第四十七世)の念持仏であった阿弥陀如来像を戴いて本尊として安置されたのがはじまりです。聖衆庵時代には、増上寺諸大徳によって由緒墓や諸廟塔などの供養勤行が主に修せられ、しだいに、増上寺の念仏道場として使われるようになりました。そして、安永三年 (一七七四) 十月十五日、増上寺第四十九世安蓮社豊誉大僧正を請じて、開導法会を開廷し、正式に増上寺の不断念仏道場として認められ、大僧正の名にちなみ、安蓮社と改称したのです。この時、田中文周は感激して、次のような歌を残した。
幾よろず 代々かぎりなく 唱へても  なをも称へよ 南無阿弥陀仏

格式高い墓所
安蓮社は、また、浄土宗大本山増上寺歴代大僧正の墓を有し、その守廟として名高い。
○増上寺開山酉誉聖聡上人の墓 聖聡上人は、浄土宗の八祖であり、宗の教義をまとめ、数多の著書がある高僧で、明徳四年(一三九三)増上寺を開かれた。
○同中興観智国師の墓 
増上寺第十二世源誉存応上人は、徳川家康の帰依厚く、実質上、現在に至る大寺院としての基礎を築いた。浄土宗僧侶として初の国師号を賜り、その墓は港区の史跡として指定を受けている。 
○そのほか、明治初期に至るまでの増上寺歴代大僧正の墓 (卵形のため卵塔、無縫塔などという) が数十基安置され、現在でも増上寺修行僧らが報恩のため訪れる。もともと、この地は大名諸侯らの墓所であり、草創も性高院殿(徳川家康の四男・忠吉)の霊廟が名古屋に移転したことが安蓮社開創の直接のきっかけになっているともいわれています。
このように安蓮社には、その特有の歴史を示すべく、いまでも誰にも見とられなくなった諸侯の墓石が残っており、時おり、郷土史家らの訪れることがある。このことは難波治吉氏(港区文化財調査委員)編(「東京都港区金石文並びに名墓碑集」に詳しく、安蓮社の全貌を知ることができる。
本尊は、阿弥陀三尊像 (阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩)で開創時の歓誉大僧正の念持仏がいまも伝わっている。
また、当蓮社の特殊法要として神風特別攻撃隊諸霊の追善法要が、毎年十月二十五日行われている。これは、第二次世界大戟において、いわゆる突撃隊として若い生命を散らしていった英霊二五二五霊の回向が行なわれている。施主は、当時かかわりのあった人たちの有志からなる神風全数十人の方々で、特にこの法要を神風忌法要と呼んでいる。二五二五霊の名を掲げた霊名簿、位牌、平和観音像などが本堂脇壇に安置されている。
増上寺も明治維新以後、幾多の変遷を遂げ、それに伴ない芝公園及び周辺もその様相を一変させている。高層ビル、大ホテルを脇目に、歴史を物語る小庵がひっそりとたたずむ、それが安蓮社です。
(安蓮社パンフレットより)

徳川家の菩提寺が増上寺で、増上寺のいわば菩提寺が安蓮社ということになるのでしょう。安蓮社豊誉大僧正の名をとって安蓮社としたということですが、本来なら「“安蓮社”寺」となるところでしょう。何となく神社のように思えます。

右手にその増上寺歴代大僧正の墓があります。
増上寺歴代大僧正の墓
こういう言い方が正しいかどうか判りませんが、とにかく壮観です。特に卵塔が何となく親しみやすく威圧感を取り除いています。
そして一番手前にある卵塔が観智国師の墓のようです。
普光観智国師墓

港区指定文化財(史跡) 普光観智国師墓
観智国師は源誉存応といい、天文13年(1544)に武蔵国に生まれ、元和6年(1620)に増上寺においてその生涯を終えました。
増上寺住職となったのは天正12年(1584)で、慶長4年(1599)には後陽成天皇から紫衣の勅許を得たほか、同15年7月には家康の斡旋により国師号を授けられ、これ以後、観智国師とよばれました。浄土宗としては異例の厚遇であり、この頃から増上寺は京都の本山知恩院と相並ぶ寺院として重んぜられるようになりました。また、この間、慶長10年から17年にかけて、増上寺三門・本堂・経蔵などの堂宇の造営に努め、家康から寺領千石の寄付や、大蔵経三部の寄贈を受け、徳川家菩薩寺である増上寺を、政治的にも経済的にも確固たるものにした功績者です。
昭和55年11月15日指定(平成22年12月建替) 港区教育委員会
(現地案内板説明文より)

法名は慈昌で、武蔵国多摩郡由木(現・八王子市)の出身です。初め武蔵国新座郡の時宗大平山法台寺の蓮阿に師事して出家したのですが、後に浄土宗に改宗したそうです。その後、武蔵国川越蓮馨寺をへて、1574年(天正2年)与野長伝寺を開創し、1584年(天正12年)に江戸増上寺の12世となったのです。
この国師号とは、高僧に対して皇帝(朝廷)から贈られる諡号の1つで、特に皇帝から師への尊称なのです。いわば家康が推薦して与えられたということでしょう。
折角なので、僧侶の尊称について調べて見ます。

◆大師
朝廷が特に偉大であった僧に死後送った諡号です。これを贈られた僧は25人しかいません。
代表例:伝教大師(最澄)、弘法大師(空海)、慈覚大師(円仁)、見真大師(親鸞)、承陽大師(道元)、立正大師(日蓮)、円照大師(一遍)など。
◆国師
大師と同様に朝廷から贈られる諡号で、主に禅宗の僧に贈られ28人います。
代表例:大紹正宗国師(浄土宗の第二祖)、鑑智国師(浄土宗西山派の祖)、普光観智国師(増上寺12世)、夢窓国師(南禅寺住職。天龍寺開基)、千光国師(臨済宗開祖)など。
◆聖人・上人
徳の高い僧に対する尊称ですが、各宗派ごとにルールがあるそうです。
・浄土真宗では親鸞のみ聖人とし、本願寺の法嗣は上人。
・浄土宗では「上人」しか使いません。法然でも法然上人でも良いそうです。
・日蓮宗では日蓮は大聖人とし、日蓮の六人の高弟が聖人です。普通のお寺の住職でも上人と呼ばれます。
◆三蔵
仏教の教典である経・律・論の全てに通じた人のことを言い4人います。
1.玄奘三蔵(三蔵法師)602-664:インドから大量の経典を中国に持ち帰り、その後翻訳に一生をかけた。
2.義浄三蔵 635-713:玄奘に続いてインドに渡り、多くの経典を持ち帰る。
3.不空三蔵 705-774:多くの密教経典を中国語に翻訳。日本語の週の名前(月曜とか火曜とか)は不空の著書に由来する。
4.善無畏三蔵 637-735:大日経の翻訳
◆菩薩
本来は仏の道の修行をしている人のことをいいますが、後にはかなり仏様に近い存在のことをいうようになったそうです。生身の人間で「菩薩」と呼ばれるのは次のような人です。
龍樹菩薩:大乗仏教の確立者。空の思想を大成。日本中国では諸宗の祖として崇敬されている。
行基菩薩:日本初の大僧正で、民間で人気が高く、聖武天皇に依頼されて奈良東大寺の大仏建立に力を尽くした。
◆禅師
禅宗のお坊さんに対する尊称です。いくつか諡号として贈られたものもあるそうです。
◆行者
行者とは行をする者ですが、主として正規に僧として得度していない人をいいます。つまり民間修行者ですが、この「行者」が尊称になっているのは次の役行者のみです。
役行者:役小角。修験道の祖。賀茂一族の人。
◆住職
寺の責任者の僧。各宗派ともにそれぞれある一定の修行を経て資格があると認定された者だけがなることができる。
◆和尚
僧に対する一般的な尊称。一般には「おしょう」と読んでいるが「おつ」と読む流儀もあるそうです。

このような尊称があるようですが、よほど有名な寺院でもない限り、庶民が檀家になっているような寺院なら「住職」と呼んでいれば間違いないでしょう。「和尚」ではちょっと軽そうな感じがします。

この墓所にはもう一つ大きな墓標が右手にあります。「海陸軍士戦死者之墓」と刻まれています。
海陸軍士戦死者之墓
この墓標は江戸時代末期、長州征伐で戦死した幕府軍兵士の慰霊碑だそうです。
表面の書は幕府の陸軍奉行並竹中重固によるものですが、この竹中重固は、豊臣秀吉の軍師として有名な竹中半兵衛の末裔で、戊辰戦争では強硬な主戦派であったそうです。鳥羽伏見で敗れたあと、彰義隊に合流し、更に箱館まで転戦したそうですが、破れてのち維新後は北海道に渡ったと言われているのです。
そして背面には勝海舟の追悼文が刻まれているそうです。
海陸軍士戦死者之墓
流石に徳川家菩提寺の増上寺の菩提寺に相応しい…、かどうかは判りませんが貴重なものです。
諸侯の墓石は判りませんでしたが、やはり由緒ある寺院ゆえでしょう。

御成門

芝公園3丁目交差点に戻ってから再び日比谷通りを目指して東に向います。
先ほどのように右側が東プリの駐車場で、左側が芝公園です。
少し歩くと右側の東プリの駐車場に古めかしい門があります。
御成門
この周辺の地名の由来となった文字通りの「御成門」です。

御成門
増上寺(徳川家菩提寺)の裏門としてつくられたが、将軍が参詣する際にもっぱら用いられたので、「御成門」と呼ばれるようになった。
初め「御成門」は、現在の御成門交差点にあったが、明治25年の東京市区改正計画で、内幸町から増上寺三門を経て芝公園に至る道路が新設された際に、この位置に移築された。
その後、増上寺三門や旧庫裡門・徳川家墓地の惣門・ニ天門とともに、関東大震災や太平洋戦争の戦火から難をのがれて今日に及んでいる。
昭和48年3月  東京都港区教育委員会
(現地案内板説明文より)

増上寺境内全図によれば確かに現在の御成門交差点あたりにあることが判ります。
御成門 《増上寺境内全図》
流石に経年劣化は免れないようですが、当時の裏門といえども並みの門ではなさそうな雰囲気です。ここを歴代の将軍が通っていたと考えると何か凄いことに思えてきますから不思議なものです。
やはり将軍が裏口から「御成りぃ~~~門」です。

「御成門」の道を隔てた反対側には「みなと図書館」があります。
みなと図書館
その図書館の前に「お台場の石垣石」なるものがあります。
お台場の石垣石

お台場の石垣石
お台場(内海御台場)は、嘉永6年(1853)黒船来航により、幕府が急きょ築造した海上砲台です。未完を含め7基の台場のうち、国の史跡指定を受けた、第3と第6の2基を残して、その他は解体、埋め立てられました。
この石は、その時、第5台場(現・港南5丁目)から移されたといわれています。
伊豆周辺から運ばれた安山岩で側面には、約100年の間、波に洗われた跡をとどめています。
港区教育委員会
(現地案内板説明文より)

元もとの計画では12ヶ所の台場構築を予定していたそうですが、結局全ての台場が完成する前に開国となったため、砲台としての役割を果たすことは無かったのです。
現在はフジテレビをはじめとした湾岸都市のイメージですが、当時は迫り来る未知の脅威に対する準備場所として戦闘態勢を整える勢いはすさまじかったようです。幕府の指示に基づき伊豆・神奈川方面から人力で石を運び、図面に基づいて積んでいったそうです。築城知識や技術はかなりのものだった筈ですから、後は時間との戦いといったところでしょう。
その当時の台場の構造図面の資料が、ここ「みなと図書館」に残されているそうで、海岸の浅瀬を見極めての砲台構築には、やはり当時の建築技術の正確さがうかがえるそうです。
動乱期を見つめてきたこの石垣石にお台場の歴史の原点を垣間見ることができそうです。

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